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熊本地方裁判所 昭和50年(ワ)324号 判決

熊本県水俣市平町一丁目一二番一三号

(1)昭和四八年(ワ)第二二号原告 森枝鎮松

〈ほか八八名〉

右原告ら訴訟代理人弁護士 東敏雄

同 福田政雄

同 青木幸男

同 荒木哲也

同 千場茂勝

同 竹中敏彦

同 松本津紀雄

同 加藤修

同 安武敬輔

同 高屋藤雄

同 馬奈木昭雄

同 蔵元淳

同 坂本駿一

同 立山秀彦

同 村山光信

訴訟復代理人弁護士 鍬田万喜雄

同 松本洋一

同 鳥毛美範

同 内河恵一

同 野村豊治

大阪市北区中之島三丁目六番三二号

被告 チッソ株式会社

右代表者代表取締役 野木貞雄

右訴訟代理人弁護士 村松俊夫

同 和智龍一

同 塚本安平

同 楠本昇三

同 畔柳達雄

同 加嶋昭男

同 斉藤宏

同 松崎隆

右当事者間の標記併合事件につき、昭和五三年八月一〇日に終結した口頭弁論に基づき、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

一  被告は、

1  原告森枝鎮松に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和四九年四月二日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

2  原告吉留ミチ子に対し、

金五、六八三、三三二円および

内金五、一六六、六六六円に対する昭和四九年四月二日から、

内金五一六、六六六円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

3  原告鷹ヨシ子に対し、

金五、六八三、三三二円および

内金五、一六六、六六六円に対する昭和四九年四月二日から、

内金五一六、六六六円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

4  原告田畑タエ子に対し、

金五、六八三、三三二円および

内金五、一六六、六六六円に対する昭和四九年四月二日から、

内金五一六、六六六円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

5  原告平竹孝に対し、

金五、六八三、三三二円および

内金五、一六六、六六六円に対する昭和四九年四月二日から、

内金五一六、六六六円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

6  原告上原陽子に対し、

金五、六八三、三三二円および

内金五、一六六、六六六円に対する昭和四九年四月二日から、

内金五一六、六六六円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

7  原告平竹俊行に対し、

金五、六八三、三三二円および

内金五、一六六、六六六円に対する昭和四九年四月二日から、

内金五一六、六六六円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

8  原告竹本己義に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和四九年四月二日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

9  原告尾上源蔵に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五〇年六月一三日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

10  原告山内了に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五〇年六月一三日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

11  原告吉田健蔵に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五〇年一二月二六日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

12  原告島崎成信に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五〇年一二月二六日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

13  原告岩崎岩雄に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五〇年一二月二六日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

14  原告岡野貴代子に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五〇年一二月二六日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

15  原告森本正宏に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五一年四月六日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

16  原告蒔平時太郎に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和五一年四月六日から、

内金一〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

17  原告緒方覚に対し、

金五五〇万円および

内金五〇〇万円に対する昭和五一年四月六日から、

内金五〇万円に対する本判決確定の日の翌日から、

いずれも支払ずみまで年五分の割合による各金員を、

それぞれ支払え。

二  第一項記載の原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  原告森枝シカ、同森枝孝美、同森枝司、同竹本厚子、同南側和子、同竹本順子、同太田美代子、同尾上ツキ、同東キミヱ、同尾上利幸、同尾上ハル子、同山之内節子、同尾上幸弘、同尾上慎一、同東山瑞枝、同中村留里子、同林洋子、同尾上政夫、同中島親松、同中島ツヤ、同松下チヨミ、同中島光雄、同中島孝治、同阪口スミ子、同灘岡とも子、同山内サエ、同山内一男、同梶原和代、同山内一則、同山内和博、同山内志郎、同坂本武喜、同坂本フジエ、同坂本達美、同坂本幸子、同坂本安夫、同坂本きよ子、同坂本利定、同吉田ヒデ子、同吉田浅次郎、同吉田ツル、同吉田健司、同吉田清人、同吉田浪子、同吉田秀寿、同島崎佐代子、同島崎フク、同島崎和敏、同島崎成美、同島崎浩、同岩崎カヲリ、同竹本廣子、同岩崎義久、同岩崎政信、同岩崎うみこ、同岩崎政久、同岩崎喜佐良、同岩崎めいこ、同岩崎つむ子、同岡野正弘、同岡野昌子、同岡野隆司、同岡野隆弘、同蒔平ミカノ、同山平ワカノ、同蒔平恒夫、同蒔平力雄、同元浦カヅ子、同大久保タツヨ、同緒方サチ子、同緒方光廣、同緒方初代の各請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用中、

第一項記載の原告らと被告との間に生じた分は被告の負担とし、

第三項記載の原告らと被告との間に生じた分は同原告らの負担とする。

五  この判決は、第一項記載の認容金額につき各三分の一の限度において、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一  原告ら(請求の趣旨)

1  被告は、別紙(二)請求債権額一覧表の原告名欄記載の各原告に対し、同表損害額欄記載の各金員および右各金員に対する各訴状送達の翌日からいずれも支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言。

二  被告(請求の趣旨に対する答弁)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決。

第二原告らの主張

一  当事者

原告らは、別紙(二)患者一覧表記載の本人、または、その親族であり、被告は肩書地に本店を置く総合化学工業会社であって、水俣市野口町にある被告会社水俣工場において、アセチレンから水銀触媒を用いてアセトアルデヒドを合成するなど、有機合成化学製品を製造していたものである。

二  不法行為の概要

1  被告は右水俣工場を明治四一年に建設し、その製造工程中に生じる廃水を右工場周辺に排出しつづけてきた。

2  右廃水は人体に危害をおよぼすおそれがあるので、被告は右危害を防止すべき義務があるのにこれを怠り、右廃水を放出しつづけた。

3  その結果、右廃水によって、別紙(二)患者一覧表記載のものが水俣病に罹患した。

4  このため、原告らはそれぞれはかり知れない肉体的、精神的苦痛と生活上の不利益を蒙った。

三  被告の過失責任

1  およそ化学工場は、化学反応の過程を利用して各種の生産を行なうものであり、その過程において多種多量の危険物を原料や触媒として使用するから、工場廃水中に未反応原料・触媒・中間生成物・最終生成物などのほか予想しない危険な副反応生成物が混入する可能性も極めて大であり、かりに廃水中にこれらの危険物が混入してそのまま河川や海中に放流されるときは、動植物や人体に危害を及ぼすことが容易に予想されるところである。よって、化学工場が廃水を工場外に放流するにあたっては、常に最高の知識と技術を用いて廃水中に危険物質混入の有無および動植物や人体に対する影響の如何につき調査研究を尽してその安全を確認するとともに、万一有害であることが判明し、あるいは又その安全性に疑念を生じた場合には、直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものといわなければならない。

すなわち、廃水を放流するのは工場自身であるのに対し、地域住民としては、その工場でどのようなものが如何にして生産され、また如何なる廃水が工場外に放流されるかを知る由もなく、かつ知らされもしないのであるから、本来工場は住民の生命・健康に対して一方的安全確保の義務を負うべきものである。蓋し、如何なる工場といえども、その生産活動を通じて環境を汚染破壊してはならず、況んや地域住民の生命・健康を侵害しこれを犠牲に供することは許されないからである。

しかして、被告工場は合成化学工場であり、戦後逸早くアセトアルデヒドの生産を再開し、年年製造設備も改善増強されてその生産量が増大し、ことに昭和二七年九月アセトアルデヒドからオクタノール(塩化ビニール用可塑剤としてのDOP・DOAの主要原料である)を生産する技術およびその工業化が開発されて以来、その需要の激増に伴ってアセトアルデヒドの生産量も著しく増大するに至り、生産再開の当初約二、〇〇〇トンであった年産量は、昭和三〇年一〇、六三三トン、同三三年一九、四三六トン、同三四年約三〇、〇〇〇トンと累増していったこと、一方同工場において昭和二四年に生産が開始された塩化ビニールも、当初は年産僅か五トンであったが、同二八年一、七六九トン、同三〇年四、二〇〇トン、同三三年八、七八二トンと逐年生産量が増加したこと、かようにして被告工場は戦後全国有数の合成化学工場となり、その技術の優秀性を誇るとともに、化学工業界において確固たる地位を占めるに至ったことが認められ、右事実からすると、被告工場では、この間における各種の製造設備の開発・改善・増強に伴って廃棄物および廃水も増加し、その中に製造過程において生成された危険物質が混入する可能性も年々増大していったというべきである。

かようにみてくると、被告工場が全国有数の合成化学工場として要請される高度の注意義務の内容としては、絶えず文献の調査・研究を行なうべきはもとよりのこと、常時工場廃水の水質に分析・調査を加えてその安全確認につとめるとともに、廃水の放流先である水俣湾の地形・潮流その他の環境条件およびその変動についての監視を怠らず、その廃水を工場外に放流するについてその安全管理に万全を期すべきであったといわなければならない。

ところで、水俣病の発生以前に、アセチレン接触加水反応の過程でメチル水銀化合物が副生することを指摘した文献こそないが、一九二一年の米国化学会ジャーナル(Journal of American Chemical Society, Vol. 43, P. 2071~)という雑誌に、ボーグトRichard R. Vogtおよびニューランド(Jurius A. Nieuwland)の連名による「アセチレンからアルデヒドへの触媒作用による変化における水銀塩の役割およびパラアルデヒドの製造における新しい工業的製法」と題する論文が登載されており、これは水銀の触媒作用に関する著名な論文であるとされているが、その中で「アセチレンを吹込んだ後の触媒液中には、如何なる無機水銀化合物も存在しない」と述べられていたし、また被告工場の技術部職員五十嵐赳夫は昭和二五年から同三〇年にかけてアセトアルデヒドの触媒機能について研究をつづけ、同人は同二九年四月には日本化学会の学会においてその研究成果を発表しているが、それによると、アセトアルデヒドの母液中に可溶性のメチル水銀化合物が存するというのであり、同人による「水銀触媒によるアセトアルデヒド合成反応速度の解析」(昭和三七年)との論文中にもこのことが明らかにされていたのであるから、被告工場において文献の調査・研究が尽されていたとすれば、昭和三〇年以前に、アセトアルデヒドの製造工程において水溶性のメチル水銀化合物が生成されることを知りえたといわなければならないばかりでなく、合成化学工場の生産過程における化学反応の段階で意外な副産物が生成された事例として、被告工場では、昭和九年にアセチレンと酢酸からエチリデンアセテートをつくり、これを分解させて無水酢酸を製造するエチリデン法(液相法)を用いていたところ、その過程で芳香性のある物質が生成し、これが光熱等によって飴状に固まり、その粘結性が強く加熱器のパイプを閉塞して支障を来たしたところから、それを打開するために調査研究を重ねた結果、それが酢酸ビニールであることが判明したので、同工場は昭和一二年ごろからこの中間生成物たる酢酸ビニールの増産を行なうようになったことがあるのであり、前記のような戦後著しい新技術の開発進歩にともなう製造設備の改善増強、その設備による化学反応の過程において、意外な副産物が生成される可能性は一段と高くなっていたのである。

然るに、被告工場が早くから水銀の触媒作用に関する文献の調査・研究を行なっていたようなことはなく、むしろ、同工場技術部では昭和三四年八月以後漸く文献調査を行なうに至ったばかりでなく、また同工場が廃水の水質に分析・調査を加えてその安全確認につとめ、あるいは又廃水の放流先の環境条件およびその変動に注目してその監視を怠らなかったとは到底いえない。

被告工場では昭和二四、五年以降工場廃水の分析・検討が行なわれているが、これらは専ら原料のロスを減少させるための生産管理の手段としてなされた分析・検討であり、あるいはまた廃水中の水素イオン濃度(PH)・浮遊物質(SS)・生物化学的酸素要求量(BOD)・化学的酸素要求量(COD)・溶存酸素(DO)等が行政基準等に合致しているか否かを知るための水質の分析・検討であったに過ぎず、被告工場が安全管理に重点をおき、工場廃水によって地域住民に万一の危害が及ぶべきことを配慮し、安全確認のために廃水の分析・検討を行なったわけではない。

以上により、被告工場は全国有数の技術と設備を有する合成化学工場であったにもかかわらず、多量のアセトアルデヒド廃水を工場外に放流するに先立って要請される注意義務を何ら果すことなく、ただ漫然とこれを放流してきたものと認めざるを得ないから、既にこの点において過失の責任を免れないものというべきである。

2  そこで更にすすんで、被告工場ないし被告が後記環境異変・漁業補償・水俣病の原因究明・工場廃水の処理・動物(猫)実験等をめぐって如何に対処し、如何なる措置を講じてきたかをみることによって、過失の存在を明らかにする。

(一) 環境異変について

水俣湾およびその周辺では、昭和二八、九年頃より魚類の収獲量が著しく減少して行ったばかりでなく、湾内に鯛・ボラ・太刀魚などが死んで浮上する現象が目立ち、また水俣湾に面する月の浦・出月・湯堂・馬刀潟・百間などの地区では昭和二九年から同三一年にかけて猫が神経症状を呈して斃死する例が多く、右三年間の猫の斃死数は五〇匹をこえ、その他豚・犬なども同一症状を示して死んでいったほか、湯堂地区などで鳥類の斃死および飛翔・歩行困難の例がみられ、これらの奇異現象が半ば公知の事実となっていた。一方、水俣病が昭和二八年末頃以降原因不明の中枢神経系疾患として注目されるようになり、同二九・三〇年にかけて逐次その数が増加し、同三一年になると五〇名をこえる患者の発生をみたが、この疾患は水俣市郊外の一定地区(出月・湯堂・月の浦・百間・明神など水俣湾に面したところ)に集中して発生した。昭和三一年八月から熊本県の委嘱によって組織された熊大医学部の「水俣病医学研究班」が、同年一一月本疾患は伝染病ではなく一種の中毒症であり、その原因は水俣湾産の魚介類を摂食したことによるものであって、その原因物質はある種の重金属であるとの中間発表を行ない、またその頃水俣湾では百間排水溝に近いところから湾全体にかけて汚染度が大であったところから、人々も百間排水溝から海中に放流される多量の工場廃水に疑惑の目を向けていた。

以上のような環境異変およびその反響にもかかわらず、被告工場がこれに着目し、とくに関心をもって海面の汚染状況および人畜等の被害状況を調査検討しようとしたり、人々の間で既に疑惑の対象となりつつあった水俣湾に放流されるアセトアルデヒド廃水をはじめとする工場廃水の危険性に思いを致したようなことは全くない。むしろ、昭和二〇年代末期から同三〇年代初頭にかけて、被告工場では時恰もアセトアルデヒドの増産がことに要請され、年々その製造設備が改善増強されるとともに、各生産部門において活気ある操業がつづけられていた時期でもあって、同工場としては、生産に次ぐ生産に迫われてその廃水の危険性などに思いを致すことなく、従って前記のような環境異変がみられたからといって、廃水や湾内泥土等の分析・調査を指示検討するような状況では全くなかったし、更に水俣病をめぐる諸問題にしても、被告本社がとくに深い関心を寄せることなく、すべて現地水俣(被告工場)にまかせきりであって、昭和三四年八月以降漁民の被告工場に対する廃水の放流中止、同工場の操業停止の要求が高まるに及んで、漸く本社でも事態を重視するに至ったのである。してみると、被告工場ないし被告は、前記環境異変等に即応してとるべき対策ないし措置において、著しく欠けるところがあったといわなければならない。

(二) 漁業補償をめぐって

被告の水俣市およびその周辺の漁民に対する漁業補償の歴史は、遠く大正年間に遡る。すなわち、大正一五年四月被告は水俣町漁業組合に対し、百間の海面埋立および工場汚悪水・廃水残滓の漁獲高に及ぼす影響に対する補償として金一、五〇〇円を支払い、更に昭和一八年一月被告は同組合(漁業協同組合となった)に対し、工場汚悪水・諸残渣・塵埃等の海面への廃棄放流によって、同組合および組合員が所有または使用してきた外浜浦特別漁業権・水俣川尻専用漁業権の一部・馬刀潟浦特別漁業権などを放棄する補償として金一五万二、五〇〇円を支払っているが、戦後になって昭和二九年七月には被告は水俣市漁業協同組合に対し、工場汚悪水・諸残滓の海面放流による漁獲高への影響に対する補償として毎年々額金四〇万円を支払うこととし、一方同組合は今後被害補償その他一切の要求をしない旨の契約が成立した。しかして、これらの漁業補償はいずれも漁獲高の減少に対する代償としての意味合いを有していたことは否定し難いが、それにも増して、被告工場から出される諸残滓・残渣の廃棄場とするために被告が漁民に対して海面埋立の承諾を得るところに重点があったというべきところ、昭和三一年一一月熊大医学部の水俣病医学研究班が、水俣湾産の魚介類を摂食することによって生ずる中毒症であり、その原因物質はある種の重金属であるとする前記中間発表を行なうに及び、一方において県当局が漁民に対し水俣湾を中心とする海域での操業を自粛するように行政指導を行なったことを契機として、漁民の生計は困窮を極めるに至ったために、昭和三二年一月水俣市漁業協同組合は被告に対し、もはや漁業補償もさることながら、それと同時に工場汚水の海面への放流中止および廃水浄化装置の完備を強く要求するに至り、同組合と被告工場との間で数次の交渉が重ねられたけれども、容易に結論をみることなく、交渉は中断のやむなきに至った。ところが、昭和三三年九月一月同組合主催で開催された漁民大会の決議によって、同組合と被告工場との間に交渉が再開され、同組合は昭和二九年七月の契約による年金四〇万円を金四〇〇万円に増額要求をなし、被告は右契約の付帯条項である、同組合は今後被害補償等の要求を一切行なわないとの約定をたてに、その要求に応ずる態度を示さなかったために、交渉は難航を極めたが、昭和三四年八月三〇日に至って、被告は同組合に対し、昭和二九年以後の追加補償(水俣病関係を除く)として金三、五〇〇万円、将来の補償として年金二〇〇万円を支払う旨の契約が成立し、被告と同組合間の紛争は漸く落着した。これに対し、一方不知火海沿岸漁民達も昭和三四年一〇月一七日総決起大会を盟催した上、その決議に基づいて被告工場に漁業被害の補償および完全浄化設備まで工場の操業中止等を強く要求したところ、被告工場は容易にこれに応じようとしなかったために、同年一一月二日激怒した漁民達約四〇〇名が工場内に乱入して工場幹部につめより、これを制止する工場側や水俣警察署員ともみ合って多数の負傷者を出す事態を招いたので、県議会水俣病対策特別委員会では、その成行きを憂慮し、同委員会の決定によって県知事を中心とする不知火海漁業紛争調停委員会が結成され、同調停委員会の強力な斡旋によって折衝が重ねられた結果、同年一二月二五日被告は県漁業協同組合連合会との間で、漁業補償として金三、五〇〇万円を支払い、漁民の立上り資金として金六、五〇〇万円の融資を行なう旨の契約が成立し、その紛争に終止符を打った。そして、このような紛争と平行して、昭和三三年から同三四年にかけて漁民の被告工場に対する廃水の放流中止の要求は一段と強くなり、一方県議会水俣病対策特別委員会においても、同三四年一〇月末から同年一一月初めまでの間に、原因が科学的に判明するまで県民の不安を除去するために被告工場の操業を中止させるべきであるとか、あるいはまた工場廃水の放流を全面的に停止させるための条例を制定すべきであるとの論議さえみられるに至った。

以上の事実からすると、被告工場としては、昭和三二年以降の前記漁業補償等をめぐる紛争・交渉の過程において、漁民の要望にそうためには、一時操業を中止してでも工場廃水の安全確認のための調査研究を尽すべきであったにもかかわらず、被告工場は、その廃水の水質が昭和二三年当時と比較しても酸度・浮遊物質・色その他の点で全く変化がないとし、かりに海水中より毒物を検出したときは善処する旨回答するのみで、廃水の分析・検討を行なうなど安全確認のための対策ないし措置を講ずるわけではなく、昭和三四年八月一五日水俣市漁業協同組合の申出によって、被告工場と同組合が共同で水俣湾を中心とするその周辺の海域調査を実施した以外には、被告工場が独自の立場で漁業被害等の実状を把握するための海域調査を行なうこともなかったし、終始漁民に対しては、水俣病の原因不明の段階では操業中止を意味する工場廃水の海面放流中止の要求には断呼応ずることはできないとの態度を貫いてきたのである。

従って、被告と漁民間の紛争解決を目的として成立した前記各契約の内容をみても、昭和三四年一二月二五日県漁業協同組合連合会との間に成立した契約中には、「被告は、その工場廃水が漁業に被害を及ぼさないように、この調停成立後一週間以内に廃水浄化装置(サイクレーターおよびセディフローター)を完備する」との条項が存するけれども、他の契約にあっては、すべて被告工場が継続してその廃水を海面に放流することを当然の前提条件とし、過去および現在ならびに将来にわたる漁業被害に対する金銭補償を目的とするものであって、金銭補償のみをもって事足れりとするものである。

(三) 水俣病の原因究明に関連して

水俣病の原因物質については、先ず昭和三一年一一月熊大医学部の水俣病医学研究班がマンガン説(いわゆる重金属説)を主張したのをはじめとして、その後同研究班では相次いでマンガン・セレン説(同三二年四月)、マンガン・セレン・タリウム説(同三三年六月)などの複合説を主張するとともに、調査研究がつづけられた末、同三四年七月二二日には科学分析・臨床実験・病理学的観察を根拠とする有機水銀説が強く提唱されるに至った。これに対し、被告は同三三年七月「水俣奇病に対する当社の見解」において、化学常識・化学的研究・動物実験による判断をもとに、マンガン・セレン・タリウムの三物質の一若しくは二、三が原因であるとの説に対して反論し、更に同三四年七月の有機水銀説に対しては、逸早く同月中に「所謂有機水銀説に対する工場の見解」として、熊大側の諸種の分析結果・病理所見の当否については論じ難いとしつつも、化学常識からみた疑問点およびそのデーターの不備を指摘し、有機水銀説には納得できないとの批判的見解を示した後、同年一〇月には被告工場として「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解(第一報)」を作成し、それに基づいて被告が同月末に「水俣病原因物質として有機水銀説に対する見解」を作成公表した。右最終見解書は、水俣病発生の特異性、実験ならびに証拠方法、猫の臨床症状、化学実験、海底土・河水・海水中の水銀含有量、魚介類有毒化の経路・機構等について、同月二五日までの研究データーに基づき検討を加えた上、有機水銀説に対する反論を示したものである。そして、以上の各見解書が、すべて熊大側の見解に対する反論をその主たる内容とするものであることは極めて明らかなところであり、従って、被告の右最終見解書には、猫実験のデーターとして、百間排水を直接投与した猫三七四号につき猫台帳の記載と異なる結論を掲げているし、また被告にとって極めて不利な結論を導く猫四〇〇号については、もとよりこれを掲載していない。

そもそも、昭和三一年以降は、水俣病が被告工場廃水に関係あるものとして、同工場に強い疑惑がいだかれていたことは既述のとおりであり、従ってその原因究明の主体はあくまでも被告自身でなければならず、自ら十分調査研究を尽して原因究明につとめるべきであったというべきところ、被告工場または被告自身が原因究明のための調査研究をした成果にみるべきものはなく、況んやその結論を公表した事例は存しない。ただ、被告工場付属病院の細川医師外四名は、昭和三二年一月、疫学・臨床・検査の三項目より考察した結論として、水俣病の地域ならびに家族集積性と猫・魚などに関係があることを指摘した「水俣奇病に関する調査」と題する書面を公表しているが、それとても同付属病院としての私的な報告書の域を出るものではない。

そして、このような被告工場または被告の姿勢・態度は熊大側の有機水銀説以後においてすら、被告工場内で水銀を使用する製造工程に着目し、その廃水、すなわちアセトアルデヒド廃水・塩化ビニール廃水中に、有機水銀化合物の有無について分析・調査をしようとした形跡がないことからも窺知されるのである。もっとも、同工場技術部職員石原俊一は、昭和三六年四月頃以降ペーパークロマトグラフィーによる分析法に工夫を加え、アセトアルデヒド精ドレン中に有機水銀化合物らしいものの存在を検知し、同年末頃有機水銀化合物を結晶としてとり出すことに成功し、同三七年三月頃にはそれから塩化メチル水銀・沃化メチル水銀およびメチル水銀の硫黄系誘導体の三種類の結晶を得ることに成功しているが、公表されるには至らなかった。

ところで、昭和三四年一一月三日衆議院水俣病調査団の一行一七名は、被告工場の八幡地区・百間港の両排水溝を視察した後、同調査団々長松田鉄蔵が被告工場長らに対し、利潤追求の立場のみから熊大を非難することをやめ、むしろ熊大側に協力すべきであるとし、熊大との対立感情を捨てて反論のための反論をせず、一致して原因究明につとめるよう叱責した。当時被告工場と熊大との対立感情は拭いようもなかったし、被告工場の熊大に対する資料の提供や照会事項への回答についても同工場が誠意をもってこれに応じてきたことはなかった。また被告工場が熊大の前記マンガン(重金属)説やセレン・タリウム説などに対し、むしろ自信をもって反論を加えたと思料される昭和三三年七月の時点において、同工場が最も多量に使用していた重金属はアセトアルデヒド製造工程に用いられる水銀であることが明らかであったにかかわらず、同工場は熊大に対してアセトアルデヒドのことについては一切告知しなかったばかりでなく、その後においても黙秘しつづけた。この事実を示すものとして、昭和三四年八月五日県議会水俣病対策特別委員会における被告工場長西田栄一の挨拶をみても、有機水銀説に関連して疑惑の対象となっているものとして、塩化ビニール廃水をとりあげているものの、アセトアルデヒド廃水のことには全くふれられていない。そればかりでなく、そもそも被告工場が熊大に対して同工場の生産工程の全貌とその使用原料・触媒・中間生成物・各生産部門における廃棄物や廃水の処理方法などを早期に明らかにしなかったことは、熊大の水俣病の原因究明を遅延させ、同時に水俣病患者発生を増加させる大きな要因になったといっても過言ではなく、要するに、被告工場または被告は熊大に対して原因究明の協力に欠け、ひいては被告が原因究明に関連してとるべき対策ないし措置に著しく欠けるところがあったといわなければならない。

(四) 工場廃水の処理状況などについて

被告工場が戦後昭和二一年にアセトアルデヒドの生産を再開し、誘導品の多種多様化および需要の増加に伴い、増産体制のもとに昭和二八年頃以降年々アセトアルデヒドの生産高が飛躍的に増大していったことは既述のとおりであり、百間排水溝から海中に放流されるその廃水量も必然的に増加していったにもかかわらず、その間被告工場が常に廃水の水質等を分析・調査するなどしてその安全確認につとめるようなことはなかった。ここに特筆すべきことは、被告工場では昭和三三年九月アセトアルデヒド廃水の排水路を変更し、八幡プールを経て水俣川河口にこれを放流することになり、この処理方法が同三四年九月までの間つづけられたことである。既に明らかなように右排水路の変更の当時には既に人々が百間排水溝から海中に放流される被告工場廃水に強い疑念をいだいていたことは周知の事実であったから、その廃水処理に特段の改善策を講ずるのであれば格別、そうでない限り、右排水路の変更によって患者の発生が新しい地域に及ぶであろうことは、何人も容易に思い至るところといわなければならない。そこで、細川医師は、右排水路の変更によって新しい地域に患者が発生することをおそれ、これに強く反対したのである。翌三四年になると、津奈木・湯浦の地域の漁民で水俣川河口の魚類を摂食した人の中に、水俣病患者の発生をみるに至ったことが認められるのである。しかも被告は患者の発生、増加を知りながら、メチル水銀化合物を含む工場排水を昭和四三年五月まで流しつづけたのである。

(五) 猫実験、ことに猫四〇〇号をめぐって

被告工場では、昭和三二年五月頃以降同工場付属病院の医師らが中心となり、技術部の協力を得て、同病院内に設置された猫小屋に常時成熟猫数十匹を飼育し、当初は主として水俣湾ならびに近傍沿岸で捕獲された魚介類と対照地区で捕獲された魚介類をそれぞれ猫に投与し、その比較のもとに発症の有無・発症猫についてはその症状の変化等を観察してきたが、昭和三四年中期以降になると、百間排水溝に流出する工場廃水および八幡プールから溝に流出する工場廃水をとってその中で飼育した泥鰌、金属水銀・無機水銀・酸化水銀等の水溶液中で飼育した泥鰌などを猫に投与(これまで述べてきたものはすべて魚介類をとおして実験を行なう意味において、間接投与といわれた)し、更にまた水俣湾の海底泥土・百間排水・塩化ビニール廃水・アセトアルデヒド廃水等を直接猫の食事(基礎食)に混入してこれを投与(前述したのと同一の意味合いにおいて、直接投与といわれた)することによってそれぞれ実験を行ない、これらの実験は昭和三七年一二月頃までつづけられて、結局、実験の対象とされた猫は合計約九〇〇匹に及んだ。

そして、この間同病院の細川・小嶋医師らが逐一猫の容態を観察し、その都度実験室に備えられた飼育日誌(日報)に右観察結果を記入した上、常に何人の閲覧にも供されていたし、一方技術部の職員も随時猫小屋に来て飼育猫の発症状況その他を観察していた。なお、同病院の猫飼育係事務担当者西茂は、後に右日誌を整理分類して猫台帳(当時一般にドンコ帳といわれた)を作成した。

しかして、猫四〇〇号とは、昭和三四年七月半ば頃細川医師が自らアセトアルデヒド製造設備出口付近の廃水を採取し、同月二一日以降これを毎日一回二〇CC宛基礎食にかけて投与した上、実験に供された猫のことであるが、その猫は同年一〇月六、七日頃以後軽度の後肢麻痺にはじまり、次第に間代性痙攣・流涎・跳躍運動・振せん・回走運動等の水俣病酷似の症状を呈するようになり、実験開始当初三キログラムあった体重も一・八キログラムに減少して日々衰弱していったために、同医師らは同月二四日その猫を屠殺解剖し、その標本を九州大学医学部病理学教室の遠城寺助教授に送付して、病理所見を求めた。そして、同助教授より同年一一月一六日付で寄せられた回答によると、「(イ)小脳の顆粒細胞の脱落・消失著明。プルキニエ細胞にも変形脱落がみられる。(ロ)大脳各部神経細胞の委縮変性?。これはアルコール固定のためか断定困難。グリア細胞もびまん性に多少増生?。(ハ)大脳実質内血管周囲の円形細胞浸潤。(ニ)脳膜の軽い細胞浸潤。以上により、前回検索の発症猫とほぼ似ているように思うが、断定困難である。」ということであった。

猫四〇〇号の発症状況を重視した細川医師は、発症後間もなく技術部室に赴き、技術部次長(当時技術部長徳江毅は外遊中であった)または幹部の一人にその旨を報告した。

そうすると、その当時少なくとも技術部にあっては、アセトアルデヒド廃水を直接投与して実験に供された猫四〇〇号が発症し、水俣病に酷似した症状を呈したことを了知していたはずである。

そして、被告工場では、同年一一月初め水俣市を訪れる衆議院水俣病調査団に提出する資料とするために、同工場技術部次長市川正が自ら執筆して前記「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解」(第一報)を作成し、その中には細川医師らから提供された同年一〇月一二日頃までの猫実験データーの主なものを掲げており、更に被告本社では右見解書に修正を加えるとともに、同月二五日までの実験データーに基づいて「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解」を作成した上、これを前記調査団に提出したが、この二つの見解書には、いずれも猫四〇〇号のことは全くふれられていない。

なお、前記猫台帳には、百間排水を直接投与した猫三七四号は、昭和三四年九月二八日発症し、同日屠殺解剖した旨記載されているところ、前記各見解書には、いずれも猫三七四号は発症せず、九月一八日衰弱死したと記載されている。この見解書にはいずれもそのまえがきとして「熊大の有機水銀説に対し、我々が当初より抱いていた疑問を一層強くするデーターが益々多く出てきた……」と記されているように、もとより有機水銀説に対する反論に重きをおかれたものであったことを考えると、被告工場廃水に対する疑惑を強めるおそれのある猫三七四号の実験データーをありのままに掲げ、あるいは又被告工場にとって極めて不利であり致命傷ともなりかねない猫四〇〇号の実験データーを掲げるときは、反論にならないばかりでなく、自殺行為をも意味するものというべきであるから、被告のとった態度はむしろ当然のことであったともいうべきであるが、意識的に右実験データーを秘匿した被告の責任は重大と言わなければならない。

次に、猫四〇〇号以外には、同年中にアセトアルデヒド廃水による直接投与実験は全然行なわれていない。同年一一月三〇日付属病院と技術部との連絡会議(社内研究班会議)の席上、技術部長徳江毅らが、細川医師の申出たアセトアルデヒド廃水による直接投与実験の継続を打切らせたからである。

猫四〇〇号の実験結果が公表されるに至らなかったことが熊大医学部の水俣病原因究明のための研究方向を誤らせ、またアセトアルデヒド廃水による直接投与実験が中断されたことが水俣病の原因究明を遅延させる要因となったことは否定し難いところであるから、この点についての被告工場ないし被告の責任は極めて重大であるといわなければならない。

3  以上1および2で述べてきたところを要約すると、次のとおりである。

被告工場は全国有数の技術と設備を誇る合成化学工場であったのであるから、その廃水を工場外に放流するに先立っては、常に文献調査はもとよりのこと、その水質の分析などを行なって廃水中の危険物混入の有無を調査検討し、その安全を確認するとともに、その放流先の地形その他の環境条件およびその変動に注目し、万が一にもその廃水によって地域住民の生命・健康に危害が及ぶことがないようにつとめるべきであり、そしてそのような注意義務を怠らなければ、その廃水の人畜に対する危険性について予見することが可能であり、ひいては水俣病の発生をみることもなかったか、かりにその発生をみたにせよ最少限にこれを食い止めることができたともいうべきところ、被告工場において事前にこのような注意義務を尽したことがないばかりか、その後の環境異変・漁業補償・水俣病の原因究明・工場廃水の処理・猫実験などをめぐって被告工場または被告によって示された対策ないし措置等についてみても、何一つとして人々を首肯させるに足るものはなく、いずれも極めて適切を欠くものであったというべきであり、被告工場としても熊大の水俣病の原因究明にあたうかぎりの協力をしたとか、同工場の廃水管理体制に欠けるところはなく廃水処理に万全を期したかという事実も全然なく、以上のことからすると、被告工場がアセトアルデヒド廃水を放流した行為については、終始過失があったというべきである。そして右廃水の放流が、被告の企業活動そのものとしてなされたという意味において、被告は過失の責任を免れないものといわなければならない。

かくして、被告は、同工場廃水中のメチル水銀化合物の作用により、原告患者らを水俣病に罹患させ、その結果同人らおよびその家族である原告らに対して多大の損害を蒙らせたことになり、しかもその廃水の放流は被告の企業活動そのものであって、法人の代表機関がその職務を行なう上で他人に損害を加えたり(民法第四四条第一項)、あるいは、又被用者が使用者の事業の執行につき第三者に損害を加えたり(民法第七一五条第一項)したときのように、特定の人の不法行為について法人(使用者)が責任を負うべき場合とは自らその本質を異にするものというべきであるから、被告は民法第七〇九条によって原告らの蒙った右損害を賠償すべき責任があるものといわなければならない。

四  水俣病の病像(その一 水俣病とは何か)

(総論)

1 水俣病とは何か

(一) 水俣病の概念の沿革

(1) 水俣病の原因究明とハンターラッセル症候群

昭和三一年五月、水俣において、原因不明の奇病が多発していることが発見された。ただちに原因追求が開始された。

同年秋には水俣病はチッソの汚悪水汚染によるものであることが明らかとなった。さらにチッソ汚悪水中の何が原因物質であるかについて究明が続けられ、マンガン、タリウム、セレンなどの重金属が疑われた。原因物質の究明はチッソの妨害にあって困難をきわめたが昭和三三年に入って、水俣病の病理所見がハンター、ボンボード、ラッセルらの論文で(一九四〇年)報告された有機水銀中毒例と一致することが指摘され、翌年には水俣病の臨床症状が有機水銀のそれときわめて類似していることが指摘された。その後爆薬説、アミン説等被告の反論の中で昭和三七年メチル水銀化合物が工場排水より発見されるに至ったのである。

このようにハンター、ラッセルらの論文は水俣病の原因物質究明に大きな役割を果した。ハンター、ラッセルらによれば有機水銀中毒症の患者に共通の症状は(1)四肢のしびれ感 (2)言語障害 (3)運動失調 (4)難聴 (5)求心性視野狭窄であった。これらはいわゆるハンターラッセル症候群といわれるものである。

(2) 旧審査会とその水俣病観

ある人が水俣病であるか否かを決定するために昭和三四年一二月二五日、水俣病患者審査協議会(以下旧審査会という)が設立された。この旧審査会は昭和三四年一二月三〇日に水俣病患者とチッソとの間に締結された見舞金契約による見舞金受給資格者を決定することが主要な目的であった。このことは見舞金契約の第一条第四項に「水俣病患者審査協議会が症状が安定し、又は軽微であると認定した患者……」と規定されていること、および第三条に「本契約締結日以降において発生した患者(協議会の認定した者)……」と規定されていることから明らかである。このため旧審査会は見舞金の受給資格者を少なくするために水俣病認定の基準を厳しくしたのである。又、昭和三五年二月から認定は本人申請によることにした。その結果、その当時現実には多くの患者がいたにもかかわらず旧審査会はそれらの患者を発見する努力は全くしていない。即ち隠されている水俣病患者を積極的に見つけだそうとする一斉検診は行わなかったし患者がすすんで申請しやすいように水俣病とは何であるかという広報や水俣病認定申請するようにとのよびかけが全くなされなかった。一方患者の側には「水俣病がでたら魚が売れなくなる」といったような周囲からの圧力によって、認定の申請ができない状態におかれていた。

このような中から病気の苦痛にたえかねたごく一部の患者が認定申請にふみきったのである。しかし、その患者にも次のような厳しい認定基準が設けられていた。即ち、水俣病の認定はハンターラッセル症候群が全てそなわっていて、しかも他の病気のないものについてのみなされた。そのうえさらに水俣病患者の発生時期についてもなんの根拠もなく、昭和二八年から三五年までという限定がつけられた。又、水俣病の症状は固定したものとしてとらえられ、症状が軽快あるいは悪化するようなものは水俣病ではないと考えられた。さらに症状が軽い人、重症で検査不能の人も認定を拒否された。又、水俣病の多様性を理解しないために、ダウン症候群、甲状腺腫、脳軟化症、広範性大脳障害、多発性神経炎等様々の病名で説明して水俣病が否定される例が多かった。このような犯罪的な審査会の運営が行われたので昭和三九年三月から昭和四四年五月まで全く認定された者はいなかった。このような審査会と患者補償の結びつきは昭和四一年一月一四日旧審査会が改組されてできた公害被害者認定審査会になってからも今日まで続いているために水俣病の認定基準はいまもなお不当に厳しいものとなっているのである。

(3) 旧審査会の認定基準の破綻

旧審査会が水俣病をハンターラッセル症候群という狭い枠でしかとらえず、その他発生時期の限定、症状の固定したとらえ方、合併症あるもの全てについて水俣病を否定するなど様々の厳しい条件をつけてきた誤りの原因は基本的には水俣病の背景である汚染の大きさを無視し、ごく限られた患者をみることによって作られてきた水俣病像というものを前提としていたためであった。このことは新潟水俣病との対比によっても明らかである。新潟水俣病においては汚染の濃厚さを考慮しメチル水銀が人体にどのような影響を及ぼしているか、という観点から最初からハンターラッセル症候群を診断基準として、それにあった患者を探すという方法をとらなかった。

即ち住民の一斉検診を行い、疫学的手法で住民にみられる症状をひろいあげることによって、診断基準を作成し、同時に多くの患者を積極的に発見していったのである。その結果熊本における認定基準は新潟と比較して不当に厳しいものという批判をうけたのである。しかしながら、以上の如き旧審査会の誤りは改められねばならなかった。

胎児性水俣病の発見、病理解剖による水俣病認定、新潟の診断基準・昭和二〇年頃の発病者の発見、不顕性水俣病の発見、不全型水俣病の発見などが次々に古い観念を打破っていったのである。

(二) 正しい水俣病の概念

(1) 正しい水俣病の概念

本裁判における争点の中心は、別紙(三)患者目録記載の原告らあるいは患者らが水俣病であるか否かということである。水俣病はチッソの工場排水に由来するメチル水銀によって汚染された魚介類を多量に摂食することによっておこった中毒症であるから水俣病の概念はメチル水銀による健康障害の総体でなければならずハンターラッセル症候群のみに固定してはならない。なぜならハンターラッセル症候群は、メチル水銀による健康被害の氷山の一角にすぎないからである。

それではメチル水銀による健康障害の総体とは何であろうか。それは次の様な観点をぬきにしては考えられない。

(2) 巨大な環境汚染

水俣病は、チッソの排液によってひきおこされた巨大な環境汚染の頂点にある。このような巨大な環境汚染を無視してはメチル水銀の人体への影響の全てを明らかにすることはできない。水俣病とは何かを明らかにするためには「汚染はどれだけの範囲に広がっているのか、それは人体にどのような障害を及ぼしているのか」という視点を落してはならない。

(3) 水俣病に前例はない

水俣病は環境汚染を媒介として食物連鎖を通じておこったメチル水銀中毒であるという発生機序の特異性をもっている。

このような中毒は人類がかつて経験したことのない全く新しい事態であり、前例はないのである。

それは、まさに広島・長崎においてはじめて人類が原爆症を知り、今日なお、その全貌が明らかにされていないことと共通している。

従来、水俣病の前例とされたものとして、ハンターラッセルら(英国)の報告例が存在する。しかしながらハンターらの症例は抗真菌剤を製造していた工場で工場労働者が取り扱っていた沃化メチル水銀、硝酸メチル水銀、燐酸メチル水銀などに、直接暴露されこれを吸引、又は経皮的に摂取しておこった労働者の直接中毒であった。即ち直接暴露による工場労働災害なのである。それに対して水俣病の場合はメチル水銀によって汚染された魚介類を介して間接的に生じた中毒でありハンターらの例とは発生機序のうえで根本的な違いがある。被害者も胎児から老人に至る全地域住民なのである。従ってハンターの例は水俣病の前例とはなりえない。まさに水俣病の前に水俣病はなかったのであり水俣病の正しい把握は水俣地域住民における健康障害の徹底した究明によってのみなされるのである。

(4) 水俣病は多様性を示す

従来、水俣病は昭和三五年頃までに明らかにされた急性ないしは亜急性水俣病の症状を中心に考えられてきた。これより急激、大量に汚染された場合には急性劇症型と呼ばれる症状を示し、この場合は水俣病に特有な症候群は、むしろ確認されにくい。一方急性ないし亜急性より、さらに低濃度の汚染の場合や発病までに長い経路をたどる場合は症状のそろわない不全型といわれる型を示す。その他、武内忠雄熊大教授は加令性水俣病、異型水俣病、仮面性水俣病等を指摘している。慢性経過した水俣病は臨床、病理共典型例と区別され、かつ多様な形をとる。

この原因に有機水銀の蓄積の量、魚介類の汚染の推移、魚介類の摂食期間とその量、体質などが各人にとって異なっているためである。

このように特に慢性の水俣病については、多様性を示すのであるからハンターラッセル症候群のような枠にとらわれてはならないのである。

2 水俣病を正しく把握するための疫学的方法

(一) 水俣病はメチル水銀に汚染された水俣地域住民の健康障害として把握される。メチル水銀の人体への全影響をとらえる方法として有効なものは疫学的な方法である。疫学は「集団現象としての疾病の中から法則性を発見してゆく学問」であり、水俣病の原因究明の過程において疫学が用いられ、水俣病とメチル水銀との因果関係を発見する以前に水俣病とチッソ廃水との因果関係が確定されたことは周知の事実である。古くは、スノーがコレラの原因として共同井戸を指摘した事実から現代のサリドマイド、スモンに至るまで疫学の有効性はよく知られている。メチル水銀の人体への影響、特に臨床症状については不知火海の魚貝類を多食した人の集団(母集団)とそうでない人の集団(対象集団)とを比較し母集団に有意差ある健康障害が発見された。この母集団の属する地域である不知火海が、メチル水銀に汚染されており、対象集団の地域にメチル水銀の汚染のないという事実から、母集団の健康障害の原因がメチル水銀であることが、疫学的に確定されるのである。

(二) 熊大第二次研究班の報告

熊本大学一〇年後の水俣病研究班の行なった方法は上記の疫学的方法によるものである。疫学的調査の対象としては、水俣の濃厚汚染地区(湯堂等)の一一一九名、汚染の疑いがある地区(御所浦地区)の一八七一名、および有機水銀の汚染と無関係と考えられる地区(有明地区)の一一八〇名が選ばれた。そしてアンケート、検診の方法により二年間にわたる調査がなされたのであった。そしてこの研究班は多くの成果を残した。そして汚染群について、数多くの他地区と有意差のある臨床症状および自覚症状を明確にしたのである。従来のハンターラッセル症候群が含まれるのは勿論のこと他の症状もとらえられた。

以上によって我々は病理が解明されていない症状でも疫学的方法によりとらえる手がかりを得たわけである。

(三) 個人の因果は集団の因果に従う

四日市公害訴訟判決は、証人吉田克己の証言を採用して次の様にのべている。「疫学的にある集団がある特性を有している場合、その集団というのは、集団を構成している個人の集まりであるから、右集団の特性は個人の特性でもある。したがって、右集団において解明された疾病の流行の原因は基本的には集団を構成する個人にも当てはまる。」従って、水俣病においては母集団の有している症状がメチル水銀の汚染によるのである以上、その母集団に属する個人が有する同じ症状もまた、メチル水銀の汚染によるものであることは当然である。我々が現在問題にしている集団は不知火海の魚貝類を多量に摂食した集団であり、原告らおよび患者らは同様に不知火海の魚貝類を多量に摂食しているので、この母集団に属することは明らかである。そして母集団の病変に原告らおよび患者らの症状が一つでも一致するものがあれば、同人らの症状は同様にメチル水銀によるものであることが証明されるのである。

水銀汚染の全くない地域において、母集団にみられた同一の症状をもつ者がいたとしても、これを水俣病であるといえないことは明らかであり、ここにある個人が母集団に属していることの意味があるのである。

(汚染の実態)

1 序論

汚染の実態を論ずるにあたりまず注意しなければならないことは、個人の病因を正しく把握するためには全体的な汚染の規模の中に位置づけてとらえる必要があるということである。水俣湾およびその周辺海域における汚染の実態、汚染の広がりと汚染の濃度について、チッソ水俣工場の生産から汚染に至る経過を、因果の流れに従って論じてゆくことにする。

まずチッソの生産活動に於ける操業の実態および生産量(特にアセトアルデヒド、塩化ビニール)、次に生産に伴う排出物の処理はどうであったか、更には排出物によって水俣湾およびその周辺はどれだけ汚染されていったか、最後にその汚染によって人間にどのような影響を及ぼしたかを論じていくことにする。

そして現在もなお水俣湾およびその周辺の海底においては高濃度の汚染があること、水俣湾およびその周辺海域に汚染魚がいること、水俣を中心として広範な地域に患者が発生していることなどを明らかにしていくことにする。

2 操業実態

(一)(1) アセトアルデヒド工場の操業実態

その操業実態は、ある工場労働者の話によれば次のとおりである。

昭和二七年頃、オクタノールを造るため、アセトアルデヒドを増産することになった。

やがて質を落してでもたくさん造ったほうがよいということになり、そのため機械の能力をこえて運転するようなことがあった。

アセチレンを吹っ込む送風器をロータリー・ブロァーというが、これが二台あって、一台は予備だったが二台を最大運転しても足りず、後でナッシュ・ポンプというのを買って三台で運転した。水冷になっていたが、余り連続して運転するので熱をもち、そのため連続して水をかけた。

危険で使用出来ないような機械に無理に多量のアセチレンを吹き込むので、中の水銀で腐触されていた生成器の硬鉛のつぎ目が割れて、液が吹きだしたことも何回かある。

そんなことがあっても、つぎ目をあてて、できるだけ運転して、どうにも運転できなくなって初めて修理した。またアセチレン吹込量を増加しさらにその吸収を良くするために触媒の水銀を増加し、最小限使うときは八時間に一二キログラム(一時間に一・五キロ)だが最大限になると一〇分間に一キログラム(一時間に六キロ)使っていた。

各直では競争が激しかった。しかし生産を増やすには母液を入れ替えるほかないので、二時間に二トンくらい排液して二トンくらい新しいのを入れ替えていた。抜いた母液は、三四年頃母液タンクができるまでは、そのまま捨てていた。それが普通の運転方法で、戦前戦後を通じて変らない。なお抜くかどうかの判断は、作業者がやっていた。母液タンクができてからも母液を抜くのは変らず、ただ捨てなくなっただけである。

精ドレン(精溜塔ドレンのこと)は、最初の間はそのまま溝に捨てていた。

終戦直後までは、蒸気分溜器の中の加熱管のスケール落しが苦労だった。四人でその中に入るが熱とガスで苦しかった。作業は二日かかった。分溜器の中でクロトンはものすごい臭さだった。

帰るときは、頭の中やポケットに水銀が入った。体に水銀がくっつくので、温泉にゆくのを水銀落しと言っていた。床の上に水銀が転がり、箒で掃いていたがなかなかとれなかった。作業現場は水銀だらけだった。机の上でもへこんだところに水銀がキラキラ光っていた。酸化水銀を生成器に入れるのはむずかしく、圧力で水銀が吹き上げられ附近いっぱいに飛び散り、全身真赤に酸化水銀をかぶるときがあった。(熊本地方裁判所 昭和四四年(ワ)第五二二号外五件損害賠償請求事件、いわゆる水俣病訴訟における田上始の証言。田上始は兵役の四年間と短期間の他課勤務を除けば昭和八年から四五年までずっとアセトアルデヒド関係の酢酸係にいた。)

もちろん、これらの水銀はそのまま海へ流れたのである。

また別の工場労働者の話によれば次のとおりである。

採用試験のとき工場特に酢酸は危険で爆発することがあるかもしれない。君はそれで死んでもいいか、と聞かれ、死んでもかまいませんと決死の覚悟で答えた。それで採用になったと思う。

当初精ドレンは分溜器の方へ返ってくることになっていた。しかし泡だらけになって運転不可能だった。それで数ケ月後これを切り離して精ドレンは排水溝に流すようにした。昭和二五年まではそのまま流しっぱなしだった。

劣化した母液の触媒能力を上げるための酸化装置として酸化槽があるが、そのマンホールから泡が吹き出すのでその上に乗って鉄棒で撹拌したが、水蒸気や硫酸ガス、酸化水銀の粉末が蒸発したもの、水素ガス等で喉や鼻、目をやられた。それで血痰を吐いたこともある。

酸化槽は一・七平方メートルぐらいだが、その故障の場合は、中の母液は全部抜き出して捨てていた。母液の触媒能力が落ちて製品を造るのに支障があると、母液を入れ替えたが、極端な場合は一直八時間の間に二回入れ替えた。それは二回捨てるということで二回で一〇トン捨ててしまった。また母液の劣化を防ぐため分溜器、酸化槽、サクションボックス生成器というふうで、コックから母液をジャンジャン抜いていた。それはそのまま下に捨てて、排水溝に流れていっていた。一時は下に石油罐を置いていたが硫酸と水銀にやられて一直ももたなかった。

水銀投入にも規定の量があり、スタート当時は規定どおりにやっていたが、あとでは定量の五〇パーセント追加投入し、また母液を入れかえた場合は、それに見合う臨時投入をしていた。

硫酸液がよくかかって、ズボンはビショビショになりシャツは洗濯して打ち振ると網の目のようになっていた。さらに母液の飛沫と蒸気が体にかかり皮膚がやられた。

精ドレンは精溜塔の下からホースで抜き出し、ホースの先を溝につけていたので排水溝に水銀が溜っていた。生成器の粗製アルデヒド、母液の分析はピペットで液を吸いこんでやっていた。その係は若い青年が選ばれていたが三人たて続けに死んだ。

水銀は金属水銀がしょっちゅう各デッキなんかに飛んでいった。特に分溜器の上ではあっちこっち非常に粒子が飛んで日誌を書く机なんかにいっぱい積んでおり、インク壺の中にもはいっていた。「髪の毛なんかにですね、いっぱい入ってこうやるとパラパラ、修理作業の場合なんか、食堂で飯を食う時、ちょっとこうやるとパラパラ落ちるぐらいですね。だから作業衣はですね、これはもう水銀がずうっといっぱい附いているというふうに考えてよろしいんですね。」という状態だった。(水俣病訴訟における丁通明の証言。丁通明は昭和七年から昭和二五年まで酢酸係にいた。)

このようにアセトアルデヒド工場の操業実態はずさんきわまりないものであり、使用生成された有毒物質はそのまま排出され、海を汚染したのである。

(2) 塩化ビニール工場の操業実態

その操業実態はある工場労働者の話によれば次のとおりである。

ここでは触媒として昇汞を使う。豆炭に昇汞を浸透させたものを反応塔のパイプの中に充填するのだがこれは一昼夜か二昼夜で取り替えていた。入れ替えるときはむろん古いのを抜くのだが抜いたものは下の土間に一応落してそれをスコップでかますに入れていた。金属水銀として目に見えるように散らばっており、それを箒で掃き寄せていたがなかなか集まらないので放水でジャンジャン洗い流していた。それは排水溝の方に流れていった。

当初のアルデヒド工場、それから塩ビ工場等いわゆる新鋭工場は安全とか楽とかいうものではなく、逆にお金は非常にもうかるだろう。新鋭工場というからには能率もあがるだろうけど、作業自体もある程度スムーズに行けるような設備なり、組織なりになるだろうと期待していた。ところが酢酸にしろ、塩ビにしろ、労働条件ではなくて、生産能力の高能率、そういう意味で新鋭工場ということが判った。(前記丁通明の証言、丁通明は昭和二五年から塩化ビニール工場で働くようになった。)そして、その他の工場においても同様な状況にあった。

以上のように、各工場における操業実態は、恐るべきものがあり、この危険な労働環境から労働災害が頻発し、またこの危険物有害物についての驚くべきずさんな取扱から、不知火海・八代海一円は汚染され環境は破壊された。その結果、水俣病はもとよりその他の公害を引きおこしたのである。

(二) チッソにおける生産物の量

(1) アセトアルデヒドの生産量

一表(昭和三四年一〇月二四日チッソ水俣工場長西田栄一が熊本県議会水俣病対策特別委員会委員長田中典次宛に提出したもの)によれば、昭和七年の生産開始以来、昭和三三年までにチッソ水俣工場が生産したアルデヒドは一八七、八五九トン、流出水銀量は、三三、七七七キログラム(三三・七七七トン)となっている。しかしチッソ水俣工場の酢酸製造日報によれば、昭和二九年の水銀損失量は、九九八八・八キログラム、昭和三〇年は一二〇一五・五キログラム、昭和三一年は三一八四三・一キログラムである。すなわち昭和二九年の水銀損失量は五、四三一キログラム、昭和三〇年は七、五九八キログラム、昭和三一年は八、九一〇キログラムとの一表の報告は多量のごま化しを行ったものであることがわかる。

(2) 塩化ビニールの生産量

二表(昭和三四年一〇月七日、チッソ水俣工場長西田栄一が、田中典次に提出したもの)によれば、昭和一六年から昭和二八年までの塩化ビニールの生産量は三四八一トン、昭和二九年から昭和三三年まで三二一五トン(合計三五五九六トン)流出水銀量が昭和一六年から昭和二八年まで四九・九キログラム、昭和二九年から昭和三三年まで一〇四キログラムとなっている。しかしアセトアルデヒドに於てごま化しているように、ここでもごま化しがあるものと推定される。

(3) 流出水銀量

チッソは昭和三四年当時、流出水銀量が六〇トンであると発表したが、アセトアルデヒド製造日報と一表を比較してわかるように、多くのごま化しをやっている。しかも水俣工場には水銀を使用していた工場として、無水酢酸工場があった。この工場で使用された水銀についてはまったくふれていない。その後熊本県議会で問題とされ八〇トンと訂正したが、これでもまだごま化しで、水俣病訴訟(熊本地方裁判所 昭和四四年(ワ)第五二二号外五件)において、原告が明らかにしたように、どう少なくみても二〇〇トン以上の水銀が水俣湾や不知火海へ流出していったことはまちがいない。ちなみに、熊大理学部推定によると六〇〇トンの水銀が流されたとされている。

3 排出物の処理

熊本医学会雑誌四三巻一一号(昭和四四年一一月)によれば、アセトアルデヒド工場および塩化ビニール工場の排出処理系統は次のとおりであった。

(一) アセトアルデヒド工場および塩化ビニール工場の排出処理系統

(1) アセトアルデヒド廃水の処理系統の変遷

一九四六年(昭和二一年)から一九五八年(昭和三三年)八月まで、ピットを経て百間放水溝へ。

一九五八年(昭和三三年)九月から一九五九年(昭和三四年)九月まで、八幡プールを経て水俣川河口へ。

一九五九年(昭和三四年)一〇月から一二月まで、

醋酸プール→ピットを経て八幡プールへ。一一月より八幡プール上澄液を、アセチレン発生残渣ピットに逆送。

一九六〇年(昭和三五年)一月から三月まで

醋酸プール→八幡プール→カーバイトアセチレン発生残渣→八幡プール。

一九六〇年(昭和三五年)三月から五月まで、

醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→カーバイトアセチレン発生残渣→八幡プール。

一九六〇年(昭和三五年)六月から一九六六年(昭和四一年)五月まで 醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→原水槽→サイクレーター→百間放水溝。

一九六六年(昭和四一年)六月から一九六八年(昭和四三年)五月まで 地下タンク→アルデヒド生成器(循環式)

一九六八年(昭和四三年)五月一八日

アルデヒド製造中止。

(2) 塩化ビニール廃水

一九四九年(昭和二四年)一〇月から一九五八年(昭和三三年)八月まで 鉄屑槽を経て百間放水溝へ。

一九五八年(昭和三三年)から一九五九年(昭和三四年)九月まで百間放水溝へ。

一九五九年(昭和三四年)一〇月から一二月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ。

一九六〇年(昭和三五年)一月から三月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ。

一九六〇年(昭和三五年)三月から五月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ。

一九六〇年(昭和三五年)六月から一九六六年(昭和四一年)五月まで アセトアルデヒド廃水と同じ。

一九六六年(昭和四一年)六月から一九六八年(昭和四三年)三月まで 醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→原水槽→サイクレーター→百間廃水溝。

一九六八年(昭和四三年)三月から

泥水ピット→八幡プール。

(二) 昭和三四年九月までの排出方法

(1) 無処理排出

第一は文字どおり全くの無処理排出である。これは昭和七年操業以来、昭和三三年九月までのアセトアルデヒド廃水と、昭和二四年操業以来の塩化ビニール廃水という、水銀を扱う二工場だけであったことは注目される。

さらに昭和三一年一〇月、熊大によって水俣病の原因が工場廃液であると指摘されたとき、水俣湾に流れていたのは、このアセトアルデヒドと塩化ビニールの二工場の廃水だけだったという事実も重要である。

(2) 沈澱後排出

第二に、簡単な沈澱だけを行った排出である。この沈澱がいかにいいかげんなものであったかは被告チッソ自身によって述べられている。

変性硫安廃水が沈澱不十分のため水俣湾海面は当時黒色を帯びていたという記述や、水俣湾は水酸化マグネシウム沈澱のために白濁していたという記述がなされていることにより明らかである。結果的には無処理といわざるをえないのである。

(3) 八幡プールを経た排出

第三に、八幡プールをへての排出がある。そこで八幡プールについて検討する。

まずはっきりさせておかなければならないことは、八幡プールの目的である。

これは決して廃水処理施設ではない。カーバイト残渣の捨て場にすぎないのであり、その結果としての海面埋立にすぎないのである。そしてチッソはその埋立地を売ってさらに利益を得たのである。チッソが発行した「水俣工場排水について」はそのことを明確に認めている。

(4) むすび

無処理で排出された廃水はもちろんのこと、簡単な沈澱をおこなって排出された廃水も、八幡プールをへて排出された廃水も実際は無処理排出とたいして変わりなかったことが明らかである。このことはのちに述べるように、昭和三三年九月、被告チッソがおこなったアセトアルデヒド廃水を水俣湾から八幡プールをへて水俣川河口に流すように変更した人体実験によっても証明された。排水路変更によって水俣川周辺に患者が続出し、八幡プールは被害発生を防ぐ効果はなかったことが明らかになったのである。

(三) サイクレーター

チッソは「被告工場では昭和三三年秋から排水を総合的に処理するための抜本的方法の検討を始め、同三四年初頭、サイクレーター(排水浄化設備)を中心とする排水総合処理施設の具体的計画が立案されるに至った」と主張している。

だが、これもごまかしの主張であった。サイクレーター設置の目的は実は生産のためのものであった。

チッソが昭和三四年一一月ごろ作成した「御参考までに」と題する書面には、つぎのように記載されている。

「昨年末より固型物中の大部分を占めるアセチレン発生残渣を利用して、マグネシアクリンカーをつくる計画が確定しましたので、アセチレン発生残渣とその他の残渣とを分離して処理する必要ができてまいりました。その方法を専門メーカー数社について調査しました結果、昭和三四年春より見積りをあつめ七月に荏原インフィルコ社を内定し、実際の排水について実験をするとともに、浄化の方法、型式等を決定してきました。」と。

まさにサイクレーター設置は、マグネシアクリンカー製造の原料生産のためだったのである。

昭和三四年八月には、水俣漁協が浄化設備の設置と一億円の漁業補償を要求し、工場内へ入った。

つづいて、ついに芦北漁民が水俣川河口への汚悪水の排水中止を要求した。県漁連も同様に工場排水の停止から、ついに操業停止までを要求した。

県内は騒然とした雰囲気となり、チッソは廃水浄化をせねば操業停止をしなければならないところまで追い込まれていたのである。しかも通産省は、水俣川河口への廃水流水の即時中止と、廃水の浄化装置を年内に完成するように指示した。

このまま放置すれば水俣工場の操業はできなくなる危険があった。

こうしてチッソは、実は水俣病解決には役にたたないことがわかりきっている、生産のためのサイクレーターを、大々的に、水銀にも効果のある排水施設として宣伝したのである。

(四) 完全循環方式

被告チッソは昭和四一年六月、地下タンクを設置した。精ドレン、ポンプグランド漏れ、洗滌水、その他いっさいの廃水をこの地下タンクに入れ、はじめて廃水は外に出なくなったはずであった。

しかしアセトアルデヒド廃水は現実に流れたのである。

またチッソは、こっそりと秘密の排水路を設置して、アセトアルデヒド廃水を放出していたのである。

昭和四一年五月、八幡プール横で土をかぶった三本の排水管が発見された。水俣市公害対策委員会がその廃水をしらべたところ水銀が検出された。八幡プールのオーバーフロー水を秘密にそのまま流していたのである(朝日新聞 昭和四三年八月二九日)。

それは一九六六年(昭和四一年)一〇月、月の浦のアサリ貝中に八四PPmの水銀が検出されたこと(一三表)、アセトアルデヒド工場がなくなった昭和四三年五月以降急速に水銀量が減少したことによっても明らかである。

以上のようにチッソは、水俣病の原因がわかる前はもちろん、わかってからも何ら根本的に効果のある処理方法をとらず排水物を流しつづけた。

その結果、チッソ水俣工場内で使用され、生成された有毒物質はそのまま海へ排出され海を汚染し続けたのである。

(五) 排水の分析

三表によれば(熊本医学会雑誌四三巻一一号、昭和四四年一一月・五二頁)アセトアルデヒド反応母液濾液中には五八六PPmの水銀が検出された。

夜間こっそりそのまま流されたり、生産を上げるため、排水溝に流されたりした。

四表(三表と同じ雑誌五三頁)によれば、塩化ビニール廃水中に、コンマPPm単位の水銀、メチル水銀が検出されている。(注 四表は工場側が発表したもの)。五表によれば(水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解 昭和三四年一〇月)猛毒物質であるヒ素(As)もチッソ水俣工場の廃水から検出されている。またチッソ水俣工場においては水銀のみならずセレン(Se)、タリウム(Tl)、マンガン(Mn)をはじめとする多くの重金属類も排出していたことがわかる(注=五表は有機水銀説に対する反論としてチッソが出したもの)。

4 海底土に対する影響

(一) 昭和三四年当時水俣湾内外は六図のとおり、工場排水口附近の二〇一〇PPmを最高に高濃度の汚染を示している。

(二) 昭和三八年(一九三六年)一〇月五日、熊本大学医学部衛生学教室の調査(水俣湾内の一六個所の地点の泥土の深さ、種類および水銀濃度の調査七~九図)(日本公衛誌一一巻九号)によれば水銀濃度はSt四の五層(二メートル四〇センチの深さ)において七一六PPmを最高とし、泥土の深さはSt九の八層(三メートル六八センチ)を最高に相当高濃度の水銀汚染と泥土の堆積が見られる。

(三) 昭和四八年の県の調査によっても、一〇、一一図のように水俣湾内にはなお数百PPmの高濃度の汚染があり、「底質の暫定除去規準」の二五PPmを湾内の大部分がこえている。

また水俣湾外にも、一〇PPmを越える汚染があり、汚染は不知火海一円に及んでいることがわかる。環境庁が行った「有明海、八代海環境総合調査」(昭和四八年)によれば、底質の水銀量が〇・一PPmの範囲は南は不知火海の南口の黒の瀬戸、北は三角半島、西は御所の浦、獅子島、長島まで、要するに不知火海は全域チッソの水銀によって汚染されていることがわかるのである。(水銀分布図)。

(四) 以上六図から一一図までを見てわかるように、海に流された水銀は、三四年当時から現在にいたるまで高濃度の値を示しており、現在もなお水俣湾およびその周辺海域は危険な状況であることが明らかである。

5 魚介類に対する影響

(一) 戦前

水俣の漁民達がチッソ水俣工場の創業以来、漁業被害を受けてきたことは、古くは大正一五年に漁民と工場との間で漁業補償契約が結ばれていることからも明らかである。

チッソ水俣工場の排出物による漁業被害は、ずっと続き、太平洋戦争中、重要な軍需工場として軍の保護監督下にあったにもかかわらず、漁民は余りの漁業被害にたえかねてチッソと交渉し、昭和一八年一月補償契約が結ばれた。

当時、軍が絶対的な地位にあったことは周知のことで、軍需工場たる水俣工場に被害の補償要求をすることは並々ならぬ勇気を要したであろうことは、言をまたない。

しかもなお、水俣工場が補償に応じたのは、漁業被害がいかに甚だしく、かつ明白であったかを示すものである。

(二) 戦後

(1) ある住民の話によれば次のような状況であった。

昭和三一年、漁民から魚がたくさん死んでいるとの通知があったので行ってみた。百間港の入口で魚が無数に死んでいた。大きいものだけでも一五、六匹浮いており、下は沈んでいる魚で真白になっていた。数は膨大で種類もいろいろだった。漁民も騒いでいた。

そんなことが何回もあったので、県に行って調査を求めた。その二、三日後に県からやってきて、プランクトンの調査などをやった。県の係員は、工場廃水と関係があるでしょうといっていた。

漁民のほとんどは、工場廃水以外に汚水が流れこむ場所がないことを知っていた。

県からは何回も来たが、結局、工場廃水以外に考えられないということになった。

その頃は、もう水俣奇病が騒がれていたが、私は水俣奇病とこの魚の死んだのと関係があると思った。なぜなら、最初かかった人は、夜ぶり(夜明りをつけて、魚を矛で突いてとること)、一本釣り、かし網の人で、この人達は、ほとんど獲った魚を自分で食う。しかも、その漁場は百間湾で、今度魚の死んだ場所である。私はそんな人に危いから用心せんといかんと注意した。

魚が死んだという話を昭和二八年頃から何回か聞いたことがある。昭和三〇年か三一年頃、報告をうけて見にいったら、恋路島のカキも全滅していた。そういうことで、昭和三一年からチッソと交渉を始めた。

魚が非常にとれなくなって、漁民の被害は大きかった。生活に困って百姓の加勢に行ったり、人夫になったりする人が出はじめた。(水俣病訴訟における中村新吾の証言。中村新吾は、終戦直後の昭和二一年から水俣町漁業会に勤務し、水俣市漁業協同組合と組織変更がなされるや、昭和二五年から四二年までの間、同漁協の参事を勤めた)。

(2) 熊本県水産課は、昭和二七年すでに、チッソ水俣工場廃水による漁業被害の実情を調査し、その事実を認めている。さらに同課の昭和三二年三月の調査復命書によれば、百間湾一帯では漁獲は皆無で、漁民はこの附近で魚介類をとることに恐怖を感じており、奇病発生が今後も予測されるし、経済的にも行詰っている現状から、その困窮状態がはなはだしい、海岸一帯には壁に付着しているカキ、フジツボの脱落が顕著にみられ、特に干潮線附近は死穀のみである、明神崎の内側には海藻類の付着がほとんどなく、明神崎突端から西方の七ツ瀬は従来ワカメがとれていたが、今は灰泥におおわれ、海藻類は全然認められない、海岸には斃死した小魚、シャコの漂着がみられ、翼、脚のきかないカイツブリを発見したが、二九年以来、このような海況の変調は、頻繁にあったということである。

この復命書は、環境破壊の実情を以上のように明らかにした後、病気の原因がいかなるものであろうと、この一帯が水俣工場の設備拡充に伴い、その汚水による被害もますます激しくなるという見地に立って、補償問題を関係方面に要求すべきであるといった空気がつよい、と現地のもようを伝えている。

熊本県は、その後、さらに詳細な調査をおこなった。県水産試験場は、水俣市地先漁場について、沿岸定着生物やプランクトンの調査、海水や底質泥土の分析等をおこない、その結果を昭和三三年一〇月「水俣市地先漁場における生物水質底質等の調査概報」として発表した。

この書面による水俣湾およびその附近における海の汚染、破壊はすさまじいものがある。

まず、沿岸定着生物の分布状況調査であるが、これは、昭和三二年七月と八月、二回にわたっておこなわれ、五〇の地点を設定して一平方メートル枠内の生物を調べるという方法がとられた。その結果は、主な点だけでもつぎのとおりである。

「あさり貝については、水俣湾外の丸島港外の北側の地点に、穀長二・〇ないし三・八糎のものが一平方メートル内に五五個生息しているのみであった。水俣湾の袋湾奥の地点、および明神崎の地点では、一平方メートル内に四五〇個の死貝が発見された。

ふじつぼについては、水俣湾内陸側の一六の地点では、二〇ないし一〇%の斃死である。また水俣湾外の丸島港内の二地点および港外の数地点では多数斃死していた。」

貝類の死体累々という状態だが、さらに海底泥土についても昭和三二年七月、九月の二回にわたる調査の結果の要点をあげるとつぎのとおりである。

水俣湾奥の工場排水口附近では、芳香性の臭気を放つ黒色軟泥で、排水口から遠ざかるに従い、色沢も淡く、臭気も減少する。この軟泥は、相当広範囲にわたって海底表面をおおっている。その厚さは五〇ないし一〇五糎に達する。

廃水口から一、五〇〇ないし二、〇〇〇米以内の海域では、泥土中の硫化物が正常な海底の一〇倍におよび、また、そこには有機物質が非常に多い。

(三) 魚介類に対する影響

(1) 昭和三四年、喜多村の調査によれば(一二表)水銀量数一〇PPmを蓄積した魚や弱って浮いている魚が発見されたことがうかがわれる。

(2) 他所からもらってきたネコが患者多発地で飼育すると三〇ないし六〇日で病死していた。(熊本医学会誌三一補二 三〇七~三一〇昭和三二)

(3) 水俣湾および水俣川河口の貝中水銀量は一三表一四図(日本公衛誌一九巻一号)によれば一九六〇年(昭和三五年)一月、月の浦のイ貝(ヒバリガイモドキ)に最高八五PPm、一九六六年(昭和四年)一〇月、月の浦のアサリ貝に最高八四PPm、一九七一年(昭和四六年)二月、月の浦のアサリ貝に一〇PPmを越えるものがみられる。貝類については、一〇数年経てもなおかなり高濃度の水銀の蓄積が認められる。なお、注意しなければならないことは、チッソのいう完全循環方式をとった後も高濃度汚染があったということである。

(4) 魚類中の水銀量は一五表(熊本県企画部公害課―昭和四四年七月)によれば、一九六一年(昭和三六年)三月、カマスに五八PPmと数一〇PPmの単位で水銀が蓄積されていること、および、一九六五年(昭和四〇年)五月には、水俣湾外である八幡沖で一一七PPmという驚異的な水銀を蓄積したチヌがみられること、さらに一九六八年(昭和四三年)にも数PPmの水銀を蓄積した魚がみられることがわかる。

一六表(熊本県衛生部公害局)によれば昭和四六年八月一六日採取の魚類中、ふぐ、たこ、きす、がらかぶ、べらに一PPmを越える水銀を蓄積した魚がみられる。

一七表によれば(昭和四八年環境庁の有明海・八代海環境総合調査)水俣湾内(KM―三〇)には、いしもち、くろだい、かさごに一PPmを越える水銀蓄積がある。

以上述べてきたように、現在もなお、水俣湾周辺に棲息する魚を住民が摂食すれば、水俣病が発生することがわかる。

6 動物への影響

海や川の汚染や、魚介類の異変にとどまらず、動物にも異変がみられるようになった。

ある住民の話によれば終戦前後頃から、猫が湯堂に育たなくなったことに気づいた。遠くの村から貰ってきて育てようと思っても、すぐいなくなる。そのうち、海岸の岩かげや波打際に、点々と猫の死体が見られるようになった。そのような状態が何年か続いた。

その当時は、どこかの家がきっとネコイラズをたくさん使って、ネズミ退治をしているのだろうかと、皆そう思っていたという。(水俣訴訟における草野ヒデ子の証言。草野ヒデ子は昭和三年湯堂で生まれ、昭和二三年までそこに暮していた)。

昭和二七、八年頃、水俣病で死んだ小川の家の猫が狂い死にし、その後、猫がつぎつぎに狂死した。(水俣訴訟における小道サヨの証言)。

昭和二九年から三一年までの間に、つぎつぎと猫が五匹死んだ。クルクルまわって狂い死にした(水俣訴訟における田中義光原告本人尋問の結果)。

自分でボラ釣りを始めた昭和二七年頃、家の猫がボラの餌を炊くかまどの中に、火があるのに走り込んで、ばたぐるって突堤のところに行ってバタバタして海の中に飛びこんでいった。続けて三匹死んだので何匹飼っても死ぬということでやめた。湯堂部落の殆んどの猫は死んでしまった(水俣訴訟における荒木幾松原告本人尋問の結果)。

猫の異変については、その他多くの話があり、また公知の事実である。

環境汚染は猫を狂死させ、さらに他の動物にも及んだ。昭和三一年三月頃、豚がクルクルまわって死んだ(水俣訴訟における田中義光原告本人尋問の結果)。

鳥にも異変が起こった。昭和三一年頃、鳥が飛べないで浜でバタバタして、ボチボチ歩いてまわって、人間がいってもヨチヨチして逃げなかった。また沖にしかいないはずのアメ鳥が波止場に来て、あっちブラブラこっちブラブラしているのも見た(水俣訴訟における平木トメ原告本人尋問の結果)。

その後、ネコの狂死、動物の異変は続発した。

喜多村(一八表)によれば、昭和二九・三〇・三一年、患者多発地区の月の浦・出月・湯堂において、ネコがつぎからつぎに死亡していったことがわかる。特に患者をかかえた家においては、その殆んどが死亡していったことがわかる。

また、喜多村(一九表)によれば、自然発病の猫には特に肝・毛に数一〇PPm、実験発病例にも肝・毛に数一〇PPmから一〇〇PPmの水銀の蓄積がみられる。および不知火海(八代海)沿岸の健康猫においても、殆んどの猫の肝・毛に数一〇PPmから数百PPmの水銀の蓄積がみられることがわかる。即ち不知火海一帯がいかに汚染されていたかがわかるものである。

外見上、健康猫といえども、もはや水俣病でないという保証はないのである。

二〇図二一表によれば、水俣湾内およびその周辺に棲息するイ貝(ヒバリガイモドキ)を動物に投与したものであるが、早いものは一三日で発病、遅いものでも八五日目に発病するという恐るべき結果が示されている。

7 人体への影響

(一) 汚染の進行は当然ながら人体まで及んでくる。時代的広がりを示すものとして、「一〇年後の水俣病に関する疫学的臨床医学的研究(第一年度)」中の5「水俣病の精神神経学的研究」(五一頁)によれば、現在判明しているかぎりで、最も早い発症例は昭和一七年である。このことは一方水俣工場のアセトアルデヒド生産量が戦前においては昭和一四ないし一七年にかけて高水準にあったことによっても明らかである(一表)。

ちなみに、昭和一四年は九〇六三トン、一五年は九一五九トン、一六年は八七〇〇トン、一七年は八四八〇トンであって、後記の昭和二九年が九〇五九トンであるから、その頃の水準とほぼ同一であることからも明らかである。なお、この昭和一七年の発症例は昭和一三年一〇月生まれの女子で、昭和一七年に痙攣発作をもって発病、昭和四六年九月現在、構音障害、失調、アテトーゼ、求心性視野狭窄、末梢性知覚障害、高度知能障害などをもっている。

また昭和二〇年、二一年と発症者をみている。昭和二三年頃には、中元国雄が手足をガタガタふるわせて、最後は目を白黒させて見えなくなり、壁を掻きむしりながら死んでしまった。医者では良くならぬため、母はあちこちの神に参って、最後はキッネがついたとかなんとかいわれて恐れられたという事実がある。

その後も、毎年のように患者の発生は続くが、ピークをむかえたのは昭和二九年からであり、その中でも特に多発しピークをむかえたのは、昭和三一年であった。この間、アセトアルデヒドの生産量の推移をみると、二八年から二九年にかけては六五〇〇トンから九〇〇〇トン台へ増産しているし、翌三〇年には一万トン台にのせ、三一年にいたっては一万六〇〇〇トン台に近づいている。

被告チッソ水俣工場は昭和三三年九月、排水口を百間から水俣川に変更したが、このため水俣川口で釣をしていた中村末義は三四年一月発病し、同年七月一四日死亡するにいたった。その後、患者は北上し、葦北郡津奈木村でついに患者の発生をみるにいたった。三四年九月一日に発病した船場藤吉である。その後、北方に患者は続発した。

二五表(熊本大学医学部一〇年後の水俣病研究班発表 一〇年後の水俣病に関する疫学的臨床医学的ならびに病理学的研究第二年度=五四頁)によれば、昭和三一年、昭和三五年をピークにその後も発症していることがわかる。水俣病は昭和三〇年代をもって終ったのではない。

また戦後のみならず戦前にも水俣病は発生していたのである。このことは水俣地区住民のヘソの緒中のメチル水銀をはかった結果からも明らかである。昭和二二年六月生れの人から、すでに一・一PPmのメチル水銀が検出されており、昭和三九年九月生れの人から一・〇PPm、昭和四〇年一〇月生れの人から〇・六PPmのメチル水銀が検出されており、今なお水銀汚染が続いていることは明らかである。

なお、ごく最近まで毎年のように患者の発症が続いたことは、「水俣病の精神神経学的研究」(五一頁)に明らかである。

(二) 人体汚染の地域的ひろがりを示すものとして、毛髪水銀量を例にとれば次のとおりである。

二二表(昭和三六年 熊本県衛生研究所)によれば、人の毛髪水銀量は御所浦の九二〇PPm(六二才の女性)を最高に、各地区の最高値はいずれも一〇〇PPmを越えている。各地区とも一〇PPmから五〇PPmの間の毛髪水銀値が最も多い。

水俣の対岸の御所浦でも高濃度の汚染を示していることは、汚染の広がりと濃度の深刻さをまざまざとみせつけているものである。

二三表(昭和三七年 熊本県衛生研究所)によれば、御所浦の六〇〇PPmを最高として、昭和三五年に比較するとかなり毛髪水銀量は低くなってきているが、やはり一〇PPmから五〇PPmの間の毛髪水銀値を示すものが最も多いことは、なお水銀汚染の深刻さを示すものといえよう。

また驚くべきことは、熊本市内(水俣より一〇〇キロメートルも離れた)で最高一二二PPmを示し、平均値一二・三PPmを示していることは注目に値する。

水俣病さわぎの影響のため水俣周辺で売れなくなった魚を遠く熊本まで運んで売っていたことは我々の記憶に新しいところである。ちなみに現在でも水俣周辺で取れた売れない魚を遠く関西の方へ売り出していることも漁民の語るところである。二四表(昭和三八年 熊本衛生研究所)によれば、水俣市においては一〇PPmから五〇PPmまでの毛髪水銀量を示すものが六一%と半数以上を占めている。津奈木、御所浦では最高一〇〇PPmを越え、むしろ水俣市の最高値より高く、不知火海の汚染の広がりをまざまざと示している。(熊大報告書=二年度)。不知火海の汚染のすさまじさと広がりを示すものとして、一九七一年までに認定された患者の発生状況、ネコの発症地、魚の浮上が確認された地図を附す。(二六図)。

最後に、二七図として昭和四九年六月二日現在の認定患者の地域別発生数を示した図を付す。これによっても、汚染がどれだけ水俣周辺に集中していたか、および、その汚染がいかに拡散していたかがひとめでわかるであろう。

水俣およびその周辺地域の住民は、このように広範囲かつ濃厚に汚染された環境の中での生活を余儀なくされてきたのである。

1表 年度別 アセトアルデヒド生産量及び水銀使用状況

年度別

アセトアルデヒド

生産量(T)

水銀使用量

(kg)

水銀回収量

(kg)

水銀損失量

(kg)

廃水に流出した

水銀量(kg)

昭和

7年

210

8

1,297

9

2,583

10

3,628

11

5,134

12

6,252

13

7,386

14

9,063

15

9,159

16

8,700

17

8,480

18

7,470

19

7,296

20

2,264

21

2,253

8,733

7,392

1,341

704

22

2,363

9,409

7,699

1,710

898

23

3,326

13,898

11,844

2,054

1,078

24

4,391

14,142

11,625

2,517

1,321

25

4,484

18,490

15,417

3,073

1,613

26

6,248

24,876

21,175

3,701

1,943

27

6,148

25,128

20,776

4,352

2,285

28

6,592

26,701

22,589

4,112

2,159

29

9,059

35,987

30,556

5,431

2,851

30

10,633

44,457

36,859

7,598

3,989

31

15,919

61,433

52,523

8,910

4,678

32

18,085

72,554

60,248

12,306

6,161

33

19,436

78,112

70,309

7,803

4,097

187,859

433,920

369,012

64,908

33,777

〔昭和34年10月24日 チッソ水俣工場長 西田栄一が熊本県議会水俣病対策特別委員会委員長 田中典次宛に提出した報告書〕

2表 年度別 塩化ビニール樹脂生産量及び水銀使用状況

年度

塩化ビニール

樹脂生産量(T)

水銀使用量

(kg)

水銀回収量

(kg)

水銀損失量

(kg)

廃水に流出した

水銀量(kg)

昭和16年

3.2

17

27.2

413

413

3.0

18

48.5

19

115.7

20

16.4

21

0

22

0

23

0

24

5

25

109

720

720

5.3

26

341

1,018

1,018

7.5

27

1,046

2,085

2,085

15.2

28

1,769

2,585

2,012

573

18.9

小計

3,481

6,821

2,012

4,809

49.9

29

3,561

3,890

3,027

863

28.5

30

4,200

2,103

1,637

466

15.4

31

6,513

2,587

2,013

574

18.9

32

9,059

3,153

2,454

699

23.1

33

8,782

2,465

1,918

547

18.1

小計

32,115

14,198

11,049

3,149

104

総計

35,596

21,019

13,061

7,958

153.9

〔昭和34年10月7日 チッソ水俣工場長西田栄一が、熊本県議会水俣病対策特別委員会委員長 田中典次宛に提出した報告書〕

3図 水俣工場廃水採取点  1968.5月

3表 水俣工場廃液中の水銀

No

採集場所

採集

年月日

PH

塩素イオン

u:ppm

総水銀

Hg:ppm

有機水銀

(メチル水銀)

Hg:ppm

備考

12

アセトアルデヒド

反応母液酸液

1963.5.13

強取性○

536

134(100~170)+※

1000

残液

PH2.7

サイク

レーター

残液

1

アルデヒド

清溜塔ドレン廃水

1963.5.14

2.1※

900

75.91

45.94(57)+※

3

塩ビモノマー

廃媒触

1963.5.2

1.9△

1,163△

9.7~25.49(12)+※

2

塩ビモノマー洗滌

・・水(7時間)

同上

13.6

68,064

0.010

11

同上(43時間)

1963.5.14

13.5

97,133

0.037

(0.0003)

4

サイクレーター

入口

1968.5.2

12.6

13.9

0.003

5

サイクレーター

出口

同上

10.6

844

0.004

9

百間方面への

綜合廃水

同上

7.3

1,753

0.005

7

八幡泥水ビット

出口上液

同上

12.7

844

0.002

10

八幡廃泥ビット

残液(湿)

同上

11.3△

42△

0.025

8

八幡プールの

石灰泥(湿)

同上

13.2△

5,920△

0.115

0.019

6

新八幡プール上清

同上

12.6

17,518

0.008

13

水俣川河口泥A(湿)

同上

0.583

0.007

14

同上B(湿)

同上

0.303

0.010

註 1)○:1000倍稀釈液PH2.7 2)×:CH1CHO,CH1COOH+ 3)(+)※:TLCでCH1HgCL陽性

4)△:等量の水による1時間浸出液のPH,CL-を示す 5)検水:3,000mlまで、泥:200g

熊本医学会雑誌 第43巻第11号(昭和44年11月)P51 図3 P52 表1 熊本大学医学部衛生学教室 入鹿山外作成

(注) 水俣工場アセトアルデヒド生産停止前後の水俣地方の水銀による汚染状況を示すもの

4表 塩化ビニール設備廃水中の水銀

(水俣工場調べ) (PPm)

採水年月日

総水銀

メチル水銀

1969.1.18

0.52

0.20

1.22

0.48

0.27

2.4

0.16

0.002

2.13

0.09

0.020

2.14

0.05

0.005

2.17

0.32

0.001

熊本医学会雑誌第43巻第11号(昭和44年11月)P53 表2

(注)工場側が発表した文中の分析表

5表 工場排水分析

試料

採取場所

工場排水溝出口

(水俣湾流入排水)

八幡残渣

プール排水

試料採取日

34.7.6

34.7.3

水量

3200m3/Hr

600m3/Hr

PH

6.3

11.9

SiO3-

54mg/l

1.6mg/l

Fe2O2

6

4

Al2O3

15

24

CaO

135

1450

MgO

224

1.4

SO3

335

393

P2O3

3

8

Cl

1926

240

K2O

69

29

Na2O

1536

67

Cu

0.07

0.03

As

0.56

Hg

0.01

0.08

Se

0.01

0.01

Tl

0.001

0.002

Mn

0.22

0.05

Pb

0.03

KMnO4消費量

241

水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解 昭和34年10月

(注)5表は、有機水銀説に対する反論としてチッソが発表した文中の分析表

6図 水俣湾内泥土中水銀量 (湿重量当りPPm)

7図 各地点別、各層別泥土中水銀量

8表 採泥の深さ(m)と泥土の種類

深泥

地点

表層

2層

3層

4層

5層

6層

7層

8層

St.1

黒色泥

および

普通砂

0―0.10

〃 2

―0.10

〃 3

―0.10

黒色軟泥

―3.60

〃 4

―0.10

灰黒色

軟泥

―0.60

灰黒色泥

―1.20

黒色泥

―1.80

黒褐色泥

―2.40

黒褐色泥

―3.00

灰褐色泥

―3.15

〃 5

―0.10

黒色泥

―0.96

黒色泥

(石灰カス)

―1.27

灰黒色泥

―3.12

灰黒色

砂泥

―3.27

黒褐色泥

―3.65

〃 6

―0.10

砂混り

黒色泥

―2.00

灰色泥

―2.98

灰黒色泥

―3.18

淡灰

黒色泥

―3.67

貝殻混り

灰褐色砂泥

―4.04

〃 7

―0.10

細砂混り

黒色泥

―1.08

淡灰

黒色泥

―1.96

灰色泥

―2.44

茶褐色泥

―2.56

貝殻混り

灰褐色泥

―2.85

淡灰色

砂泥

―3.50

〃 8

―0.10

灰色

(カーバイド泥)

―1.51

茶黒色

軟泥

―2.08

茶褐色

砂泥

―2.53

貝殻混り

灰色砂泥

―3.25

〃 9

―0.10

黒色軟泥

―0.52

灰黒色泥

―0.64

細砂混り

黒色泥

―1.08

灰黒色泥

―2.15

灰色

(カーバイド)泥

―2.32

灰黒色泥

―2.51

貝殻混り

灰色砂泥

―3.68

〃10

―0.10

黒色軟泥

―0.39

灰黒色

軟泥

―0.78

灰色

(カーバイド泥)

―2.49

貝殻混り

灰色砂泥

―3.88

〃11

―0.10

灰黒色

軟泥

―0.22

貝殻混り

灰色泥

―4.45

〃12

―0.10

貝殻混り

灰色泥

―3.65

〃13

―0.10

貝殻混り

灰色泥

―3.91

〃14

―0.10

貝殻混り

灰色泥

―4.14

〃15

―0.10

貝殻混り

灰色泥

―3.95

〃16

―0.10

貝殻混り

灰色泥

―3.86

日本公衛誌第11巻第9号 P2 表1

(注)以上の採泥方法は、採泥器を船上にてクレーンでつるし、これを垂直に落下させ、管内(円筒内)に入った泥土を捕集するもので、採泥器の自由落下の長さは5mとしたが、St11のみは11mとしたものである。

9表 水俣港湾泥土中の水銀量

Hg:PPm/乾燥重量 カッコ内(Hg:PPm/湿重量)

採泥

場所

表履

2層

3層

4層

5層

6層

7層

8層

St.1

砂状28(19)

〃 1

泥状56(30)

〃 2

164(55)

〃 3

104(40)

255(103)

〃 4

372(120)

253(81)

627(197)

207(97)

716(167)

403(94)

321(55)

〃 5

111(33)

514(105)

283(74)

163(23)

38(20)

5(2)

〃 6

152(55)

107(65)

568(89)

325(61)

350(69)

4(1)

〃 7

121(35)

343(81)

209(76)

137(38)

62(25)

7(3)

0(0)

〃 8

77(19)

111(34)

94(38)

36(21)

0(0)

〃 9

713(160)

653(131)

516(106)

482(119)

291(72)

234(48)

148(45)

0(0)

〃10

170(37)

293(72)

380(87)

168(26)

0(0)

〃11

118(36)

30(12)

0(0)

〃12

31(12)

0(0)

〃13

62(19)

0(0)

〃14

33(7)

0(0)

〃15

28(8)

0(0)

〃16

29(9)

0(0)

日本公衛誌 第11巻第9号 (昭和38年)P3 表2

10図 底質総水銀等濃度線図(水俣湾周辺詳細図)

11図 底質総水銀等濃度線図(水俣湾周辺詳細図)

12表 魚貝類の水銀量

(湿重量 PPm 但、カッコ内は乾燥PPm)

水俣地区のもの

八代湾(不知火海)地区のもの

対照地区のもの

漁獲地

魚貝類名

Hgppm

漁獲地

魚貝類名

Hgppm

魚貝類名

Hgppm

水俣湾

このしろ

1.62

計石

すずき ミ△

13.5

うばがい

(1.1)

かたくちいわし

0.27

〃肝△

52.3

かつを肝

0.3

こがに カラ

35.7

〃胆ノウ△

7.1

赤貝

(1.76)

〃   ミ

23.9

〃皮△

10.3

たい肝

1.94

かき

5.61

芦北

ぼら(半乾)

3.0

このしろ ミ

0.33

海藻

0.98

田ノ浦

ぼら(半乾)

3.36

〃 ワタ

0.18

いしもち△

14.9

湯ノ浦

ぼら

0.03

たい ミ

0.16

いしもち△

8.4

0.44

〃 ワタ

0.17

水俣川河口

すずき△

16.6

0.06

あじ ミ

0.07

あさり

20.0

0.3

〃 ワタ

0.24

ちぬ ミ△

24.1

津奈木

ぼら(半乾)

3.6

さんま ミ

0.04

〃 ワタ△

26.3

たち魚△

3.28

〃 ワタ

0.12

さらわ ミ△

8.72

〃△

7.5

きびなご

0.04

〃 ワタ△

15.3

〃△

3.63

いわし ミ

0.10

かに

14.0

樋ノ島

ぐち△

3.64

〃 ワタ

0.05

ぼら△

10.6

たち魚△

1.09

あさり

0.1

すじてんじく△

19.0

〃△

4.56

はまぐり

0.08

△印は弱って浮いていた魚

〃△

4.82

むしきえび

(0.05)

たち魚肝△

11.2

いわし

(0.25)

〃△

13.4

ふぐ

(0.04)

八代

ぼら

0.04

あじ

(0.01)

0.08

はたはた

(0.03)

いりこ

(0.29)

水俣病―有機水銀中毒に関する研究―(いわゆる赤本)

熊本大学医学部 水俣病研究班:昭和34年 喜多村の調査による。

(注)対照地区に比較すると水俣周辺地域の魚は水銀値が著しく高い。

13表 水俣湾および水俣川河口の貝中水銀量

(μg/s 乾燥重量当り)

採集地点

(月の浦)

(月の浦)

明神

恋路島

大崎

貝の種類

イ貝※

アサリ

アサリ

アサリ

アサリ

採集年

1960

1

85

4

50

8

31

1961

1

56

4

30

12

9

1962

1

12

28

43

5

1963

10

12

28

12

40

5

1965

5

33

16

5

1966

10

84

21

81

2

8

1967

4

8

7

69

6

6

15

8

19

3

8

26

3

48

6

10

24

16

32

5

12

20

13

14

9

1968

3

12

9

45

4

6

8

10

30

3

7

9

12

1

8

4

2

5

0.7

1969

2

4

6

2

1

6

2

7

12

0.6

8

1

3

16

0.3

10

1

4

4

0.4

12

1

6

2

0.5

1970

2

2

5

10

0.4

6

7

14

7

0.3

8

15

2

7

0.4

12

3

6

4

0.6

1971

2

18

3

4

0.3

3

3

4

4

0.7

注) ※イ貝:ヒバリガイモドキ

日本公衛誌第19巻第1号 P27 表1 (注)入鹿山外 1969,1970調査

14図 水俣湾産アサリ水銀の変動

15表 水俣湾およびその周辺の海域の魚類中の水銀

(PPm/湿重量別)

採集

年月日

採集

場所

魚名

重量g

総水銀

有機水銀

(メチル水銀)

Oty/Total Rg

T・L・C

1968

7.9~7.10

水俣湾

キス

19.9

0.72

(0.14)

2.0

内臓

11.5

0.38

ナベギョロ

10.1

1.16

(1.03)

88

内臓

28.3

1.94

クサビ

20.5

0.72

内臓

12.2

0.93

トラハゼ

20.0

0.21

内臓

8.5

0.47

ウナギ

20.3

0.45

内臓

21.0

2.65

タチウオ

20.0

0.14

内臓

44.8

0.09

アカエイ

20.2

0.38

内臓

38.2

0.27

ガラカブ

20.5

0.94

内臓

28.3

0.74

ワタリガニ(全部)

20.0

1.03

ウニ(全部)

20.6

1.49

熊本県企画公害課発表 昭和44年7月

15表 水俣湾およびその周辺の海域の魚類中の水銀

(PPm/湿重量当り)

採集

年月日

採集場所

魚名

重量g

総水銀

有機水銀

(メチル水銀)

Org/Total Hg

T・L・C

1961

3

36年

水俣湾

カマス

58※

ハンタ

31※

クチゾコ

22※

シジュウゴ

17※

1963

10

38年

水俣湾

ボラ

1※

キス

9※

ヒラメ

11※

メバリ

2~9※

エイ

13※

1965

5

40年

水俣湾

ボラ

1※

キス

29※

ヒラメ

9※

メバリ

6※

グチ

21※

1966

10

八幡沖

チヌ

117※

湯の児沖

タチウオ

5※

1968

10

水俣湾

フグ

1※

キス

0.5※

1968

5.2

湯の児沖

タチウオ

0.49

1968

5.20

水俣湾

キス

1.382

0.49

0.19

39

内臓

20.5

2.39

0.40

17

ガラカブ

2.22

1968

6.11

水俣湾

キス

138.2

0.52

内臓

20.5

0.35

0.10

28

恋路島

ガラカブ

44.4

1.99

内臓

8.5

2.02

0.24

12

みどり地域

ハゼ

88.5

0.35

0.04

11

トラハゼ

63.2

0.40

0.06

15

スズメフグ

71.7

0.38

0.04

11

※は乾燥重量当りの総水銀量

熊本県企画部公害課発表 昭和44年7月

16表 水俣湾魚類中の水銀

(昭和46年8月16日採取)

検体名

体長

(cm)

検体重量

(g)

総水銀濃度

(PPm)

メチル水銀濃度

(PPm)

Org/T()

つばめだい

1

13.5(2尾平均)

87.9

0.41

0.041

10.0

2

14.0(2尾平均)

92.5

0.45

0.050

11.1

3

12.7(3尾平均)

95.5

0.37

0.033

8.8

きす

1

23.0

72.5

0.46

0.070

15.0

2

21.5

63.0

0.22

0.068

30.9

3

20.3(2尾平均)

99.5

0.38

0.048

12.6

4

17.6(4尾平均)

165.5

0.29

0.023

8.1

たい

1

8.5(10尾平均)

110.5

0.21

0.021

9.9

2

8.8(11尾平均)

121.5

0.24

0.017

7.0

ふぐ

1

14.0

46.0

0.67

0.115

17.1

2

16.0

63.5

1.43

0.079

5.5

8

13.8(3尾平均)

123.0

1.86

0.043

2.3

4

18.0(3尾平均)

101.5

0.60

0.036

6.0

めばる

13.0

35.5

0.10

0.033

31.6

がらかぶ

13.0

85.0

0.45

0.154

33.8

あじ

10.7(3尾平均)

33.0

0.04

0.012

25.0

かわはぎ

1

18.0

88.0

0.48

0.061

12.6

2

17.5

84.0

0.53

0.039

7.4

3

18.0

114.0

0.36

0.027

7.6

とらはぜ

8.7(3尾平均)

27.5

0.28

0.123

43.0

べら

1

20.5

114.0

0.70

0.041

5.9

2

19.5

110.0

0.52

0.040

7.7

3

19.5

97.0

0.60

0.049

8.2

4

19.0

85.0

0.20

0.042

20.3

くさび

1

14.3(3尾平均)

101.0

0.40

0.027

6.3

2

14.0(3尾平均)

91.0

0.27

0.026

10.0

3

14.7(3尾平均)

112.5

0.30

0.022

7.2

4

14.7(3尾平均)

102.5

0.45

0.042

9.5

たこ

1

38.0

243.5

0.51

0.014

2.7

2

18.5(3尾平均)

75.0

1.03

0.042

4.1

熊本県衛生部公害局発表

16表 水俣湾魚類中の水銀

(昭和46年11月12日採集)

検体名

体長

(cm)

検体重量

(g)

総水銀濃度

(PPm)

メチル水銀濃度

(PPm)

Org/T( )

ふぐ

1

18.0

91.5

0.36

0.150

41.75

2

19.0

132.5

0.24

0.056

22.75

えそ

1

25.5

169.0

0.19

0.041

21.22

2

19.3(2尾平均)

118.5

0.21

0.043

19.61

きす

1

19.0

61.5

0.68

0.315

46.22

2

20.5

55.7

0.89

0.341

38.14

3

18.5

51.7

1.10

0.609

55.09

かわはぎ

1

17.5

123.7

0.25

0.037

14.48

2

15.8(2尾平均)

161.0

0.11

0.007

6.49

くさび

1

15.5

58.0

0.68

0.344

50.05

2

15.5(2尾平均)

82.0

0.45

0.136

29.89

たい

1

16.0

80.0

0.31

0.118

38.15

2

14.8(2尾平均)

114.5

0.37

0.075

19.80

3

14.0(2尾平均)

104.0

0.45

0.144

31.93

4

14.0(2尾平均)

103.5

0.44

0.104

23.65

5

14.0(2尾平均)

100.0

0.31

0.077

24.45

がらかぶ

1

22.5

189.0

1.01

0.038

3.73

2

16.5

81.0

0.81

0.308

37.75

3

15.5

73.0

0.70

0.287

40.63

べら

1

18.0

102.0

0.75

0.155

20.69

2

18.5

105.0

0.61

0.112

18.24

3

19.5

109.5

0.99

0.168

16.85

4

16.5

75.0

1.03

0.353

34.01

たこ

1

35.0(2尾平均)

308.0

0.47

0.063

13.49

おこぜ

1

15.0

62.7

0.51

0.261

51.01

熊本県衛生部公害局発表

17図 水俣湾調査区域

17表 水俣湾の調査結果

調査水域

魚種名

検体数

体長

体重

総水銀分析結果

分析機関

備考

水域名

区域名

平均

最高

最低

水俣湾

cm

PPm

PPm

PPm

KM―30

あかえい

6

90~260

0.122

0.16

0.09

食=財団法人

日本食品分析センター

缶=財団法人

日本缶詰検査協会

このしろ

7

23.0~30.0

125~290

0.064

0.08

0.05

まえそ

16

13.0~31.0

15~475

0.138

0.21

0.07

ぼら

11

24.0~43.0

145~1,100

0.025

0.04

0.02

まあじ

10

33.0~36.5

340~435

0.206

0.30

0.12

かわはぎ

8

8.0~16.6

42~260

0.238

0.33

0.16

いら

5

16.0~21.0

110~220

0.288

0.35

0.24

あかしたびらめ

10

19.0~35.0

30~205

0.160

0.20

0.13

ひいらぎ

7

8.0~10.5

0.261

0.32

0.24

まだい

5

9.0~13.1

25~225

0.168

0.20

0.13

たちうお

4

74.0~87.0

183~295

0.055

0.06

0.05

いしもち

14

19.0~26.0

85~380

0.346

(0.241)

1.07

(0.86)

0.11

(0.10)

( )内はメチル水銀

こち

10

25.0~39.0

155~550

0.414

(0.351)

0.99

(0.83)

0.22

(0.20)

くろだい

6

21.5~34.0

275~1,200

0.670

(0.531)

1.76

(1.28)

0.17

(0.15)

かさご

5

12.0~15.5

50~125

0.660

(0.526)

1.03

(0.91)

0.43

(0.32)

かながしら類

5

9.0~19.0

0.422

0.50

(0.37)

0.38

(0.30)

プランクトン

2

0.535

(pu)

0.98

(nd)

0.09

(nd)

ベントス

1

(シャコ)

0.20

(0.15)

合計

1

132

昭和48年環境庁の有明海 ・八代海環境総合調査

18表 猫の斃死数

月の浦

出月

湯堂

明神

まてがた

百間

梅戸

丸島

多多良

患家

(40戸)

飼った数

14

15

18

4

4

2

3

1

61

死亡数

13

10

15

4

4

1

2

1

50

昭和28年

0

29年

3

6

1

3

1

1

15

30年

4

5

3

2

1

15

31年

6

5

6

1

1

1

20

対照

(68戸)

飼った数

12

23

13

2

1

2

3

2

2

60

死亡数

3

5

10

2

1

1

2

24

昭和28年

1

1

29年

1

1

1

3

30年

2

2

4

1

1

10

31年

1

1

6

1

1

10

水俣病―有機水銀中毒に関する研究―(いわゆる赤本)P27. 喜多村調査

対照地区健康猫

地名

熊本市

1

0.9

0.7

2

3.66

0.52

3

3.01

4

1.18

0.82

0.05

2.2

大分県漁村

1

1.28

0.09

0.05

0.51

0.13

2

1.56

0.28

0.12

3.34

3

1.64

0.55

0.13

3.45

4

0.66

0.25

0.09

1.91

有明湾

沿岸漁村

荒尾市近傍

1.25

0.16

0.04

3.05

0.08

0.64

0.28

0.02

0.8

0.06

長浜

0.26

湯島

1.7

9.0

2.7

0.16

0.05

三角西港

6.58

0.05

0.12

29.2

0.68

不知火海沿岸健康猫

地名

芦北町計石

1

7.2

3.24

2

29.2

5.15

2.42

88.6

3

14.5

0.16

1.29

4

23.0

6.0

2.53

5

84.5

3.73

2.18

6

28.9

3.01

1.23

7

172.0

3.03

4.05

8

301.0

6.75

1.76

80.2

9

4.69

2.49

0.96

25.5

10

34.2

2.30

2.76

11

13.5

6.2

1.91

32.3

天草御所ノ浦

1

58.0

3.29

3.62

128.0

田尻

2

15.1

2.64

1.69

70.0

同上嵐口

1

10.0

1.69

58.5

八代市鼠蔵町

1

31.8

2.17

2.43

51.0

1.09

2

14.5

4.38

0.71

46.6

0.63

不知火町

1

23.5

1.25

9.8

0.95

天草瀬戸

1

33.3

3.96

2.6

117.0

2.9

2

33.4

3.52

1.08

117.5

5.2

牛深

1

9.0

1.83

0.83

33.1

1.4

2

20.2

0.9

0.13

17.6

0.3

田ノ浦

1

75.2

3.64

2.9

134.2

2.12

2

12.3

2.75

2.14

86.5

2.34

3

29.7

3.64

1.68

39.2

1.4

八代塩屋

1

5.4

1.17

8.86

0.28

19表 水俣病罹患猫

(単位:PPm)

自然発病例

1

54.0

30.0

2

37.0

17.2

3

58.5

4

101.1

5

54.5

12.2

8.08

52.0

10.6

6

68.0

10.4

39.8

15.8

実験発症例

1

66.0

2

105.6

3

145.5

18.1

4

53.5

8.05

5

57.5

36.1

9

78.3

12.8

7

62.0

18.6

8

47.6

15.6

10.0

70.0

9

52.5

15.9

9.14

21.5

水俣病―有機水銀中毒に関する研究―(いわゆる赤本)P342、343熊本大学医学部水俣病研究班

20図 水俣付近試料採集地点

21表 1958~1960(昭33~35)水俣湾内ヒバリガイモドキの水銀含有量と動物実験

実験動

物番号

飼育期間

投与

日数

発病

年月日

投与サンプル

種類と場所

採取

年月日

水銀

含有量

PPm

211

33.9.22~11.10

45

33.11.5

A地点乾燥クロガイ

33.9.15

103

224

33.10.1~11.15

41

33.11.11

A   同上

同上

同上

260

34.1.13~2.27

46

34.2.27

A   同上

33.12.13

63

321

34.4.4~5.26

55

34.5.25

A   同上

34.3.14

111

323

34.4.1~5.24

52

34.5.22

A   同上

同上

同上

319

34.4.1~4.30

26

34.4.26

B   同上

34.3.10

109

322

34.4.1~5.9

36

34.5.6

B   同上

同上

同上

273

34.1.13~3.10

57

34.3.9

C   同上

33.12.6

50

324

34.4.1~5.26

55

34.5.25

C   同上

34.3.12

58

316

34.4.1~6.24

85

34.6.24

D   同上

34.3.26

80

317

34.4.1~5.19

49

34.5.18

D   同上

同上

同上

217

34.1.13~2.27

46

34.2.27

E   同上

33.12.12

95

307

34.3.16~4.14

28

34.4.12

E   同上

同上

同上

336

34.4.8~5.19

40

34.5.17

E   同上

34.3.11

94

221

33.10.26~34.1.15

74

34.1.7

F   同上

33.10.14

61

275

34.1.13~4.16

77

34.4.15

F   同上

33.12.10

45

328

34.4.7~5.19

37

34.5.13

F   同上

34.3.13

52

231

33.10.21~12.22

56

33.12.15

G   同上

33.9.14

57

274

34.1.13~3.23

64

34.3.18

G   同上

33.12.15

68

345

34.4.28~7.4

67

34.7.3

H   同上

34.4.11

49

295

34.3.16~4.21

35

34.4.19

I    同上

34.1.12

59

313

34.3.25~4.14

13

34.4.6

I    同上

同上

同上

すべて衰弱死

J   同上

34.4.27

20

K   同上

34.4.12

10

L   同上

34.4.25

15

M   同上

34.5.末

2

サンプルのみ

G   同上

34.3

68

G   同上

35.9

30

B   同上

35.1.30

48

熊本医学会誌 34巻補冊第2 1960年2月

小島・水俣病に関する実験研究

(注) 各地点からとったかいを乾燥させ、猫に与えた実験

22表 不知火海沿岸住民の毛髪水銀量地域別比較表

23表

24表 第3回(昭和37年度)毛髪中の水銀量調査地区別成・・

25表 自覚症状発現の時期

症状による

患者区分

水俣病

または

その疑い 1)

知+視

+その他 2)

知+その他 3)

昭和17

1

1

〃18

2

1

1

〃24

1

1

〃28

3

2

〃29

3

1

1

〃30

13

6

6

〃31

12

2

3

〃32

10

7

1

〃33

5

3

1

〃34

6

3

1

〃35

12

4

5

〃36

14

6

5

〃37

4

2

〃38

12

5

4

〃39

5

4

〃40

12

8

3

〃41

23

8

5

〃42

8

2

4

〃43

14

5

3

〃44

11

2

1

〃45

11

3

2

〃46

6

2

1

注1)水俣病またはその疑いの患者251人のうち、発症時期不明のものは含まれていない。

注2)、3)知=知覚障害、視=求心性視野狭窄

10年後の水俣病に関する疫学的、臨床医学的ならびに病理学的研究(第1年度)(昭和47年3月)

P51

26図 不知火海周辺と患者発生および汚染状況

27図 水俣病認定患者分布図

(環境汚染にもとづく健康障害)

1 水俣湾およびその周辺海域は、被告による有機水銀の濃厚な汚染をうけ、その結果魚介類が汚染されたことは前記のとおりである。そしてこの汚染された魚介類を摂食した地域住民に重大な健康障害をもたらした。「熊本大学医学部一〇年後の水俣病研究班」は水俣病の疫学的研究として右汚染の影響による地域住民の健康障害の歪みを明らかにするため、次のような調査を行った(同研究班―昭和四七年・昭和四八年度報告書―以下報告書という)。

調査対象地区は、まず濃厚汚染地区(患者多発地区)として水俣市の月浦・出月・湯堂地区、つぎに汚染の広がりが疑がわれる地区として水俣市対岸の御所浦町嵐口地区が選ばれた。さらにこの二地区の対照地区として、汚染の影響がほとんどないと考えられた島原海湾の有明町赤崎・須子・大浦地区が選ばれた。

右三地区の選定にあたっては有機水銀汚染以外の疫学的条件がほぼ同一になるよう配慮された。したがって、この三地区の調査結果を比較検討すれば、有機水銀の影響による住民の健康障害の実態が明らかになると考えられたのである。

なぜならば汚染地区の住民は、その誕生から今日にいたるまで、毎食有機水銀によって汚染された魚介類を食べ続けており、汚染の影響を常時うけ続けているのである。そこで現実に対照地区に明白に差のある症状が示された場合、この症状が何であれ、有機水銀以外の別原因のみで生じたという特別の条件が明らかにされない限り、その差の生じた原因は有機水銀の影響とみるほかないのである。そしてこの三地区は、まさに有機水銀汚染以外はこのような差の生じる特別の条件がないように配慮の上選定されたのであり、現にそのような特別の条件が三地区間に存するという指摘がなされたことはないのである。

われわれは水俣病とは有機水銀のもたらす健康障害の総体であると考えており、汚染地区と対照地区との間に明白な差が示された症状はまさに水俣病なのである。

2 報告書には次のような注目すべき点があった。

(一) 被告が流した有機水銀により、水俣地域住民の保健水準は低下した。右研究班公衆衛生学講座は、昭和二三年から昭和四六年までの二四年間に右三地区に在籍死亡したものについて死亡届・死亡診断書記載事項をもとにして調査・検討した結果を次のようにまとめている(昭和四八年度報告書)。

① 水俣地区のPMI(Proportional Mor-tality Indicator=地域における総合的な保健衛生水準をはかる尺度で全死亡者中の五〇才以上死亡者の割合をいう)および六五才以上の高令者死亡の割合(PMIとともに地域における総合的な保健衛生水準をはかる一尺度として用いられる)は、それぞれ表(一)のとおりであり、水俣地区は御所浦地区、有明地区に比し、いずれも有意に少い。

② 平均死亡年令は表(二)のとおりで水俣地区は御所浦地区、有明地区に比し、住民が若死していることがわかる。

③ 死亡構造を死亡別に比較した場合、水俣地区では成人病など長寿を全うする形の死亡が少なく、炎症性疾患や事故死(溺死など)が多い。

わが国における国民健康の動向が、感染症を克服して次第に成人病の割合が多くなってきているのに反しているのである。

(二) 右公衆衛生学講座が右三地区住民の愁訴をもとにして作成した有訴者頻度(六才以上)は表(三)のとおりである。

従来、水俣病に関して特に注意されている知覚障害・視野狭窄・聴力障害・失調などのほか、ほとんどの症状について水俣地区は他の地区に比して有訴者の頻度が著しく高い。

同講座は、最も注意すべき訴えである知覚障害・視野狭窄・聴力低下について、他覚検査をなし、その項目毎の一致率が比較的高いという結論を出している。

さらに熊大神経精神科教室の右三地区における神経精神症状の出現頻度の調査結果(昭和四七年度報告)は表(四)の通りである。

水俣地区では受診者の約五〇%が何らかの神経精神症状をもつ。御所浦地区・有明地区にくらべてはるかに多い。認定患者三七名はほとんど神経症状をもっているので、これを加えると三地区の差はさらに増す。

すべての神経精神症状が水俣地区に高率にでている。特に知覚障害・運動失調・構音障害・視野狭窄・難聴・振戦(ふるえ)・関節痛・神経痛・知能障害・性格変化・神経症的色彩などの頻度が他地区にくらべてはるかに高い。

また、従来水俣病の症状と考えてこられなかった表(五)の症状の中にも水俣地区とその他の地区との間に有意の差が認められるものがある。

右表中、高血圧・脳出血後遺症・バルキンソニスムスは明らかに水俣地区に多い。

精神薄弱の中では外因性精神薄弱が他の二地区より多い(この中には先天性水俣病や後天性小児水俣病で認定されたものは含まれていない)。内因性精神疾患の頻度は三地区間で差異は認められず、日本各地における一斉調査結果とほぼ同じである。したがって、これらの差の認められる病状は水俣病の症状と考えられるのである。

3 若し水俣病の症状をハンター・ラッセル症候群にのみ限定するならば、前項に示した三地区に明白な差を持つ症状は大部分水俣病ではないということになってしまう。

ところが、そもそも水俣病として救済・治療すべき症状は、被告が水俣湾近海にたれ流した有機水銀により惹起された被害のすべてでなければならない。なにもハンター・ラッセル症候群のみを対象とするものではない。

水俣病とは疫学的データから帰納される症候群であって、決して特定症状をまずとらえて、疫学のデータから切り離された思弁によって概念構成されるべきものではない。

しかるに近時このハンター・ラッセル症候群をそなえた患者の症状さえも、水俣病以外の原因で説明がつくとして、さらに大きく水俣病を切り棄てようとする動きがある。すなわち、患者の症状を一つ一つ分解し、その一つ一つの症状が水俣病以外の病名でも説明できるとして水俣病であることを否定している。

しかしハンター・ラッセル症候群でさえ、その全症状をひきおこす有機水銀以外の物質が存在することが指摘されており、ましてこれを一つ一つの症状に分解すれば、そのどれもが様々の原因をもって説明できるものばかりなのである。

逆にいえば臨床的にはある一つの症状についてその症状からのみでは原因を明らかにすることはできないのである。

たとえば知覚障害についていえば、その知覚障害が有機水銀によるものか、変形性脊椎症によるものかは、その症状からだけでは臨床的には区別がつかないこともあるのである。

それならばある一つの症状をとらえて疫学のデータを全く無視し、それが水俣病であるか否かを判断しようとするのは全く無意味であることは自明である。

ましてある特定の症状をとらえ、その疫学的背景を全く無視して、その症状が他の原因で説明できることをもって、水俣病を否定する論拠となしえないことは明白である。

水俣病であるか否かの判定に当っては、疫学的条件が決定的な意味をもつ。即ち有機水銀汚染をうけた魚介類を摂食したか否かが水俣病であるか否かの判定に決定的役割を果すのである。(なお同居家族に認定患者がいるということ、あるいは認定患者でなくとも前記非汚染地区と明白な差のある症状を有するものがいれば、右の疫学的条件を満していることが強く裏付けられる。)

右疫学的条件をそなえた患者の個々の症状について他の原因、他の病名でも説明がつくということは、決して水俣病を否定する根拠たりえない。

他の原因で説明がつくというのは、せいぜい水俣病に他の病気が合併している場合がありうるというにすぎない。

水俣病患者とて合併症をもつことはありうるし加令現象をも有しうる。合併症があるから加令現象があるから水俣病でないなどということはありえないのである。

4 なお、水俣病であるか否かの判断にあたってハンター・ラッセル症候群のいくつかの症状の組合せを考える立場もある。この立場は基本的には一つ一つの症状を見ただけでは水俣病の判断はできないという前提に立っているといわなければならない。

だが症状の組合せを考えることによって、その判断が可能になるというのである。

しかしすでに3で指摘したように、有機水銀以外にもハンター・ラッセル症候群の全症状をひきおこす物質さえ存在するのであり、疫学的条件をはなれた症状の組合せだけで水俣病の判断ができないことは前項で指摘した個々の症状の場合と同様である。

水俣地区と対照地区において明白な差がある症状のいくつかを組合せとしてもつ場合、その一定の組合せ方によって有機水銀の影響がますます明白になっていくことは当然である。しかし逆にその組合せの症状を有しなければ、有機水銀の影響が認められないということが誤りであることもまた当然である。

5 別紙(三)患者一覧表の患者は、以下の各論で述べるごとく水俣湾およびその周辺海域の有機水銀によって汚染された魚介類を大量に摂食し、前述の非汚染地区との間に明白な差の認められる症状を有している。

しかも右患者らはそれぞれ同居家族に認定患者を有し、あるいは同居家族が前記明白な差のある症状を有しており疫学的条件を備えている。

したがって被告が右患者の明白な差のある症状につき、今の原因でも説明がつくから水俣病でないなどという主張をするなら、それは主張自体きわめて失当といわなければならない。

水俣湾およびその周辺海域の有機水銀汚染を否定できない以上、被告は右患者を水俣病でないというためには、右患者らが有機水銀の汚染を受けていないことを主張・立証しなければならない。

表(一)

PMI

65才以上の高令者

死亡の割合

死亡者

総数

水俣地区

男子62.4%

女子64.5%

41.9%

46.1%

468

374

御所浦地区

男子67.3%

女子66.4%

50.6%

56.4%

330

280

有明地区

男子70.3%

女子76.0%

51.9%

62.3%

620

682

表(二) 平均死亡年令の年次推移

(M±α 単位 才)

年次

水俣

御所浦

有明

昭和

男子

女子

男子

女子

男子

女子

23~27

37.32

±30.45*

(97)

41.82

±31.43△

(80)

45.37

±33.22

(70)

43.78

±31.35

(60)

46.71

±30.94

(161)

50.03

±31.60

(189)

28~32

45.78

±29.30

(99)

49.64

±30.13

(72)

58.97

±29.02△

(59)

52.40

±31.93

(58)

51.42

±28.35

(177)

56.27

±31.25

(162)

33~37

49.32

±28.80△

(95)

52.22

±28.84**

(90)

53.41

±25.71

(70)

60.93

±29.03

(61)

56.25

±26.76

(126)

66.82

±23.44

(158)

38~42

62.32

±23.12*

(82)

57.10

±27.52**

(77)

58.35

±26.24**

(78)

60.22

±30.33**

(46)

69.02

±18.16

(89)

71.69

±19.24

(100)

43~46

59.26

±24.40**

(95)

65.31

±21.80

(55)

57.45

±26.76**

(53)

65.67

±26.52△

(55)

75.93

±9.43

(67)

72.63

±16.43

(73)

総計

50.36

±28.91**

(468)

52.50

±29.49**

(374)

54.51

±28.81

(330)

56.30

±30.92*

(280)

56.58

±27.74

(620)

61.22

±28.06

(682)

注1) ( )内は該当者数を示す。

2)△P<0.1 *P<0.05 **P<0.01

(有明地区の値に対する有意差をt検定で示す)

表(三) 各地区別有訴者頻度

(6才以上)

水俣

御所浦

有明

知覚障害

現在ある

68

(16.0)

97

(17.5)

165

(16.8)

33

(4.4)

50

(6.2)

83

(5.2)

30

(6.5)

15

(2.8)

45

(4.6)

過去

104

(24.4)

142

(25.6)

246

(25.1)

75

(10.0)

93

(11.1)

168

(10.6)

72

(15.7)

58

(11.0)

130

(13.2)

口周・舌端知覚障害

36

(8.5)

38

(6.9)

74

(7.6)

10

(1.3)

11

(1.3)

21

(1.3)

5

(1.1)

3

(0.6)

8

(0.8)

視野狭窄

47

(11.0)

54

(9.7)

101

(10.3)

25

(3.3)

30

(3.6)

55

(3.5)

16

(3.5)

10

(1.9)

26

(2.6)

眼調節力減弱

126

(29.6)

180

(32.5)

306

(31.2)

111

(14.8)

155

(18.5)

266

(16.8)

74

(16.1)

81

(15.3)

155

(15.7)

聴力障害

77

(18.1)

81

(11.6)

158

(16.1)

69

(9.2)

75

(9.0)

144

(9.1)

40

(8.7)

34

(6.4)

74

(7.5)

嗅覚障害

48

(11.3)

58

(10.5)

106

(10.8)

30

(4.0)

38

(4.5)

68

(4.3)

14

(3.1)

18

(3.4)

32

(3.2)

味覚障害(異味症)

37

(5.7)

37

(6.7)

74

(7.6)

12

(1.6)

18

(2.2)

30

(1.9)

4

(0.9)

9

(1.7)

13

(1.3)

前庭機能障害

57

(13.4)

118

(21.3)

175

(17.9)

56

(7.5)

84

(10.0)

140

(8.8)

20

(4.4)

45

(8.5)

65

(6.6)

協同運動障害

40

(9.4)

46

(8.3)

86

(8.8)

15

(2.0)

16

(1.9)

31

(2.0)

16

(3.5)

8

(1.5)

24

(2.4)

歩行障害

71

(16.7)

87

(15.7)

158

(16.1)

39

(5.2)

64

(7.7)

103

(6.5)

33

(7.2)

33

(6.2)

66

(6.7)

疑せん

66

(15.5)

59

(10.6)

125

(12.8)

42

(5.6)

35

(4.2)

77

(4.9)

32

(7.0)

14

(2.6)

46

(4.7)

筋委縮

46

(10.8)

55

(9.9)

101

(10.3)

44

(5.9)

33

(3.9)

77

(4.9)

30

(6.5)

13

(2.5)

43

(4.4)

筋力減弱

89

(20.9)

124

(22.4)

213

(21.7)

55

(7.3)

60

(7.2)

115

(7.2)

46

(10.0)

31

(5.9)

77

(7.8)

筋緊張亢進

54

(12.7)

77

(13.9)

131

(13.4)

37

(4.9)

28

(3.3)

65

(4.1)

27

(5.9)

25

(4.7)

52

(5.3)

関節痛

84

(19.7)

107

(19.3)

191

(19.5)

58

(7.7)

82

(9.8)

140

(8.8)

41

(8.9)

42

(7.9)

83

(8.4)

健忘症状

61

(14.3)

123

(22.2)

184

(18.8)

207

(27.6)

174

(20.8)

381

(24.0)

79

(17.2)

84

(15.9)

163

(16.5)

積極性減退

124

(29.1)

162

(29.2)

286

(29.2)

102

(13.6)

138

(16.5)

240

(15.1)

65

(14.2)

65

(12.3)

130

(13.2)

睡眠障害

116

(27.2)

139

(25.1)

255

(26.0)

95

(12.7)

130

(15.6)

225

(14.2)

63

(13.7)

69

(13.0)

132

(13.4)

意識障害

25

(5.9)

26

(4.7)

51

(5.2)

12

(1.6)

27

(3.2)

39

(2.5)

6

(1.3)

6

(1.1)

12

(1.2)

けいれん

66

(15.5)

57

(10.3)

123

(12.6)

28

(3.7)

26

(3.1)

54

(3.4)

27

(5.9)

13

(2.5)

40

(4.0)

頭痛・頭重

126

(29.6)

239

(43.1)

365

(37.2)

99

(13.2)

257

(30.7)

356

(22.4)

87

(19.0)

139

(26.3)

226

(22.9)

自律神経症状

84

(19.7)

94

(17.0)

178

(18.2)

54

(7.2)

68

(8.1)

122

(7.7)

47

(10.2)

35

(6.6)

82

(8.3)

膀胱排泄障害

43

(10.1)

42

(7.6)

85

(8.7)

41

(5.5)

29

(3.5)

70

(4.4)

18

(3.9)

13

(2.5)

31

(3.1)

全身倦怠感・易疲労感

189

(44.4)

247

(44.6)

436

(44.5)

181

(24.1)

234

(28.0)

415

(26.2)

108

(23.5)

130

(24.6)

208

(24.1)

循環器症状

61

(14.3)

123

(22.2)

184

(18.8)

62

(8.3)

94

(11.2)

156

(9.8)

46

(10.0)

40

(7.6)

86

(8.7)

血圧異常

99

(23.2)

147

(26.5)

246

(25.1)

104

(13.8)

191

(22.8)

295

(18.6)

105

(22.9)

129

(24.4)

234

(23.7)

消化器症状

82

(19.2)

107

(19.3)

189

(19.3)

61

(8.1)

65

(7.8)

126

(7.9)

37

(8.1)

30

(5.7)

67

(6.8)

調査総数

426

(100.0)

554

(100.0)

980

(100.0)

751

(100.0)

136

(100.0)

1587

(100.0)

459

(100.0)

529

(100.0)

983

(100.0)

表(四) 神経精神症状の出現頻度の比較

(はだかの数は実数 カッコ内は百分率)

水俣地区

御所浦地区

有明地区

認定水俣病

37(3.9)

0

0

精神と神経の両症状を併有

213(22.9)

175(10.1)

94(10.3)

神経症状のみをもつもの

224(24.1)

235(13.6)

145(16.0)

精神症状のみをもつもの

34((3.6)

66(3.8)

42(4.6)

知覚障害

総数

260(28.0)

132(7.6)

76(8.4)

口周辺+四肢末端

70(7.5)

9(0.5)

1(0.1)

四肢とも末端に

145(15.6)

64(3.7)

29(3.2)

口周辺にのみ

7(0.7)

2(0.1)

0(0)

単肢に末梢性

12(1.2)

22(1.2)

12(1.3)

両側上肢に末梢性

1(0.1)

7(0.4)

11(1.2)

両側下肢に末梢性

3(0.3)

6(0.3)

5(0.5)

身体半側に

51(5.4)

17(0.9)

8(0.8)

下半身両側に

21(2.2)

13(0.7)

5(0.5)

全身に

14(1.5)

2(0.1)

0(0)

その他

7(0.7)

10(0.5)

5(0.5)

失調総数

228(24.7)

193(11.8)

122(13.4)

失調性歩行

84(9.0)

50(2.9)

20(2.2)

アジアドコキネーゼ

171(18.4)

101(5.8)

50(5.5)

指鼻試験での失調

106(11.4)

28(1.6)

11(1.2)

構音障害

114(12.2)

63(3.6)

18(1.9)

難聴

272(29.2)

156(9.0)

135(14.9)

視野狭窄

127(13.7)

10(0.5)

9(0.9)

振戦

94(10.1)

87(5.0)

27(2.9)

病的反射

40(4.3)

34(1.9)

21(2.3)

関節痛・神経痛

128(13.7)

92(5.3)

74(8.1)

てんかん発作

9(0.9)

19(1.1)

8(0.8)

筋委縮

23(2.5)

10(0.6)

7(0.8)

身体の変形

81(8.7)

104(6.0)

73(7.8)

知能障害

211(22.7)

178(10.3)

98(10.8)

性格障害

132(14.2)

110((5.3)

77(8.5)

神経症的色彩

37(3.9)

14(0.8)

8(0.8)

合計

928(100)

1,723(100)

904(100)

表(五)

水俣地区

御所浦地区

有明地区

実数

関係数

(発病危険年令)

実数

関係数

実数

関係数

高血圧

218

165(40以上)

47.08

237

861

27.52

180

447

40.25

低血圧

3

717(16以上)

0.41

31

1162

2.66

11

597

1.84

脳動脈硬化による

神経精神障害

32

163(40以上)

6.91

111

861

13.21

77

447

15.88

脳出血後遺症・

脳軟化症

17

3.67

9

1.04

10

2.23

パルキンソニスムス

10

928(0以上)

1.07

13

1723

0.75

5

901

0.55

頭部外傷後遺症

6

0.61

12

0.69

7

0.77

脳炎後遺症

1

0.10

6

0.34

3

0.33

精神薄弱一般

34

3.66

49

2.84

35

3.87

外因性精薄

12

1.29

12

0.69

7

0.77

痴呆(1)

3

0.32

11

0.63

15

1.65

原因不明の

器質性脳疾患

6

0.64

6

0.34

4

0.44

背椎変形症

21

657(21以上)

3.19

61

1088

5.60

33

582

5.67

背椎障害(2)

9

928(0以上)

0.96

7

1723

0.40

5

904

0.55

SMON

1

0.10

0

0

チック

1

0.10

2

0.11

5

0.55

顔面神経麻痺

3

0.32

9

0.52

1

0.11

筋委縮

0

0

1

難聴のみ

73

7.86

51

2.95

58

6.41

ナルコレブシー

0

1

0.05

0

てんかん

10

728.5(5―30)

1.38

18

1274.0

1.41

8

688.5

1.16

分裂病

5

582(16―40)

0.85

8

961.5

0.83

5

514.0

0.97

分裂病の疑い、

分裂病様状態

2

582(16―40)

0.34

6

0.62

0

うつ病

3

717(16以上)

0.41

6

1162

0.51

7

597

1.17

躁病

0

1

0.03

0

神経症・ヒステリー

12

928(0以上)

1.29

11

1723

0.63

6

904

0.66

アルコール中毒

3

568(31以上)

0.52

11

956

1.46

6

534

1.12

精神病質

1

827(10以上)

0.12

2

1446

0.13

1

744

0.13

リュウマチ性関節炎

10

928(0以上)

1.0

11

1723

0.63

14

904

1.54

フィラリア

0

2

0.11

1

0.11

ハンセン氏病

0

1

0.05

0

外傷(骨折)後遺症(3)

8

0.86

6

0.34

1

0.11

三叉神経麻痺

1

928(0以上)

0.10

1

0.05

1

五  水俣病の病像(その二 水俣病をどうとらえるか)

(水俣病は環境汚染によっておこったメチル水銀中毒である)

1 水俣病は汚染された住民の健康障害のすべてである

(一) 水俣病はメチル水銀中毒であった(水俣病―有機水銀中毒に関する研究、熊本大学医学部水俣病研究班編一九六六甲第二六号証)。その原因究明について重要な手がかりになった一つに一九四〇年、ハンターらの論文(Hunter, Detel : Poisoning by methylmercury compounds. Quart. J. Med., 9 : 193(1940))があった。この論文にはメチル水銀を製造している農薬工場の労働者のメチル水銀中毒症が詳細に報告されており、この症状と病理学的所見とが水俣病のそれと一致していたことから原因究明の手がかりをつかむことができた。このことは職業性中毒が公害病の原因究明に大きな手がかりを与えることがあることを示したものである。しかし、一方で職業性中毒であるメチル水銀中毒と水俣病との間には決定的な発生基盤の差が存在することを重視しなければならない。すなわち水俣病以前の職業性の有機水銀中毒はすべて直接中毒であり、その対象者は労働者であった。これに対して水俣病は汚染地区全住民の汚染による中毒であり、その対象者には胎児から老人まで、またすでに病気をもっている人まで含まれており、その数は膨大なものとなる。公害の影響による疾病の範囲等に関する検討委員会は「水俣病は上記の定義の如く魚貝類に蓄積された有機水銀を大量に経口摂取することにより起る疾患であり、魚貝類への蓄積、その摂取という過程において公害的要素を含んでいる。このような過程は世界の何処にもみられないものである。この意味においても水俣病という病名の特異性が存在する。」とその特異性を指摘している。水俣病の前に水俣病はなかったのであるから、これを固定的な診断基準でとらえることはできない。

(二) 近時、イラク、パキスタンなどで有機水銀に汚染された種子による集団中毒事件が報告されているが(RustamH., Hamdi T:イラクのメチル水銀中毒、神経学的研究、科学、45、343(一九七五))(3akir, F. et al : Methylmercury Poisoning in Irag. Saience 181 : 230,(1973))(ULHag, I : Agrosan Poisoning in man, Brit. F. Med, 1 : 1579(1963))これらの場合もその対象者が広範囲であるという点に関しては水俣病と共通しているといえるが、汚染は比較的短期間であって一〇~二〇余年にわたる継続的、持続的汚染ではない。水俣病以外にこのようなメチル水銀中毒は他にないのである。もともと中毒というのは毒物の暴露方法や暴露量、暴露期間などの条件によって人間の健康に及ぼす影響はさまざまで一見、全く別の疾患と思われるような場合さえある(慢性二硫化炭素中毒例など・原田正純:公害と国民の健康・ジュリストNo.548・128(一九七三))(中村清史・原田正純ほか:慢性二硫化炭素中毒の臨床的研究・精神経誌76・243(一九七四))。また水俣病を狭義の従来の有機水銀中毒に限ってみても種々の報告例の中には皮膚症状から他の臓器の障害、循環障害、失神発作など多彩な報告がある。これらのことを考慮に入れると今日、水俣病とされているものは若干の不全型が認められているほかはいわゆるハンター・ラッセル症候群を基礎にしたものである。それは昭和三五年頃までに明らかにされた急性・悪急性水俣病の重症典型例の臨床症状を中心につくられたものであって、水俣病全体からみれば、ほんの氷山の一角にすぎない。とくに、この水俣病の概念では一〇~二〇年にわたって慢性に長期間かかって発現する多彩な水俣病の症状を包括しえない。

(三) 水俣病はその規模からいっても発生のメカニズムからいっても世界に類のないものであるから、今後どのようにこの汚染住民の健康が障害されていくかを追究しつづけることが必要であり、そこからしか水俣病の真の実態は明らかにされないのである。

(四) 昭和三五年水俣病の原因が明らかになった当時の急性、亜急性水俣病病像はその後、大はばにその変化を迫られていることは事実である。

例えば胎児性水俣病は昭和三八年までは脳性小児麻痺として放置されていたし、また生前に他の疾患と考えられていたものが剖検によって脳にメチル水銀の病変が確認されている。これらのことから、水俣病は汚染された住民の健康障害のすべてであるということができる。この中にはいわゆる急性・亜急性水俣病と胎児性水俣病と慢性水俣病とがあるが、今日問題になっているのは主に慢性型水俣病である。

2 慢性型水俣病とその発生の背景になる汚染の実態

(一) かつて水俣病と考えられてきたものは急性・亜急性水俣病といえる。それは初発症状から症状の完成までがきわめて急速なものであった。

今日、慢性型の水俣病とされているものは症状の進行がきわめておそく、数年から一〇数年かかって症状がゆるやかに完成するものである。これらの慢性型水俣病の発生メカニズムは必ずしも十分明らかではないが、その背景にある汚染の存在に注目すべきである。

(二) 水俣病の発生は一般に昭和三五年に終ったと信じられて久しかった。(水俣病―有機水銀中毒に関する研究、熊本大学医学部水俣病研究班編一九六六 甲第二六号証)。しかしそれは急性・亜急性水俣病が集団的に発生するのが終ったということであった。ところが、この急性の重症水俣病患者発生の背景には濃厚汚染された住民が少くみつもっても一〇万人いたという事実がある(原田正純・現在の水俣病の問題点―その背景と歴史、公害研究、六、四九、(一九七七))(原田正純・水俣病の認定の遅れを問う―認定とは医学にとって何か―ジュリストNo.五七九、四四(一九七五))。また、当時の乏しい資料をもってしても、この住民の汚染が濃厚であったことも明らかである(原田正純・一六年後の水俣病の臨床的・疫学的研究、神経進歩、一六巻八七〇(一九七二)甲第二八号証)しかも不知火海の汚染は決してこの時点で終ったものではなかった。それは今日まで持続しているのである。

当時の資料によると、ネコを現地にもっていって育てると三一日めに発病している(世良完介ほか・水俣地方に発生した原因不明の中枢神経症患に関する主として原因発生についての動物実験成績・熊本医学会誌、三一巻補二、三〇七(一九五七))

今日、実験室でネコを三〇日で発病させるには一日体重一kg当り一mgのメチル水銀を投与しなくてはならない(水俣病―有機水銀中毒に関する研究・熊本大学医学水俣病研究班編(一九六六))住民がこのような濃厚汚染地区に住んでいたことを考慮に入れなくてはならない。

(三) もし、仮に汚染が完全にある時期で停止されたとしても、臨床症状はその後も進行し症状が悪化する事実が新潟において遅発性水俣病として報告されている(白川健一:遅発性水俣病について、新潟水俣病の長期追跡から、科学45巻、750(一九七五))。水俣においては、汚染が停止されることなく、住民は今日まで汚染魚を食べつづけたのである。これらのことの認識なしでは今日の慢性型水俣病問題について十分な理解ができないものと考えられる(原田正純:現在の水俣病の問題点―その背景と歴史、公害研究、6、49(一九七七))(原田正純:水俣病の認定の遅れを問う―認定とは医学にとって何か、ジュリスト、No.579、44(一九七五))

3 慢性型水俣病の特徴

(一) 慢性型水俣病の特徴は、その発病がきわめて緩慢で経過が数年から一〇数年に及ぶものである。さらに、臨床症状は多彩で各症状間に程度においてバラツキがあり、その目立つ症状(中核症状)によっては一見他の疾患のようにみえるものがある。しかし、このことはかつての重症・典型的な急性水俣病においてもみられる。すなわち、かつて典型的なものが二〇年経過した今日、錐体路症状だけが目立ち他の症状が目立たなくなり脊髄疾患やその他の変性疾患を疑わせる病像にみえたり、知覚障害が証明できずに精神遅滞が主症状とみえる例がある。

(二) 一般に慢性型水俣病は失調や構音障害が著明でない。主要症状が多彩なために一見他の疾患のようにみえ知覚検査や視野検査を怠ったり疫学的条件を無視したりすると他の疾患と誤診される。事実、これらの患者は一九七〇年頃まで長いこと他の疾患として放置されてきたのである。武内忠男教授らはこれらの患者を「マスクされた水俣病」あるいは「特殊型水俣病」と呼んでいる(武内忠男ほか:一〇年後経過の水俣病とその病変、日本医事新報、No.2402、22(一九七〇))。

これらの報告例は死後剖検によって裏付けられたものであり、一定の症状のパターンによってのみ水俣病とすることはできないことを示している。

(三)(1) 疫学を調査し、詳細に臨床検査を行うとハンター・ラッセル症候群が全部確認される慢性水俣病がある。これらの例は、経過があまりに緩慢だったために他の病名がつけられたものである。

(2) 四肢末梢性の知覚障害、あるいは口周辺の知覚障害、嗅覚、味覚などの障害を主徴としたものが多数存在する。これらの多くは神経痛、脊椎変形症などとして治療されてきている。これらの例は詳細な検査を行なえば軽度視野狭窄、聴力障害、軽い平衡機能障害などが証明されることがある。胎児性水俣病の母親や急性水俣病患者の家族の中に多くみられる。

(3) その他、筋萎縮や錐体路症状が目立つために他の症状が目立たず剖検によって確認されたりする(武内忠男ほか:一〇年経過後の水俣病とその病変、日本医事新報、No.2402、22(一九七〇))。

卒中と診断されたものの中にも慢性水俣病がある。これらは半身症状があるために脳血管障害と診断されたものであるが、視野狭窄や健側に末梢性知覚障害や共同運動障害が証明されることがある。場合によっては知能障害や運動障害が高度なために剖検によって確定される例もある。精神病とされた例(原田正純ほか:長期にわたって精神病とされた水俣病、剖検所見と水俣病の精神症状、精神医学、18、935(一九七六))や、パーキンソン氏病とされ、あるいは脊髄腫瘍と診断された例もある。これらは、いずれも末梢神経障害、小脳症状、聴力障害、求心性視野狭窄、などの症状が同じ程度に同時にみられていないと水俣病としない急性・亜急性水俣病を基準とした誤りである。慢性水俣病の症状はこのように多彩化している。それでも現在、認定されているものはこれらの中では視野狭窄、末梢性知覚障害、などが確認されたものに限られており、その底辺はきわめて広く、これらの例の不全型や軽症例も多数存在する。

(認定制度と医学)

1 水俣病を理解する上でいくつかの基本的な事実の理解が必要であることを述べた。

すなわち、(イ)濃厚・広範囲の水銀汚染が存在し、かつ持続したこと、(ロ)中毒は汚染の態様や濃度によって臨床症状は多彩化すること、(ハ)このような中毒は人類がはじめて経験したもので水俣以前にこのような事例が存在していないこと、(ニ)現在問題になっている水俣病患者は慢性型水俣病ともいうべきもので同じ水俣病でもかつての急性型水俣病に比較してはるかに多彩であることなどである。

以上のような実態からすると水俣病、すなわちメチル水銀の人体に及ぼした影響は急性・激症水俣病から健康者と呼ばれる人まで連続的なものとしてとらえるべきものである。真に医学的立場からいえば明確な線を引くことは不可能であり、従来の典型例の重症の疾病からみた疾病概念は水俣病のような場合適切でなく、健康な側からとらえねばならない。

ところが、認定制度は典型的水俣病を基準におき、どれ位、それに近いかという判断を示すものであり、どこかに線を引いて水俣病とそうでないものとを区別する作業である。したがって基本的には認定制度と医学とは相容れないものである。

2 認定制度の歴史

(一) 昭和三一年五月の水俣病発見以後、昭和三四年一二月二五日になって水俣病患者診査協議会が発足し水俣病歴史の上にはじめて認定という名の患者と未認定という患者の差別がもち込まれたのである。しかも、それは明らかに被告チッソの補償に該当するか否かという患者選別の機能のために発足したことは明らかな事実であり、それは今日に至っていくらかの変遷をうけたといっても本質的に変わりはないのである(原田正純:現在の水俣病の問題点―その背景と歴史公害研究、6、49(一九七七))。そして、その時々の新しい医学の知見をとり入れることもなかった。

(二) 従って、認定水俣病とは水俣病の一部でしかない。しかも、本人申請主義をとっているため、いかに典型的水俣病であっても本人が申請しなければ永久に水俣病とはされないのである。

「水俣病患者の数」とか「水俣病の臨床症状」といわれるものには常に「申請して、審査会の基準に合致して認定された」という条件がつくのである。しかし、認定されないものが水俣病でないということにはならないのである。

(水俣病の健康障害とは)

1 健康障害のとらえ方

未曽有の水銀汚染によって人体が底知れぬ影響を受けている水俣の実態から「水俣病とは汚染を受けた住民の健康障害のすべて」と主張し、その根拠を示し、それに対立する考えとしての水俣病認定制度に触れた。ところで、健康障害とは他覚的症状とくに神経精神症状に限定せずに自覚症状、日常生活の支障、他の臓器の障害も含めて考えねばならない。

(一) 自覚症状

水俣病においてさまざまな自覚症状がみられることはすでに明らかになっている。

すなわち、物忘れ、体がだるい、力がはいらない、頭痛頭重、しびれ感、肩こり、四肢疼痛、目の疲れ、かすみ、耳なり、聞きとりにくい、言葉がでにくい、味・においがわからない、手足のこむらがえり、筋肉がぴくぴくと痙攣する、いらいら、不眠、物を手から落す、指先がききにくい、ころびやすい、細い道でふらふらする、めまい、立ちくらみ、頭がぼんやりとなる、などの多彩な症状がみられる。

通常、これらの症状は不定愁訴と呼ばれるもので個々についていえばあらゆる疾病のときにみられるもので決して水俣病に特有のものではない。しかしその出現頻度は汚染された住民の中にみられる頻度が著しく高く、そのパターンに特徴があるのでこれらの自覚症状は当然、メチル水銀によるものと考えられる。これらの自覚症状の全住民における出現頻度が高いこと、さらに一定のパターンをもつことはすでに水俣地区の一せい検診、桂島の一せい検診において証明されている。

さらに、水俣病認定患者、新潟水俣病患者の自覚症状とそのパターンともよく一致する(白川健一・広田紘一ら:新潟水俣病の疫学と臨床、神経進歩、一六:八八(一九七二))。

(二) 日常生活の支障

これらの自覚症状は客観的な日常生活の支障によって裏付けられる。たとえば四肢のしびれや痛みなどについては長年にわたる灸のあとなどでその存在を確認できる(立津政順ら:不知火海沿岸住民の健康に及ぼす有機水銀汚染魚介類摂取の影響に関する研究、熊本大学医学部一〇年後の水俣病研究班報告書(第二年度)一九七三年四月、甲第二五号証)。

汚染地区住民のこれらの存在率の異常な高さもまたメチル水銀の影響を裏付けている。例えば、急性重症患者の家族一二一人についてみるとすべての日常生活に介助を要するもの八人、中等度の障害二八人、軽度障害八五人である(原田正純:一六年後の水俣病の臨床的、疫学的研究、神経進歩、一六巻八七〇(一九七二)甲第二八号証)。

また、住民検診では汚染地区住民の七・八%が要入院で四五・四%が定期通院が必要で、三七・七%が適時通院が必要であると報告されている(立津政順ら:前掲論文、甲第二五号証)。

これらの健康障害はまさに地域ぐるみの健康破壊の実態を示すものであり、非汚染地区住民と比較して、いかにこれらの健康障害がすさまじいものであるかを物語るのである。

(三) 全身性疾患との関連

(1) これらの日常生活の障害は水俣病に特有と考えられてきた神経症状と関係があり、さらに自覚症状もまた、これらの神経症状と関係あることは明らかである(松下敏夫ら:水俣病の推移とその疫学的研究、水俣・御所浦地区住民の健康調査成績(その一)、熊本医学会誌四六、六三五(一九七二)、白川健一・広田紘一ら:新潟水俣病の疫学と臨床、神経進歩、一六:八八一(一九七二))。しかし、これらの健康障害のすべてが狭義の神経症状によるものばかりではなく、高血圧はじめ循環障害、腎障害、肝障害さらに糖尿病、頸椎変形、リューマチ性疾患などさまざまな疾患の合併もみられる。

水俣病はその発見以来、神経症状のみが注目され、その神経症状のかげにかくされて他の臓器への影響は無視されがちであった。

(2) 白木博次教授は有機水銀が長期間脳内に残留すること、患者が幼小児または若年者であっても脳動脈の硬化像がみられ、脳の血行障害を生じ、二次的に血管性の脳病変を進行させる可能性を指摘した。さらに血管病変は心臓など脳以外の血管に対しても一定の影響を及ぼしている。また、腎皮質や膵臓への影響および血糖値上昇などの報告もある(白木博次:水俣病をはじめとする有機水銀中毒症の神経病理等、水俣病の医学、東京一九七七)。

(3) 有機水銀中毒例でも循環障害、糖尿、心障害などの報告はみられており、全身症状のどれ一つとってみても「有機水銀中毒に特異的でない」というより「有機水銀中毒でも説明がつく」ものである。さらに免疫抗体産生へのメチル水銀の影響をも考えられており、患者の「風邪を引きやすくなった」「化膿しやすい」などの訴え、あるいは汚染地区の結核の死亡率が高いという指摘などもメチル水銀の影響がないとはいえない事実を明らかにするものである。

(4) 以上のようにみてくると、汚染地区住民の健康障害―水俣病は決していくつかの神経症状の組合せによって代表されるものでないことが明らかである。

(四) 複合汚染

一方、無機水銀中毒に関しての知見はさらに皮膚症状、眼症状、胃腸障害、骨変化、血液障害、腎障害、肝障害などについても明らかになっている。

さらに、砒素、タリウム、マンガン、セレンなどの物質もそれぞれの中毒症状をおこすことが知られている。これらの複合した物質が住民を汚染したことも事実である。しかし、現時点では水俣病の中心的役割を果したものはメチル水銀であると考えられている。それにしても複合汚染の問題が、将来全く残っていないということではない。もし、そうだとすればなおさら地域集積性の高い健康障害を重視する必要がある。メチル水銀による神経症状のみに固執するとこれらの問題を切り捨てる可能性のあることが指摘される。

2 神経精神症状について

これまで述べてきた水俣病に関する考えは、汚染された背景を考慮に入れて、健康の側からどれ位健康の歪があるかをとらえる立場であり、それが汚染されたという共通の基盤をもつ住民にいかなる地域集積性がみられるかを把握する立場に立ったものである。したがって一部の神経症状をよりどころに典型的な水俣病を頂点にどこまで水俣病らしいかとする見方とは異なる。水俣病はその地区住民の汚染による健康障害のすべてである以上、水俣病であるか、その他の病気であるかなどという二者択一的な把握はこの地区の健康障害をみる場合正しくないのである。しかし、それにしても神経症状の出現率、地域集積性の高さはまたきわめて特徴的なものであることも事実である。すなわち、神経症状を否定するのではなく、住民の健康の偏りとして健康の障害を考えるとき、その筆頭に神経症状はあげられるのである。

(一) 地域集積性の高い神経症状

原田正純助教授は患者家族(急性典型例)や先天性水俣病の母親などの臨床症状から知覚障害(七九―一〇〇%)、共同運動障害(六五―七六%)、構音障害(四三―四五%)、求心性視野狭窄(三七―四八%)、聴力障害(五五―七六%)、振戦(二九―三五%)、粗大力低下(二六―三三%)などの神経症状が高率にみられることを指摘している(原田正純:一六年後の水俣病の臨床的、疫学的研究、神経進歩、一六巻八七〇(一九七二)甲第二八号証)。

その後、立津教授らは汚染地区住民の中に健康障害のうち神経症状をもつもの四七%、知覚障害二八%、失調二四・七%、構音障害一二・二%、聴力障害二九・二%、視野狭窄一三・七%、振戦一〇・一%、その他関節痛、神経痛一三・七%などの多彩な症状を見出した(立津政順ら:水俣病の精神神経学的研究、熊本大学医学部一〇年後の水俣病研究班報告書(第一年度)一九七二年四月)。

臨床症状の出現頻度

神経症状

57名( ):%

知覚障害

57  (100.0)

表在知覚障害

56  (98.2)

四末

54  (94.7)

口周囲

23  (40.4)

振動覚障害

37注)1(66.1)

小手筋群の筋力低下

56注)1(100.0)

ゴルドマン視野計

による視野狭窄

54注)2(98.2)

滑動性眼球運動障害

50注)1(89.3)

視野沈下

46注)2(83.6)

難聴

47  (82.5)

失調

30  (52.6)

構音障害

15  (26.3)

振戦

12  (21.1)

精神症状

情意障害

40  (70.2)

知能障害

39  (68.4)

注)1 母集団 56

2 母集団 55

また、藤野糺医師は桂島住民検診において次表のような神経症状の高率な出現を認めている(藤野糺:ある島における住民の有機水銀汚染の影響に関する臨床疫学的研究、熊本医学会誌、第五一巻、第一号、甲第一四〇号証)。

多少のバラツキがあるにしても、汚染地区の全住民が母集団であることを考えると、これらの神経症状の出現頻度はいずれも驚くべき高頻度である。立津教授らの例は、その後の診査過程でさらにくわしい精査が行われ、すでに二四六人(月の浦、湯堂)が一九七七年四月までに認定された。藤野糺医師はこれらの神経症状をさらに客観化するために、眼球運動、フリッカー検査、ゴールドマン視野計などの計器測定を行っているが、これらの結果でも視野狭窄九八・二%、眼球運動異常八九・五%など、異常に高値を示している(前掲藤野論文、甲第一四〇号証)。しかもこれらの神経症状はどの一つをとってもいわゆる水俣病の古典的ハンター・ラッセル症候群に含まれる症状である。しかし一方ではどの一つの症状もそれがそれだけで水俣病にしか絶対ない症状ではない。この地域集積性の高さからみてこれらの症状のどれ一つでもあれば水俣病の可能性を否定できない。

(二) 知覚障害

(1) 神経症状の中で最も出現率の高いものは知覚障害である。しかし、知覚障害も多彩である。その型をわけると次表のとおりである。(前掲立津ら論文、甲第二五号証)。

次表のうちA、B、Cの知覚障害の出現率は対照地区に比して著しく高く、水俣病であることはかなり確実であると思われる。四肢末梢性知覚障害および口周囲の知覚障害は多発性神経炎の症状として重要である。また上表のFは中枢性知覚障害、Gは脊髄性知覚障害、Hは全身性の知覚障害を示している。これらの汚染地区における出現頻度は対照地区に比較して高率である。したがってメチル水銀との関係が考えられる。

知覚障害の型とその出現頻度

水俣病の最も基本的な症状が知覚障害、とくに四肢末梢性知覚障害(図A、B)であることは臨床疫学的にも実験的にも認められる。

しかし、知覚障害が水俣病の絶対的な条件かといえば必ずしもそうではない。生前に知覚障害が証明されなかったが死後の剖検で水俣病の中枢性病変が証明され、かつ末梢神経にも病変が証明された例がある(原田正純ら:長期にわたって精神病とされた水俣病、剖検所見と水俣病の精神症状、精神医学、一八、九三五(一九七六))

胎児性水俣病も知覚障害は不規則あるいは証明できないことが多いから武内教授は生検により末梢神経障害の存在を証明している。

小児期発病の典型例では知覚障害が全く証明できないものがある。しかし、これらの例には、視野狭窄、軽い共同運動障害などが認められる。末梢性知覚障害が臨床的に証明できるか否かその程度や中枢性知覚障害とオーバーラップするか否かによって左右される。例えば、全体の知覚低下がある場合、末梢優位型の知覚障害のパターンを証明することが困難なことがある。このような場合、自覚症状が参考になることはいうまでもない。いずれにしても知覚障害の検出は、技術上の限界があることも指摘できる。汚染が濃厚であるのに知覚障害がないとされる場合は症状の見落しであることが多い。また脊椎変形症との鑑別もいつも問題とされるが頸椎のX線上の変化だけでそれを説明してしまおうとする方法は明らかに誤りである。しかも、整形外科的にいえば、鑑別はそう困難ではない。また重要なことはすでに述べてきたように、仮に知覚障害をもたらすような何らかの疾患が見出されても、汚染の事実の重みは大きい。

他の疾患で説明がつくという理屈でメチル水銀の影響を否定できないところが水俣病の本態(発生メカニズムの特異性)である。

(三) 求心性視野狭窄その他眼科的所見

求心性視野狭窄がみられる場合、水俣病である確率はきわめて高い。他の疾患による求心性視野狭窄もみられるのであるが、汚染が濃厚な水俣地区では問題にならない。

(四) 共同運動障害(小脳性失調)、構音障害

急性・亜急性水俣病ではきわめて重要な症状であったが、水俣病の症状の中で最もよく改善された。慢性水俣病においては一般的に軽い。しかし、言葉や動作の拙劣さ、緩慢さなどは重要な所見である。これらの症状が共同運動障害の症状の一つであるという根拠は、急性・亜急性水俣病のもつ共同運動障害の変化や剖検所見から確かである。

(五) 聴力障害

聴力障害もハンター・ラッセル症候群の一つであり、水俣病の重要な所見である。

(六) 振戦

振戦はしばしばみられる。企図振戦は小脳障害を疑わせ、安静時振戦はパーキンソンにみられると一応区別されるが、水俣病は小脳性振戦しかみられないとするのは誤りである。当初、水俣病がマンガン中毒と疑われたのは振戦をはじめ錐体外路の症状が著名であったからである。

(七) 反射異常

慢性水俣病において、知覚障害は多発神経炎様症状を示すが、一方固有反射は亢進するものが多い。急性・亜急性には固有反射の消失、減弱がかなりみられているがその場合も亢進したものもみられた。したがって反射に関しては、程度や症状の組合せによって亢進、正常、消失ないし減弱のいづれもがみられる。

(八) その他の症状

その他の症状としては自律神経障害、筋萎縮、粗大力低下、手指、足趾の変形なども水俣病にしばしば見られる所見である。

(水俣病の診断)

1 診断とは可能性である

ある疾患において特異症状が問題となるのは、その症状がその疾患にきわめて、あるいは比較的に高率に(特異的)にみられるからである。水俣病の場合、求心性視野狭窄、四肢末梢性知覚障害などそのような意味から重視されるのである。

また生活歴や病歴や家族の症状、自覚症状などをくわしく参考にするのも診断の確実性を高める目的のために行なわれる。

さらに、精密検査によって通常の診察で把握できない所見を見出すのもその可能性を高める目的に他ならない。最もありふれた最も多い疾患から考えていくのが診断の常道である。このような一連の作業が診断である。そして診断は治療を前提としたものである。

2 「他の病気でもみられる症状である。××で説明がつく」という診断はない。

すでに述べてきたように水俣病のどの一つの症状をとっても、水俣病にしかみられない症状は最初からないのである。したがってたとえば知覚障害のみられる疾患名を何十あげてもそれは診断にならない。たとえば、レフサム症候群というのがある。症状の組合せだけみると水俣病の典型例に似ている。しかしわが国ではまだ報告されていない。水俣地区の住民に関してそのような稀な疾病を可能性として考える必要はない。「レフサム症候群でも視野狭窄、多発神経炎、失調がみられる」というのは事実だが、水俣地区の多数の人にこの症候群の可能性があるとはいえない。

「求心性視野狭窄は脳軟化症でもあり得る」というのはそれなりに事実である。しかし「××でもあり得る」ということと汚染された地域の家族に多発している症状とを同列に並べて論じること自体ごまかしであり、かつ論理のすりかえである。家族性に、あるいは地域性に同じ症状がみられる場合、伝染性か食餌性あるいは環境因性の中毒しかない。

3 診断にあたっての条件(診断医の資格)

水俣病の診断はむずかしいとよくいわれる。専門医が少ないともいわれるが果してそうなのだろうか。

水俣病を多数みていること、他の疾患をよく知っていることが、必ずしも十分な条件とは考えない。水俣病の背景や歴史を理解し、患者の訴えをよく聴き、細かい所見を注意深くとりあげることが出来ればそれで十分である。そのためには、ある程度の神経学的所見のとらえ方についての経験、水俣病についての経験が必要である。しかし、いかに専門的知識があろうとも、水俣病を多くみていようとも偏見や固定観念でしかみないと大きく誤る可能性のあることを水俣病の歴史は明確に示している。たとえば、汚染の実態や生活実態を知らなければ、部落全員が同じ訴えをすることや、同一症状をもつことは奇異に感じられるに相違ない。また、家族に水俣病患者がいて、どのような症状があるかを知らないと、その患者の一人をみて「知覚障害だけで水俣病とはいえない」ということになろう。

要するに訴えをよく聞き、不確かならその訴えを実生活の場でとらえる努力をしたうえ客観的に所見をとらえ、ごく普通に最も可能性の高い疾病を考えていくことが出来るならそれで十分である。

4 心因性反応、または詐病について

(一) 患者の訴えは「どこまでが本当かわからない」というものがいる。一つは心因性反応(ヒステリー)によって症状が修飾されているという意味であり、もう一つは嘘ではないかという意味であろう。確かに診察の場においてヒステリー、または心因反応、あるいは神経症と呼んでいる状態を示すことがある。

その特徴の一つは検査時の症状と日常生活時の生活支障に大きな差があるときで、一つは症状の動揺が激しいとき、一つは訴えやしぐさが大げさなとき、一つは各所見が矛盾し神経学的な固定概念で説明がつかないときなどであろう。

(二) しかし、このような状態はあの急性激症の水俣病のときにも認められており、急性激症型の慢性期にも認められている。ハンターの報告例でも最初ヒステリーと診断されたと報告されており、診察者が説明つかない場合、新しい病気の場合よくヒステリーとつける。

慢性水俣病においては脳の器質性変化たとえば性格、知能の障害に加えて環境因子、病気の苦痛や不安などが複雑にからみあった一つの反応とみることが出来る。

(三) ウエストフアルは「心因反応は脳の器質性障害がなければおこらないはずのもの」とまでいいきっている。

ワイトブレヒトらも「慢性的身体的苦痛、経過、予後に対する不安、恐怖、対人関係、家庭内環境から脳器質性疾患はしばしば体験反応を示すことが認められており、意識の緊張低下から自制が失われ心因性反応をおこしたり、態度、行動が誇張的になったり、小児様になったりする」と指摘している。このようにヒステリー状態は脳器質性変化と無関係であるとする立場は現在はほとんどない。これらを偶発的なもの、あるいはこの状態があるという理由で脳器質性疾患を否定することは絶対に出来ない。これらの状態はしばしば「病気への逃避」あるいは「疾病利得(補償金など)」の意志ありとして非難の対象にさえなる。「それは診察者が“患者はこう思うであろう”(例えば、補償金が欲しいであろう)という自らの意志の逆投影でしかない。その診察者の意志こそは一つの時代、体制の要請を代弁したものであることに気がつかねばならない」という指摘さえなされている(西山詮:心因説の社会的意義とその基礎、精神経誌七八、五二九(一九七六)。

5 水俣病診断を確実にするもの

(一) われわれは水俣病は汚染された住民の健康障害のすべてであると主張し、その根拠を述べてきた。以下に述べる①または②のものが認められれば水俣病と確実に診断できるのである。もちろん、①または②のものがなければ水俣病でないと主張するものではない。

(二) まず前提として不知火海の魚介類を多食したことを必要とする。

① 四肢末梢性の知覚障害があれば水俣病である。

② 知覚障害が不全型であったり、証明出来ない場合でも次のような場合水俣病である。

求心性視野狭窄がある場合

求心性視野狭窄は水俣病全体からすれば発症頻度は低いものと思われ(新潟の例から)、求心性視野狭窄だけの水俣病の存在は小児の場合を除いて多いものとは考えられない。これらの場合は知覚障害がないのではなく、知覚障害が確認できなかったり、所見のとり方に問題があることが多い。したがって実際的には求心性視野狭窄が確認されれば水俣病と診断できる。

口周囲の知覚障害、味覚・嗅覚障害、視野沈下、小脳性あるいは後頭葉性の眼球運動異常、失調(耳鼻科的平衡機能障害)、中枢性聴力低下、構音障害、振戦などの症状がある場合。

疫学条件が濃厚で日常生活の支障が明らかであり、たとえ、知覚障害が不全型であったり証明できなくともメチル水銀によって出現しやすい症状があれば水俣病である。

もちろん、いわゆる「合併症」といわれる疾患が発見される場合と、全く見出されない場合、老人か若年かによって、またその症状の種類によって一つでも水俣病と診断できる場合と、いくつか組合せがないと診断できない場合は存在する。

六  患者らの症状

(森枝鎮松 関係)

1  生活歴

原告森枝鎮松は明治三七年六月五日、鹿児島県出水市米の津町中塩屋で、父森枝与三郎、母キヨの長男として出生した。家業は半農半漁であった。

一六才時から出水市築港で床屋の見習となり二年余奉公、一時米の津駅前に床屋を開業したがやがて廃業し、大阪に出て四年余理髪業の修業を終え(この間昭和二年に結婚)、昭和三年一一月に水俣市浜町で床屋を開業した。

昭和一九年軍に徴用され敗戦後水俣に帰り、昭和二一年から古物商に転業、妻は野菜屋の手伝いなどをして生活した。

かかる生活は右原告が健康を害して働けなくなった昭和三九年頃まで続いた。

2  食生活歴

右原告森枝鎮松は、半農半漁の家に生れたので、幼少時から漁が好きで、父の一本釣などに小さい頃から同行、昭和三年水俣市で床屋を開業してからは暇をみては漁をし、魚介類を多食、自家用の舟まで所有、投げ網も一二張余もつほどの凝りようで、月のうち一〇日以上も漁をしていた。

漁場は、水俣川尻、明神、まてがた、袋などが主であった。敗戦後は古物商に転業したが、経済的にも困り、また食料難の時代であったから、ますます漁に精を出すようになり、丸島や湯堂の知人、親戚から舟を借りて漁をし、月のうち一〇日以上は漁にいそしんだ。

当時の舟の貸し主に水俣病認定患者の松田マセがいる。

漁場は、水俣川尻、丸島湾内外、袋湾内、袋川尻、勝崎、七ッ瀬、茂道と恋路島との中間海域、亀の首などであった。

舟は手こぎの為あまり沖の方へは行かなかった。獲った魚は家族皆で食べた。

茂道の親戚の漁師で認定患者の田上フジ子から、ボラ、シロコ、ナマコ等度々もらって帰り家族で食べたりした。

その日に食べきれなかった魚は、翌朝や翌昼に食べたり、塩漬にして保存しておいて食べたりした。

このように食生活は一般漁師に近い魚介類の摂取の仕方であった。

3  環境の変化

昭和三三年~三四年頃、水俣川で大きな魚が浮いているのを見かける事が度々あった。当時、八月になると水俣名物の「せり舟大会(ペーロン大会)」が盛大に行なわれたが、チヌやボラが無数に浮いて、潮に乗って水俣川の川上へ流されて行くのを見て驚いた記憶がある。

4  家族歴

右原告は昭和二年に結婚。三子をもうけたが、長男は戦時中疫痢で死亡、長女孝美と次男司が現存している。

妻シカは現在、四肢末端の知覚障害、歩行障害、共同運動失調、視野狭窄、難聴、構音障害など軽度に認められ、水俣病の疑いがあって現在申請中である。

長女孝美は両親と同居し未婚、母と一しょに野菜屋を手伝っている。幼少時から虚弱で現在でも肩こり、腰痛、疲れ易く、感冒に罹患し易い。

次男司は、両親、姉と別居で、水俣市内に居住しているが生来あまり頑健な方ではなく、現在も肩こり、疲れ易い、感冒に罹り易い状況である。

5  現病歴

昭和三七年頃から体の調子が悪くなり、疲れ易く仕事の能率が低下してきた。昭和三九年三月頃からめまい感あり、同一一月両手があがらなくなり、一一月二九日体がしびれて立てなくなった。約三ヶ月余自宅で寝たきりであった。言葉がはっきり言えず、腰から下、両下肢、ことに左下肢にしびれが強く、両肩から両手先がしびれ、ことに左手がひどく、目も見えにくく、耳鳴りがひどく、難聴があった。医師の往診治療で少しづつ軽快し、つえをついて通院するようになった。

昭和四〇年五月頃から水俣市立病院、湯の児病院へ五年余り通院した。病状はあまり改善されない。

6  現在の自覚症状

(一) 手がふるえる。両側ともふるえるが右がひどい。右手指が伸びない。茶碗などを持ってもよく取り落す。箸がうまく使えない。衣服の着脱やボタンはめなどに時間がかかり、ときには介助を要する。以前は腕の良い床屋であったが、今は自分のヒゲさえそることが出来ない。

(二) 右手で喫煙中、煙草の火が指まで燃えて来ても熱さが判らない。煙草をとり落して気がつかず畳をこがす。喫煙中流涎を見ることがある。

(三) 歩行が困難でつえがないと歩けない。よくころぶ。スリッパをはいてもすぐ脱げてしまいゾウリでないとはけない。両側ともに不自由だがとくに左がひどい。

(四) カラス曲りがひどく昼夜の別なくある。筋肉がピクピクする。寝ている時でも電気にかかったように左右のふくらはぎから大腿部にかけてビリッビリッとしびれたりする。

(五) 目が疲れ易い。はっきりと見えない。頭痛やめまいがして畳の上に四つんばいになり、それでも体がくずれてしまうことがある。

(六) 耳が遠い。両側の耳鳴りがひどくとくに、仰向けに寝るとヅャーンヅャーンと耳鳴りがひどくなる。

(七) 歯ぐきの感じが鈍くなって御飯が固く感じられる。舌がもつれてしゃべりにくい。

(八) 食欲があまりない。便秘がひどい。

(九) 疲れ易く、気分がイライラする。憂うつで情なく何もしたくない。物忘れがひどく、考えもまとまらない。眠りが浅く胸がつまり、今にも死んでしまうのではないかと思うことも度々である。

7  臨床症状

(一) 神経症状

嚥下障害がありとくに液体にむせる。難聴は両側にあるがとくに右側に強い。求心性視野狭窄が両側にあるが右に強い。構音障害もあり長話しをするとひどくなる。

固有反射は両側とも亢進、とくに左が強い。腹壁反射は両側ともに消失。病的反射は上下肢とも、ホフマン、バビンスキー、足膝クローヌスが出たり出なかったりする。両側手指、眼瞼に振戦がある。

右二、三、四指が軽く屈曲、左五指屈曲、いずれも第一関節。仰臥位で左下肢はやや外転、扁平足あり。

知覚では触覚、温覚、痛覚とも口唇部、四肢末梢部に及ぶほど強化する鈍麻がある。口唇部の鈍麻は出没する。

四肢の知覚鈍麻は左右差があり左側により著しい。粗大力は両側ともに低下、筋緊張は両側とも亢進している。

歩行や運動は全般的に拙劣、緩徐でぎこちない。アジアドコキネーゼ、指鼻、指指、膝踵試験などでは企図振戦を認め拙劣である。着脱衣動作やボタンかけ動作なども緩徐拙劣である。

自律神経症状としては発汗過多あり、四肢末端が冷たくとくに左側がより冷いなどの症状がある。

(二) 精神症状

知能障害、情意障害がある。

8  結論

以上のとおり、原告森枝鎮松は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(平竹信子 関係)

1  生活歴

平竹信子は、昭和一四年一〇月一七日水俣市浦上町で、父車太郎(明治二二年六月二三日生)、母ハツノ(同三三年七月三〇日生)の第九子として出生した。両親は、鹿児島県出水郡獅子島出身で、人夫、工員などをして水俣市袋、出月、丸島、月の浦と転々と住居を構えたが、大正一四年頃から水俣市浦上町に居住し、昭和五二年同古城町に転居して現在に至っている。

獅子島出身であることから、家族は魚介類を多食する習慣がつづいた。特にハツノは、子供らをつれて、ガチが鼻、緑が鼻、明神などの浜で、アサリ、カキ、ビナ、ナマコなどを日に一~二回も獲りに行き、多い時は、八~一〇キロも獲って、その一部は販売し、当時車太郎が働けず苦しかった生計のたしにしていた。信子もまた、中学を多く欠席して母と浜に行って魚介類を獲って手伝っていた。

2  食生活

前述したように、平竹一家全員魚介類を多食する習慣があり、父車太郎が働けなくなり、生活が苦しくなってからは、一層多く食べ続ける結果になっていた。

3  環境の変化

昭和二八年頃から、浜へ行くと、カキや貝が死んでいるのを多く見かけるようになり、自家の飼い猫も二匹ほど典型的な水俣病の症状を呈して死んだ。

4  家族歴

平竹信子は、兄弟九人の第九子であるが、第一子繁は、三才で死亡、第二子トシエは、生後まもなく死亡、第三子美智子、第四子良子、第五子妙子はそれぞれ結婚、第六子拓美は三才時事故死、第七子孝は、昭和三八、九年頃より脱力、疲れやすい、振戦、足のしびれ感などの症状を呈し、昭和四七年一〇月六日水俣病と認定、第八子陽子は結婚している。

父車太郎は、五〇才頃より手足のしびれ、ふらふら感、頭痛を訴えていたが、腹膜炎で死亡した。

母ハツノは、昭和四七年一〇月六日水俣病と認定。

5  現病歴

昭和二九年三月頃、父車太郎は病床にあった。信子は看病の手伝いをしていて、お茶を持って行きながら一寸したものにつまづき、お茶をこぼしたり、茶碗を落したり、父のまくら元に茶碗があるのにまた茶碗を重ねてこぼしたり奇妙な行動がみられた。また、母について浜に行く時に「手がしびれる」「腰が痛い」と言い、歩くのが遅く、よたよたしていた。しかもその後食事の時御飯をこぼすようになり、学校へも行けなくなった。

その後同年四月頃には食事をこぼすのがひどくなり、言葉がはっきりしなくなり、歩くのがふらついて困難となり、ハシが使えず、流涎がみられ、茶碗も持てなくなり、終日芒としているか、ただ泣くだけでどうあるかも訴えず、二~三日してから松本医師(水俣市大黒町四ッ角陣内)の診察を受けた。

松本医師の診察を受けた翌日は全く立てなくなり、手足を強直する痙攣発作がみられ、言語不明瞭となり「アー、アー」と声をたてるようになった。

昭和二九年四月二六日、水俣市立病院内科を受診し、同五月入院した。

入院する前も全く歩けずリアカーに乗せたり、背負ったりして通院した。その頃までは母親のことを「アーチャン」位は聞きとれたが、入院してからは全く寝たきりで、「アー、アー」というだけになり、流涎がひどく、手足を絶えずまさぐるような運動がみられ、足をバタバタけるような多動状態を示した。手は屈曲し拇指を中に入れて、鳥の手みたいにやせて変形した。首は後方に屈曲し、足は伸展変形した。食物や飲物がむせる嚥下障害があって日に日にやせていった。

夜も昼も声をあげて泣き、次第に目を開いたまま反応がなく、失明に近い状態になった。耳は人の声に耳をすますような動作がみられ聞えているような様子であった。

ときに全身性強直性痙攣がきた。二一日間入院していたが夜もねむらず泣きつづけ、周囲に迷惑をかける為退院した。

退院してからも昼夜泣きどうしで、痙攣がくるのでくくりつけておいたが次第に衰弱して昭和二九年八月一日死亡した。

なお、保存臍帯メチル水銀分析値は五・二八ppmである。

6  臨床症状

(一) 直接死因 全身衰弱、その他の原因は意識混濁。

(二) 神経症状

瞳孔は正円、対光反射遅延。

固有反射は、膝蓋腱反射及びアキレス腱反射は亢進。

歩行、運動失調は麻痺状態。

流涎あり。

(三) 精神症状

意識混濁。

7  水俣病との関連

(一) 発病時期において

昭和三一年五月一日、細川医師らによって水俣病が発見されていらい、医師会や保健所、公衆衛生院などが中心となってそれ以前の発病者の調査が行なわれた。その結果昭和二八年一二月一五日の発病の溝口トヨ子まで発見され、水俣病の最初の発病は昭和二八年ということになった。この時の調査名簿に何故か水俣市立病院に入院していた信子の名は載っていない。とくに死亡者については主治医の考えによってとりあつかいが大きく左右された可能性がある。しかし信子の発病は昭和二九年で当時考えられていた発病期間の範囲内に含まれる。

(二) 当時の水俣湾汚染と魚介類汚染

信子が摂取した昭和二九年頃の魚介類の水銀汚染の明らかな数値は不明である。

しかし、昭和三五、六年頃の同湾内の泥土中の水銀値が二〇〇〇PPmであったこと、水俣湾産の魚介類で二〇~三〇PPmの水銀を含んでいた事が明らかである事から考えると、きわめて高濃度の水銀を含有していた事は明らかである。

チッソは昭和二六年から同二八年までの間に約六〇〇〇トンのアセトアルデヒドを生産し、同二九年には急激に増やし年間九〇〇〇トンを生産した。アセトアルデヒド生産と臍帯メチル水銀値はよく一致し、生産によって環境が汚染された程度と人体に取りこまれた水銀とはほぼ一致していることを示している。

平竹家にても昭和一二年以降生まれた陽子と信子に高値の水銀が証明された。しかも昭和二八年から同二九年にかけて信子らが摂取した一帯の浜にはカキなどの貝が死滅し、猫が狂い、カラスが空から落下する等の自然の異変がみられていたのである。

(三) 臨床症状

水俣病の小児の急性症状は大略次のような経過をとる。

イ 五才一一ヶ月の小児の例

手足の運動障害、言語障害、歩行不能、視力障害、嚥下障害。

ロ 五才一〇ヶ月の小児の例

流涎にはじまり、手足の運動障害、手の振戦、歩行障害、言語障害、視力障害。

また小児の場合、四肢の疼痛を訴えるものがあり、経過はほぼ同様であり、しかも経過が早い。発病以来、二六日から一ヶ月、やや長いもので二年三ヶ月の経過で死亡している例が多い。しかも、経過中には末期の合併症の時期を除いて発熱などのないものも特徴としてあげれる。

平竹信子の場合も次のようにまとめられる。

腰痛、しびれ感、全身怠感、手の運動障害、言語不明瞭、歩行困難(失調)、流涎、精神症状はついには意識混濁、発語不能、歩行不能、失明、全身痙攣、失外套症状群(俗に植物的状態)を示し死に至っている。

広汎性脳器質性障害の経過と症状である。

(四) 検査成績

毛髪や尿、血液の水銀値が高値であれば水俣病の有力なきめ手になる。しかし、正式発見以前にすでに死亡していることから、それらの証拠となるものはない。しかし保存された臍帯に高値のメチル水銀が検出された。水俣病が連続的に環境汚染されていた結果であることを考えると、最低限、生れた時からすでに、他の家族と同様メチル水銀に犯されつづけていたといえる。

脳脊髄液所見はカルテによると脳炎や脳内出血、脳腫瘍などを疑わせる所見はなく全くの正常所見である。わずかに細胞数が増えているが正常範囲である。眼底所見の記載からも異常所見とは見られない。脳炎、脳出血、脳腫瘍、脳裏腫、脳膿瘍など脳圧亢進をきたす疾患があれば、うっ血乳頭などがみられる可能性が大きく、また脳脊髄液の圧が上昇する。あるいは同液中に血液、混濁、蛋白増加がみられるはずである。脳膿瘍、脳内奇生虫の場合は脳脊髄所見のほか血中白血球増多症、好酸球増多などがみられる可能性が大きいが、それらの所見も全くみられない。

その他遺伝的原因も証明できない。

(五) 鑑別診断

平竹信子は、進行性の脳器質性疾患によって死亡したことは明らかである。最も考えられるのは脳炎であるが、日本脳炎は蚊によって伝染されるので夏期に多いし、脳脊髄液に変化があり、脳圧亢進や、頭部強直などが著明であり頭痛ががんこで嘔吐、発熱がみられるのが普通である。

脳腫瘍の場合は頭痛、嘔吐にはじまり、脳脊髄圧の上昇や眼底にうっ血乳頭などの所見がみられ、脳膿瘍の場合も同様な症状に加えて全身の感染症としての白血球増加や発熱がみられることが多い。脳出血の場合も同様の症状であるが脳脊髄液に血液を混入することが多い。

その他一酸化炭素中毒など中毒疾患も考えられるが、これらの症状すなわち筋萎縮や粗大力低下、末梢神経症状などの存在は疑われるが脳症状が強すぎる(痙攣、意識障害など)。その他フリードライヒ、マリー氏病その他多発性硬化症やクロイツフイルドヤンブ氏病など、急性ないし慢性の変性疾患も一部似た症状を示すことがあるが、経過症状からその可能性はきわめて低い。

8  結論

平竹信子は広汎性脳障害の症状を示し死亡した。その可能性として時期的疫学の面からメチル水銀汚染を受けており、症状、経過から他の疾患の可能性はきわめて少なく急性小児性水俣病であったことは明らかである。

(竹本已義 関係)

1  生活歴

原告竹本已義は大正一三年五月一日水俣市江添侍において、父、竹本惣市、母サトの二男として出生した。

昭和一九年三月より兵役、同二四年一〇月帰国。昭和二七年に数ヶ月間出稼の為現在地を離れた以外は、現在まで現住所において生活して来た。

この間母サトは、月ノ浦、茂道等においてアサリ・ビナ等の貝類を獲り、さらに同居していた弟秋義、国義は「もぐり」を得意として太刀魚、タコ、クロウオ、ガラカブ、メバル等をとり、毎日多食してきた。

昭和三一年頃より右弟らとともに月ノ浦、百間、明神沖等において釣り、「もぐり」等でタコ、ガラカブ、カニ、エビ、アサリ等を獲って多食した。

2  食生活歴

右原告は海岸近くに出生し母、弟らとともに自家消費の魚介類のほとんどを捕獲し、水俣湾の魚介類を永年にわたって多食しつづけてきたのである。

3  家族歴等

昭和四六年まで同居していた弟は昭和四九年四月、同妻は昭和四九年二月水俣病と認定されている。

右原告の妻厚子は四肢末梢性知覚障害、運動失調等水俣病様の症状を呈し、現在認定申請中である。

4  現症歴および自覚症状

昭和二八年頃より、短気、イライラ、頭や足のふらつきを自覚した。父母も弟もほぼ同じ頃そうなった。同三五年頃になると物忘れがひどくなった。昭和三八年頃より、自転車に乗るのが困難となり、川に落ちたりした。昭和四一年頃より上・下肢の知覚障害が出現した。

現在、首・肩のこり、腰・下肢の痛み、耳鳴、下肢の冷感、上肢の知覚鈍麻、頭痛、集中力欠如等の様々な自覚症状がある。

5  臨床症状

(一) 神経症状

脳神経系で視野狭窄、眼球運動障害、難聴がある。四肢の両側に末梢性の表在知覚障害があり、末端部ほど障害の程度は強い。

振動覚の短縮がある。

(二) 精神症状

記銘力障害がある。

6  結論

以上のとおり、原告竹本已義は水俣湾内外の魚介類を多食しており、かつ、水俣病にみられる症状を有している。

よって右原告は水俣病である。

(尾上源蔵 関係)

1  生活歴

原告尾上源蔵は、漁業を含営む父尾上利右衛門、母スミの第三子とし鹿児島県出水市名古で出生した。右原告は小学校卒業と同時に父とともに漁業に従事した。漁法は、昭和二八年までは“うたせ”であったが、その後はエビかし、たたき網など妻と二人で出来る漁法に切り替えた。名古地区は水俣市に隣接する漁業従事者の密集集落で水俣病患者の多発地域である。

漁場は水俣沖から名古沖を中心として、水俣湾内外へも出漁した。

2  食生活歴

代々漁師であったので食生活においては魚介類が主食同様であった。そのような家族の中でも一番魚介類を多食し一日に約一キログラムほど摂食した。これらの魚介類は自らの操業で獲った不知火海産の魚介類であった。

3  環境の変化

昭和三四~三五年にかけて、右原告の飼猫二匹が狂死したが、同じころ部落内の猫多数が狂っているのを見た。また同三五年頃出漁時に魚が多数浮いて流れているのを見かけた。

名古部落で一番早く水俣病症状で狂死した訴外柴田広志が発病したのもこの頃である。同時期に同様の症状を呈する者も何人かいた。右原告の毛髪水銀量は鹿児島県衛生研究所の分析によると昭和三五年八三・六PPm、同三六年五七・七PPm、同三七年二〇・九PPm、三九年一五・五PPmであった。

4  家族歴

右原告の妻ツキは、知覚障害、難聴、求心性視野狭窄、失調、粗大力低下、軽度知能障害、情意障害がそれぞれあり、水俣病認定申請中である。

右原告の長姉オエマツは水俣病認定患者であり、寝たきりである。同部落に住む右オエマツの娘むこ、長船国広は網元であるが水俣病認定患者である。

右原告の次姉キミノの夫、尾上仙の助も同部落で漁業を営む認定患者である。

右原告の三女東山瑞枝には頭痛、肩こり、物忘れ等の症状がある。右同人は昭和三二年に、同部落の漁家に嫁しているがその子供三人(昭和三三年生、同三五年生、同三八年生)のへその緒のメチル水銀値は各一・〇七PPm、二・四〇PPm、〇・四〇PPmであった。

5  現病歴

右原告は昭和三五年頃から手・足のしびれ、目のかすみを自覚した。同四〇年には視力が著しくおとろえた。

昭和四七年一二月、朝食時左上肢脱力の為茶碗を落した。

井上医院に約一ヶ月間入院。同四九年五月、頭痛、体痛の為市立病院に約二五日間入院した。

6  現在の自覚症状

右原告は足のジンジン感の為一年中足袋をはく。衣服の着脱に時間がかかる。片足立不能。座位から立位への移行は手で支えなければ不能。足がもつれ、倒れそうになる。

7  臨床症状

(一) 神経症状

求心性視野狭窄、眼球運動障害、難聴、構音障害、味覚障害、嗅覚障害、視力障害がそれぞれある。

運動系では、固有反射は右側ですべて亢進、左側ですべて中等度亢進、四肢の筋力は、上・下肢とも右側で軽度低下、左側で中等度低下である。筋緊張は左右差なく上・下肢とも正常である。左足クローヌスがみられ、病的反射は左右のホフマン、トレムナーがみられる。

運動失調では、歩行時の動揺があり、直線歩行、マン、左片足立はそれぞれ不能である。右片足立は不安定で、ロンベルグは陽性、しゃがみ動作は不円滑で踵挙上しない。

指鼻試験で企図振戦がみられ、ジアドコキネージスで異常がある。膝踵試験も異常がある。

知覚は表在知覚で左半身性および右上・下肢の末梢性知覚障害がある。さらに右口周囲の知覚障害がある。

(二) 精神症状

顔貌やや無力状で力なく積極性に乏しい。記銘力障害がある。軽度の情意障害、知能障害がある。

8  結論

以上のとおり、原告尾上源蔵は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(中島親松 関係)

1  生活歴

原告中島親松は現出水市名古において、父中島浅太郎、母チヨミツの次男として生れた。小学校在学中より漁師の家に住込んで漁業に従事した。昭和六年より同一九年まで名古屋に行き昭和五年西クワと結婚したが、右同死亡の為昭和一六年出来ツヤと再婚した。

昭和二〇年より現住所に居住し再び漁業に従事した。

漁場は主として水俣湾、米の津、茂道、切通、名古、桂島の周囲であった。

昭和三七年右原告発病まで漁業に従事した。

2  食生活歴

右原告は名古屋へ出かせぎの期間を除き、不知火海で獲れた魚介類を多食しつづけた。

3  環境の変化

右原告の居住する住吉町は水俣病多発漁村であり、なお多くの申請中の患者が存在する。右原告の隣人荒木守吉は昭和四五年水俣病に認定されている。

右原告が操業していた昭和三五年頃多数の魚が海上に浮き上るのを見た。同時期に右原告宅へ出入し、右原告の獲った魚を飼としていた猫五匹が狂死した。

4  家族歴

右原告の妻ツヤは、視野狭窄、難聴、四肢末梢性知覚障害等の水俣病様症状を有し認定申請中である。

5  現病歴および自覚症状等

右原告は昭和二八年頃より頭痛、同三七年より四肢のしびれ、以後視力障害、全身の電撃感、口角下垂、流涎、起立障害、歩行障害等を覚えるようになった。毛髪水銀量は昭和三五年一二三PPm、同三五年(二回目の検査)一四四PPm、同三六年七八・六PPm、同三七年一四PPm、同三八年五・五PPmであった。

現在全身の電撃感、けんたい感、頭痛、頭重感、難聴、運動失調、視力障害がある。

6  臨床症状

神経症状

求心性視野狭窄、構音障害、難聴、眼球運動障害がある。

歩行時動揺、直線歩行動揺、直立時動揺がみられる。ロンベルグ陽性。片足立不能、しゃがみ動作は不円滑。指鼻試験、指指試験、膝踵試験拙劣。アジアドコキネーゼ著明。ボタンかけ、ひも結び、着脱衣等の動作拙劣。

四肢の手袋状、長靴下状の知覚障害がある。両上肢の振戦がある。時々流涎がある。

7  結論

以上のとおり、原告中島親松は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(山内了 関係)

1  生活歴

原告山内了は鹿児島県出水市汐見町七〇五四番地において、漁業を営んでいた父山内助次郎、母フイの長男として生れた。右原告は米の津尋常小学校在学中より両親を助け、漁業を手伝っていた。一五才からは本格的に漁業に従事した。

昭和一七年妻サエと結婚した。昭和一七年より二一年までの兵役期間を除き現在地で漁業に従事してきた。コノシロ、タチウオ、ボラ、カレイ、エビ等を獲っており、漁場は福ノ江、前田、切通、茂道あたりを中心にしていた。

昭和四五年頃から漁が出来ないほどに体が悪くなった。

同年から同四九年までは妻と三男が出漁し右原告は家事を行っていた。昭和四九年からは仕事は全く出来ない状態になっている。

2  食生活歴

漁業を営む家に生まれ、自ら漁業に従事していた為、食生活の上で魚介類の摂取を絶やしたことはなかった。魚は主食と言っても過言ではなく、三食とも不知火海の魚介類を多食していた。

3  環境の変化

昭和三四年頃右原告らの住む福ノ江部落の猫が死亡している。また昭和三五年頃から同三八年頃にかけて弱って浮いている魚を右原告は多数漁場で見た。

福ノ江部落では昭和四七年に松田庄松が水俣病に認定されている。隣接する西新田部落でも昭和四八年に鳥羽瀬秋造が水俣病に認定されている。

また昭和四六年から同三七年にかけて鹿児島県衛生研究所が行った毛髪中水銀調査においても福ノ江において一〇〇PPmを越える高値の者もいる等汚染の事実は明白である。

4  家族歴等

右原告と同居し、いっしょに漁業に従事していた父助次郎は昭和三四年九月一九日に死亡したが、その二、三年前からヨロヨロする、よだれを流すなどの症状があり、次第に言葉がはっきりしなくなる等現在の右原告の症状とよく似ていた。

母フイは昭和三七年半身不自由となって死亡した。

右原告の妻サエは汚染が最もひどかったといわれる昭和三五年から同三六年にかけて流産を三回しており、現在もちょっとした事で疲れ易いなどの症状を訴えている。臨床的には手指、足指の知覚障害があり、視野は狭い傾向にある。

昭和二三年に生まれた長男一雄は小児マヒの既応がある。

昭和三四年に生れた次女恵は昭和三八年にケイレン発作で死亡している。昭和三六年に生れた四男志郎は一ヶ月の早産であった。知能障害があり、小学校から特殊学級に在学している。学校の検診で眼科、耳鼻科の異常を指摘された。

5  現病歴

昭和三四年左上肢のしびれを覚えるが消失した。

昭和四〇年冬左手のしびれを覚える。

昭和四一年頃から言語障害がはじまり左上肢、右下肢のマヒが徐々におこり歩くのが不自由になった。

昭和四三年には右の症状が悪化し、寝たきりの状態が一週間ほど続いた。足ならしの為散歩に出ても近所の家の壁や生け垣にぶつかったりすることが絶えなかった。

昭和四五年頃には船に乗るのが危険な状態となった。昭和四八年六月出水市立病院に入院したが、原因がわからず、症状の改善がみられないまま退院した。このとき水俣病の認定申請をした。

昭和四九年四月頃から急に悪化し治療を続けるも改善せず現在は寝たきりの状態である。

6  現在の自覚症状

手、足のしびれ感、じんじんする感じ、手の感覚が鈍い、煙草の火で手をこがす事があり、寒い時はとくにひどくなる。

足にケイレンがきて長く立てない。

言葉がはっきりせず一言一言時間をかける。言葉にことさら力が入りとぎれとぎれである。

風呂は一人で入れずタオルはしぼれない。

ハシがにぎれない為スプーンを使用するが御飯をこぼす。

ボタンがうまくはめられない。衣服の着脱がうまくできず介助が必要である。

ものにつかまらねば歩けずはきものが脱げても気付かない。

身体がだるく疲れ易い。

正面だけしか見えない。目がかすむ。めまいがする。遠くが見えない。頭重感、後頭部痛、耳なり等の症状がある。とくに流涎がひどく常にタオルを口にあて、一日に二〇枚以上も交換する。

7  臨床症状

(一) 神経症状

嗅覚障害、求心性視野狭窄、聴力障害、構音障害、嚥下障害がある。

固有反射は上肢で右が中等度亢進、左が軽度亢進、下肢で右PSRが高度亢進、左PSRが中等度亢進を示す。

筋緊張は右上・下肢が軽度亢進、左上・下肢がごく軽度の亢進を示す。両側とも足クローヌスあり、時に自発性の膝クローヌスがある。病的反射は上肢で右ホフマン、右トレムナーが中等度陽性、左ホフマンが軽度陽性、下肢で右バビンスキー軽度陽性。歩行は痙性で右跛行性である。

運動失調では、一直線歩行、マンテスト、片足立(両側)が各失調のため検査不能である。指鼻試験で両側とも2、3センチはずれ、測定過大、ジアドコキネージスで左軽度異常、右境界異常、膝踵試験で右中等度異常、左軽度異常がある。

知覚障害は、表在知覚において四肢末梢性知覚障害がある。流涎が著明で手掌、足蹠の発汗過多がある。

(二) 精神症状

高度の情意障害がある。すなわち、表情は動きが少なく反応は鈍い。反面怒りっぽい面もある。

強迫泣き、強迫笑いがある。

記銘、記憶、計算力、思考力、会話能力障害など中等度の知的機能障害がある。

8  結論

以上のとおり、原告山内了は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(坂本武喜 関係)

1  生活歴

原告坂本武喜は、明治四三年一二月一〇日、水俣市袋において父坂本辰次、母セヨの第三子として生れた。

右原告が出生し、現在まで居住している地域は袋湾に面し、むかしから魚介類が豊富で住民による貝獲り、魚釣りが盛んであった。

右原告は尋常小学校高等科卒業。成績は上位、また剣道をやり、青年の頃は地域の代表として活躍した。

小学校卒業後、家事の農業に従事してきたが、昭和一二年から二年間、同一六年から一年半、同二〇年に約四ヶ月、兵役で家を離れた外は袋に居住し続けた。

昭和一五年、フジエと結婚し、子供は六人もつ。戦後は農業のかたわら森林の伐採、木出しに従事した。このような生活は昭和四〇年病気になるまで続いた。

2  食生活歴

両親が無類の魚好であった為幼少時からよく魚介類を摂取した。とくに袋湾の貝類を毎日のように食べた。伐採従事中は木、枝、薪を茂道産の魚介類とよく交換し昼夕は必ず副食として摂取した。魚をよく交換していた茂道の漁師、金子茂、森伊三次の両名は既に水俣病に認定されている。

昭和四〇年一月意識消失発作を起すまで不知火海で獲れた魚介類を多食した。

3  環境の変化

右原告が居住する袋地区は水俣病患者の多発地区であり、同認定申請者も一〇〇名を越えている。

右原告の家では犬一匹、山羊一匹、猫一匹が昭和三三~三五年頃に死亡した。

4  家族歴

母、坂本セヨは昭和三六、七年頃から頭痛、目が見えない、足がひきつる等の症状を訴え、通院治療し、水俣病認定申請中のところ昭和五〇年一月五日死亡した。

妻フジエは昭和一五年から同居。昭和二七年頃から頭痛、昭和四三年頃耳鳴、昭和四四年頃から手足のしびれ感、痛み等が出現した。

現在、手足のしびれ感、ふるえ、よろつき、倒れやすい、カラス曲り、目がかすむ、舌がもつれる、頭痛、四肢痛、物忘れ、めまい等を自覚し、神経学的には、四肢末梢性知覚鈍麻、共同運動障害、手指の振戦、難聴、嗅覚障害、求心性視野狭窄等が認められ水俣病であり、現在認定申請中である。

5  現病歴および自覚症状等

昭和二八年頃から、両手のしびれ感、感覚の鈍さに気付いた。昭和三四年頃からは、頭痛、頭重感、めまい、手に力が入らない等の症状が悪化、昭和四〇年一月意識消失発作。

同年九月入院治療中、口がきけぬ、歩行困難、手のふるえ、目のかすみ、人の声が聞きにくい等の症状があった。

昭和四九年から腰痛があり、現在頭痛、腰痛、転び易い、言葉がはっきりしない、言葉が出にくい、ふるえ、不眠、物忘れ、めまい、立くらみ、流涎などが自覚される。

6  臨床症状

(一) 神経症状

求心性視野狭窄、眼球運動障害、聴力障害、嗅覚障害、構音障害が認められる。歩行は拙劣、粗大力低下であるが、筋緊張は正常で固有反射は正常範囲かやや低下気味である。

直線歩行に動揺がみられ、ロンベルグ現象陽性、片足立不安定、アジアドコキネーゼ、指鼻試験、指指試験、膝踵試験で失調が認められ、ボタンはずしは拙劣である。

知覚は全身に軽度鈍麻があり加えて四肢末梢に強い鈍麻が認められる。手指振戦、流涎がある。

(二) 精神症状

暗く硬い表情で無気力、疲労状であり動きが少い。周囲に積極的関心を示さない。情意障害、知能障害が認められる。

7  結論

以上のとおり、原告坂本武喜は、不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(吉田健蔵 関係)

1  生活歴

原告吉田健蔵は昭和四年五月一八日、鹿児島県出水市住吉町三〇―二四において、父吉田浅次郎、母ツルの次男として出生した。その後現在まで同所に居住している。

ここは名古とよばれる漁業従事者の密集集落である。右原告の家は祖父の代からの漁業網元であり、健蔵自身も小学校四年生の時から漁に出かけるようになった。

漁業の内容は夏の間はイリコ漁で茂道から蕨島まで回り、冬・春はノベナワ、三重カシ網で、タイ、ハモ、チヌ、ボラ、スズキ等を獲った。またナガシ網でアジを獲っていた。漁場は水俣沖、水俣川口、茂道から名古沖にかけてであった。

右原告は生来健康で、スポーツは万能であった。昭和二〇年四月から九月まで七ヶ月間海軍に志願入隊し、この間のみ現住所をはなれた。昭和二七年二月妻ヒデ子と結婚し、子供は四人いる。

2  食生活歴

代々漁業に従事していたので幼少時より魚介類は主食同様であった。不知火海で獲れる魚介類を多食しつづけた。

3  環境の変化

昭和三三年夏頃、茂道に行く海上で死魚が無数に浮いていた。また同三四年頃、名古部落では猫が多数狂死した。また右原告は魚を飼にして豚を飼っていたが、同時期頃変死した。

4  家族歴等

妻ヒデ子は昭和三五年五月二七日の鹿児島県衛生研究所の毛髪水銀値測定によれば七六・三PPmであり、昭和五二年水俣病と認定された。

右原告の三男秀寿(昭和三五年一月生れ)は、生れた時から元気がなく、二才でやっと歩きはじめ、小学校在学時は特殊学級であった。精神遅滞があり、両手親指の骨が変形しており、認定申請中である。

名古部落で最も早期に水俣病によって狂死した柴田広志(昭和三四年春死亡)は、右原告と道路一つへだてた所に居住していた。また、右原告と同じ漁法の網元であった釜鶴松は昭和三五年一〇月一五日、水俣病により死亡した。さらに右原告の網子多数が水俣病によく似た症状で苦しんでいる。

5  現病歴

昭和三三年九月頃手指がじんじんしはじめた。同年一〇月六日両腕全体が重くて感覚がなくしびれたようであった。

口の周囲もしびれており舌は砂でものせたかのようなジガジガした異常知覚があった。昭和三七年頃より耳が遠いことを自覚し、かつ耳鳴りがするようになった。

昭和三八年七月には、体が不自由で人並みに働けなくなった。

鹿児島県衛生研究所の検査によれば、右原告の毛髪水銀測定値は、昭和三六年二月八日一〇五PPm、同三七年五月二四日三九・六PPm、同三九年五月一四日四一・一PPmと高値を示している。

6  現在の自覚症状

肩から指先にかけてしびれた感じで重い。ふるえがある。ジンジン痛むことがある。特に夜などじっとしていると重い重い感じになり次第にどうにもならない位痛くなる。

肘が硬直した感じになるのでいつも曲げたりのばしたりしている。口の周りはしびれたようで感覚が鈍い。舌は砂を乗せたようで、しびれたような、痛いような感じである。

記憶力が鈍ってよくど忘れする。頭が痛く、時々ひどく痛む。耳鳴りがする。全身がだるい。物がはっきり見えない。

まわりが見えにくく転びやすい。手が不自由。

指先がきかない。手から物を取り落す。ボタンかけが難しい。言葉が出にくい。手、上・下肢の力がなくなった。カラス曲りがする。全身の筋肉がピクピクする。

7  臨床症状

(一) 神経症状

両側に難聴がある。求心性視野狭窄、視野沈下がある。

構音障害、味覚障害、嗅覚障害がある。嚥下障害があり特に液体を飲むときむせる。

固有反射は両側ともやや亢進し、筋緊張は両側ともに低下している。両手指の振戦がある。右第一~三手指の変形がある。

知覚については、口周囲および四肢末端に鈍麻がある。

粗大力は両側ともに低下している。

歩行時動揺があり、一直線歩行時に動揺が激しい。指鼻指々試験、膝踵試験、アジアドコキネーゼは企図振戦をともない拙劣である。

発汗過多がある。

(二) 精神症状

イ 知能障害がある。

軽い計算力、記銘力の障害がある。

ロ 情意障害がある。

気分やや抑うつ的である。

8  結論

以上のとおり原告吉田健蔵は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(島崎成信 関係)

1  生活歴

原告島崎成信は、昭和九年六月二二日、出水市荘桂島の漁師、島崎岩男の第二子(長男)として生れた。

父親は網子であり生活は苦しかった。

右原告は小さい頃から体格も大きく、学校や村の相撲大会の選手として活躍した。

右原告は九才の時父を戦争で失い、母一人の稼ぎでは生活が出来ない為小学四年生で退学し、母と一緒に漁に出るようになり、当初は網子として網元の船に乗っていたが、四、五年にして小さな漁船を買った。

右原告は終戦後、茂道や恋路島を中心に一本釣、はえなわ等の漁をし、鰯網の時期には杉本長義(水俣病認定患者)の網子として従事した。

昭和三一年頃、桂島の漁師が水揚をする米の津の魚市場に桂島からも事務員を出した方がよいという事になり、島の人々の勧めで右原告は魚市場の「チキリ取り(販売係)」として勤務する事になり、その為、出水市米の津朝熊の民家に部屋を借りて住んだ。

右原告は昭和三四年一一月に結婚し、間もなく妻は鮮魚店、母は鮮魚の行商をするようになった。この頃現在地へ転居した。

昭和三六年頃より体の調子がおかしくなり、病院を転々とするようになった。その為、昭和四八年五月、市場を退職し現在は専ら闘病生活を行っている。

2  食生活歴

右原告は網子の家に生れ、幼児期父を戦争で失い、小学校を中途退学した。したがって生活が苦しかった為、米はろくろく食べず、魚が主食の生活であった。

漁業をやめてからも、職場は魚市場であった為、魚には不自由せず、又結婚してからは、妻が鮮魚店、母が鮮魚の行商を行っていた為、さらに多量の魚を摂食した。魚種は、タチウオ、コノシロ、タコ、イカ、アワビ、黒ダイ、ガラカブ等でそれらはいずれも不知火海産のものである。

3  環境の変化

右原告が生れ、育ち、昭和三一年まで生活した桂島は、濃厚な水銀汚染があり、水俣病患者が多発しているところである。

右原告は昭和二五年頃から桂島で魚を飼料に豚を飼っていたが、昭和三〇年に一頭、三一年に二頭が狂死した。また昭和二九年か三〇年頃波打際に大量に死んだり、弱ったりした魚が打上られた事がある。さらに近くで弱った魚を手づかみで獲った事も幾度となく経験した。

昭和三七年から三八年頃、右原告は魚を飼料として豚を六頭飼っていたが、うち三頭が狂死した。

4  家族歴

右原告の長姉川元美代子(結婚後も昭和三三年二月まで母と同居し、現在も桂島に居住)、蒔平トヨ、その養子蒔平守(桂島居住時原告と同じ船に乗って漁に従事)、叔母宮内ナシ、その夫宮内辰蔵、その長男宮内辰夫(右原告が桂島居住時、その家を根拠地として、また同人とともに漁に従事)は水俣病認定患者である。

右原告の母フクは、知覚障害、視野狭窄、失調、難聴、粗大力減弱、振戦、情意障害、知能障害などがあり水俣病認定申請中であり、妻佐代子は手先のしびれ、言葉のもつれ、歩行時よろめき等を訴えている。長男和敏(昭和三七年一〇月七日生)は未熟児で出生した。

5  現病歴

右原告は昭和三六年頃より疲れ易くなり、仕事のあい間に按摩をしてもらうようになった。同時に言葉がもつれてよく出なくなり、舌が重く感じられるようになった。やがて手足がしびれて感覚がなくなり、立っているのが不安定で歩行でもよろけるようになった。手で細かい仕事をする事が出来なくなり、字が書きにくくなった。目もかすみ、物が見えにくくなり、腰痛も来たすようになった。

このような自覚症状の発現後、半年してから右原告は水俣市立病院で受診したが、原因がわからないと言われ、熊本労災病院で受診し、神経痛といわれた。

昭和三八年鹿児島大学整形外科で受診し、椎弓切除術を受けた。

昭和四七年二月二三日腰痛と左座骨神経痛のため千葉労災病院整形外科で受診した。同年三月一三日入院し、脊髄腫瘍の診断の下に、同年三月一九日椎弓切除術(T12下縁~L4)を受けた。

昭和四七年八月二四日、水俣市立湯の児病院で受診し、同年一二月一八日同院に入院し、昭和四九年一月八日退院した。

昭和四九年一月一一日鹿大整形外科に転院し、同年二月二一日椎弓切除術(Th9~L4)を受けた。手術後二ヶ月目より歩行訓練を開始し、同年六月二六日退院し、湯の元温泉病院へ転院した。

6  臨床症状

神経症状

右原告には求心性視野狭窄、聴力障害、構音障害などの症状があり、固有反射は上肢は正、下肢はPSRは両側とも消失し、ASRは両側ともに低下、粗大力は上肢は正、下肢は股関節、膝関節においては両側正、足関節においては右は軽度低下、左は中等度低下しており、歩行、立位、マン、片足立ち、しゃがみ試験はできない。

筋緊張は下肢は両側ともに低下。

ジアドコキネージス、指鼻、膝踵試験では、両側とも障害されている。手指の振戦がある。

知覚系では、表在知覚で、上肢の手袋状の末梢性知覚障害、口周囲の知覚障害、臍位置の脊髄性知覚障害に加えて下肢の左により強い末梢性知覚障害が存在する。

深部知覚では下肢の末梢ほど、より強い振動覚障害と足趾の位置覚障害が存在する。

手掌の紅潮と発汗がある。

7  結論

以上のとおり、原告島崎成信は不知火海の魚介類を多食しており、かつ、水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(岩崎岩雄 関係)

1  生活歴

原告岩崎岩雄は大正一一年一二月一〇日鹿児島県出水郡獅子島幣串で漁業に従事していた父岩崎金七、母ヲトマの第二子として出生、小学校卒業後父とともに漁業に従事、昭和一二年に半年間水俣市梅戸で沖仲仕として働いたが、のち再び漁業に従事する。昭和一五年福岡県の炭鉱に出稼、昭和一八年より兵役に服し、昭和二二年復員後再び漁業に従事する。漁場は水俣湾から出水沖、獅子島周辺が中心であった。

昭和二五年カヲリと結婚しともに漁業に従事していたが、昭和四七年頃から体がきつく出漁の回数が減り、昭和四九年からはほとんど漁に出ていない。

2  食生活歴

この間右原告は不知火海でとれた魚介類を多食しつづけた。

3  環境の変化

昭和二九年頃出漁した際多数の魚が不知火海に浮き流れているのを見た。同じ頃右原告が飼っていた猫四匹があいついで狂死した。昭和三四年頃には右原告が居住する幣串部落には猫は全く見かけなくなった。昭和三六年頃に右原告が飼っていた豚が死亡した。近所で飼っていた豚も同様死亡した。

またカラスもよく死んでいた。

4  家族歴

父、岩崎金七(明治三三年六月一〇日生)は、右原告と同所で生来漁師であったが昭和四三年狂死した。

母、ヲトマ(明治三五年五月八日生)は、昭和三七年頃から糖尿病、めまい、ふるえ、歩行不安定などがみられ、同四六年死亡した。

弟、重夫(昭和七年一二月一六日生)は、右原告と同所で漁業に従事しているが、糖尿病、肩、腰、足の痛みが強く、仕事を休みがちである。

右原告の妻カヲリは昭和二四年右原告と結婚以来同居しているが、昭和二七年六月二日に死産、同二八年に流産をした。

また昭和五〇年頃から、手・足のしびれ感、頭痛、腰から下の痛み、手指のカラス曲り、手のふるえ、めまい等を自覚し、現在、四肢末梢性知覚鈍麻、振動覚低下、聴力障害、手掌発汗過多がみられ水俣病認定申請中である。

子供は一〇人であるが、第七子(昭和三六年生)は生後一週間で死亡、長男、義久(昭和二九年生)は腰痛、足の筋肉のカラス曲りがみられ仕事が困難である。

次男、政信(昭和三一年生)も腰痛を訴えている。

5  現病歴

昭和四三年頃から四肢の脱力感、手足のしびれ感、首から肩にかけての凝りと痛み、手から物を取り落す、手に力が入らない等の症状が出現した。同四五年一〇月頃から、体が重くだるい、物忘れがひどくなった。同四七年頃から、手足のしびれ感が強くなり、さらに、頭重感、難聴、耳鳴り、目がかすむ等の症状が加わる。

6  現在の自覚症状

手・足のしびれ感、手が不自由、物を取り落す、頭痛、頭重感、腰痛、足の痛み、肩こり、回りが見えにくい、難聴、耳鳴り、言葉が出にくい、めまい、物忘れ、無気力、不眠などがある。

7  臨床症状

(一) 神経症状

求心性視野狭窄、眼球運動障害、難聴、嗅覚障害がある。

粗大力は上下肢とも軽度低下し、筋緊張は四肢とも軽度亢進し、固有反射は、橈骨、上腕二頭筋で亢進気味、上腕三頭筋、アキレス腱でやや低下している。

失調関係では、片足立不安定、ジアドコキネージス、指鼻試験、膝踵試験で拙劣、ボタンかけに時間がかかる。

知覚では、全身性に軽度の知覚鈍麻、さらに四肢末梢に強い知覚鈍麻があり、振動覚も低下している。

(二) 精神症状

疲労状、弛緩状で緩慢、無気力で暗く張りがなく、表情に乏しい。周囲に関心を示さない。知能障害がある。

8  結論

以上のとおり、原告岩崎岩雄は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(岡野貴代子 関係)

1  生活歴

岡野貴代子は、昭和二〇年三月二三日、水俣市湯堂で父崎田末彦、母モモエの次女として生れた。その後、昭和三五年に一週間ほど名古屋で働いた以外は同所に居住し、昭和四〇年四月から、水俣市丸島町に居住している。

湯堂はいうまでもなく水俣病患者の多発地域であるが、家業は漁業で、父はかし網、一本釣、ボラ釣、タコツボなどで水俣湾一帯の魚介類を獲り、母がこれらを行商していた。貴代子自身も、幼少時から、貝などを獲り、また、父の漁の手伝いをしていたが、小学校三年生頃からは、時おり、網元の所で手伝などもして来た。

昭和四〇年四月、岡野正弘と結婚、二人の間には三人の子供がいる。

2  食生活歴

両親が漁業を営んできたので、小さい頃から魚介類が主食であった。水俣湾一帯で獲った魚介類をたくさん食べつづけてきた。

3  環境の変化

昭和三一年頃、水俣湾一帯で弱った魚が無数に浮いた。この頃、付近一帯では猫が多数狂死した。また、貴代子の家でも猫を飼ったが、狂死があいついだ。

4  家族歴等

母モモエは昭和四六年に、姉タカ子は昭和三一年に、それぞれ水俣病と認定された。弟の秀太郎も水俣病様の症状があり、現在、認定申請中である。

幼少時、一緒に貝を獲りに行っていたいとこの坂本タカエは水俣病認定患者であり、また、本人が生育してきた近隣には多数の認定患者がいる。

5  現病歴

小学校入学頃から時々頭痛があり、また、一時的に頭がボーッとなって倒れることもあった。頭痛は次第に頻発するようになり、長女を出産した昭和四一年頃は医師から警告された程である。頭痛は昭和四三、四年頃から特にひどい。

毛髪水銀データは、昭和三五年当時、三九・二五PPmという高値である。

6  現在の自覚症状

頭痛が特にひどい。昭和四五年頃から医院等に通っている。頭がボーッとなり倒れそうになることがある。外出もあまりできない。

疲れ易く、年に数回も膀胱炎を起す。便秘したり下痢したりする。

手足の先が痺れる。

肩がこって疲れ易く、夜中に具合が悪くなったり、家族の看病を受けて病院に連れて行ってもらうなどのことがある。

7  臨床症状

(一) 一般内科的症状

低血圧症の傾向があり、便秘、月経不順あり。

(二) 神経症状

甘えたような発語状況が認められる。

眼球振盪が認められることがある。

軽い求心性視野狭窄がある。

四肢末端に知覚鈍麻あり。口唇周囲に知覚鈍麻が出没する。

歩行や運動がやや緩徐でおる。

頭がボーッとなる発作性症状がある。

左三叉神経痛を思わせる症状があり、左側頭部、左後頭神経痛を思わせる症状があって圧痛点あり。

(三) 精神症状

感情やや不安定で無気力、抑うつ、易怒的になりやすい傾向がある。頭痛などの愁訴のため自発性の低下も認められる。

8  結論

以上のとおり、岡野貴代子は水俣湾の魚介類を多食しており、かつ、水俣病にみられる症状を多数有している。

よって、右原告が水俣病であることは明らかである。

(森本與四郎 関係)

1  生活歴

森本與四郎は、明治四四年八月二〇日、鹿児島県出水市下鯖渕で海産物商を営む父、池田熊五郎と、母ワサの第三子として出生した。與四郎は両親が死亡した為、出水市桂島出身の川元関太郎に育てられ五才から七才まで水俣市袋茂道で生活した。

大正七年川元関太郎の転居にともない出水市桂島に移住し、大正一四年まで同島で生活した。

大正一四年より約一年間朝鮮へ出稼をした。

大正一五年出水市桂島に帰り、その後森本サカと事実上の結婚をして森本ハツギクの養子となった。

昭和一六年より同二〇年までの兵役および同四六年九月より半年間の出稼を除き、大正一五年の帰島から昭和五一年七月死亡に至るまで、出水市桂島に住み漁業を営んだ。

2  食生活歴

與四郎は海岸近くに出生し、幼くして漁業を営む川元関太郎に育てられた為、魚介類の摂食状況は主食同様であった。桂島は島民のほとんど全てが漁業に従事する島で、野菜類・肉類の収獲はほとんどなく右與四郎も魚介類を主食とする食生活を送った。

これらの魚介類は桂島周辺から水俣沖にかけての漁場で捕獲し、それを多食してきたものです。

3  家族歴等

與四郎の長兄政義は出水郡高尾野町に居住していたが、與四郎がたびたび魚介類を届け、それを多食し、また政義もたびたび與四郎のもとに泊りこんでいたところ流涎、構音障害等の症状が出現し死亡した。

右與四郎の妻サカは與四郎同様魚介類を多食していたところ昭和四八年頃より手足のしびれ等を自覚し、同四九年二月二〇日、医師の診察の結果、知覚障害、視野狭窄、運動失調が認められ水俣病認定申請中のところ昭和五〇年一月二五日死亡した。

妻の妹、倉井シゲノは水俣市茂道に居住しているが水俣病認定患者である。

4  臨床症状

(一) 神経症状

知覚障害、難聴、求心性視野狭窄、運動失調、構音障害、粗大力減弱、嗅覚障害がある。

(二) 精神症状

情意障害、知能障害がある。

5  解剖所見

病理組織学的検査において後頭葉、頭頂葉、側頭葉、前頭葉、脊髄、小脳、末梢神経に病変が認められる。

6  昭和五二年九月七日、鹿児島県知事により公害健康被害補償法にもとづいて水俣病と認定された。

7  結論

以上のとおり亡森本與四郎は魚介類を多食し、水俣病の症状を多数有しており水俣病であったことは明らかである。

(蒔平時太郎 関係)

1  生活歴

原告蒔平時太郎は現在居住地の対岸である鹿児島県出水市荘三、六七一番地(桂島)において魚業を営んでいた、父蒔平小四郎、母ワカの第五子として出生した。小学校卒業後は漁業に従事した。右原告は昭和七年妻ミカノと結婚した。

右原告らは昭和四九年、同居していた四男力男一家とともに現在地に移転した。右原告の四男力男は漁業を営み、右原告も三、四年前に比較すると回数は激減したが、時には力男を手伝い出漁することもある。

2  食生活

右原告は漁業を営む家に生れ、かつ自ら漁業に従事し、また漁業を営む子供と同居していることから、食生活で魚介類の摂取を絶やしたことはない。

過去、現在を通じ、魚は主食同様であり、毎日、毎食魚を食べて生きて来たと言っても決して言い過ぎではない。

摂食した魚介類は、その季節に獲れるもの全てである。

野菜の摂食量は少く、肉類にいたっては滅多に食べない。

3  環境の変化

右原告が昭和四九年まで居住していた桂島は、チッソ水俣工場の西南約一二キロメートルの不知火海上に浮かぶ、周囲約一・五キロメートルの小島で、現在二六世帯、約百人(うち成人約六〇人)が居住している。同島には畑地は皆無に近く老令の二世帯を除き全て漁業に従事している。

昭和三三・三四年頃同島の猫はことごとく狂死した。鹿児島県衛生研究所の検査によれば昭和三五年当時の桂島住民八人中毛髪水銀濃度最高値一二六PPm、同最低値一四・六PPmで、これは同島住民が高度の水銀汚染にさらされていたことを示している。

右原告はこのような濃厚汚染のただなかで生活しつづけて来たのであるが、島中の全ての猫が狂死した昭和三三・三四年頃右原告の飼い猫も二、三匹同様に狂死した。また同時期頃カラスの異常や、大量の魚が浮いて流れたり、岸にうち上げられたりしているのを何回となく目撃した。

4  家族歴

右原告と同居の四男力男は、昭和五一年七月に認定された水俣病患者である。右原告の妻ミカノは、知覚障害、視野狭窄、眼球運動障害、失調、情意障害、知能障害などがあり、また長男恒夫は、知覚障害、視野狭窄、眼球運動障害、失調、難聴、構音障害、粗大力低下などがあり、その妻ツルエは、知覚障害、視野狭窄、眼球運動障害、失調、難聴があり、またその次女、元浦カズコは知覚障害、視野狭窄、眼球運動障害、難聴、粗大力低下などがある。右はいずれも現在水俣病認定申請中である。さらに四男力男の妻カツ子は、手のしびれ、肩こり、歩行時のよろめき等の症状がある。

5  現病歴および自覚症状

右原告は昭和三〇年頃、腰痛、足のふらつきを自覚した。

昭和三五年頃より、足のしびれ、体のだるさ、疲れ易さ、不眠などが出るようになった。昭和四〇年頃から、目が疲れ易い、二重に見える、遠くがよく見えない、手・足のケイレン等がくるようになった。昭和四五年頃より、耳が遠い、周囲が見えずカモイに頭をぶつけたりするようになった。

また同時期頃より鼻がきかないのに気付いた。さらにいつの頃からかはっきりしないが、ふるえ、頭痛、頭重、耳鳴り、めまい、根気の無さ、イライラ感等が出現し現在も存続している。

6  臨床症状

(一) 神経症状

嗅覚障害、視力障害、求心性視野狭窄、眼球運動障害、聴力障害がある。

固有反射は下肢が両側とも低下している。筋力は四肢ともに低下している。筋緊張は上肢は正で、下肢は軽度固縮である。手指振戦がある。

失調症状では、ジアドコキネージス、指鼻試験、膝踵試験、マンテストでの障害および、片足起立試験、ロンベルグでの軽度の異常がある。

知覚では四肢末梢性の表在知覚障害がある。また四肢末梢性の振動覚障害がそれぞれある。

(二) 精神症状

無欲様の顔ぼうで無気力、不活発、疲労様、力が脱けたような態度で、動作が遅く、反応もにぶい。つまり中等度の情意障害および、記銘力、計算力など、知的機能の軽度の障害がある。

7  結論

以上のとおり、原告蒔平時太郎は不知火海の魚介類を多食しており、かつ水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

(緒方覚 関係)

1  生活歴

原告緒方覚は大正一四年一二月二九日女島で漁業に従事していた父、安太と母マサの第一子として生れた。

小学卒業後、漁業に従事、昭和二〇年七月から、終戦まで一ヵ月位の一時期を除いて、一生の大半を海の上で暮している。昭和二六年三月、妻幸子(水俣病認定)と結婚した。

昭和三八年三月、父安太は言語、知覚、歩行障害、よだれ、けいれん等の水俣病症状を訴えながら狂死した。

同原告の伯父、網元の緒方福松(認定、昭和三四年狂死)とも同じ船でかし網、ごち網等の港内操業をやっていた。

昭和三三年から三八年にかけて、水俣、桂島の沖がその主な漁場であったアジやヒラの流し網が不漁となり始めた昭和三八年から同原告はゴチ網をはじめ、昭和四六年頃から、手、足、口もとのしびれが始まり、その翌年一緒に申請した妻が認定され、妻の補償金を基に鯛養殖を始めた。

2  食生活歴

同原告は舟の中で生魚を食べる事が多い船暮しの様な生活を送り、米が自由に買えるようになるまで主食は芋と麦に少しの米であった。おかずは魚ばかり、タイ、クロウオ、ボラ、タチ、イワシ、コノシロ、グチ、アジ、タコ、イカ等。野菜は自家菜園のものだけ、肉は食べず、朝でも魚がないと買ってでも食う生活であった。酒はつき合い程度で晩酌はしない。

3  環境の変化

同原告は操業中、弱った魚、エラの真白くなった魚、死んで浮んだ魚の群をしばしば見かけた。女島部落の猫も飼猫、野良猫ともに火の燃えさかるカマドの中に飛び込んだり、ガケから飛び下りたりして狂死した。同原告の家の猫も同様狂死した。

4  家族歴

同原告と同居していた義母静江、義弟明志、森田安子、ミチコ、妻幸子、同居同様の伯父緒方福松は水俣病が認められているが、父安太もおそらくは水俣病による狂死であり、弟妹や、長男、娘にも腰痛、めまい等の症状がある。

5  現病歴および自覚症状等

同原告は昭和四六年頃から、疲れ易くなり、手や足が口もとがしびれ、時々こむらがえりをするようになった。また、右肘が痛かったり、立ちくらみがしたり、体力の低下を覚えるようになった。一日仕事をすると次の日は休まないと体がもたず漁労に耐えないので昭和四七年頃から鯛養殖を始めた。

視力、聴力の低下もあり、汗が多く、眠り浅く、物忘れ、物の置き忘れが多い。

昭和三五年一月の同原告の毛髪水銀量は七六PPmであった。

6  臨床症状

(一) 神経症状

同原告には四肢末梢および口周囲に知覚障害があり、握力はやや低下し、左上肢にアジアドコキネーゼが認められ、膝踵試験は左側やや拙劣である。また難聴と求心性視野狭窄がある。発汗し易い。

(二) 精神症状

同原告には記銘障害があり、気力低下している。

7  結論

以上のとおり、原告緒方覚は不知火海の魚介類を多食しており、かつ、水俣病にみられる症状を多数有している。

よって右原告が水俣病であることは明らかである。

七  原告らの損害(その一、損害をどうとらえるか)

(総論)

1 損害論を考えるうえでの基本的考え方と被害者の真の救済

(一) 水俣病は世界最大の、かつ人類がかつて経験したことのない最も深刻な公害病である。水俣病は何よりも地域住民の、生命、健康、生活を無視したチッソの利潤追求行為の結果ひきおこされてきたもので人間の尊厳がこれほどまでに残酷にふみにじられた例は他にない。

また水俣病の本質は単に個々人の悲惨な健康障害のみにとどまるものではない。それはすさまじい家族ぐるみ、地域ぐるみの破壊であった。

チッソの加害行為は現在数知れぬ莫大な患者を発生させるとともに大量の魚介類を斃死させ、又、人体に対してきわめて危険なものとさせ、人々から生活手段を奪い、かつ今日もなお人々を日々危険にさらしている。

さらにチッソは、河、海、大気を汚染し、環境を破壊することによって人々の生活環境、生活空間を破壊し、とりかえしのつかないものとさせた。

水俣病による健康障害、人体被害はこれらの被害の一部分であるとともに頂点でもある。海藻が枯れ、魚が死に、猫、豚が狂死し、鳥が死に、そして遂に人間が発病した。人体被害は悲惨であるが故にそれのみに目を奪われがちであるが、チッソの加害行為による被害の総体はきわめて大きく、被害者らの損害は単に人体被害のみに限られるものではない。

まず損害論においては、以上の水俣病事件の本質をとらえなくてはならない。

そしてこの公害被害は完全に救済されなければならない。公害被害を完全に救済するためには、公害被害の特質、実態をあらゆる角度から考察、把握したうえで損害額の答定がなされるべきである。

(二) チッソが多数の人を死に至らしめた犯罪行為、又多数の人を病気にさせた犯罪行為の具体的内容については他の項にその詳細を譲る。ここでは、チッソの犯罪行為は組織的、意識的なものであり、強度の違法性をもつものであることを強調したい。そしてこの問題は、損害論を展開するうえできわめて重要な要素であると考える。そしてその加害行為を評価するにあたってはたんに被害の深刻さにとどまらず、被害を発生させるにいたった経過、被害発生後においてとった加害者の措置、現時点における加害者の被害者に対する態度等すべての状況を総合的に判断していかなければならないと考える。なんとなればこれらの状況はすべて現実的被害者に対し、社会的、経済的、精神的に直接影響を与える要素であるからである。

(三) 水俣病は公害病の原点といわれる。水俣病の歴史は、その公式発見(昭和三一年五月一日)から起算したとしてもすでに二二年以上を経過している。このことは水俣病被害者が、水俣病の難治性による苦しみとともにいかに長年月の間忍耐と苦痛の生活をしいられて来たかを物語る。また被害の補償問題についても、これまでの歴史的な経過の中で、多くの苦しみと困難をのりこえ一歩一歩前進してきた歴史の重みがある。水俣病を語る場合、この歴史的な経過をぬきにしては考えられないのである。

(四) 被害者の完全なる救済は、被害者の要求が一体いかなるものであるのかを出発点としなければならない。

原告患者、家族の要求はさまざまである。原告らの叫びのとおり個々にあらわれてきている被害、苦しみ方は異なっても、水俣病患者家族のそれは共通のものである。

被害者は皆叫ぶ。自分はすきこのんで水俣病になったのではない、すきこのんで水俣病といっているわけではない。

被害者の要求の第一は父、母を返せ、妻を返せ、夫を返せ、兄弟を返せ、わが子を返せ、そしてわが手わが足、わが身体を元に戻せ、楽しかった家庭をかえせ、そして海を元に戻せということにある。この要求がいかに切実なものであるかは何ぴとといえども理解しうることであろう。それは幾千万幾億の財貨にも替ええない損失である。被害者の真の要求は、これを返してくれるなら他にはなにもいらないのである。こうした観点から考えるならば不法行為理論においては原状回復の原則こそ、その考え方の中心に据えられなければならないものと考える。仮に現状回復が不可能だとしても、現状回復に見合うだけの賠償がなされなければならないことは理論上余りにも当然のことである。

また現在、患者、家族のチッソに対する要求は、①チッソは、被害者らの蒙った被害を元に戻すための最大限の努力、措置をとれ、②そのための努力と併行して、失われたものに対する完全な補償を行ったうえ、③医療、生活のすべての面における患者、家族の生涯の面倒をみよということにある。

原告らの本訴請求にかかる要求は、広範にわたる被害者の本質に根ざした要求のうち②③に該当する、それ自体きわめて限定された範囲のものであり、しかもその要求はチッソの犯罪行為、殺人行為によって蒙った原告らの被害の総体に比するならば、それは余りにもささやかな要求にすぎないものである。原告らの本訴請求は要求しうる最大限の要求ではなく、最小限の要求である。原告ら個人・家族をそれぞれとってみるならば、要求の度合も当然違ってきてしかるべきであり、現にそうである。しかし集団的裁判という本件事案において、原告らは個々の要求を押えて最低の線でこれを整理して請求しているのである。したがって、原告らの請求を最大限のものとして個々の原告、家族の被害の程度を評価することは許されない。

(五) 被害実態の直視と人間の尊厳の回復

水俣病は独占資本の利益のために、地域住民に犠牲を強いた結果である。その損害は、環境ぐるみの人間破壊の総体であった。その人間破壊の実態は後に詳しく述べるところである。

原告らの蒙った被害とその苦しみは原告しか知りえない深いものがあり、まして、これを裁判という限られた制度、手続の中で言い尽すことは不可能である。損害論の基礎は原告らの叫びである。裁判所は何よりもまず原告患者、家族の訴えと叫びとを判決の中心に据えていただきたい。

「公害訴訟は被害にはじまり、被害に終る。」この言葉は四大公害訴訟及び大阪空港訴訟を通じて強調され続けてきた原則である。公害被害を完全に救済するためには、その公害の被害実態の全てを徹底して明らかにしなければならない、公害の被害実態が不明のまま、正しい被害救済はありえないのである。被害者の訴えをまず謙虚にきき、これら被害の実態を直視することが何よりも必要であり、そこで明らかになる人間の尊厳の破壊に対して、裁判所が今後下される判決において人間の尊厳の回復を高らかに宣言されることを切望するものである。

2 水俣病における被害の特質

(一) 公害被害の一般的特徴

熊本水俣病事件熊本地方裁判所昭和四八年三月二〇日判決は公害事件の損害の特質を次のように要約している。

「原告らも主張し、最近の同種の公害事件の判決においてもすでに指摘されていることであるが、公害の損害賠償において損害を算定するにあたっては、つぎのような公害の特質を十分考慮して、公平、妥当、かつ合理的に損害の填補をはからなければならないと考える。

すなわち、まず第一に、公害は、交通事故などの通常の生命身体に対する侵害の場合と異なり、常に企業によって一方的に惹起されるものであって、被害者は加害者の立場になり得ず、また被害者が容易に加害者の地位にとって替るということがないこと、第二に、公害は自然環境の破壊を伴うもので、当該企業の付近住民らにとってその被害を回避することはほとんど不可能であり、しかも多くの場合被害者側には過失と目される行為はないこと、第三に、公害による被害は不特定多数の住民に相当広範囲に及ぶので、社会的に深刻な影響をもたらす……第四に、公害はいわゆる環境汚染をもたらすものであるから、同一の生活環境のもとで生活している付近住民は、程度の差こそあれ共通の被害を蒙り、家庭にあっては、家族全員またはその大半が被害を受けて、いわば一家の破滅をもたらすことも稀ではないこと、最後に、公害においては、原因となる加害行為は当該企業の生産活動の過程において生ずるもので、企業はこの生産活動によって利潤をあげることを予定しているが、被害者である付近住民らにとっては、右の生産活動によって直接得られる利益は何ら存しないこと、以上のような公害の各特質を考慮しなければならない。」

(二) さらに判決はつづけて次のようにのべている。

「以上のほかに、本件においては、つぎのような事情をも考慮しなければならない。

(1) のちに詳しく認定するように、原告ら被害者が受けた被害は単に水俣病という病に罹患したことによる精神的肉体的苦痛に止まるものではない。患者家族はほとんどが漁業に依存して生計をたてていたが、被告のもたらした環境汚染は同人らから漁場を奪い、生活の手段をとりあげた。漁業に従事しない者も自分が水俣病に罹患すればもちろん、そうでなくとも家族の看護のために、就職は困難であった。そのうえに、患者らの看護、治療のために多額の出費を余儀なくされた。一家に何人もの患者を抱える家庭では、家族の看護さえ満足に受けられないありさまであった。患者の療養生活は、家族全員から家庭生活の楽しみを奪い、その経済状態を逼迫させ、家庭生活を破壊の危険にさらした。また、水俣病のまえに水俣病はなく、その原因究明、治療方法の発見のためには長年月の研究を要したが、その陰で患者家族らは地域住民から奇病、伝染病といわれ、いわれのない迫害を受けて苦しまねばならなかった。

これにひきかえ、被告は、猫四〇〇号実験の結果を公表せず、アセトアルデヒド廃水による直接投与実験を中止させるなどして、その原因究明をおくらせ、これがひいては被害を増大させる一因となった。

(2) (中略)水俣病の治療方法としては、原因物質である有機水銀を早期に体外に排泄するための原因的療法と、ビタミン類、鎮痛剤、副腎皮質ホルモンの使用による対症療法があり、これらの療法は、中毒症状の急性期を脱することに役立つが、主要症状の改善にはあまり効果がなく、これは水俣病が中枢神経の非可逆的病変によるものであることを示していること、共同運動障害、錐体外路症状、自律神経症状についてはリハビリテーションにおける組織的な理学療法、職能療法によってある程度の効果を期待できること、水俣病の症状は、一般的にいって、まだ固定したものということはできず、発病後十数年を経過して症状が改善された者もあれば、現に悪化しつつある者もあり、同一個体においても部分的に改善がみられる症状もあれば悪化している症状もあること、しかし一般的な統計によれば、症状の軽快、消退は罹患年令の若い患者に多く、その増悪は高年令における罹病者に多いが、症状別では、自律神経症状、共同運動障害、錐体外路症状に改善がみられる例が多く、とくに自律神経症状の消退が目立つが、共同運動障害、構音障害、求心性視野狭窄、聴力障害、錐体外路症状、病的反射、知能障害、性格障害などは改善はしても消退する例は少なく、構音障害、知能障害、性格障害に悪化の症例が多いこと、予後については、患者ごとにさまざまな経過をたどると思われるので一概にいうことはできないが、一般に、幼年期、老年期に発病した患者、高度の知能障害、原始反射、姿態変形を主徴とする患者については予後も悪いことが認められる。」

以上のとおり熊本水俣病判決は損害額算定において十分考慮すべき事実として①加害者と被害者の立場の非互換性、②被害者にとって被害の不可避性、③被害者の無過失性、④被害者の多数と社会問題化、⑤被害の家族集積性と家庭破壊、⑥加害者の利潤追求性など公害の特質と、①生活手段の喪失、②伝染病説流布による苦しみ、③チッソの猫実験の隠ぺいと被害の増大④症状の難治性⑤被害実態の未解明など水俣病における特質をのべている。これらは本件においても当然考慮さるべき重要な水俣病の特質である。

(三) またさらに、本件においては、右の事実に次の点を特質として考慮すべきである。

(1) 水俣病が中枢をはじめとして全身を侵される肉体的・精神的破壊であること。即ち、水俣病における損害の中心は何といってもその健康被害が全身におよびかつ精神にまで甚大なる被害をメチル水銀は大脳、小脳、等の中枢、肝臓、腎臓、膵臓などの各臓器、或は血管、末梢神経に至るまでくいこみ、人体を侵すのである。いわば頭のてっぺんから、つま先までありとあらゆる器官がおかされる。そして精神・知能・障害までひきおこす。その症状はすでにのべたとおり、多様であり、どれ一つとして患者を苦痛におとし入れないものはない。人間はその身体の一ヵ所が障害を受けることにきわめて苦痛を覚える。それが全身にわたってありとあらゆる障害をうけ、またその苦痛から技け出せる希望もないまま毎日を暮していかなければならない苦痛は想像を絶するものがある。

例えば耳なりという自覚症状一つだけをとりあげてみよう。多くの患者は数年或は十数年にわたり、耳鳴から解放されたことがない。何をするときも、かたときも耳鳴が去らない。その苦しみは何人といえども理解しうるであろう。

このようにたった一つの症状のもたらす影響は、はかりしれなく大きいのである。症状の全身性多様性によって患者の苦しみは、数倍、数十倍のものとなるのである。

(2) 水俣病患者の被害が一〇年から二〇年にわたってこれまで続いてきたことおよび今後も死ぬまで同じ被害に苦しめられてゆくこと。

水俣病が中枢神経の非可逆的病変によるものであり改善が困難であること、および水俣病に対する根本的な治療法がないことはすでにのべてきたところである。そのため患者、家族は水俣病による肉体的、精神的苦痛から、かたときもとき放されることなく一〇年二〇年という長い人生をすごしてきたのである。そしてまた、その苦しみはこれからも続いてゆくのである。また、その苦しみは今日まで少しもいやされることはなかった。この苦しい年月の重みを忘れてはならない。

(3) チッソが排出した水銀は現在もなお公害発生源として水俣湾に蓄積しており、被害者らの食生活は現在においても危険であり、絶えず被害が増大する危険がある。

患者、家族らは今日においてもなお安心した食生活を送ることができない。最も楽しいはずの食事によって病気にさせられ、味覚を障害されて食事の楽しみを奪われたうえ、現在もなお安心した食生活が送れないのである。

(4) またさらに本件の患者原告とその家族は認定審査会によって否定され或は何度も保留されることによってその苦しみを倍加させられた。本来ならば被告チッソが医師を動員して、被害者の発見につとめ、できうる限り早期に原告らを救済すべきであったのである。水俣病被害者の会とチッソとの間で昭和四八年一二月二五日に結ばれた協定書(前文)五によれば「見舞金契約の締結等により水俣病が終ったとされてからは、チッソ株式会社は水俣市とその周辺はもとより、不知火海全域に患者がいることを認識せず、患者の発見のための努力を怠り、現在に至るも水俣病の被害の深さ、広さは究めつくされていないという事態をもたらした。チッソ株式会社は、これら潜在患者に対する責任を痛感し、これら患者の発見に努め、患者の救済に全力をあげることを約束する。」となっているがチッソはこの約束を全く守っていないのである。その為、原告らは何度も何度も検診に通わなければならなかった。そして、その結果長い間待たされたうえ知らされた通知は保留或は棄却という結果であった。またひどい場合は審査会において詐病扱いをうけることもあったし棄却処分の意味する内容は社会的にいえば、それは詐病に等しい評価を受けざるを得なかったのである。

また、ついに死ぬまで認定を受けられる望みのない人々は、自己の体を解剖してくれるように依頼しなければならない。自己が、水俣病という診断を受ける前に死亡する人々も多く、本件においても亡森本與四郎はその一人である。亡森本與四郎はついに自分の病名を聞くことなく死亡した。

以上のように度重なるそして長期の保留処分、および棄却処分によって原告らの苦しみは倍加したのである。

(5) 水俣病患者は生命、健康を奪われ、楽しい家庭生活を奪われた。美しい環境も破壊され、人々のいわれない中傷に耐えていかなければならなかった。しかし水俣病患者が失ったものは単にそれだけにとどまらなかった。

人間は単に身体に支障がなければそれでいいというものではない。人間は生きがいを持って生きてゆくからこそ楽しいのであり、そこに喜びもあるのである。水俣病は被害者から働く喜び、生きていく喜びをも奪ったのである。患者の訴える倦怠感、疲労感はその一つの例である。働く喜びは何もしたくないけだるさにかわってしまった。働く喜びは苦しみにかえられてしまったのである。生きる喜びは生きる苦しみにかえられてしまった。

水俣病患者は、チッソによって希望や、喜びもまた奪われてしまったのである。

3 チッソの犯罪性

(一) チッソの公害企業性

水俣病は決して被告チッソが偶然に起こした一度限りの過ちなどではない。チッソは、創業以来現在に至るまで、利潤優先・人間無視の基本姿勢を一貫して堅持してきた。労働関係においては差別の体制をつくりあげ、人間の尊厳を無視してこれを牛馬のように取り扱い、利潤追求に狂奔し、危険物の取扱いに意を用いず、内には労働災害、外には公害を頻発させた。チッソは本来公害企業性を有するのである。このチッソの犯罪性について責任論と重複するところもいくつかあるが以下その要点をのべてゆきたい。

(二) 不知火海の継続的汚染―漁業補償

水俣の漁民達がチッソ水俣工場の創業以来漁業被害を受けてきたことは、古くは大正一五年に漁民と工場との間で漁業補償契約が結ばれていることからも明らかである。(甲第二四六号証)チッソ水俣工場の排出物による漁業被害は、ずっと続き、昭和一八年一月にも補償契約が結ばれた。(甲第二四七号証の一および二)。当時軍が絶対的な地位にあったことは周知のことで、軍需工場たる水俣工場に被害の補償要求をすることは並々ならぬ勇気を要したであろうことは言をまたない。そのことは右契約書第二条に、漁民は「水俣工場ガ平時・戦時ヲ問ハズ国家ノ存立上最モ緊要ナル地位ニアルコト」を認識して「其経営ニ支障ヲ及ボサザル様協力スベキモノトス」とされていることからもわかる。

しかもなお、水俣工場が補償に応じたのは、漁業被害がいかに甚だしく、かつ明白であったかを証するものである。なおその漁業被害の原因は「甚経営ニ係ル工場ヨリ生ズル汚悪水及諸残渣並ニ塵埃等ヲ乙ノ所有漁業権ノ存在スル海面ニ廃棄放流スルコトニヨリ……」と指摘されている。この段階ですでに漁民も工場も、漁業被害の原因が工場汚悪水であることを確認していたのである。

戦後になってからも昭和二九年七月には被告は水俣市漁業協同組合に対し工場汚悪水等の海面放流による漁獲高への影響に対する補償として毎年年額金四〇万円を支払うこととしている。このとき被告は、漁業被害が工場汚悪水によって起こったことを認めながらつねに将来被害がおこっても新たな要求をしないことを条件にして交渉し、漁業被害の対策をたてようとしなかった。

また、原田正純「水俣病」一一頁以下によれば、昭和二四年ころからすでに、魚類、海藻類への影響があらわれており、ことに昭和二九年からの漁獲高の減少は目をおおうばかりである。昭和二五年から二八年までの平均に比べて昭和三一年は七九パーセントの減収率となっている。

水俣病判決においても「水俣湾およびその周辺では昭和二八、九年頃より魚類の収獲量が著しく減少していったばかりでなく、湾内に鯛、ボラ、太刀魚などが死んで浮上する現象が目立ち、また水俣湾に面する月の浦・出月・湯堂・馬刀潟・百間などの地区では昭和二九年から同三一年にかけて猫が神経症状を呈して斃死する例が多く、右三年間の猫の斃死数は五〇匹をこえ、その他豚・犬なども同一症状を示して死んでいったほか、湯堂地区などで鳥類の斃死および飛翔・歩行困難の例がみられ、これらの奇異現象が半ば公知の事実となっていた。」とのべているところからすれば、水俣病の原因がチッソ水俣工場であることを被告は容易に知りえたものといわねばならない。

(三) 重金属説の発表と漁民の排水停止要求

昭和三一年八月熊本県からの委嘱によって組織された熊大医学部の「水俣病医学研究班」が、同年一一月本疾患は伝染病ではなく一種の中毒症であり、その原因は水俣湾産の魚介類を摂食したことによるものであって、その原因物質はある種の重金属であるとの中間発表を行ない、またその頃水俣湾では百間排水溝に近いところから湾全体にかけて汚染度が大であったところから、人々も百間排水溝から海中に放流される多量の工場廃水に疑の目を向けていた。

一方において、漁民は水俣湾の漁介類の激減が新日窒の汚悪水の影響として、昭和三二年一月水俣市漁業協同組合は被告に対し、もはや漁業補償もさることながら、それと同時に工場汚悪水の海面への放流中止および廃水浄化装置の完備を強く要求するに至り、同組合と被告工場との間で数次の交渉が重ねられたけれども、容易に結論をみることなく、交渉は中断のやむなきに至った。

被告チッソは重金属説が発表され、多くの人々が水俣病の原因として工場排水を疑っても何ら対策をとろうとしなかった。

(四) 排水路の変更と水俣病の拡大

チッソ水俣工場の排水の大部分は沈澱池を経て百間港に放出されていた。患者の発生原因として排水が疑われるようになるとチッソは細川医師の反対にもかかわらず昭和三三年九月、問題のアセトアルデヒド排水を八幡プールを経て水俣川川口に放出しはじめた。この排水は北上する潮流に沿って流れた。その結果、患者は不知火海沿岸一帯にひろがっていった。水俣川川口で大量にアユが死亡し、翌年五月には天草の御所浦で猫が死亡し、北の津奈木、南の出水市で患者が次々と発生した。

これはまさしく人体実験であった。

(五) 原因究明の妨害

被告チッソは熊大の原因究明を妨害した。すなわち熊大が必死の原因究明を行っているにもかかわらず、チッソが水俣工場の生産工程の全貌とその使用原料・触媒・中間生成物・各生産部門における廃棄物や廃水の処理方法などを早期に明らかにしなかったことは、熊大の水俣病の原因究明を遅延させ、同時に水俣病患者発生を増加させる大きな要因となった。ことに昭和三三年七月の時点において、同工場が最も多量に使用していた重金属はアセトアルデヒド製造工程に用いられる水銀であることが明らかであったにかかわらず、同工場は熊大に対してアセトアルデヒドのことについては一切告知しなかったばかりでなく、その後においても黙秘しつづけていた。

(六) ネコ実験と結果の秘匿

昭和三四年一〇月七日、細川医師のアルデヒド排水をかけた基礎食でネコが発症した。これがネコ四〇〇号である。このことはすぐ工場幹部には報告されていた。しかるにネコが発症した日の一〇月七日に、チッソは日本化学工業協会の報告に基づいて水俣病の原因は旧軍隊が水俣湾に捨てた爆薬ではないかといって県知事に調査を申し入れている。厚生省水俣病中毒部会は一〇月二〇日爆薬投与の事実はないことを明らかにし、爆薬説について「事実に反し、医学常識を無視したセンスである。」と発表した。

しかし、工場側はさらに一〇月二四日には「有機水銀説に対する当社の見解」と題して第一報を発表しあつかましくもその中でなお爆薬説を強調した。ついで一一月一一日には東京工大清浦雷作教授が水俣病の原因は工場排水とは考えられないとの論文を通産省に提出する。そして一方工場排水によるネコ発症を知った工場幹部は一一月三〇日ネコ実験を中止させた。

チッソはネコ実験の結果を公表せず反論のための反論に狂奔した。このことがいかに対策をおくらせ、被害を増大させたかは余りにも明白であろう。

(七) サイクレーター

水俣病患者が正式に発見されてから三年間、工場排水は全く放置されていた。患者は次々に発生し、漁獲は激減し、また獲れても売れずに、水俣はもちろん不知火海全域の漁民の生活はまったく破壊されてしまった。たまりかねた漁民は、三四年の八月六日、一二日、一七日に、浄化装置をつけることと、一億円の漁業補償金を要求して、工場に押しかけた。さらに芦北、湯浦漁協は、一〇月一七日に四項目の要求書を掲げて工場に入り、警官隊と衝突する。

このような背景のなかで、さすがの通産省も、やっと一〇月二一日になって、チッソに対して、水俣川川口への廃水放出を即時中止し、従来通り百間港の方へもどすこと、年内に排水浄化装置をつけることを指示した。そこでようやく、チッソは排水浄化装置の工事に着工し、サイクレーターを中心とする排水処理設備を三四年一二月一九日に完成したのである。

ところが驚くべきことに、このサイクレーターはまったくその効果がなかったことが明らかになった。新潟における水俣病裁判で、水俣の前例があるのに、排水その他にまったく対策を立てなかったことを追及された昭和電工の社長安西正夫氏は、次のように答えている。

「当時、チッソに問い合わせたところ、チッソは、チッソの浄化槽は、社会的解決の手段としてつくられたもので、これは有機水銀の除去にはなにも役に立たないと回答した」と証言している。

さらにサイクレーターが完成すると、その竣工式のときに、寺本熊本県知事をはじめとする多数の来賓の前で、チッソ社長は、サイクレーターを通した水を飲んでみせるという茶番劇を演じた。このとき実は、アセトアルデヒド廃水はサイクレーターを通さなかったのである。だから当然に社長の飲んでみせた水は有毒ではなかった。

その後やっと三五年六月から、一部排水循環方式をとり、四一年六月から完全循環方式をとったが、この段階でようやく理論的には排水中に水銀は含まれなくなった。しかし実は、四三年五月、アセトアルデヒド製造中止になるまで、廃水は、オーバーフローや洗浄のために大量に流されていた。

なお昭和四一年五月ごろ、チッソができるだけ市民の目につかない方法で、八幡プールからパイプを三本引き、排水を直接海中に放出していたことが発覚している。

これらの結果として、当然水俣湾の魚貝類の危険性は去っていなかった。そのことは、水俣湾およびその付近の魚貝の水銀量を追跡調査をしていた入鹿山教授の報告によって、はっきり証明できるのである。

(八) アミン説とチッソの協力

昭和三五年四月一三日、東京工大清浦教授は再び新聞紙上に水俣病のアミン説を発表する。これよりさきに清浦教授は全国数ヵ所の魚の水銀量を測定し、水俣はよそに比べて水銀量が多くないとして、熊大水銀説に反論したのであるが、対照として選んだその某所というのが問題であった。すなわち隅田川、伊勢湾など、わが国でもっとも多重汚染のひどいところを選び、しかも伊勢湾にはアセトアルデヒド工場の排水が流れているし、直江津は上流に水銀工場があり、水銀を分析した魚もここでとれたもののようだが、それはわざわざ伏せてあり、そのほか北海道東部、中国山脈にも水銀鉱脈があり、水銀が多いのである。

清浦教授のアミン説というのは次のようなものである。すなわち水俣の貝を酵素で加水分解したいろいろな成分をネズミに注射すると、水俣病によく似た病気を起こすことができるが、この成分のなかには水銀は含まれていず、有毒アミンが含まれているというのである。

さらにこれを引き継ぐようにして、翌年戸木田教授(東邦大)は、「ネコの水俣病の原因に関する実験的研究(第一報)」と題して、熊大有機水銀説に反論する目的をもって、六六ページにわたる膨大な論文を発表した。戸木田教授の要旨は「水俣病の有毒物質の本体は、泳魚体内における代謝過程のなかの一物質で、あるいは腐敗過程中の有機化合物であり、水溶性であり、しかも不安定であって、それは蛋白アミン(目下実験中)である公算が多い」というのが結論である。

ここで見逃すことができないのは、その実験のやりかたである。

「市場にもっていっては売れないような、腐敗しかかった魚類を食べさせたから子供たちは発病したのだと、漁師のなかにはみずから筆者(戸木田)に対して証言した患者もあった」と言って、戸木田教授は、腐った魚が原因だという仮説を立て、魚を腐らせてその液をネコに飲ませるのである。腐らせる魚は各地の魚を集めたわけであるが、腐った液を飲ませれば、ネコはなんらかの症状を起して死ぬのは当然である。問題なのはその死んだネコが、水俣病と同じ症状であるかどうかという点なのであるが、あれほど特徴的なネコの脳の病変についての記載もなく、それに対する考察もない。しかも肝心な有毒アミンについては目下実験中であり、本体は不明であるという。第二報はでていない。それがいかに大論文の形を整えていようとも、学説に価いしないことは明らかであろう。いわんや、水俣の人たちは貧しいが、豊かな新鮮な魚をたっぷり食べる、ささやかな権利をもっていたのである。そのことは、水俣にきて、水俣の人たちの生活を少しでもみた人ならばすぐわかることである。

戸木田論文の終りに、新日窒KK、日化協大島理事、清浦教授などに謝意を表していることからすればこの論文の意図はきわめて明らかであった。

(九) 被告チッソは以上のとおり、汚悪水によって大正時代から漁業被害を発生させ、戦後汚悪水による環境異変は頂点に達していた。そのような中で水俣病の原因が自己の排水であることが強く疑われても何らの対策もとらず、ただただ熊大の原因究明を妨害した。そして一方では他の原因を主張し、ネコ四〇〇号実験を秘匿した。また排水路を変更して被害を拡大させ、通産省の指示によってやっととりつけたサイクレーターも何の効果もないことを知りつつ世論の手前つけたものであった。

このように、被告チッソは当然とらねばならない対策をとらず患者を発生、増大させた。原告らはチッソの以上のような犯罪行為がなかったならば水俣病に罹患せず、楽しい生きがいのある毎日を送っていたのである。チッソの行為はまさに故意による殺人、傷害行為であるといわねばならない。

4 水俣病被害の実態

(一) 歴史的経過にみる悲惨な実態

(1) 昭和三六年から水俣病ととりくんでいる原田正純は、その著書「水俣病」(岩波新書、甲第一三号証)の中で次のようにのべている。(および甲第一四号証参照)。

昭和二五年ころより水俣湾周辺において魚介類、鳥、猫、ブタなどに異常・異変がつぎつぎにおこるようになった。魚は海面に浮き出し、手で拾えるようになる。貝類も舟底につかなくなるし、腐敗し、くさいにおいを一面にまきちらす。海藻は枯れて、海面に浮きたつようになり、海底には藻は育たなくなる。また、さらに魚が次々に浮び上がり、カラスが空から落ちるなどという異常さである。

同二八、九年になると、魚のみならず陸上の動物、すなわちネコやブタまで狂死し、カラス、水鳥、イタチなどの狂死も確認された。このころ月ノ浦、湯堂付近では、このネコの異常を指して猫踊り病といい、狂い死にするネコの姿をみて不吉な予感をみんながもった。後に熊大医学部水俣病研究班が調査したデータによると、飼ネコ一二一匹中発病を確認された猫は七四匹である。つまり水俣地区の過半数のネコが狂死しているのである。さらに年を追うに従ってこのような異常事態は、水俣湾やその周辺にとどまらず不知火海域一帯に広がり、津奈木、湯浦、御所浦、樋ノ島、姫戸、高戸など天草地方の海岸にまで広がっていく。

こうした中で昭和三一年四月二一日、五才の女の子田中しず子が歩行障害、言語障害、さらに狂躁状態などの脳症状でチッソ水俣工場付属病院(細川一院長)で受診した。この患者はその二日後の二三日に入院した。当時の医師の記録によれば次のとおりである。

「四月一四日ころからフラフラ歩きが目立つ。四月一七日になると言葉がもつれ物がのどにつかえるようになり、夜は不気嫌になって寝なくなり、しだいに狂躁状態を示すようになった。受診時(四月二一日)つねに狂声を発す。四月二三日入院、四肢の運動障害が増強してくる。

四月二六日上下肢の腱反射が亢進して病的反射が認められ、不眠が続き、ときおり全身に強直性の痙攣が見られ舌をかみ血が流れる。五月二日全身強直性痙攣が頻発し、発汗著明、四肢筋硬直、五月二八日には失明し、全身痙攣はしだいに頻発し、刺激に対する反応が全くなくなり、手足を屈曲し、変形強い」

この田中しず子が入院した四月二三日、妹で二才の田中実子が発病する。医師のカルテには次のように記載されている。

「田中じつ子、満二才一一ヵ月。三一年四月二三日足許がフラフラし、歩くのが不自由になり手の運動がまずくなる。同時に言葉が不明瞭になり、右膝、右手の指に痛みを訴える。五月七日起立は可能であるが、歩行は全く不能、握力も減弱、食物を口に入れて与えても咀嚼せず、軽度の嚥下困難、発語障害は増強し、聞きとれなくなり、首が坐らなくなる。五月八日ぜんぜん食事をとらない。不眠、五月一〇日まったく物をつかむこともできなくなる。五月一四日咀嚼嚥下障害は軽減したと思われるが言葉は全くでない。」

またこの二姉妹の母親の話によって隣の家にも同じような女の子がいるという驚くべき事実を医師たちは知らされたのである。

右の医師のカルテは淡々と簡潔に書かれてはいるがこの病気の恐ろしさを十分物語っている。その隣家の五才の子、江郷下カズ子は同年四月二八日ころより発病、さらに一一才の兄が五月八日発病、母が五月一六日発病、加えて八才の弟が六月一四日に発病してゆく。

いちばん最初に発見されたのは子どもばかりであったので、小児麻痺なども考えられたが、しだいに大人の患者も発生していることが確認された。チッソ付属病院の細川院長はこれらの患者を前にして思いあたることがあった。それはここ二、三年来原因不明の神経疾患の患者を診察していたことであった。付属病院にも二人の患者が入院しすでに死亡していた。

(2) 昭和三一年五月二八日に発足した水俣市医師会、保健所、チッソ(当時、新日窒)付属病院、市立病院、市役所の五者による奇病対策委員会は、六月中には多数の患者を確認し、さらに、これらの奇病が地域的に限局多発していることから、とりあえず伝染病の疑いで患者の隔離、消毒を行なうと同時に、七月八日には湯堂から二名を、七月二七日には付属病院にすでに入院していた八名を日本脳炎の疑いで隔離病棟に移した。隔離病棟に移したについては、細川院長や市役所には、そう処置することで市民の不安を解消し、患者の医療費が免除されるという、好意的なまた政治的な配慮もあったのであるが、患者はそれを嫌ったし、結果として患者への他の人々による差別を増長することとなった。たとえばさきの田中さんの家では子ども二人と母親が隔離病棟に入れられてからというものは、近所の人が寄りつかず、子どもたちが店に買物に行ってもお金を受け取ってもらえず、売ってももらえず泣いて帰ってきていた。道で知人に会ってもそっぽを向かれてしまうようになった。親戚の人も寄りつかなかった。それは大変つらいことで、患者家族たちは人に会わないように線路づたいに隠れるようにして病院と家のあいだを往き来したという。

一方、同じ三一年の八月二九日には、細川先生の名で県の衛生部予防課を通じて、厚生省に水俣病の報告書が提出されている。細川先生の報告書は、次のような書き出しではじまっている。

「昭和二九年から当地方において散発的に発生した、中枢性の痙性失調性麻痺と言語障害を主徴とする原因不明の疾患に遭遇した。ところが本年四月から左記同様の患者が多数発見され、とくに月ノ浦、湯堂地区に濃厚に発生し、しかも同一家族内に数名の患者があることを知った。なお、発生地区のネコの大多数は痙攣を起こし死亡したとのことである。よってただいままでに調査した約三〇例を得たので、その概要を記述する。」

さらにレポートは年度別、年令別、性別、職業別、地区別にそれを表にし、家族内多発について、「同一家族内に二人以上の患者を出したもの五家族、同一家族内は四名を出しているところもある」という。そのほか近所、隣、親戚、知人など、家族間の往来の激しいところに患者発生の多いことを記載している。

臨床症状については「症状および経過の外観。本症は前駆症状も発熱などの一般症状なく、きわめて緩徐に発病する。まず四肢末端のじんじんする感があり、ついで物が握れない。ボタンがかけられない、歩くとつまずく、走れない、甘ったれたような言葉になる。またしばしば目が見えにくい、耳が遠い、食物が飲み込みにくい。すなわち四肢の麻痺のほか、言語、視力、聴力、嚥下障害などの症状が、あるいは同時に、あるいは前後してあらわれる。これらの症状は多少の一進一退はあるが、次第に増悪して極期に達する(極期は最短二週一間、最長三ヵ月)。以後暫時軽快する傾向を示すも、大多数は長期にわたり、後遺症として残る。なお死亡は発病後二週間ないし一ヵ月半のあいだに起こるようである。合併症として肺炎、脳膜炎様症状、狂躁状、並びに栄養不良、発育障害など。後遺症として四肢運動障害、言語障害、視力障害、まれに難聴など」。さらに「予後ははなはだ不良で、患者数三〇名中死亡者一一名、死亡率は三六・七%である。死を免れた者はほとんどすべてが前述の後遺症を残す。治療。ビタミンB大量療法、副腎皮質ホルモン療法、抗生物質、コーチゾンその他を使用したが、その効果については結論が出ていない」など、報告をしてある。

さらに症状については次のとおり多数な内容を同報告書は指摘している。

症状

出現

例数

調査

例数

運動麻痺(両側対様性、痙性失調性)

30

30

100

言語障害(断綴性)

27

30

90.0

知覚異常(手・足・口周囲がじんじんする)

15

24

62.5

運動失調

ロンベルグ

15

24

62.5

指鼻試験・踵膝試験

13

24

54.2

腱反射

膝蓋並にアキレス腱反射

減退

1

27

3.7

正常

11

27

40.7

軽度亢進

11

27

40.7

高度亢進

4

27

14.8

二頭筋並に三頭筋反射

正常

21

27

77.8

亢進

6

27

22.2

足間代陽性

4

27

14.8

視力障害

軽度

10

30

33.3

高度

3

30

10.0

眼科検査

視野狭小

5

14

35.7

視神経炎

3

14

21.4

異常なし

6

14

42.9

震頭(手・四肢・全身)

12

30

40.0

聴力障害

5

30

16.7

嚥力障害

5

30

16.7

筋強剛

5

30

16.7

頭痛

5

30

16.7

精神異常

5

30

16.7

知覚麻痺(軽度)

4

24

16.6

流涎(小児)

3

30

10.0

不眠

5

30

16.7

痙攣(小児)

3

30

10.0

病的反射

2

25

8.0

これらの臨床症状は、今日の場合と基本的に何ら異なるものではない。

またこの三一年に患者は五一名となり、うち最も早い発病は昭和二八年であった。

(3) 昭和三二年六月二四日第三回熊本大学医学研究班報告会が開かれた。この席で臨床症状は小脳症状が主徴で、ほかにしびれ感、言語障害、聴力障害、求心性視野狭窄、振戦とまとめられ、又武内教授は、病理において水俣病にきわめて特徴的な神経系の障害を明らかにしている。それは大脳皮質の選択的障害と、小脳皮質における顆粒細胞層の変化という、他の疾患にはきわめて稀な変化を示しているということであった。

昭和三三年三月一三、一四日の二日間水俣を訪れた英国の神経学者マッカルパインは、一五名の水俣病患者をみて、視野の狭窄、難聴、運動失調などの症状は英国のハンターラッセルの報告した有機水銀中毒にきわめて類似しているという重要な示唆を与えた。

(4) チッソ水俣工場の排水は、大部分は沈澱池を経て百間港に放出されていた。患者の発生原因として排水が疑われるようになると、チッソは何を思ったか、昭和三三年九月問題のアセトアルデヒド排水を八幡プールを経て水俣川川口に放出しはじめた。その結果患者は不知火海沿岸一帯に広がってゆく。これこそまさに人体実験ともいうべきものであった。水俣川川口で大量のアユが死亡し、翌三四年五月には天草の御所浦でネコが死亡し、北の津奈木、南の出水市で患者が次々に発生した。

(5) ところで水俣病患者およびその家族は昭和三二年八月一五日被告との交渉、会員相互の助け合いを目的として水俣病患者家庭互助会を結成、会長には渡辺栄蔵が就任した。昭和三四年、漁民騒動や原因究明のめまぐるしい動きの中で、これら患者たちはあいかわらず不安と貧困におびえ、孤独であった。患者互助会は同年一一月二五日、チッソに対し患者七八名の補償金として総額二億三、四〇〇万円を要求し工場と交渉をはじめたが、工場側は原因不明を理由にこの要求をけり、互助会会員は同月二八日から工場正門横にテントを張りすわり込みをはじめた。

そのようなきびしい情勢の中で患者互助会はついに、寺本熊本県知事らを中心とする水俣病紛争調停委員会のあっせん案をのまされる。暮も押しせまった一二月三〇日、この案をのまなければわれわれ調停委員会は手をひくといわれ、患者たちは生活の苦しさと孤立した闘いの中でついに涙をのんでその見舞金契約に調印した。死者弔慰金三〇万円、生存者年金一〇万円、未成年者年金三万円、葬祭料二万円が主な内容であった。(甲第一五号証)

この契約書の中には破廉恥な文章が書きこまれてあった。今後水俣病の原因がチッソにあるということがわかっても、補償金を値上げは一切行わない。もしチッソと関係ないということがわかれば直ちに補償を打ち切るという項目であった。さらに、第五条には今後水俣病患者の認定は公的機関によるという一項目が入っていた。

(6) 胎児性の子供達は長い間脳性マヒとして放置されていた。昭和三六年三月二一日一人の子供が死亡し、解剖されその所見で胎児性水俣病と認定された。同三七年九月一五日また一人の子供が死亡した。この子も解剖され病理所見で水俣病であることが明らかになった。同年一一月二五日熊本医学会がひらかれ武内教授らから二例の子供たちの解剖所見からこれら脳性マヒと考えられていた患者は、メチル水銀が胎盤を経由して起こった中毒であるという発表を行なった。同月二九日の審査会は一六名の胎児性水俣病患者を認定した。

(7) 昭和四三年九月水俣病についての政府の正式見解が発表された。「熊本水俣病は新日窒水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し、新潟水俣病は、昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤をなしたと判断する。」

この後水俣病を隠し続け、苦しみつづけて来た人の認定申請が相次いだ。公害認定後、チッソ江頭社長は、患者遺族におわびする。補償は誠意をもって話し合うと語り患者家庭をわびてまわった。その後補償の交渉が患者家族互助会との間で続けられたが、結局チッソが具体案を示さず話し合いはつかない。ようやく翌四四年二月に厚生省は第三者機関の設置を決め正式に調停にのりだす。

しかし、そのとき厚生省は患者互助会に対しこの補償処理委員会の結論には一切異議なく従うとの確約書の提出を要請した。その結果患者互助会内部に、これをやむをえないとするいわゆる一任派と、それを拒む自主交渉派との間に分裂がおこり一任派はのちに厚生省のあっせん案をのむのに対し、自主交渉派はその後訴訟を決意してゆく。昭和四四年四月一〇日互助会一任派はさきの確約書を厚生省に提出する。一方同年六月一四日訴訟派二九世帯一一二名は熊本地方裁判所に対し、総額六億四、二三九万四四四円の損害賠償請求の訴えを起こしてついに水俣病裁判が提起されたのである。水俣病正式発見の日からじつに一三年を経過していた。

(8) 以上が第一次訴訟提起までの患者の側からみた経過の大要である。今日認定患者数は一、四一六名(熊本一、二〇一名、鹿児島二一五名)、申請者数は五、七三七名に及んでいる。

水俣病患者はこの長い歴史の中で、肉体的、精神的にまた社会的にきわめて悲惨かつ不幸な状態におかれ続けて来たのである。

(二) 発症経過中の苦しみ

原告らはそれぞれ水俣病発症前、健康で楽しい生活を送っていた。ある人は一人前の漁師として、又ある人は商店主として、又ある人は主婦として、それぞれ自分の人生を精一杯生き、又家族の中でそれぞれが大切な役割を果していた。

しかし、原告らの摂食した魚介類は徐々に原告らの体をむしばんでいた。

原告らはついに発症した。水俣病の悲惨さを知っている原告らが、自分が水俣病に罹患したことを知ったとき、いかに苦しんだかは想像を絶するものがある。まず自分の病気は水俣病でないことを強く願い、しかし一方では水俣病ではないかという不安は絶えずつきまとっていった。

吉田健蔵は次のようにのべている。

「自分もそういうことになったもんですから、ああいうことになるかなて、こりゃもうショックを受けて、病院に行くこともちょっと悩んどったんです。」

ああいうことをいうのは当時隣に住んでいた柴田広志のことである。

「(問) どんな状態でしたか柴田さんという人は。」

「(答) 見た瞬間はわあ大変な病気だな。人間もああいうことになるのかなと感じたんです。そのときあんな頑丈な人が目ばかりひょろひょろして物は言えず『あわ、あわ、あわ』叫んで、歩くこともできずになっとったもんですから、私たちも非常なショックを受けてこれは大変だなということを感じました。」

自分もああなってしまうのだろうかという不安は、はかりしれないものがある。まして、その人が歩くこともできず、物も言えずそして遂には死んでいく。そういった状態をまのあたりにしながら毎日病気の悪化を心配しつづけるのである。

さらには、自分が水俣病であると確信していてもそれを大きな声ではいえない。伝染病説があり、また一方では魚がうれなくなるという事態を招来するからであった。

吉田健蔵は昭和四八年に認定申請しているがそのときの部落の空気について次のようにのべている。

「そのときはまだ部落の人から白い目で見られたり、道を歩んどって人とのすれ違いに後を振り返って見られて、何か悪いことでもしたかのように。人からそういう感じをうけました。」

昭和四八年に至っても申請者をこのように異端視する部落の目があるのである。

そのほか、息子や娘の結婚に障害になるのではないかという不安や、あるいは、金めあて、金ほしさからの申請ではないかという中傷にたえながら、長い間耐えつづけて来た原告たちはようやく申請にふみきるのである。

原告らはいろいろな中傷や苦悩の中で、長い間自己の水俣病を隠し続けねばならなかった。しかし、それも水俣病による肉体破壊、生活破壊は遂に原告らを申請へとふみきらせるのである。

水俣病の肉体破壊は、すでにのべたとおり全身的なものであり、きわめて深刻である。多くの人は生活手段たる仕事をやめざるをえなくさせられる。

申請後も原告らの苦しみは続くのである。また、度重なる検診、そして待ちに待った処分においては、保留や棄却処分を受ける。

原告らは、発病後一〇数年から二〇年という長い間、かたときも水俣病から解き放たれることなく、そしてその病気に対する何の慰謝も与えられずに今日に至っている。水俣病に罹患し、自殺を考えた人も多く、また現実に自殺した人も何人も存在する。

そして、これまでの長い間のみならず、将来も原告らはずっと水俣病による肉体的、精神的破壊、生活破壊から死ぬまでのがれられないのであり、病気の悪化の不安にたえず悩んでいるのである。

なお、被告の被害者に対する態度についてのべる。

被告はすでに第一次訴訟において自己の責任を争ったが、昭和四八年三月裁判所は、被告の責任を明らかにした。水俣病正式発見から実に一七年ぶりのことである。被告は自己が水俣病の原因者であることを知りながら見舞金契約を押しつけ、裁判所がその責任を明らかにするまで患者を放置した。その後、患者との直接交渉の中で協定書が同年締結された。その中で被告は、以後自らが患者発見につとめ、救済のために全力を尽すとしながら今日まで自ら積極的に患者を掘りおこす努力もせず、逆に、今日亡森本與四郎の例にみられるように協定書を骨抜きにしようという態度にでている。

右の結果、本件原告らは長期にわたって救済を拒否し続けられ、苦しみを倍加させられたものであり、被告はその責任を認定審査会に転嫁することは許されないのである。

(三) 肉体的破壊

水俣病患者を現在まで苦しめている最も根源をなすものは、原告らの深刻な肉体的破壊である。

原告らの苦しみは本項以下にのべる通り、全身的な患者自身の肉体的破壊から始まり、自己の人生の営み、即ち仕事において、家庭において、地域社会の中で、過去・現在・将来にわたって自己の役割を喪失させられ、人間らしい生活を営み人間としての生甲斐をもつことが不可能ないしは著しく困難になってしまった苦しみの総体である。

対等・平等の人間関係の中からしか真の人間の幸せが生れないことは自明の理である。それらの苦しみは、結局のところ原告らの肉体的破壊から必然的に生じたものである。

この裁判にたずさわる者は、まず原告らを最大限理解しようと努力すべきである。そのためには原告らの今もなお続く肉体的破壊を深く理解しなければならない。以下原告らの肉体的破壊をのべる。

(1) 頭痛、頭量

「頭が痛い、頭が重い、カマをかぶった様な感じ、特に雨天の前がひどく痛む」

水俣病患者の頭痛は一過性のものではない。それはたえず水俣病患者を苦しめる。継続的な頭痛は患者から楽しみを奪い精神を荒廃させる。

(2) 倦怠感、易疲労感

「つかれやすい、体がだるい、何もしたくない、体がきつい」

水俣病患者から生きがいを奪う倦怠感。何もしたくないという感情は生きる意欲を失わせる。他人からは元気そうにみえ、何もしないとなまけ者扱いされる。仕事のできない苦しみ、家に一日中ごろごろしていなければならない苦しみが患者にはある。

(3) 記憶力減退

「よく物忘れする、どこに物を置いたか忘れる、約束したことを忘れる。」

家族や他人との約束が守れない。大事な伝言を忘れる。その結果人は患者の言うことを信用しなくなる。また患者に対して物事をたのまなくなる。また、物をどこにおいたか忘れて長時間探しものをしなければならなかったり、炊きものや煮物をしていることを忘れてしまってこがしたり、食べられなくなったりする。

(4) 耳鳴

「キーンという金属性の耳鳴がする。セミがないているような耳鳴がする。ワァンワァンという音がする。」

水俣病患者の耳鳴は四六時中患者を苦しめる。この苦しみはなんびとといえども容易に理解しうるであろう。断えることのない耳鳴。我々はこの一つの障害だけをとってみても、極めて大きな苦痛を感ぜずにはいられない。

(5) 聴力障害

「耳がきこえない。電話がききとりにくい。」

傍の者からみると、テレビの音が非常に高い。人から何か話しかけられても、よく聞こえない為に何度かききかえす。何回ききかえしても、わからないときは適当にうなづいてしまう。そんなことのために人との会話ができない。自然に人前に出ることが苦痛になってゆくのである。また、人から舟がぶつかると大声で注意されてもそれがきこえず衝突してしまうなどの例もある。また家庭生活においても家族関係がうまくいかない原因となるのである。

(6) 意識障害、発作、めまい、たちくらみ、てんかん発作など

「意識がなくなってたおれる。めまいがする。」

立津証言(昭和五〇年一〇月八日、六六項以下)は次のようにのべている。

意識障害発作というのは、私は非常に重要視しているんです。ここではとにかくはっきりして、まあこれは患者さんの言うとおりを書いたんですが、気が遠くなって倒れそうになるんで、じっと台所の壁につかまっていたりして、じっと耐えているという状態、あるいはしゃがみ込んでしまう、そういう意識障害の発作が三七・七%出ています。この意味は我々患者さんを検診するのに二時間か三時間ぐらいかけるんですが、その間にもこういった発作のくる人をちょいちょいみるですね。これが重要だというのはやはり何か水俣病の場合には、脳の血液の循環にもかなりの障害の起こる場合が多いんじゃないかとそういうふうな臨床面からの基礎として私、非常に大事に考えております。

てんかんという項目がありますけれども、これも水俣病との関係等についてですね。てんかんには体質によって起こるもの、これを真正てんかんといいます。脳に傷があって起こるもの、これを症状てんかんといいます。症状てんかんというものが、水俣病で八・九二%みられておりますが、これは非常に高率なんです。普通いろんな意味のてんかんを含めまして一般の住民検診をやりますと、大体〇・三%か〇・四%ですね。非常に高いです。ただし、この場合のてんかん発作はちょっと非定型的な形でしてね。ここにも書いてありますけれども間代性のけいれん、ぴくぴくとするけいれんに意識の混濁が伴う場合と、意識の障害の伴わない場合がある。こういった意味で非定型です。典型的なてんかんというのは、初めきゅうっと硬直性のけいれんがあってから間代性のけいれんがきて、同時に意識を失うのを言います。これもやはり私、脳の血管障害の兆候じゃないかとみて、その中の多くのものはですね、みております。そしてもう一つ、私、誤解がないようにしますのは、てんかんとかいろいろ書いてございますけれども、ほかにやっぱり知覚障害とか失調とか、水俣病のほかの症状も同時にもっているということなんでして、てんかんだけだということじゃないんですよ。

また、意識障害発作の患者の生活に与える影響の深刻さについて立津証言(昭和五一年三月一九日七四項以下)は次のようにのべている。

最初にちょっとおっしゃっていただいたわけですが、意識障害発作というものが、患者さんの生活に対する影響といいますか、それはどのように考えられるでしょうか。

意識障害の発作というのは、非常に危険なもんです。道路上で倒れますというとやはり怪我をするし、あるいは交通事故に遭うし、そういった発作を持っていると、自動車の運転ができないし、あるいはあつい湯、火のそばには行けないし、それから高いところに登って落っこちる。職業も制限されますし、泳げないし、水の中でそういった発作を起こすというといろんな溺死したり、いろんな意味で障害を起こすんじゃないでしょうかね。

やはり、これも最初にちょっとおっしゃっていただいたんですが、病気全体の進行に対する意識障害というもののかかわりといいますか、それについておっしゃっていただきたいんですけれども。

これは要するにどっちにしましてもその意識障害発作を繰り返しますと、神経細胞がやはり障害受けるんです。血行障害にしろ、あるいはそうでないほかの我々普通見る体質的に起こるてんかんにしろですね。で、そういった意識障害の発作を繰り返していくと、やはり人間の精神、知能と情意面の障害、それに障害が起こってきますね。知能と性格に変化が起こってきます。こういった発作を繰り返すということはやっぱりよくないです。

(7) 求心性視野狭窄・視野沈下

求心性視野狭窄は自覚されにくい側面をもつが、ものにぶつかりやすくなる、かもいに頭をぶつけるなどの生活障害が惹起される。ことに自動車、自転車などの運転のほか、歩行も含めて道路においてはきわめて危険な症状である。

(8) 目が疲れやすい、新聞の字が読めないなどの症状

テレビをみていても目がつかれる。新聞の大きな活字しか読めない。本が読めない、たえず目が充血している。これらの症状は、患者から新聞を読み、テレビを見るというあたりまえの生活を奪ってしまった。

(9) 眼球運動異常

目がものに追いついていかない。動くものを目で追うという挙動が、視野狭窄とあいまってきわめて困難である。

(10) 不眠

「夜ねむれない、ねても眠りが浅く何度も何度も目をさます」不眠もまた患者に対しきわめて苦痛を与える症状である。

(11) 言語障害

「ことばがうまくしゃべれない、ことばがでにくい、舌がもつれる。」言語障害もまた家庭生活上、社会生活上きわめて支障を与える障害である。

考えるのがむずかしい、物忘れするなどの自覚症状とあいまって人前であいさつしたり話することが困難になる。

言葉がおそいためすぐ答えられず、そのようなことがつづくと人が話してこなくなる。

言語障害は患者が人との交際に積極的でなくする一つの原因ともなっている。

(12) 知覚障害、知覚異常

「手・足がしびれる、手足がじんじんする、手足がじがじがする、足袋をはいた感じがする、口の周りがしびれる。」

知覚障害も患者に常時苦痛を与えるだけでなく、タバコの火で手をこがす、こたつで足をやけどする、入浴の際患者が入ったあとの湯はあつすぎて入れないなどの事例が多く訴えられている。また厚いフトンを足にのせてねただけでしびれが増強してどうにもならなくなるなどの訴えもある。

(13) 味覚障害、嗅覚障害

「味がわからない、においがわからない、ものが昔ほどおいしくなくなった。」

これらの障害は炊事をする主婦にとってきわめて苦痛である。来客のための食事がうまくできない、からい味付になる、などの現象としてあらわれる。

また主婦にかぎらず患者は本来楽しくあるべきな食事が全く味けないつまらないものになってしまったのである。

(14) 運動失調(上肢)

「ボタンかけがうまくできず時間がかかる。ちゃわん、はしをおとす、網の修理が出来ない。手が不自由である。ものをとりおとす。何かしようとすると手がふるえる。指先がきかない」

手がうまくつかえないために、手指のケガが跡をたたない。主婦は細かい手仕事ができず、漁師は網の修理ができない。

水俣市袋中学校での検診の結果によれば三九・九パーセント(八九例)に神経所見がみられており、アジアドコキネーゼ二〇例、ヂスメトリ九例、軽度失調一三例を数えている。(甲第一二八号証)これらは有機水銀が子供達にも障害を与えている事実を示しており重要である。

また、文字がうまくかけず物を書くことをあきらめる場合も多い。

(15) 運動失調(下肢)

「ころびやすい、つまづきやすい、スリッパやぞうりがぬげやすい」

下肢については次にのべる歩行障害ととにも右のような障害があらわれている。

(16) 歩行障害

「長く歩くことができない。ゆっくりしかあるけない。フラフラする。歩いてもすぐ休む。走ることができない。」

患者は普通の人と一緒についてあるいてゆくことは困難である。手すりにつかまらなければ階段の上り下りはほとんど不可能である。二〇〇メートルしかはなれていない風呂屋に行くのが苦痛で自宅に風呂を作った患者もいる。歩くことができないことは患者にとってきわめて苦痛であり将来の不安をかきたてられる。

(17) 平衡機能障害

「ふらふらする。」

歩行障害とともに、漁師にとっては舟の上で安定を保つことが不可能となって海におちる。舟の上で立てないため仕事ができない。

(18) 脱力

「力が入らない。手、足がだるい。」

手に力が入らない、あるいは足に力が入らないということは、力仕事ができないことを意味する。漁師であれば網を引くことができない。

一家の支えである者が、ちょっとした力仕事さえ一切できないことの苦しみは想像するに余りあるものである。

(19) 振戦・ふるえ

「手・足のふるえ、時には全身のふるえ」

字がかけない。常時手・足のふるえが来ている。

(20) からすまがり(こむらがえり)

「手・足がつる。指がつる。」

(21) 流涎

「よだれがでる。」

(22) 嚥下障害

「ものをのみこめない。のみこむのに時間がかかる。」

(23) 筋搦

「体がぴくぴくする。筋肉がぴくぴくする。」

(24) 関節痛

「手足のいたみ」

(25) けいれん

(26) 膀胱排泄障害

(27) 性的機能障害

(28) 高血圧

(29) 知能障害

「考えがまとまらない。計算ができない。」

水俣病患者の場合簡単な計算ができなかったり、社会的な出来事を忘れていたり、知らなかったりする障害が多い。

袋中学校生徒の検診においてその二九・五パーセント(六六例)に精神所見がみられており、精神科医の診断による精神遅滞は三九例(一七・五パーセント)ときわめて高い出現率がみられ、これはメチル水銀の影響が子供達に及ぼしている影響として重要である。

(30) 性格障害

これまであげてきた障害は必然的に患者の性格を障害する。社会生活を拒絶ないし嫌悪する症状、無気力、不活発、イライラしやすい、おこりっぽいなどの種々の発現形態がある。その障害を組分けすれば、

イ 情動面の障害

感情の動きの鈍いもの、多幸的に強迫笑の傾向のもの、怒りやすいもの(視野狭窄の者に多い)などがある。

ロ 意欲面の障害

無為、無気力、疲れやすく、我慢できず、反抗的で、物事に固執的である。

ハ 対人関係の障害

異常なはにかみ、無愛想、孤独的である。学校などでも友達がなく遊べない。

前述の袋中学校の生徒にも「表情は暗く、鈍く、動作不活発、積極性がなく、緊張性低下、大儀そう、無気力、親しみ難く、恥かしがり、視線を避け、不関で鈍重である。口数も少なく、思考もおそく、はきはきしたところがない」などの所見が多くみられる特徴をもっている。(甲第一二八号証)

以上のとおり水俣病患者は多くの症状をもち日夜苦しんでいる。患者の中には外見上健康な人と何らかわらないような体つきをしている者があるが、その肉体、精神はもはや健康な人のそれとは全く別のものである。これまであげた以外にも、白木証言のとおり、メチル水銀は全身にくいこみ、血管障害、肝障害、腎障害、糖尿病をはじめ、かぜをひきやすいなど他のあらゆる病気を惹起させる素因をつくるのである。これらの症状は年をとるにつれて重くなり、その不安が一層患者達を苦しめるのである。

(四) 家庭生活破壊

以上のとおり水俣病患者は多くの症状によって日夜苦しめられている。その症状はそのほとんどが、患者のみならず家庭生活を暗くさせるものばかりであった。しかも、水俣病の症状は家族全体に及んでいるのである。

また、患者家庭は大なり小なりその生活の糧を海に依存していたので、その家族はすべて、患者と同様の侵害を受けた。分りやすくいえば、一人でも患者の発生した家庭においては、家族全員水俣病に罹っているとさえいえるのである。その結果は、患者家庭の完全な破壊を招来するとともに、残虐な病苦に悩む患者から治療と看護を受ける機会すら奪い去った。健康な家庭に一人だけ患者が発生したような場合と、比べようがなく、その苦しみの世界は全く異なる。

また、家族集積率が高いため、病人が病人を看護せざるをえず、したがって最少限度の看護をすることも、また受けることもできない。

原告家族の陳述書などに切々と訴えられているとおり、小さな子供達も暗い家庭の中で水俣病とたたかいつづけてこなければならなかった。ある者は中学校にもほとんどいかず、父の代りに漁に出たり、とって来た魚を母と共に行商に出なければならなかった。

またある子供は、父や母が、祖父からなまけてばかりいると叱られているのを毎日のように辛い気持で見、そして耐えていかなければならなかった。これらの深刻な実態は各論において詳細にのべられるところである。

水俣病は環境破壊を原因とする被害であるから、汚染海域を生活の場とする住民が家族を挙げて水俣病に侵されることになるのは当然である。本件原告は、ほとんど全部、メチル水銀の影響をうけている。

このことは、第一に原告患者が、激しい苦しみを受けながら家族の看病も十分に受けられないことを意味する。医療行政は何ら人間らしい救援の手を差し延べなかった。このことは、患者原告の苦しみを数倍にした。先に述べた病状に苦しみながら、温い家族の看護も十分に受けられない苦しみがある。

第二に、本件においては未だ患者としての認定を受けていない家族達の苦しみの深刻さを示すことになる。家族の中につぎつぎに水俣病患者が発生してくる驚きと恐しさは、言語に絶する。しかも、この患者達に対する看護のためには、家族は家業を一時放棄するほかなく、このことは直ちに生活の困難につながる。この場合の家族の苦しみの深さは、測ることができない。家族の固有の慰藉料を認めるについて、民法第七一一条の制限を加えることは極めて不当と言わねばならない。

ゆえに、水俣病の患者・家族についていえば、兄弟、姉妹、祖父、祖母等の関係においても精神的に深刻な打撃を受けることが多いのであって、固有の慰藉料を認めるべき十分の理由が存するのである。

(五) 日常生活破壊

水俣病患者の肉体破壊は、患者の日常生活を破壊した。朝目がさめても体が重い。仕事ができない。絶えずおそう耳鳴、頭痛と倦怠感。治療のための通院さえも苦痛な毎日。食欲がなく、食事もうまくない。新聞も細かい活字が読めず、テレビも長い時間みていると目がつかれる。家にばかりいると、なまけ者のようにいわれる。このような状態の中でちょっとしたことでもイライラしやすくなり、家族と喧嘩する。夜も眠れない。眠ったかと思うとすぐ眼がさめてしまう。

このように患者の日常生活は水俣病とのたたかいの毎日である。その中である者は絶望し、自殺まで考えてゆくのである。この点も各論において詳細にのべたい。

(六) 社会生活破壊

すでに明らかなように、水俣病は他人との交際がきわめて制限された状態におかれる。原告坂本武喜の場合がその典型であろう。武喜は、人とのつき合いがいやで夏でも戸を閉めきって、暗い家の中にじっとしている。

原告吉田健蔵も、人からの言葉がよく聞きとれず、また自分の思うように口がかなわないので人とは話したくなくなったとのべている。

また水俣病患者は、人々の「金ほしさ」だとか「なまけ者」だとかいう偏見をいつも心に感じていなければならない。原告患者らは、なりたくて水俣病となったのではない。

しかし、これら何の罪もない、原告患者らは、多くの人々の偏見の前で今日もなお肩身のせまい思いに耐えていかねばならないのである。

(七) 病理の面からみた水俣病

(1) 水俣病の主要な症状と病理(昭和四七年九月七日原田正純証言・甲第三七四号証)

水俣病においては、中枢神経および末梢神経(ことに脊髄前根・後根)の神経細胞の萎縮、または崩壊、脱落があり、それによって患者は深刻、凄惨な症状に刻まれた。その苦痛は言語に絶するものがあり、これが水俣病を最も恐るべき公害たらしめた。その症状と病理の概要は、つぎのとおりである。

イ 大脳症状

大脳皮質の障害であって、大脳皮質全般にわたる破壊(失外套症状を呈する)から前頭葉、後頭葉、両側頭葉、中心前後回などのそれぞれの障害にいたる段階がある。

(イ) 失外套症状は最も重篤な症状であって、痙攣、言語・運動いっさいの喪失、原始反射、手足の変形等がある。この場合、いっさいの人間機能を失ってしまっている。動きとしては、錐体外路症状としての手足のわずかな動きがあるに過ぎない。

(ロ) 後頭葉障害

視覚を司る分野であって、この障害が水俣病患者においては、多少の症度の差はあっても、最も普遍的である。視野狭窄が主症であるが、その狭くなった視野の中において、さらに視力の脱落さえある(同証人調書四八~四九項)。

その結果、この症状がある患者は、常人のように道や店の中を歩くことができない。いたるところで人や物体と衝突するし、また物を落した場合にこれを探し出すことができない。現在の道路交通法では、自動車の運転免許を取ることはできる立場になっているが、もし車を運転したとすれば、自他ともに大事故の危険に常にさらされている。

(ハ) 前頭葉障害

知能障害、知覚障害をきたす。水俣病の特徴として、成人の場合には前頭葉を侵されることが尠く、小児水俣病または胎児性水俣病においては前頭葉を侵されることが著しい。このことは、前節の症例に述べたごとく、成人においてはその苦痛を未曽有の深刻なものたらしめ、小児性、胎児性においては終生、知能指数の低い、白痴たらしめるのである。しかも前頭葉の障害は症状の外観的軽減も全くない。

(ニ) 側頭葉障害

聴力障害をきたすのであるが、たとえば選択的に高音が聞えないとか、また、さらに深刻な場合には他人の言葉が音としては聞えても意味を理解することが全くできない場合がある。

(ホ) 中心前回、中心後回の障害

手足、唇、舌等の体覚、および性感覚の障害をきたすのであって、体覚の深部麻痺、および性行為の不能をきたす(脊髄障害による場合もある)。その患者の受ける苦痛の深刻さはおして知るべきものがある。

ロ 小脳症状

(イ) 歩行失調

バタバタ足をたたきつけるようにして歩む。

(ロ) 筋肉の緊張低下、ヒョロヒョロ歩き、首のすわりがわるく、脱力感が強い。

(ハ) 筋肉運動の発動・停止機能が低下する

その結果、ゲスメトリー(ヒポメトリ、スペルメトリ)、アヂアドコキネーゼ等、手足の双方の平衡調整が全くできない。また、しゃがむとき、踵が上らないのでひっくり返ってしまい、便所にしゃがむことが極めて困難となる。

構音障害、言語障害もまた、この原因から起こる。要するに、全身の筋肉運動に適当な制御を加えることができなくなる。

ハ 錐体路症状

大脳皮質から出る上行性および下行性神経細胞の障害であって、症状としては筋肉の緊張の異常昂進、痙攣、四肢硬直の打込ナイフ現象(以上スパスムス)、リリーティ(強直)、膝蓋クローヌスなどである。いずれも患者に激しい苦痛を与える重篤症状である。

ニ 錐体外路症状

アテトーゼ、ヒヨレア、バリスムスなどであって、手足の振顫、手足の無意識動、つっぱり、硬直などであって、患者から通常の生活をする能力を奪い去る。

ホ 脊髄前根・後根障害(末梢神経症状)脊髄から出る上行・下行神経細胞の障害であって、前根、後根において顕著である。

知覚障害の主因といえる。

ヘ 自律神経症状

流涎、血行障害、手足の冷え(レイノー症状)、白ろう病症状などである。

ト 精神障害(知能障害)

これはイの大脳皮質の障害に基因するものであるが、その障害の実情をさらに詳説する。この症状は、成人・小児を含めて、軽快率が極めて低い。

チ 性格障害

イないしトの神経障害の総合的な影響として、性格の障害をきたす。

(八) まとめ―人間破壊の総体

これまでのべて来たとおり、水俣病は原告患者らをはじめとする全水俣病患者に様々な日常生活上、社会生活上、家庭生活上の障害・苦痛を与えてきており、またそれは今後も患者が生きている限り続くのである。これこそ、まさに人間破壊というべき実態である。

これまでのべて来た他にも、死産、流産の多発の事実があり、また、水俣病はその毒物が胎盤を通じて子孫に遺伝する恐るべき性質を持っている(スエーデンにおける一連の研究により有機水銀が染色体に影響を与えることが判明している)。胎児性水俣病は植物人間までも造り出してしまった。胎児性水俣病もつぎつぎ発見されている。

このことは、水俣湾、津奈木湾その他汚染地区に居住する人達、ことに水俣病患者の家族に深刻な精神的不安を与えている。いつ自分の子孫に水俣病患者が出ないとも限らないのである。

また、奇形児が生まれる可能性(催奇形性―甲第三四号証の二)も動物実験などにおいて確かめられている。また、歯における影響などの報告もある。

有機水銀のもつ毒性の全貌はいまだ明らかではない。しかし今日まで明らかになったことだけからいっても、その毒性のもつすさまじさは、これまでのべたところからも十分看取しうるところであろう。水俣病の被害のより詳細な事実は後に各論において詳しく述べられるところであるが、水俣病患者の苦しみがこれまで十数年・二十年と続いて来たものであり、今後も続くことを考えるとき、このチッソの犯罪行為による地域ぐるみの人間破壊の総体が水俣病の被害として把握されねばならないと考えるものである。

5 本訴請求の正当性

(一) 協定からみた本訴請求の正当性

(1) 本件における損害額を判断するに当って、とくに考慮されなければならないのは、昭和四八年一二月二五日、被告チッソと水俣病被害者の会との間で締結された協定の存在である。

(2) 協定の成立経過をみると

イ 昭和四八年三月二〇日に熊本地方裁判所に於て言渡された。いわゆる第一次水俣病事件判決によって、被告チッソの責任と因果関係が明らかにされ、右判決が確定したおよそ八ヶ月後に協定が締結された。

ロ 第一次水俣病訴訟に於ては被告チッソの犯罪性を含めた責任、因果関係とともに損害の額も争点となり、右原告らの主張がほぼ認容されていたものである。

ハ 協定には、水俣病患者に対し、被告チッソは一定の給付をなすべきことが盛りこまれているが、右は判決をふまえて責任、因果関係損害額を十分に検討したうえで締結されたものである。したがって協定の金額は水俣病患者に対する損害の賠償ないし補償の額として加害者の承認したものである。

(3) 協定適用をうける者

イ 本文第三項は、

「本協定内容は、協定締結以降認定された患者についても希望するものには適用する」

と規定している。

ロ 右「認定」作業はいわゆる認定審査会が実施しているものであるが、之は公的に水俣病患者であることを確定する手続であり、認定された人が希望すれば、その人と被告チッソとの間で協定内容の履行がなされるのであるから、右協定は被告チッソと、水俣病被害者の会との間で締結された第三者のためにする契約である。

ハ したがって協定が適用されるためには「認定」と「希望」があれば足り、水俣病患者の年令、性別、収入、生活障害の程度、症状等による区別はなく、最低でも慰謝料一六〇〇万円という、一率の補償が認められている。

ニ 右は水俣病の被害の深刻さが単に表面に現われた症状の数や程度によって根本的には区別できないとの我々の主張から当然の結果であり、被告も之を認めているものといわねばならない。

(4) 協定に示された給付の内容は次のとおりである。

イ 患者本人の慰謝料

Aランク   一八〇〇万円

Bランク   一七〇〇万円

Cランク   一六〇〇万円

慰謝料につきランクづけがあり、之は症状の程度との関連もあろうかとは思われるが、重要なことはその差が一〇〇万円毎であり、かつ、最低でも一六〇〇万円である事実である。

右金額は、水俣病患者であれば個別の事情のいかんにかかわらず給付される金額である。

ロ 家族の慰謝料

水俣病第一次訴訟判決にならい支給される。

ハ そのほかの給付の主なもの

(イ) 治療費、介護費、葬祭料、患者医療生活保障基金よりの給付

(ロ) 終身特別調整手当

Aランク   一月あたり六万円

Bランク   一月あたり三万円

Cランク   一月あたり二万円

なお右手当の額は物価変動に応じて昭和四八年六月一日から起算して二年目ごとに改定することとなっており昭和五三年六月一日現在の額は、

Aランク   一月あたり一一万円

Bランク   一月あたり五万六〇〇〇円

Cラソク   一月あたり四万円

となっており、

年令五〇才の人がCランクの水俣病と認定されたとすれば、厚生省大臣官房総計情報部編「昭和五〇年簡易生命表」によると平均余命は二五・六〇年であるから、同人が被告チッソからうける終身特別調整手当だけでも一二二八万八〇〇〇円となる。

(5) 本件訴訟との関係

イ 本件訴訟は被告チッソに対する損害賠償請求事件であるが、原告患者らはすべて審査会から棄却の処分をうけたことがあるものである。

ロ 右棄却処分は、審査会が水俣病でないと判定し、被告チッソも之を援用している。原告は右棄却処分の誤りを指摘しつつ原告患者らが水俣病患者であることに立証の主力を注ぎ、被告は、審査会資料を書証として提出し、それを説明する為に武内忠男、永松啓爾の各証人の尋問を行っている。

ハ 右の次第であるので本件の争点はまさに審査会の結論の当否である。

そこで本訴に於て原告が水俣病患者であると判断されることは、本来認定されるべきものが審査会の過誤によって認定されなかったことを明らかにするものであり、とりもなおさず認定されたのと同一のこととなる。

(6) したがっで、原告は、当然協定上の給付を被告チッソから受給し得ていたはずであり、本訴に於て、右給付を下まわる判決が下されるとすればそれは審査会の誤りという患者の責に帰すべからざる事由により患者の権利を奪うことになり不当である。

(7) ところで右協定は締結以来今日まで一〇〇〇名をこえる全認定患者について適用され、実施されて来ている。協定上の給付は、水俣病患者と認められる以上損害の賠償、ないしは補償として社会的にも当然なものとして定着しているものである。

したがって本件に於ても原告が水俣病患者である以上、賠償額として相当な額は協定による事実的な給付額を下回るべきでなく、然らずとすれば、同じ水俣病患者でありながら著しく公平を欠くことになる。

(8) しかしながら、協定上の慰謝料の額は昭和四八年末にとり決められたもので、その後の物価の著しい高騰は顕著な事実であり物価スライドしている特別調整手当も前述の如く約二倍となっている。このことから考えれば協定上の慰謝料は今日でいえば金三〇〇〇万円以上に相当するものである。

原告の本訴請求額は、協定の側面から検討してもひかえめな額であるといわねばならない。

(二) 水俣病の損害

(1) すでにのべてきたとおり、本件各原告はそれぞれきわめて深刻な被害を蒙って来ている。

われわれのいう水俣病の損害とは、原告らの蒙った社会的、経済的、精神的損害を包括する総体をいうのである。

その損害の特質についてはすでに損害論第二でのべた。この特質は十分考慮されねばならない。

(2) チッソ水俣工場は創設以来、美しい水俣の地からその資源を収奪し、多様な工場廃棄物により大気や大地、河や海を汚染し、大自然を破壊しつづけた。人間が人間として生きるために最小限度必要な条件を破壊しつづけて来た。そしてその頂点として水俣病を発生せしめた。

漁民は海を汚され、漁場を奪われ、生活の手段を失った。またチッソは自己が水俣病を発生させたことを知ってからもこれを隠し、工場廃水を排出しつづけて、多くの住民を故意に水俣病に罹患させた。

このように地域社会が破壊される中で患者をかかえた家族の生活は悲惨の一語に尽きた。家族から患者がでることはそれが誰であれ働き手を奪われることであった。家族が常時附添い看護しなければならないこともあった。患者家族の多くは働き手を奪われ収入の道を閉ざされた。そのうえ、患者の治療、看護のための出費を余儀なくされた。

水俣病患者がその地域から発病したということは、その地域の住民によって、その生活を脅すこととして受けとめられた。その地域の魚は売れなくなり、嫁に来手も貰い手もなくなった。

このような地域社会全体で経済的な基礎が破壊されたにとどまらず本来なら助け合うべき地域住民の間にも被告チッソによって断絶といがみあいが生れ、患者に対する迫害が強化されて行った。被告チッソは本来加害者であり、責任を認めて被害の拡大を防止し、損害の賠償をなすべきであったのに原因を隠蔽し、その責任を免れるためあらゆる策動をめぐらした。

このような状況の中で患者たちは、必然的に水俣病であることを隠した。しかし長い沈黙と忍従の後、自己の肉体破壊、生活破壊はついに原告患者らを申請にふみきらせた。しかしここでも又原告患者らに対する厚い認定の壁がたちふさがった。

原告らはこのように社会的な様々の制約を受けながら、今日までなお何ら救済の手をさしのべられずに苦しんでいるのである。

(3) われわれのいう損害は、このように原告らの蒙った社会的、経済的、精神的損害のすべてを包括する総体をいうのであって、たんなる逸失利益を中心におく従来の損害論と異なり、またいわゆる「慰謝料」に矮小化されるべきものでもない。そしてこの損害はすでにのべたように、いわゆる加害行為がどのような形で遂行されていったか、つまり加害行為の違法性・犯罪性の度合と深く関連して捉えられねばならない。この点、富山イタイイタイ病訴訟第一審および控訴審判決は加害行為の違法性と損害論とを明確に関連づけているものとして注目される。

なお清水誠「損害論」法律時報四五巻三号臨時増刊公害裁判第三集二三頁(以下清水誠論文という)は次のようにのべている。

公害事件の特色については、すでに先行する富山イ病判決も新潟水俣病判決も、そしてまた四日市判決も論じたところである。ただ、これらの判決の公害事件特色論が抽象的なものにとどまり、具体的な損害論と結びつかないきらいがあったことからすれば、本件において裁判所がこの点に関するさらに深い洞察を加えることが期待される。私の考えによれば、この種の事件における加害行為の本質は大企業による生産行為=利潤獲得行為であることに存するのであって、それからすれば、人命を犠牲にしての利潤獲得は犯罪的行為であり、利潤獲得のために人命が犠牲にされることは許されない、という原告の指摘する二つの側面は損害論においても当然問題とされなければならないと考えるのである。

ところで、原告最終準備書面は、第一の一(四)の最後のパラグラフで、「チッソが全被害者(一任派たると中公審派たるを問わず)の蒙った全損害を今後永久に担いつづけるべきであるとの原則を明確に示されたい」と主張している。その趣旨は必ずしも明らかではないが、私はこの文章に関連して、公害被害の持続的性格に着目する必要があることを指摘しておきたい。水俣病による被害は決して一回的・一時的なものではなく、継続的・長期的に被害者を苦しめ、さいなむものである。損害は一日一日と積み重ねられ、いつ果てるとも知れぬものである。それは相応しく、長期的な救済を可能にする賠償方式を考案することが今後の課題となるであろう。

(4) すでに明らかなように、水俣病は医学的にも解明されたものとはいいがたく、いまだにその治療方法すら確立されていない。汚悪水に犯された患者の細胞は、こうして裁判をしている間にも、徐々に、あるいは急速に、悪化しつつあるのである。毒は患者の身体を生涯にわたって蝕みつづけているばかりか、その影響は子々孫々にまでいたることが懸念されている。こうした苦しみに加えて、水俣病患者とその家族は、社会的、経済的、精神的差別の中で今後とも生きつづけなければならないのである。

こうした水俣病患者・家族のうけている被害、その身体を犯されあるいは親子肉親の間を天地自然の法則に反して無残にも引き裂かれたことによる被害は、いま訴を提起している原告らだけの問題ではない。

その他の患者家族のそれもまた、本件原告らと同じものなのである。

失われた生命、健康、生活は決して元に戻らないし、原告勝訴の判決が出たといっても、患者、家族の苦しみは、それ以降も続くのである。

(三) 包括請求の正当性

(1) 本訴請求は「包括請求」である

イ 損害論において、これまで述べてきたように原告らが本訴において請求しているのは、被告チッソの犯罪行為によって引きおこされた環境ぐるみの人間破壊にもとづいて原告らが受けた「総体としての損害」そのものである。

原告らは、いわゆる逸失利益と狭義のいわゆる慰謝料を総合した意味での、広義の慰謝料を請求しているのでもなければ、財産的損害を請求しないことを斟酌したうえでの慰謝料を請求しているのでもない。

ロ また、原告らの請求は、財産的損害、精神的損害など損害の何もかも盛り込んだいわゆる「一括請求」ではないのである。

原告らは、すでに繰り返し述べてきたように、水俣病の本質を「被告チッソが不当に利潤をあげつづけるためにおこなった、組織的、計画的、継続的な恐るべき環境破壊と、地域社会荒廃の頂点であり、被告チッソによる殺人である」と捉えている。したがって原告らのうけた被害も、すでに述べたように、必然的に「被告チッソの犯罪行為によって引きおこされた環境ぐるみの人間破壊にもとづいて原告らがうけた総体としての被害そのもの」となるのである。

原告らが請求しているのは、その意味で必然的な「総体としての損害そのもの」となる。われわれは、被害の総体としての請求を「包括請求」と呼ぶことにする。

(2) 従来の個別的計算方法の誤り

イ われわれは本訴訟において、原告らが被告チッソの犯罪行為によってうけた被害を、いろいろな角度から明らかにしてきた。しかし、その結果、患者、家族のうけた被害ははかり知れないほど奥深いものであり、とうてい紙のうえには記録しつくせないものである、ということもまた、同時に明らかになったのである。われわれが明らかにした被害の態様は複雑多岐にわたり、その持つ意味もそれぞれが本質的に重要だった。

逸失利益を中心にすえ、個々の治療費、附添費その他項目をかぞえあげ、それらを合算した財産的損害と、狭義の精神的損害(慰謝料)を合せて請求するという方式の、従来のいわゆる「個別的計算方法」では、水俣病被害の実態と特質を正しくとらえることができないのは明らかであった。損害を正しく評価することはできないのである。

ロ この個別的計算方法は、総体としての損害を金銭に評価するための安易な一つの方式にすぎないのであって、原告らが現実にうけた損害とは異なるのである。これは、損害額の算定が一定の手続と基準によってなされたという理由づけのために用いられる一つの法的テクニックとしてのフィクションにすぎない。

だが、このフィクションとしての個別的計算方法は、もともと細かく切り離すことができない被害を、細かく切りきざみ分解していたことによって、本来正しく評価されなければならない「総体としての被害」の、最も本質的な部分を脱落させてしまうのである。個別的計算方法は、現実にうけた被害を正しく評価して、それに合った補償額を決定するのではなく、個別計算の算定方法自体が補償額をつくりだすようになってしまうのである。

またこれは不法行為による被害をあらゆる社会的環境から個人を抽象化して論ずるものであって、被害の実態を直視する考え方では決してない。人としての尊厳をすべて脱落させた、人間を働く機械としてしか見ない損害の算定方法がいかに誤りであるか、明らかである。

(3) 包括請求を認めるべきである。

すでに繰り返し述べてきたように、原告らの生活は、その根底からすべてが根こそぎ破壊されてしまったのである。家庭は崩壊し、人間の尊厳は侵され、人間としてのすべてが破壊されてしまった。しかもそれは、もはや回復不能なのである。

不法行為制度の本質は、被害が生じなかった状態に戻すことであり、加害者は、その不法行為によって生じた結果を、すべて原状に回復しなければならないのである。それが、不幸にして不可能になった場合は、できうるかぎり元の状態に近づけるようにしなければならないのである。それを可能にするためには、被害を個別ばらばらに認定するのではなく、現実にうけている損害のすべてを総体として捉え、そのまま認めなければならない。

原告らの被害の捉え方にたてば包括請求以外にありえないのであり、これが損害額を正しく捉える方法なのである。

前掲清水誠論文は、包括請求について次のようにのべている。

イ 「私には、本件においては、この原告らが終局的に辿りついたところの「包括請求」という考え方が最も適切な請求方式ではないかと感じられる。その根拠は、原告たちが受けている損害の多様・多面・多角性にあるといってよいであろう。この点において、原告最終準備書面の損害論第五「個別被害の実体―各家族の面から」は、全体のなかでもとくに読む人を動かす迫力をもち、まさに圧巻というべきものである。直接筆を執った弁護士たちは、あるいは必ずしも優れた文学的才能の持主ではなかったかもしれない。水俣病に襲われた家庭の悲惨を思うように描き出せない筆のもどかしさが行間のいたるところににじみ出ている。しかし、それだけにまたこの被害が、財産的損害の諸項目を列挙し、これに精神的損害を添附するといった個別的計算方法では、とても汲み尽すことのできない多角的、多面的、総合的なものであることが、そこにはじつによく示されているのである。この部分は、まさにこれらの三〇家族が時代とともに歩んだ歴史のすべてを読む感がある。この、世にも稀な、しかし現実に厳として存在した三〇のファミリー・ヒストリーを読み返し、反すうしながら、この家族の歴史が受けた損害をどうしたら填補できるのかを思案しなければならないのである。そして、後掲の表に示された金額が果たして不当に高額なものであるかを熟考しなければならないのである。」

ロ 「この包括請求の問題は、立証方法の問題とも密接に関連している。本件訴訟においては、原告家族の歴史を原告自身の供述で綴った供述録取書が提出され、そして昨年七月二四日から一週間にわたって原告たちが暮し、生活する家における本人尋問が行なわれるという、ユニークな立証のための手法が用いられた。これは右にみた包括請求の趣旨に相応しいものであり、そこからどのような成果が生み出されるかが期待されるところである。

裁判所は判決において、これらの証拠調によって、原告たちの受けている被害についてどのような心証をもったかをできるだけ詳細に示すべきであろう。それは、原告の最終準備書面で描かれているものと同じであるかもしれないし、またこれと異なるものであるかもしれない。いずれにせよ、裁判所は原告たちがおかれている状況についての認識を明確に自己の言葉をもって――もちろん認識が一致した場合に原告側の用いた言葉を用いることを排するものではないが――示し、認定する損害額がその認識に照らして妥当なものであることを人をして納得させねばならないであろう。」

(四) 一律請求の正当性

(1) 本訴請求は一部請求である

本訴は「包括損害の一部請求」である。本件における被害は多様であり、はかりしれないほど大きく訴訟手続の中でその全てを明らかにはできない。しかし、本訴においては金額を特定せざるを得ない。そこでやむなく現実にうけた損害よりはるかに小さな金額を請求した。

われわれは不法行為における損害は本来的に原状回復の観点に立っていなければならないと考える。この原状回復のかわりに金銭賠償の方法がとられているのである。人間の生命や健康はなにものにもかえがたい尊厳をもつものであり、金銭によっては償いうるものではない。しかし原告らは金銭による方法以外に救済を求めえないのでやむをえず本訴請求額をその償いとして求めているのである。健康、生命は幾億の金によっても戻ってくるものではないし、また償えるものでもない。原告らの請求はささやかな最小限度のものである。

(2) ランクづけは誤りである

すでに繰り返し述べたように、原告らが本訴において請求しているのは、被告チッソの犯罪行為によって引きおこされた環境ぐるみの人間破壊にもとづいて、原告らがうけた「総体としての損害」そのものである。

原告らは被告チッソによって破壊された同じ自然的、社会的環境のなかで生活している。被告チッソからうけた加害行為もまた、同じである。家庭が完全に崩壊し、人間の尊厳が侵され、生活が奪われてしまったこともまた、同じであった。水俣においては、水俣病患者・家族がうけた被害は、質的に差がつけられないのである。この原告らが受けた被害についてランクをつけようとしても、その正しい基準はありえないのである。

原田証言(甲第三七四号証)が指摘したように、損害を総体として捉えず、細分してその局面だけを比較すれば、あるいはランクをつける基準を設定することも可能であろう。たとえば、人間を歩く機械と考えて、全然歩けない人、一〇〇メートル歩ける人、一キロメ―トル歩ける人というぐあいに。同じように、人間を働く機械と考えて、働ける人とねたきりの人とで差があるというぐあいに。

しかし、人間は、そのような一局面だけでは判断できない。そのうけた被害も、一局面だけを捉えたのでは、損害自体を把握したことにはならないのである。

このように原田正純は、水俣病患者の病状を表にあらわれた「症状」だけでいいえないことを明確に証言している。また仮にランク付けしようとしてもその基準を設定することは不可能である。

原告らが請求しているのは、被告らの犯罪行為によって原告らがこうむった「総体としての損害」そのものである。一体それを全体にわたってランク付けする基準は、どうやって設定できるというのだろうか。

損害を総体として包括的にとらえずに、条件をつけて細分し、その一局面だけを比較すれば、あるいはランク付けの基準を設定できるかもしれない。たとえば人間を働く機械と考えて、何でも働ける人と、制限をうけて働ける人と全然働けない人、という具合に。

しかし、人間をそのように一局面だけとらえて判断してはならない。私たちがくどいまでに被害が多面的に複雑多岐にわたっていることを強調しているのはそのためである。症状の軽重によってランク付をしようとするのも、私たちの被害のとらえ方からいえば暴論である。

以上、要するに社会的・経済的・家庭的・肉体的・精神的その他あらゆる被害が生じているのに対して、そのすべてにわたって比較判断できる基準など設定できるわけがないし、もしそのうちの一部分だけを判断できる基準によってランク付けをすることにすれば、それは他の被害をきりすてることになり重大な誤りを犯すことになるのである。

以上のように、一部請求にしろ、ランク付けの基準の問題にしろ、いずれの理由によってもランク付けをしてはならないことは明らかであり、一律請求の正当性が認められるのである。

清水誠前掲論文においても

「今日の医学的認識をもってしては、ある水俣病患者とある水俣病患者をくらべてそのどちらにより大なる受害が認められるかを確定することはできないということである。その状態において法律家が通俗的な現象的判別によりランクをつけるようなことは許さるべきではなかろう」とのべられている。

(五) 本訴請求額の正当性

本訴請求額は全額認められるべきである。

すでにのべてきたところから、本件請求額が当然認められなくてはならないことが明らかである。

本件原告らが求めているのは原告らがうけた「総体としての損害」をうけなかった状態に完全に回復することである。

その具体的内容として次の三点が考えられる。

まず原告がこれまで受けた被害すべてを評価することである。第二に、将来にわたって充分な生活を保証できる金額と慰謝料を算定することである。第三に原告らがすこしでももとの体と生活にもどれるような努力をつくすために必要とされる金額を算定することである。以上の金額をこまかく算定してゆけば本訴請求がささやかすぎるほどささやかなのは明らかである。またこれまでのべてきた患者各人の被害からみても本訴請求額が実にささやかなものであることは明らかである。

また、まだまだ不十分とはいえ近時、ようやく社会的に妥当な賠償額が認められるようになってきた。それらの例を別紙損害賠償先例として示す。

さらには原告らが将来にわたって一生苦しみつづけなければならないことを考えるときインフレによる物価上昇をも考慮しなければならない。

また、本件のように公権力による認定をくつがえす裁判は到底原告らだけでなしうるものではなく、弁護団の活動に要する費用のみでも多額にのぼる。弁護士費用も当然全額認められるべきである。

裁判所が示される判断のなかで、チッソが全被害者の蒙った全損害を今後永久に担いつづけるべきであるとの原則を明確に示されたい。水俣病被害者に対してチッソとして残された唯一の道がここにあるからである。チッソとして今日の被害者の苦痛をさらに増大すべきいかなる行為も許されないからである。そのため、裁判所においては、その判断にいささかの瞹眛さも残してはならない。また判決後において被害者の要求の桎梏となるべきいかなる判断も避けていただきたい。なぜならば、チッソはここに食らいつき、チッソの責任逸脱のために必ず裁判所の判断を利用してくるからである。

そのためにも原告らの請求に対する減額は許されない。なぜならば現在の請求額が値切られるならば、チッソはこれを利用し、原告のみならず多くの水俣病患者にとって判決が桎梏となってしまうからである。

前掲清水誠論文は次のようにのべている「一九七〇年代に入って、日本の社会全体が新しい展望を示しつつあるのにつれて、公害問題も新しい局面に踏み入りつつある。そのさいに、公害問題に今後正しく対処するための前提としては公害発生責任が厳正に確認されるということがなければならないと私は考えている。六〇年代に提起された一連の公害裁判は、そのための重要な役割を担っていたのである。そして、その責任は単なる抽象論ではなく、実質を伴った重味のあるものとして確認されなければならない。その意味において損害論と損害額が重要性をもつのである。一連の公害裁判が積み重ねてきた法的判断のしめくくりとして、熊本水俣病訴訟における判決が損害についての優れた判断を下すのでなければ、他の点の判断がいかに立派でも画竜点晴を欠くことになろう。日本の裁判史に一時期を画した公害裁判にさらに輝やかしい一ページを加える判決が生まれることを期待したい。」

最後にこれまで五年以上の長い期間にわたって本件に対し裁判所が全力をあげて審理されたことに深い敬意を表するとともに水俣病のような悲惨な公害が二度と繰り返されないよう人間の尊厳を高らかに宣言した、歴史の審判に耐えられる判決を切望して最終弁論の結びとするものである。

八  原告らの損害(その二、損害額)

(森枝鎮松 関係)

1  原告森枝鎮松は、日夜水俣病による苦痛を受け、その損害は金銭に評価し難いが、少なくとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告森枝シカは、原告森枝鎮松の妻であり、夫の水俣病発病により、多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告森枝孝美、同森枝司は原告森枝鎮松の子であり、父の水俣病発病により、多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(平竹信子 関係)

1  患者亡平竹信子は、水俣病に罹患したために、無限の可能性を秘めた将来を完全に破壊され、狂い死にした。その損害は金銭に評価し難いが、金二、八〇〇万円を下らない。

2  亡平竹車太郎、亡平竹ハツノは右信子の父、母として、各自二分の一、金一、四〇〇万円ずつ相続した。

3  亡平竹車太郎、亡平竹ハツノは右信子の父母として、右信子が水俣病にかかったことにより多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

4  亡平竹車太郎は昭和三〇年六月一一日死亡したため、亡平竹ハツノはその妻として右車太郎の有した損害賠償債権の三分の一たる金六一六万六、六六六円を、原告平竹孝、同平竹俊行、同上原陽子、同鷹ヨシ子、同吉留ミチ子、同田畑タエ子はその子として各自右債権の九分の一たる金二〇五万五、五五五円を相続したところ、亡平竹ハツノは昭和五三年七月一六日死亡し、同人の有した損害賠償債権を原告平竹孝、同平竹俊行、同上原陽子、同鷹ヨシ子、同吉留ミチ子、同田畑タエ子が各自六分の一たる金四一一万一、一一一円づつ相続し、これと従来の右各原告の損害額を加算すると金六一六万六、六六六円となる。

(竹本已義 関係)

1  原告竹本已義は、水俣病罹患によって全生活を破壊された。その損害は金銭にかえがたいが、その損害額は少なくとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告竹本厚子は、原告竹本已義の妻であるが、夫の水俣病罹患により、多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告南側和子、同竹本順子、同太田美代子は原告竹本已義の子であり、父の水俣病罹患によって、多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(尾上源蔵 関係)

1  原告尾上源蔵は水俣病に罹患したことによって、その生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告尾上ツキは右患者源蔵の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告東キミヱ、同尾上利幸、同尾上ハル子、同山之内節子、同尾上幸弘、同尾上慎一、同東山端枝、同中村留里子、同林洋子、同尾上政夫は原告尾上源蔵の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(中島親松 関係)

1  原告中島親松は水俣病に罹患したことによって、その生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告中島ツヤは原告中島親松の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告松下チヨミ、同中島光雄、同中島孝治、同阪口スミ子、同灘岡とも子は原告中島親松の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(山内了 関係)

1  原告山内了は水俣病に罹患したことによってその生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告山内サエは原告山内了の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告山内一男、同梶原和代、同山内一則、同山内和博、同山内志郎は原告山内了の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(坂本武喜 関係)

1  原告坂本武喜は水俣病に罹患したことによってその生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが少なくとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告坂本フジエは原告坂本武喜の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告坂本達美、同坂本幸子、同坂本安夫、同坂本きよ子、同坂本利定は原告坂本武喜の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(吉田健蔵 関係)

1  原告吉田健蔵は水俣病に罹患したことによってその生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告吉田ヒデ子は原告吉田健蔵の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告吉田浅次郎、原告吉田ツルは原告吉田健蔵の父、母であるが、子の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

4  原告吉田健司、同吉田清人、同吉田浪子、同吉田秀寿は原告吉田健蔵の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(島崎成信 関係)

1  原告島崎成信は水俣病に罹患したことによってその生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが、少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告島崎佐代子は原告島崎成信の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告島崎フクは原告島崎成信の母であるが、子の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金四五〇万円を下らない。

4  原告島崎和敏、同島崎成美、同島崎浩は原告島崎成信の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(岩崎岩雄 関係)

1  原告岩崎岩雄は水俣病に罹患したことによってその生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが、少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告岩崎カヲリは原告岩崎岩雄の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告竹本廣子、同岩崎義久、同岩崎政信、同岩崎うみこ、同岩崎政久、同岩崎喜佐良、同岩崎めいこ、同岩崎つむ子は原告岩崎岩雄の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(岡野貴代子 関係)

1  原告岡野貴代子は水俣病に罹病したことによってその生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが、少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告岡野正弘は原告岡野貴代子の夫であるが、妻の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告岡野昌子、同岡野隆司、同岡野隆弘は原告岡野貴代子の子であるが、母の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(森本與四郎 関係)

1  亡森本與四郎は水俣病に罹患したことによって、その生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが、少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告森本正宏は亡森本與四郎の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金四五〇万円を下らない。

3  亡森本與四郎は、昭和五一年七月一八日死亡し、その子原告森本正宏は唯一の相続人として損害賠償債権金二、八〇〇万円を相続した。

(蒔平時太郎 関係)

1  原告蒔平時太郎は水俣病に罹患したことによって、その生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが、少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告蒔平ミカノは原告蒔平時太郎の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告蒔平恒夫、同蒔平力雄、同山平ワカノ、同元浦カヅ子、同大久保タツヨは原告蒔平時太郎の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(緒方覚 関係)

1  原告緒方覚は水俣病に罹患したことにより、その生活は全く破壊され、日夜苦しみ続けている。この損害は金銭にはかえがたいが、少くとも金二、八〇〇万円を下らない。

2  原告緒方サチ子は原告緒方覚の妻であるが、夫の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は金六〇〇万円を下らない。

3  原告緒方光廣、同緒方初代は原告緒方覚の子であるが、父の水俣病罹患により多大の損害をこうむった。その損害額は各自金四五〇万円を下らない。

(弁護士費用)

原告らは被告が前記損害賠償義務を履行しないので、やむなく本訴を提起するに至ったものであるが、本訴提起に際し、受任弁護士らに対し、手数料および報酬として、前記損害額の各一割五分を支払うことを約した。

(結論)

よって原告らは被告に対し、別紙(二)請求債権額一覧表記載の金員、およびこれに対する本訴状送達の翌日から支払ずみに至るまで民法所定、年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、本訴を提起する次第である。

九  その他(原告らの叫び、各公害弁護団の訴え、本訴の意義、鑑定の評価、証拠との関連における原告らの主張等)

別紙(一)昭和五三年八月九日付原告らの最終準備書面記載のとおり。

第三原告らの主張に対する被告の認否

一  原告らの主張一項 当事者についての主張事実中、被告に関する主張を認め、原告らに関する主張は不知。

二  同二項 不法行為についての主張事実中、1および2は認め、3の水俣病に罹患したとの主張は否認する。4は争う。

三  同三項 被告の過失責任についての認否は、次のとおりである。

1  同項1について

(一) 第一節の「およそ化学工場は…」から第二節の終り「…されないからである」までの法律論は争う。即ち、そこで述べられている主張は、化学工場の生産過程においては、工場廃水中に予想しない危険な副反応生成物が混入する可能性が極めて大であることを前提としている。しかしながら、新規に開発された技術を工業化する場合はともかく、国内のみならず、世界各国において人身に対する危害問題を生ずることなく長年にわたり実施されてきた生産工程においては、廃水中に予想しない危険な副反応生成物が混入する可能性はむしろ稀である。

(二) 第三節の「しかして、被告工場は…」から「化学工業界において確固たる地位を占めるに至ったことが認められ」までについては、塩化ビニールの昭和三三年生産量が八、七八二トンであったことは否認し、その余は認めるが、「右事実からすると…」から、第四節の終り「…といわなければならない。」までは争う。

(三) 第五節の「ところで、水俣病の…」から「日本化学会の学会においてその研究成果を発表している」までは認めるが、「それによると、アセトアルデヒドの…」から「…メチル水銀化合物が生成されることを知りえたといわなければならない」までは否認し、続いて、「合成化学工場の生産過程における…」から「…酢酸ビニールの増産を行なうようになったことがある」までは認め、続いて「前記のような戦後著しい…」から第五節終り「副産物が生成される可能性は一段と高くなっていたのである」までは争う。

(四) 第六節は争う。

(五) 第七節については、昭和二四、五年から水俣工場で行ってきた総合排水の分析は、排水の水質向上を図るため行ってきたものであって、単に行政基準に合致しているか否かを知るために行ったものではない。

(六) 第八節は争う。

2  同項2について

(一)(1) 同項(一)環境異変についての第一節の「水俣湾およびその周辺では…」から「これらの奇異現象が半ば公知の事実となっていた。」までは否認し、続いて、「一方、水俣病が…」から「ある種の重金属であるとの中間発表を行ない」までは認め、続いて「またその頃…」から第一節終り「疑惑の目を向けていた。」までは争う。

(2) 第二節は争う。即ち、そこに述べられている主張は、昭和三一年一一月から昭和三四年末頃までの熊本大学その他による原因究明の研究の経過、これを基とする行政その他社会の動き、工場排水に対する疑いの具体的内容の年代的変化などを一切無視している。

(二)(1) 同項(二)漁業補償をめぐっての第一節の「被告の水俣市…」から「その他一切の要求をしない旨の契約が成立した。」までを認め、続いて、「しかして、これらの…」から「海面埋立の承諾を得るところに重点があった」までは争い、続いて、「昭和三三年一一月熊大医学部の…」から「漁民の生活は困窮を極めるに至った」までは認め、続いて、「昭和三二年一月水俣市漁業協同組合は…」から「交渉は中断のやむなきに至った」までは争い、続いて、「昭和三三年九月一日同組合主催で」から「…の契約が成立し、その紛争に終止符を打った。」までは認め、続いて、「このような紛争と平行して」から第一節終り「…の論議さえみられるに至った。」までは争う。

(2) 第二、第三節は争う。

(三)(1) 同項(三)水俣病の原因究明に関連しての第一節の「水俣病の原因物質については…」から「有機水銀説に対する反論を示したものである。」までを認め、続いて、「以上の各見解書が…」から第一節の終り「もとよりこれを掲載していない。」までについては、見解書に猫四〇〇号の記載のないことは認めるが、その余は否認する。

(2) 第二節については、水俣工場付属病院の細川医師らが原告ら主張の書面を公表したことは認める。

(3) 第三節の「そして、このような被告工場または…」から「形跡がないことからも窺知されるのである。」までは否認し、続いて、「同工場技術部職員石原俊一は」から第三節終り「公表されるには至らなかった。」までは認める。

(4) 第四節の「ところで、昭和三四年一一月三日…」から「原因究明につとめるよう叱責した。」までは認め、続いて、「当時、被告工場と…」から「アセトアルデヒド廃水のことには全くふれられていない。」までは否認し、続いて、「そればかりでなく、そもそも…」から第四節終り「…といわなければならない。」までは争う。

(四) 同項(四)工場排水の処理状況などについての「被告工場が戦後…」から「安全確認につとめるようなことはなかった。」までについては、水俣工場が昭和二一年アセトアルデヒドの生産を再開し、昭和二八年頃以降生産高が増大していったことは認めるが、百間排水溝から海中に放流される廃水量が必然的に増加していったとの点は争う。右主張は、水俣工場で年代によりいろいろ行った排水処理を無視するものである。水俣工場が廃水等を分析調査しなかった旨の主張は否認する。続いて、「被告工場では昭和三三年九月…」から「同三四年九月までの間つづけられたことである。」までは認める。続いて、「右廃水路の変更の…」から同項(四)終り「昭和四三年五月まで流しつづけたのである。」までは争う。

(五)(1) 同項(五)猫実験、ことに猫四〇〇号をめぐっての第一節の「被告工場では、昭和三二年五月頃…」から第一節終り「合計約九〇〇匹に及んだ。」までは概ね認めるが、昭和三四年中期以前においてはマンガン、セレン、タリウムの各説の発表に応じた実験が行われ、また魚介類が有毒化する原因物質を含む筈の水俣湾の海底泥土(百間ドベ)の直接投与は実験の当初から行われたものである。

(2) 第二節については、飼育日誌が常に何人の閲覧にも供されていたこと、技術部の職員が随時発症状況を観察していたことは否認し、猫台帳は後日西茂が自分のノートを整理し、またその後は自分の観察結果を記載したものであり、細川、小嶋両医師の観察と一致していない。

(3) 第三節は認める。

(4) 第四、第五節は否認する。

(5) 第六節は認める。

(6) 第七節につき、「なお、前記猫台帳には…」から「…と記されている」までは「昭和三四年九月二八日発症し、同日」との記載を除き認め、続いて、「もとより有機水銀…」から同節終り「重大といわなければならない。」は争う。

(7) 第八節につき、「猫四〇〇号以外には、同年中にアセトアルデヒド廃水による直接投与実験は全然行なわれていない。」ことは認めるが、その余は否認する。

(8) 第九節は争う。

3  同項3は争う。

被告の過失責任についての原告らの主張に対する答弁は以上のとおりであるが、ただし、原告ら主張の患者が水俣病患者であるか否か、また仮にそうであるとしても、その損害の程度はどうかが主たる争点であることおよび訴訟の現段階までの進展の状況に鑑み、被告は過失の有無についてこれを争うものではない。

四  原告らの主張四項以下については、後記「被告の反論」と題する部分において、被告の考えを詳述する。

第四被告の反論(その一、総論)

一  序説

1  本件は、原告ら主張の患者ら(以下、原告患者という。)が、被告が排出したメチル水銀化合物による水俣病に罹患しているのか否か、また、罹患しているとした場合にはそれによる障害度、被害度はどう評価されるか、が中心の命題である。

しかして本件は、損害賠償請求事件であって、原告患者が水俣病に罹患しているとの原告ら主張事実については、原告らが、水俣病の可能性があるという程度ではなく、間違いないという、合理的な疑いをさしはさみえない程度までの立証を行うべき挙証責任を負担していることは、いうまでもない。

ところで、医学の立場で水俣病であるという診断を下すということは、抽象的に数値でいえば、五〇パーセント、六〇パーセント、あるいは七〇パーセント程度疑われるときにかかる診断を行うということであって、本来、最も可能性のある場合に行われる事柄である(乙第四号証の三、椿忠雄「水俣病の診断に対する最近の問題点」77頁)が、決して、確実に水俣病であることを意味するものではない。しかも、水俣病の個々の症候はありふれたものであるので、「そこに要求されることは、類似した多くの神経疾患をいかにして鑑別すべきかということであり、それには高度の神経学的知識が要請される」(同乙第四号証の三、71頁)から、本件訴訟において水俣病であると主張するためには、少くも現在最も信頼しうる医学者らによって行われた、水俣病であるとの確実な医学上の診断を要するのであり、しからざれば何ら立証責任を尽したということはできない。

2  既に明らかになっているとおり、原告患者は、昭和二九年死亡の平竹信子を除き、いずれも、熊本県または鹿児島県知事に対して、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法または昭和四九年九月一日以降は公害健康被害補償法に基づく水俣病認定の申請(以下、認定申請という。)を行い、これに対し、各県知事は、それぞれの県に設置されている公害被害者認定審査会(公害健康被害補償法の施行に伴い、昭和四九年九月一日以降は、既申請については同審査会が審査を行い、同日以降の申請は公害健康被害認定審査会が審査を行っている。以下、いずれも単に審査会という。)の答申を経てこれを棄却している(棄却後再申請して認定された原告患者もあるが、これについては別に各論で述べる。)。

右の棄却処分は、各原告患者に対する県知事の処分通知書および審査会資料ないし知事に対する答申書により明らかなように、いずれも、各審査会の「水俣病ではない。(又は有機水銀の影響は認められない。)」との医学的診断とこれに基づく答申を理由とし、また根拠としている。

右の各審査会は、水俣病発見以来その研究に従事してきた医学者を中核に組織され、新潟県の審査会とともに、現在の日本における水俣病研究の主要なメンバーを擁しており、その医学的判断は、現在において最も信頼しうるものの一つといわねばならない。このことは、現在日本における水俣病研究の第一人者を殆ど網羅する(白木博次証人の証言、昭和五〇年八月二七日証人調書、問答番号一七〇。以下、証言の引用においては、白木証言、50・8・27、No.170のごとく表示する。)「水俣病に関する総合的研究班」のメンバー(乙第五号証の二)の大半が、熊本県、鹿児島県および新潟県の審査会の現委員、元委員であり、毎年の研究報告の大部分もこれら現、元委員が発表して、当該分野における研究の発展に寄与している事実によっても裏付けられている。

もとより、人の行うことに絶対に過誤がない、とはいえない。そしてまた、他の分野の学問と同様に、医学上の知見は研究の発展に伴い深化するものであって、水俣病に関しても例外ではないであろう。しかし、審査会のメンバーは、右の「水俣病に関する総合的研究班」の組織、研究報告等の実績(白木証言、50・8・27、No.163~166)にもみられるごとく、常に現在における最高水準の学識をもって判断し、答申しているのである。

さらに、メチル水銀は特定の中枢神経、末梢神経を選択的に侵害するため、水俣病患者の症状は、激しく変動することはありえないが、また決して固定的でなく、時の経過に伴い症状が現われて、それと判断しうることもありうる。したがって、審査会が、一旦水俣病であることを否定した患者についても、再度審査して水俣病であると認定することもありうるが、これは先の否定が学問的に誤りであることを意味するものではなく、むしろ、審査会の医学的公正さを示すものといえる。

以上のように、熊本県および鹿児島県の審査会は、水俣病についての診断の歴史も古く、また学識、経験も豊かな第一流の研究者をメンバーとして有しており、その意味で、これら審査会の医学的診断は、現在最も信頼しうるものの一つといわねばならない。

3  これに対し原告らは、審査会の判断を不当とし、一方において、審査会は極めて狭い枠の中で、不当に厳しい認定基準によって審査を行っている、とのいわれのない非難を浴びせ、他方において、独自の認定基準を設定して、これによれば、原告患者はいずれも水俣病であることは明らかである、と主張している。

右の主張の誤りについては、以下、順次これを指摘するが、医学的見地に立った場合においても、「水俣病の症状を広く解釈すればよいという訳にはいかない。水俣病を広く解釈し、頸椎症性ミエロパチーを狭い意味にとじこめるのは矛盾しているからである。広く救い上げそれでこと足れりとするならば医学的良心の放棄ともいえる」(乙第四九号証の二、椿忠雄「水俣病の診断」熊大医学部新聞31号)のであって、徒らに水俣病の判断基準を広くして診断するとすれば、これは医学的良心の放棄にも通じるものであり、正しい診断とはいえず、また、患者が正しい治療を受ける機会を不当に奪う結果ともなるのである。

ましてや、本件は損害賠償請求事件である。水俣病であるとの法律的主張、法律的判断を行うためには、少くも医学的見地において争いのない、権威ある判断が要請されるものといわねばならない。

二  水俣病診断の条件について

1  水俣病である、と診断する場合の判断条件については、昭和五二年七月一日、環境庁が「後天性水俣病の判断条件」としてこれを発表し、通達している(乙第四〇号証の一ないし三、同第四一号証)。この条件をまとめるにあたっては、熊本、鹿児島および新潟の三県一市の審査会の委員および元委員をほぼ網羅し、その討議を通じてコンセンサスの得られたところがまとめられているのである(野津聖証言、52・9・29、No.21~48)が、これは従前、各審査会が審査を進めてきた際の判断の条件を文章化したものであって、従前の各審査会の判断条件がこの通達によって特に変更されたというのではない(野津証言、52・9・29、No.54~56)。

そして、右のように、三県一市の審査会の元委員、現委員(この中には、本件で鑑定人となった新潟大椿忠雄、証人となった熊大武内忠男、同立津政順各教授も含まれている。)のコンセンサスとして、認定の「基準」とか、判断の「基準」という形ではなく、専門的な学識、経験によって医学的な判断の行われることを期待するとともに、その場合の判断の「条件」という形でまとめることとなったのは、機械的な基準が設定できないためであり、このことは非特異的症状を示す疾患の場合通例のことであって、水俣病の場合においても全く同様だからである。

2  もともと、水俣病にみられる各症状は、他の疾患においてもみられるものであって、水俣病においてよくみられる症状は、水俣病に特徴的ではあるが、水俣病にだけみられるという特異的所見ではないため、他疾患との鑑別が難しい(武内忠男証言、51・2・13、No.60以下)のである。この症状の把握の難しさ、鑑別の困難さの一端を証言から引用すれば、以下のとおりである。

メチル水銀化合物の影響を受けている場合は「器質的な障害があるわけ」であるから、「器質的な障害に応じた臨床症状が出てくる」筈であって、そういう「器質的な障害を把握するような神経内科学的症状が出ている場合は……それを有機水銀の影響と見うる」が、「それが出ていない場合は、有機水銀の影響であるのかないのか、その判断ができない」ことになる(武内証言、51・2・13、No.64~77)。例えば、「知覚障害の把握に器質的なものと機能的なものがある」が、「器質的なものには一定のパターン」、つまり、「医学的な常識としてありうる」と判断できるパターンがあるが、この常識を外れるものは器質的な障害とは認められないのである。そして、機能的な障害には、「本当に機能上の、すなわち神経の何か影響を受けて、生理的に行う機能が障害される場合もありうる」が、もう一つは、「そういうことなし」に、心因性の場合もありうる(武内証言、51・2・13、No.64)。そして、メチル水銀中毒の影響ある場合とは器質的変化があるわけだから、これは検査によって把握できる筈であって、これに応じた器質的な知覚障害が把握できない場合は、水俣病における知覚障害とは認め難いのである(同証言、No.65)。すなわち、例えば、慢性水俣病に特徴的にみられる四肢末端の知覚障害がみられるとしても(もとより、メチル水銀化合物により汚染された魚介類を多量に摂取したという疫学条件が客観的に具備されていることが必要な前提条件であるが、これは当然のことであるので、以下、通常の場合は、一々指摘することを省略する。)、単純にこれをもって水俣病に見られる知覚障害と同様の症状といえるのではなく、さらに器質的な障害であるとの鑑別がなされぬ以上、有機水銀の影響による知覚障害としての判定の資料となりえないのである。

しかして、右のようにして、個々の症状がメチル水銀による影響を受けた場合に発現する症状として把握されうるとしても、各症状が、(合併症の存在の場合も含めて、)メチル水銀の影響によるものか、他の原因によるものかの鑑別のためには、これらの症状相互間の比較検討もまた不可欠なのである。例えば、「この振動覚の短縮も」、「三八年に、一時、血管障害で意識障害を起こし」た発作症状が審査時にも残っており、「大脳のほうに血管障害があるとみて、そういうものと関連しておると解釈できるということで、水俣病であれば、むしろほかの症状として知覚障害とか、そういうものがもっと出るべき症状であって、これでは水俣病としての症状とみることはできない」し、また視野沈下の「デプレッションの図を見ると…正常範囲の最低のところにあって、見る人によっては正常と見ていいんじゃないかという意見があり、…もしこれが水俣病できたのであれば、どうしても知覚障害が出てくるのではないか」(武内証言、51・6・2・No.5)というように、メチル水銀を経口摂取することによる中毒という観点から、通常発現する各症状を考慮の上、具体的に当該患者に発現している、また、していない諸症状を把握し、それらの意義を、合併症の有無との関係も含めて、総合的に理解し、鑑別することが必要なのである。

ただし、このことは、決して水俣病に見られる各症状(例えば、ハンター・ラッセル症候群といわれる各症状)の全部または相当数の症状が揃っていることを要する、ということではなく(武内証言、50・6・4、No.179、永松啓爾証言、52・2・24、No.7~9)、新潟の場合と同じく、「熊本の場合でも、そういう例」すなわち、知覚障害とか失調があれば、視野狭窄とか、そのほかの症状がなくても認定している例はある(武内証言、51・2・13、No.97)し、末梢神経障害、知覚障害など、あるいはそれと共同運動障害だけで認定したようなケースもあるが、逆に、例えば末梢神経障害と共同運動障害があれば、すぐ認定するというわけにはいかないのであって、「それがどこから来たかということを十分検討しなければならないんです。そしてそれが有機水銀の影響とみられる症状であれば、一つでも認定され」(武内証言、51・6・2、No.67、68)るというように、メチル水銀による中毒という観点から、総合的に判断することが必要とされているのである。

3  右に一端を示したように、各症状についての、また各症状全体を総合しての判断、特にこれらの症状に関してメチル水銀中毒と他疾患との鑑別、合併症の有無等の判断は、当然のことながら、決して、機械的になしうるものではないし、一定の基準を決めて、その基準に照らしていけば自動的に結論に至るというものでもない。そして、現実に最終結論に至るまでに如何に総合的な検討がなされているか、その逆に、各症状を個別的に切りはなして、それらが有機水銀で生じうる症状か否かだけで結論を出すことが如何に間違っているかは、右に引用した証言によっても、これを窺い知ることができる。これを要するに、「水俣病の診断を個々の症候の組み合わせでみるのは誤りであるとの論議があるが、それは別の観点から物をみているのであって、現実の患者を個々の症候の組み合わせでみることを排除した場合、水俣病患者は存在しえないことになろう。そこで水俣病の個々の症候はありふれたものであれば、そこに要求されることは、類似した多くの神経疾患といかにして鑑別すべきかということであり、それには高度の神経学的知識が要請されるのである。……こういうと、神経内科医の独善のように聞こえるかも知れないが、そうではなく神経学一般の知識があるからこそ非定型例や軽症例も正しく診断できるという自明の論理である。」(乙第四号証の三、椿忠男「水俣病の診断に対する最近の問題点」71頁)といわねばならない。

熊本、鹿児島、新潟の三県一市の審査会の現委員、元委員の討議に基づくコンセンサスをまとめた前記の環境庁通達においても、判断「基準」という用語はふさわしくないのでこれを避け、認定、判断を行うに際して考慮すべき諸条件という意味において、判断「条件」と表現した(野津証言、52・9・29、No.24、48)ということは、「水俣病であることを判断するに当たっては、高度の学識と豊富な経験に基づき総合的に検討する必要がある」(乙第四一号証、記の2)ためであり、むしろ当然のことを述べているといわねばならない。

したがって、右の判断条件においても、「(1)に掲げる曝露歴を有する者であって、次の(2)に掲げる症候の組合せのあるものについては、通常、その者の症候は、水俣病の範囲に含めて考えられるものである」(乙第四一号証、記の2)として、種々の症候の組合せを述べているが、かかる組合せのある場合も、「通常」水俣病の範囲に含まれるということであって、必ずというわけではなく、これまた、「高度の学識と豊富な経験に基づいて総合的に判断」し、鑑別することが必要であり、また期待されているのである。(野津証言、52・9・29、No.88~91)。

したがって、水俣病という非特異性疾患においては、その認定を行うため一定の基準を設定して、自動的に、ないしは、機械的に認定を行うことはできないのであり、現在までの、また今後における水俣病研究の知見を踏まえて総合判断することが必要とされているのである。後に批判するように、原告ら主張のごとく、一定の枠を定め、例えば四肢末端の知覚障害があれば水俣病と認定しうると規定するごときことの間違いは明らかである。そして、最も学識、経験の豊富なメンバーを有する審査会が、総合判断を行うという見地に立って、常に全員一致して出した医学的判断は、各時点における最善の結論として正当と認められるべきである。

4  右に関連し、原告らは、昭和三四年一二月二五日に設置された水俣病患者診査協議会(以下、診査協議会という。)の頃には、ハンター・ラッセル症候群の症状が全て備わっていて、しかも他の病気のないもののみを認定する等、極めて狭い枠の下で水俣病の認定がされていた、と主張し、さらに昭和四五年一月、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法の施行に伴う審査会においても、水俣病の認定基準は今なお不当に厳しいものになっている、と主張する。(原告ら第一準備書面、第一総論、一、(一))。

しかし、昭和四九年三月まで熊本県の審査会の委員、さらには会長として水俣病の認定、審査の実務に携わってきた武内忠男教授の証言で明らかなように、審査会においては、ハンター・ラッセル症候群の主要症状が揃わないと認定しないとか、また、症状が軽くなったり、悪化したりしたような人は認定しないというような方針、取り極めも存在しないのであって(武内証言、50・6・4、No.179、180)、かかる原告らの非難は、事実にも反し、失当である。後に述べるように、原告らは、要するに自ら設定した基準で認定がなされればよいのに、そうでない、として審査会を非難するわけであるが、繰り返して述べたように、メチル水銀中毒による健康障害である以上、各患者の全症状について総合的に判断すべきことは当然であり、この意味で、原告らが設定した認定基準は明らかに誤りというべきである。

三  原告らの主張する水俣病診断の基準について

1  以上に述べたように、水俣病の症状は特異的なものではないから、決して機械的、自動的に診断しうるものではなく、各患者にみられる、またみられない各症状を、それらの相互の関連の上で総合的に検討して診断しなければならない。

これに対して原告らは、「水俣病の診断はむずかしいとよくいわれる。専門医が少ないともいわれるが果してそうなのだろうか」(原告ら第三準備書面、第四章、三)と主張し、「以下に述べる①または②のものが認められれば水俣病と確実に診断できるのである。」として、次のように認定基準を設定し、主張するのである。(原告ら第三準備書面、第四章、五 水俣病診断を確実にするもの)。

「まず前提として不知火海の魚介類を多食したことを必要とする。

① 四肢末梢性の知覚障害があれば水俣病である。

② 知覚障害が不全型であったり、証明出来ない場合でも次のような場合水俣病である。

求心性視野狭窄がある場合。

(中略)

口周辺の知覚障害、味覚、嗅覚障害、視野沈下、小脳性あるいは後頭葉性の眼球運動異常、失調(耳鼻科的平衡機能障害)、中枢性聴力低下、構音障害、振戦などの症状がある場合。

疫学条件が濃厚で日常生活の支障が明らかであり、たとえ、知覚障害が不全型であったり証明できなくともメチル水銀によって出現しやすい症状があれば水俣病である。

もちろん、いわゆる「合併症」といわれる疾患が発見される場合と、全く見出されない場合、老人か若年かによって、またその症状の種類によって一つでも水俣病と診断できる場合と、いくつか組合せがないと診断できない場合は存在する。」

2  原告らが、右によって主張するところは、当該患者が水俣病であるか否かの判断を行う場合に、各症状の把握と相互比較等による総合判断が重要であることまで否定する趣旨か否か、必ずしも明確でないが、少くとも、四肢末端の知覚障害があれば、または、求心性視野狭窄があれば、それだけで、直ちに水俣病と診断できるというように、極めて機械的な基準を設定しており、明らかに間違っている。この点は、既に述べたところから明らかであるが、患者の有する各症状は、それが本当にメチル水銀の影響による症状か否か、器質的障害と認められるか否か、他の症状との関係上どう理解するのが正しいか等、中毒物質が人体に影響して生ずる疾病であるという見地から、総合的に理解し、鑑別することが必要であって、この点は、急性激症型の水俣病と慢性型のそれとで症状の出方に違いがあるとしても、また慢性型の症状は多彩であるとしても、異るところはない。もっとも、慢性水俣病の症状は多彩であるという趣旨が、例えば高血圧や糖尿病も水俣病であるということであれば、後述のように否定せざるをえないが、慢性型であるため、通常水俣病に見られる各症状のうち一部の症状しか出ない等、症状の多彩化があればあるほど、他の疾病との鑑別に慎重を期さねばならないのである。すなわち、四肢末端の知覚障害についてみても、これを起す原因は「非常に多い」のであって、「だから、末梢神経だけを見て水俣病であるという判定はまたむずかしい」とされているのである。(武内証言、50・6・4、No.233)。メチル水銀によって汚染された魚介類を摂取したという疫学的条件の存在を前提としても、四肢末端の知覚障害があれば水俣病と判定せよと結論を急ぐ原告らの主張は、極めて飛躍しており、医学の立場を無視するものといわねばならない。

3  しかして、原告らが、右のような機械的な認定基準をもって正しいと主張する理由は、疾学に藉口した理論と、疫学調査の結果、水俣地区と対照地区との間にみられた健康障害の差異はメチル水銀の汚染によると認められるから、かかる差異のある症状を有する者は水俣病に罹患している、ということにあると思われる、以下、この点について原告らの主張の誤りを述べる。

四  疫学調査に関する原告らの主張について

原告らは、「水俣病は汚染された水俣地域住民の健康障害として把握される。」(原告ら第一準備書面、第一総論、二、(一))とか、「水俣病は汚染された住民の健康障害のすべてである。」(原告ら第三準備書面、第一章、一)とか主張し、「熊本大学医学部一〇年後の水俣病研究班」(以下、第二次研究班という。)による「一〇年後の水俣病に関する疫学的、臨床医学的ならびに病理学的研究」(甲第二五号証。以下、第二次研究班報告という。)に記載された疫学調査によって、水俣地区と対照地区との間に有意差のある健康障害が明らかにされたが、これらの健康障害はメチル水銀によるものである、と主張している(原告ら第一準備書面、第一、二。同第二準備書面)。そして、右の健康障害について原告らは、「健康障害とは他覚的症状とくに神経精神症状に限定せずに自覚症状、日常生活の支障、他の臓器の障害も含めて考えねばならない」(原告ら第三準備書面、第三章)と広く拡大し、ここでも、第二次研究班報告に記載された、差異があるという自覚症状、他臓器の障害等を、そのままメチル水銀による症状、障害であるとして引用しているのである。右の主張は、「母集団の病変に……症状が一つでも一致するものがあれば、……その症状は同様にメチル水銀によるものであることが証明されるのである。」(原告ら第一準備書面、第一、二、(三))との主張とともに、前記の原告らが設定した認定基準の論拠となっていることはいうまでもない。もっとも原告らは、右のように、疫学的条件を備えた者に、第二次研究班報告にいう対照地区と有意差のある健康障害(例えば高血圧などの内臓障害)があれば、それはメチル水銀によるものである、と主張しながら、原告らが設定した認定基準では、右のような健康障害(例えば高血圧)があれば水俣病と認定すべきであるとは主張していない。前後不統一であると評さねばならないが、このことは、疫学調査の結果から直ちに短絡した結論を出すことはできないこと(立津証人もこれを認める。立津証言、51・4・23、No.31~33)、およびいかに多彩化、多様化を標傍しても、水俣病の判断を行う場合特徴的に発現する筈の神経症状を無視した判断はありえないこと、したがって、少くともこの限りで、各症状についての総合的判断を行うことが医学的にみて必須の要請であることを、自ら認めているものといえる。しかし、いずれにせよ、原告らの主張には幾多の誤りがある。

1  水俣病は汚染された住民の健康障害のすべてである、との主張について

原告らは、「水俣病は、汚染された水俣地域の住民の健康障害のすべてである。」という一種の命題を掲げ、これをそのまま公理のように用いようとしている。右の表現自体、甚だ曖昧であり、また原告らは、場合によって、その表現を少しずつ変化させているが、いずれにせよ、これを公理として、住民の健康障害はすべてメチル水銀の作用によるものである、とするのは間違いである。

(一) メチル水銀で汚染された魚介類の存在した地域に居住した住民も、そのすべてが魚介類を多食するわけではないし、また「多食」したといっても、その点は「患者または家族など周囲の人の供述を信ずるほかはない。患家の職業や、川魚摂取の情況を詳しくきくことはできるが、多量に摂取したことを客観的に裏づけることは困難であるし、その必要はないであろう。」(乙第四号証の三、椿忠雄「水俣病の診断に対する最近の問題点」71頁)との述懐にもあるとおり、元来不明確であることを免れないし、それだけに、現にみられる症状が診断にあたって重要なのである。

右の点に関連して原告らは、「水俣においては、汚染が停止されることなく、住民は今日まで汚染魚を食べつづけたのである。」(原告ら第三準備書面、第一章、二、(三))とするが、何らの根拠もないし、ましてや、個々の住民がいずれも右のように「今日まで汚染魚を食べつづけた」ことを当然の前提として論ずることの誤りは明白である。

(二) メチル水銀の影響を受ければメチル水銀中毒以外の疾病にはかからないということはあり得ず、水俣地区住民の健康障害のうちメチル水銀中毒以外のものは、そのどれを捉えてみても、メチル水銀の汚染が生ずる前から存在していた筈であり、それらの具体的症状は、種々の要因により、種々の病気、健康障害として発現してきていたし、また現在もそうである筈であるから、「水俣病とは、汚染された水俣地域の住民の健康障害」(原告ら第一準備書面、第一、二、(一))と定義づけることは、これらのメチル水銀以外の原因による健康障害のすべてを、理由もなく水俣病として取り込むことであって、言い過ぎというよりむしろ理不尽というべきである。

(三) そのためか、原告らも、後に言い改めて、「水俣病とは、汚染された住民の健康障害のすべて」(原告ら第三準備書面、第三章、一)としているが、誤りであることには変りはない。右の言い替えにより、「汚染された魚介類を多食した住民」、「メチル水銀により汚染された住民」の健康障害だと限定したとしても、かかる住民に関して従来から存在した筈の種々の健康障害の原因(例えば成人病など)がメチル水銀の存在により消失したり、減少したりする理由はないから、かかる住民の健康障害がすべてメチル水銀によるとか、それによって影響されていると決めることは、何ら理論的根拠を有しない。

(四) 一方、原告らは、前記のように、第二次研究班の疫学調査によって、水俣地区の住民には他地区との間に有意差のある健康障害が発見されたが、これらの健康障害はメチル水銀によるものだと主張している。そこで、原告らのいう「水俣病とは汚染された住民の健康障害のすべてである。」との命題における健康障害とは、右のような有意差の発見された健康障害に限定する趣旨とも解されないではないが、表現自体も不正確であり、また、後述のように、有意差の発見された健康障害をすべてメチル水銀の影響によるとすることは誤りである。

いずれにしても、右のように有意差が発見されたとする各症状ないし健康障害は、すべて非特異的症状であって、もともとかかる症状、健康障害を起す他の原因が存在するのであるから、右のような有意差のある症状ないし健康障害があった場合、直ちにその原因はメチル水銀であるというのは独断であり(かかることは、立津政順証人、原田正純証人も独断として否定する。立津証言、51・4・23、No.31~35、原田証言、53・3・3、No.60)、常に他の原因、他の疾患との鑑別が必要であるといわねばならない。

(五) 右に関連して、吉田克己証人は、「メチル水銀のように非常に活性のものが細胞に対して何も障害を与えずに通過することは生物学的に考えにくい」(吉田証言。50・1・11、No.73)から、メチル水銀中毒と全く別の病気に加え、いかに微量でもメチル水銀の負荷があれば、診断としては、その別な病気とともにメチル水銀中毒の双方を出すべきだ、と証言するのである(吉田証言、50・1・11、No.73~87)が、この見解は全く極端であり、また何ら医学的なコンセンサスは得られていない。

マグロ、メカジキなど海洋産大型魚類には比較的高濃度のメチル水銀が含有されていることは周知であるが、他方、淡水産、塩水産魚介類で極く微量とはいえ、メチル水銀を含有しないものはない、といわれている(乙第四号証の二、喜田村正次「メチル水銀の人体蓄積」15、16頁)。この事実と吉田証言を合わせれば、魚介類を全く摂食しない人を除いて、日本人にして水俣病患者でないものは皆無ということになり、水俣病検診の意義も鑑別の必要もない、ということになる。この点からしても、メチル水銀の摂食が少しでもあれば水俣病である、とする吉田証言が誤まっていることは明白である。

そして、「メチル水銀化合物にかぎることなく重金属化合物などいわゆる蓄積性をもった有害有毒化学物質の人体蓄積は、当該物質への人体ばく露の度合ならびに期間、体内への吸収率、体内での分解あるいは体内からの排泄の度合すなわち体内における減衰度の三者により左右されるものである。そして有害有毒物質の体内蓄積がある閾値以上になれば人体は影響をこうむり、さらに障害をうけるにいたるものであることも、中毒学領域における研究の結果から明らかにされている。」(乙第四号証の二、喜田村正次「メチル水銀の人体蓄積」13頁。同旨、武内証言、50・3・19No.29~32)のであって、蓄積量と障害の発生との関係については、既に種々の学問的検討が行われてきている。そして、前記のように比較的高濃度のメチル水銀を含有するマグロ、メカジキ等の「魚類を持続して多量に摂取してきたマグロ漁船乗組員では頭髪中に数十PPmにもおよぶメチル水銀が検出された者もあり、精密検査を行なえばなんらかの障害が見出されるのではないかとの疑いも持たれ、また米国では体重減量のためメカジキのステーキを連日二四〇gずつ食べていた中年の婦人が頭髪中に四〇PPmの水銀が検出され中毒症状を呈したとの報道も流れたこともあったが、いずれも専門医による精密検査の結果ではメチル水銀による障害は全く認められなかったのである。」(前出乙第四号証の二、15・16頁)。以上のような研究・検討を経ることなく、単純に、極く微量でも、メチル水銀を摂取すれば、その障害が生ずるというのは(かかる仮定の下で研究を行うことは、一つの研究態度であろうが)、学問的実証のない単なる仮説であるし、ましてや微量のメチル水銀でも摂取していれば、または、少しでもこの摂取により神経細胞が障害されたら、常に合併症として水俣病と診断すべきだというに至っては、医学上の病気についての概念と全く異っている。水俣病か否かについて現に行われている審査、鑑定その他の論議の内容をみれば、吉田証言に何人も同調していないことは、極めて明白である。

これを要するに、ハンター・ラッセル症候群の症状の揃ったものだけが水俣病なのではないということについては誰も異論はなく(審査会がそのような狭い基準で判断したことのないのは、前出の武内証言によっても明らかである。)、またメチル水銀による健康障害のすべてを明らかにしようという研究態度は何ら批判するものでもないが、これを言い換えて、「水俣病は汚染された(水俣地区の)住民の健康障害のすべてである。」との命題を設定するのは、独断であり、その論拠は認められない。

2  第二次研究班の疫学調査について

原告らが引用する、第二次研究班の行った疫学的手法による調査とは、熊本大学医学部公衆衛生学教室(責任者、第二次研究班班員、野村茂教授)が担当した健康調査成績(甲第二五号証、第一年度6頁以下、第二年度17頁以下)と、同学部神経精神医学教室(責任者、同班班員、立津政順教授)が担当した健康調査(同号証、第一年度、41頁以下、第二年度48頁以下)である。そしていずれの場合も、調査対象としては、濃厚汚染地区として水俣の月の浦、出月、湯堂の地区を、また、汚染の広がり、その影響の疑われる地区として対岸の御所浦町を、さらに汚染の可能性が小さく対照と考えられた有明町の三地区を選んで調査を行ったものである。しかして原告らは、この三地区は、有機水銀による汚染の度合に差があること以外の疫学的条件は同一であるから、これら三地区の間にみられた健康調査上の差異は、有機水銀によるものである、と主張するのであり、また、具体的に、健康調査の結果得られた差異とは、

① 保健水準

② 有訴者頻度

③ 神経症状の出現頻度および従来水俣病の症状と考えられていなかった諸症状の頻度

にみられる差異である、と主張している。(原告ら第二準備書面、第三環境汚染にもとづく健康障害、一および二)。

しかしながら、第二次研究班の行った疫学調査結果は、それなりに意義のあることであろうが、得られた結果をもって、直ちに結論が出たと判断することは甚しく早計である。

(一) 元来疫学は、ある疾病の流行に際し、その原因たる因子を調査する、いわゆる原因調査のためのものとして発達してきたものであって、従前は、この手法を用いて、逆に、一定の疾病の症状がどういうものかを、汚染集団と非汚染集団との比較から探究しようとする、いわゆる症状調査は行われていなかった。けだし、理論的には十分考えられることであっても、現実には、客観的な吟味を経て、結論の妥当性を明確にすることが困難であるからと思われる。すなわち、原因調査としての疫学的手法は、ある疫病の起る原因について、医学的に考えうるいくつかの因子を想定し、この因子と疾病の発生との関係を調査することによって、相関性の高い因子を総合的に決定するわけであるが、その場合、量と効果の相関関係についての疫学四原則を適用して吟味を行い、その全てが充足されることが必須の要件とされている。(甲第二一号証106、107頁)。ところが、かかる吟味を、逆に、症状調査において行おうとすることは極めて困難である。例えば、汚染集団と非汚染集団との間に有意差のある症状があるとしても、当該症状が、汚染の事実が生ずる前にも有意差を有していなかったのか、また汚染の度合に応じて症状の程度が大となっているか、など、疫学四原則に関する量と効果の関係を確かめることは、現実にはなし難いのである。

第二次研究班による水俣地区住民と他地区住民との疫学的調査においては、地区相互間で有意差があるとする症状を拾い上げてはいるが(拾い上げの調査方法自体にも問題があることについては後述)、これらの各症状がメチル水銀による汚染以前においても有意差がなかったのか、また、同じ水俣地区内でも、汚染以前と以後とで、量と効果の関係があるといえるか、など、疫学的手法において必要とされる吟味は何ら行われていない。

(二) 右の点はしばらくおくとしても、疫学的手法により症状調査を行う場合、得られた結果については、さらに動物実験等による医学的な実証が必要と思われる。例えば、四日市の場合、汚染地区という磯津で、仮りに胃癌が多いとしても、これをもって直ちに亜硫酸ガスによるものと結論することはできないであろう。他地区にない大気汚染という、呼吸による一様の負荷がその地区の住民にかかっているとしても、発生原因が他に考えられる症状、または、発生原因がいまだ究明されていない症状を、医学的な吟味、実証を経ることなく、右の大気汚染に帰せしめることは飛躍といわねばならないからである。

この点は水俣地区においても全く同様であり、しかも、大気汚染と異り、魚介類の経口摂取の場合は、経口摂取しない人に対しては負荷とはならないし、経口摂取する人にも、その量、頻度によって負荷が一様ではないのであるから(吉田証言、50・1・11、No.89)、負荷の一様性を前提として論ずること自体、正しくない。

以上の意味において、後でも述べるが、従来水俣病の症状と認められていなかった症状についても水俣地区と他地区との間に有意差があった、とし、例えば高血圧の如きもメチル水銀によるものだとする原告らの主張は、学問的吟味を経ていない短絡した主張といわねばならない。

(三) 以上いずれの点からしても、第二次研究班の行ったような症状調査は、その結果を参考として、将来さらに研究を行うという、問題提起の意義はあるとしても、この結果から、直ちに、有意差のある症状はメチル水銀によるものだと結論づけるのは、仮定の上に立つ論理にとどまるものであって、実際的な疫学的立場を無視した暴論といわねばならない。

(四) 新潟水俣病の発生に際し、椿忠雄教授を中心とする新潟大学医学部の研究班は、研究の初期において、予め診断基準を設定することなく、逆に、疑わしいものを広く掬い上げ、その中から共通の症状を持つものを選び、これと併行して診断要項を設定するという、いわば疫学的な症状調査を行った。(乙第四号証の三、椿忠雄「水俣病の診断に対する最近の問題点」70、71頁)。原告らも主張するように、第二次研究班の症状調査は、この新潟大学の手法に学んだものである。

ところで、椿教授は、「個々の患者の個個の症状を別々にみるのではなく汚染集団と非汚染集団を比較して、その差をみるべきであるとの主張は、原則的には正しいと思う。新潟で行なってきた調査は原則的にこの方法を目標としている。新潟でわれわれがこの方法をとる前に水俣でこの様な主張がなされたことはなく、このような主張がなされているのも新潟に学んだためではないかとさえ思われる。」と述べた上、さらに、「しかし、この方法は色々難かしい問題があり、一部のマスコミや評論家が机上で考えて主張するように生易しいものではない。……原則的には正しいことが現実問題としてはどのような問題があるか」を知るべきであると述べて(乙第四九号証の二、椿忠雄「水俣病の診断」16頁)、この手法の難しさを強調している。そして同教授は、後にも述べるが、「高血圧や肝障害、膵障害が水俣病の一環としておこるという証拠は現時点では充分ではないと思う」、「水俣病と思われる例で論理的に説明できない症候を持つものがある。その一つに半側症状がある。……このように論理的に説明できない症候の取り扱いには慎重でなければならない。近時、半身知覚麻痺があるから水俣病と診断するというような飛躍がみられることがあるが、これは慎重でなければならない。通常は論理的な考え方をしている医師が公害に対すると、とたんに非論理的な考えをするのは、まことに不思議である。」(乙第四号証の三、椿忠雄「水俣病の診断に対する最近の問題点」72頁)として、第二次研究班の調査結果によれば有意差ありとされる高血圧や半身麻痺などをメチル水銀によるものとすることに批判的である。もともと、医学的な実証、吟味を経ることなく、疫学調査の結果から直ちに結論を出すことは飛躍であり、大方の批判を免れないのである。

なお、念のため付言すると、新潟の場合前記のような疫学調査の結果、「われわれの経験からでき上った診断の要項は左記の通りである。」とされているが(乙第四九号証の二、椿忠雄「水俣病の診断」15頁)、直ちに判るように、これらの要項は、「公害の影響による疾病の指定に関する検討委員会」が行った「公害の影響による疾病の範囲等に関する研究」(乙第四四号証)や、「後天性水俣病の判断条件について」(乙第四一号証)と基本的に異るものではない。そして当然のことながら、新潟では、疫学的調査の手法によった上で、知覚障害があれば、または、求心性視野狭窄があれば、それだけで水俣病と診断できる、というような乱暴な診断基準は設定しないのである。蛇足ながら、新潟における右の診断要項を掲げると、次のとおりである。

一  神経症状発現以前に阿賀野川の川魚を多量に摂取していたこと

二  頭髪(または血液、尿)中の水銀量が高値を示したこと

三  下記の臨床症候を基本とすること

(1)  知覚障害(しびれ感、知覚鈍麻)

(2)  求心性視野狭窄

(3)  聴力障害

(4)  小脳症候(言語障害、歩行障害、運動失調、平衡障害)

四  類似の症候を呈する他の疾患を鑑別できること

(五) 第二次研究班の疫学的調査は、前記のとおり、公衆衛生学野村教室と精神科立津教室により行われたのであるが、原告らはまず、野村教室の調査結果を引用して、水俣地区住民の保健水準は、メチル水銀の汚染により低下している、と主張している。(原告ら第二準備書面、第三、二、(一))。以下同教室の調査結果(甲第二五号証)を表面的に捉えてなされた右の主張の正否を検討する。

(1)  まず原告らは、野村教室の行った調査結果(甲第二五号証、第二年度19頁、表3)を引用し、水俣地区のPMI(Pro-portional Mortality Indicator‥、地域における総合的な保健衛生水準をはかる尺度であって、全死亡者中の五〇歳以上の死亡者の割合)および六五歳以上の高齢者死亡の割合(PMIとともに、地域における総合的な保健衛生水準をはかる一尺度)は、水俣地区は、御所浦、有明地区に比して、いずれも有意に少ない(同準備書面、第三、二、(一)、①)とし、これは有機水銀によるものである、と主張する。

しかし、確かに、PMIおよび高齢者死亡割合について、野村教室のレポートでは、水俣地区と他地区との間に数値上の差があることを記載している(甲第二五号証、第二年度、19、20頁)が、この報告をまとめた当の責任者である野村教授は、「三地区について……多少、数字の差」があっても、「PMIというもの自身が、非常に年齢構成、住民の人口構成に影響を受ける指標」であるので、「それに大きな重みをつけることは、かえってさし控えなければいけない」、「数字の違いを、すぐに意味づけをすることはよほど慎重でなければならないというふうに、私どもは思っている」(野村茂証言、50・2・21、No.101)とし、「多少、三地区の保健水準に数字上の差違がございましても、それを直接何による違いであるかというようなことを考察するに足るような数値というものはみられておりません。」(同証言、No.102)と証言しているのである。すなわち、PMIや、高齢者の死亡割合にみられる数字上の差異をもって、直ちに有機水銀による影響と考え、水俣地区における保健水準の低下を論ずる原告らの見方は、結論を急ぎ過ぎるためではあろうが、判断を誤まっている、といわねばならない。

(2)  また、原告らは、平均死亡年齢についてみても、水俣地区は、他の有明地区、御所浦地区に比して若死である、と主張し、これまた、有機水銀の影響によるものと結論を急ぐのである。(原告ら第二準備書面、第三、二、(一)、②)。

しかし、異る地域を比較する場合は、生の平均死亡年齢の統計値を使うのではなく、人口構成で補正した訂正平均死亡年齢で比較するのが正しい手法である(野村証言、50・2・21、No.98)とされているところ、野村教室による第二次研究班報告では、右の訂正平均死亡年齢によって「地区別に比較すると、男子では著明な差を認めないが、女子では、有明地区に比べてその他の地区の値は、若干若いようである。」(甲第二五号証、第二年度、21頁)と記載されてはいるが、現にこの報告をまとめた野村教授によれば「訂正前の資料では、三地区、少し差があるようでございましたけれども、年齢構成をきちんと訂正して比べてみますと、平均死亡年齢では特に三地区に特別の違いはないように観察」される(野村証言、50・1・22、No.22)としているのであって、この点でも、原告らの理解は、慎重さを欠いている。

(3)  また、原告らは、死因別の死亡割合で比べると、水俣地区では成人病など長寿を全うする形の死亡が少なく、炎症性疾患や事故死が多い、このことは我が国の国民保健の動向が感染症を次第に克服して次第に成人病の割合が多くなっているのに反している、と主張している。(原告ら第二準備書面、第三、二、(一)、③)。

確かに第二次研究班報告書には右の旨の記載もあり、また野村教授もそれに沿う証言をしているが(野村証言、50・1・22、No.24)、右の事実から、水俣地区の保健水準が、他地区に比べて低下しているのか、また、それが有機水銀の影響によるものかの考察は全くなされていないのである。そして、PMIや平均死亡年齢の見地からみても、「三地区の保健水準に数字上の差異」があっても、「それを直接何による違いであるかというようなことを考察するに足るような数値」はない(野村証言、50・2・21、No.102)のであって、死因構造にみられる差異から、保健水準の差異を結論することもできないと思われる。

(4)  以上の点は、乳児死亡率についても全く同様であり、この乳児死亡率は、「俗に、文化のバロメーターというような言い方」があるが、「乳児の死亡というのは新生児死亡があり、また、場合によっては、……新生児死亡が死産届で出ることがあったり……影響する要因がいろいろある」から、「乳児死亡の数字……そのままをすぐに比較には使えない」のである。この点においても、種々の角度からの検討、考察を抜きにして、調査結果から直ちに保健水準の差異を結論することの誤りは極めて明白である。(野村証言、50・2・21、No.112)。

もっとも、乳児死亡率については、数字の上では、汚染の度合の高い水俣地区よりも御所浦地区の方が、原告らの期待に反して、悪い数値となっているのであるが、事の道理は全く同一であろう。

(六) 次に、原告らは、公衆衛生学教室が三地区の住民の愁訴、すなわち自覚症状の訴えをもとに作成した有訴者頻度により、従来水俣病に関して注目されていた知覚障害、視野狭窄、聴力障害、失調などのほか、殆どの症状において、水俣地区は他地区に比して自覚症状の頻度が著しく高いということから、この差異は水俣病の症状によるものであると主張している。(原告ら第二準備書面、第三、二、(二))。

しかしながら、右の調査に関しては、「水俣地区の成績というのは、男女共非常に愁訴の記入が多(く、)…ほとんど全項目について多い(が、)…これはいろいろな社会的要因とか、心理的…その調査の時期の背景とか、あるいはその地域のたどってきた歴史的ないろんな環境、条件の変動…そういうようなことを考慮すべきで、…ただ多いということでなく…どういうふうな表われ方をしているかということを考えて考察する必要があろう」というのが、同調査の責任者であった同教室野村茂教授の言葉である。(野村証言、50・1・22、No.25)。すなわち、この調査結果は、以上のような考察を行うべき素材なのである。もとより、医学的な検討、吟味を経ることなく、差異のある症状はいずれもメチル水銀によるものだと判断すべきではないし、また、具体的な診断にあたっては、自覚症状は総合判断の一つの参考資料というべきであり、右の調査結果により差のある個々の自覚症状が訴えられているからといって、この「自覚症状は当然、メチル水銀によるものと考えられる。」(原告ら第三準備書面、第三章、一、(一))とするのは全くの独断といわねばならない。

(七) 原告らは、熊本大学神経精神科教室の行った調査により、精神症状、神経症状の出現頻度において水俣地区は他地区に比べてはるかに多いとし、また、従来水俣病の症状と考えられてこなかった症状でも水俣地区に多いものがあると述べ、これらの差の認められる症状は、水俣病の症状と考えられる、と主張している。(原告ら第二準備書面、第三、二、(二))。

前記公衆衛生学教室の行った自覚症状の調査は、本人の訴えによるものであり、これについては、種々の社会的要因等を考慮して、得られたデータを取り扱う必要がある、とされているが(野村証言、50・1・22、No.25)、神経精神科教室による検診についても、その結果から直ちに結論を導くことはできない。

(1)  自覚症状は、専ら、患者本人の訴えによる。一方、検診によって把握される症状は、他覚的検査であるから、客観的なものと考えられ易いが、事実はこれと異る。知覚障害、運動失調、その他水俣病の検診にあたり行われる症状の検査の多くは患者本人の応答によるものであり、視野計など機器による検査においても、視野図の各点をプロットするのは、被験者の応答によるため、その判定には医師としての経験と慎重さが要求されている。

したがって、他覚的検査においても、患者の応答するところが客観的な障害の表明であるか否かについての判断が大切であり、さらに、その障害をもたらす原因が何であるかの鑑別が重要とされる。これは患者が必ずしも詐病をつかうということではないが、現にそういうケースも想定されており、また、心因性の障害も鑑別上重要とされ(乙第四号証の三、椿忠雄「水俣病診断に対する最近の問題点」76頁)、また、メチル水銀中毒の影響のある場合は器質的変化がある筈だから、変動が激しい場合や症状相互が矛盾する場合など、かかる症状としては理解できないような場合は、仮りに症状が出ていても、水俣病における症状とは認められないし(武内証言、51・2・13、No.64、65)、さらに、水俣病の個々の症候はありふれたものであるので、「そこに要求されることは、類似した多くの神経疾患をいかにして鑑別すべきかということであり、それには高度の神経学的知識が要請される」(前掲乙第四号証の三71頁)のであって、他覚的検査だから得られた結果は常に客観的なものと決めてかかることはできない。(因みに、椿忠雄教授が、右の引用部分に引きつづき、「現在水俣病の診療に当たっている一部の医師が、水俣病の経験が豊富なために過剰な自信を持ち、過剰診断をする可能性があるが、これは神経学一般の知識の不足によるものと考えられる。こういうと、神経内科医の独善のように聞こえるかも知れないが、そうではなく神経学一般の知識があるからこそ非定型例や軽症例も正しく診断できるという自明の論理である。」と述べて、他覚的検査に際し過剰診断に陥り易い弊のあることを警告しているのは、前述したとおりである。)

(2)  しかして、第二次研究班報告書のうち原告らの引用するものは、「水俣病の精神神経学的研究――水俣病の臨床疫学的ならびに症候学的研究」(甲第二五号証、第一年度41頁以下)および「不知火海沿岸住民の健康に及ぼす有機水銀汚染魚介類摂取の影響に関する研究」(同号証、第二年度48頁以下)であるが、これに記載された検診は、熊本大学医学部神経精神科の立津教室に属する医師らによって行われたものであって、さらに、眼科、耳鼻科等の各科、特に神経内科を含む総合的な診断ではない。もとより、これも一つのデータではあるが直ちにこの診断結果を間違いないものとするのは早計である。

現に、立津教室による検診の結果健康障害者とされた者については、第二次研究班が「疫学的および臨床各科(眼科・耳鼻科・小児科および精密検査)の検診による所見とあわせて総合的に検討を加えた」(甲第二五号証、第二年度137頁)とされているが、その結果と立津教室の診断結果とでは、被検診者を水俣病、水俣病の疑い等に区分した人数(甲第二五号証、第二年度137頁)が一致していない。調査時点にずれがあるということであるが、それにしても、その差は大きい。これによっても、立津教室のみの診断が正しいとはいい切れないことがわかる。

(3)  また、右の点はしばらくおくとしても、立津教室は、対照地区として選んだ有明町について、「ここの住民は、有機水銀の汚染は受けていないものと、当初、考えられていた。」(甲第二五号証、第二年度49頁)が、「有明地区を含めてこれら三地区には水俣病の症状をもつ患者がいる。」として、有明町の住民中水俣病八人、その疑い二人と断定し(同号証、第二年度51頁、本文および表3)ている。また、これについて、先の研究班全員による総合判定では、立津教室のように断定はすることなく、「有明地区では、…水俣病と同じ症状とみてよいもの八名…で、その内五名は全主要症状を併有し、他の三名も視野狭窄、知覚障害、失調、難聴の主症状は同時に証明されたものであった。」(甲第二五号証、第二年度139頁)としている。これは、いわゆる第三水俣病として喧伝されたものであるが、その後、昭和四八年八月一七日、環境庁の「水銀汚染調査検討委員会」の健康調査分科会は、水俣病の診断、疫学の専門家二一名の出席を得て検討した末、右の水俣病および水俣病の疑いとされた有明町の住民二人について、現時点では水俣病の疑いはない、との結論を出している。この結論に対して、立津、武内の両教授は不満をもっている、とされているが(乙第五四号証の二、三)、一方、椿教授は、「昨年五月有明地区の水俣病様症状の患者が新聞に報道され大きな社会問題となった。よく知られているように、熊本大学医学部十年後の水俣病研究班(被告註、神経精神科教室を含む研究班全体のことであって、同教室のみを指すのではない)は、この患者を水俣病とは断定してはいない。…このうち、疑い例を含めて二例は昨年何人かの本邦でも第一流の神経学者が診察して神経症状なしと判定しているし、私も映画によって運動失調のないことを確認しているので、広い診断基準をとっても水俣病の診断はできない訳である。しかし前記の研究班が診察し神経症状があったことは否定できないし、むしろその時点で神経症状はあったと私は考えている。また、この二例に神経症状がなかったことは残りの例にも神経症状がないだろうということにはならない。」(乙第四九号証の二、椿忠雄「水俣病の診断」16頁)と述べている。この記述は極めて慎重な表現でなされているが、少くも右の事実は、立津教室の診断(第二次研究班全員の検討結果は、立津教室による診断結果に基づいてなされており、別科の検診項目は加えられているが、神経内科的検討が再度なされているのではない。)に過剰診断のあることを裏付けるに十分である。

さらに、同じ昭和四八年六月頃、福岡県大牟田市の住民の中から、水俣病と同一症状という患者が原田正純助教授によって診断されたが、後に九州大学医学部の医師団により、有機水銀中毒とは無関係と判定され、同助教授もこれを納得したと報道されている。(乙第五四号証の一)。

これらを通じてみると、立津教室が症状ありとみたものも、現実にはその症状はなかったのであり、また仮りに症状があったとしても、水俣病の症状として拾えるに至らない、または理解しえない症状であって、しかもそれを直ちに有機水銀中毒と結びつけて結論を出したものといわざるをえない。もとより立津教室の検診結果がすべてそうであるというのではないし、その調査結果はそれなりに評価しうるとしても、少くもその診断結果を捉えて、そのまま客観的事実と断定することは即断に過ぎるというべきである。

(4)  しかして、原告らは、疫学的手法による調査の結果、「高血圧、脳出血後遺症、パルキンソニスムスは明らかに水俣地区に多い。…これらの差の認められる病状は水俣病の症状と考えられる。」と主張し(原告ら第二準備書面、第三、二、(二))、さらに、「これらの(メチル水銀による)健康障害のすべてが狭義の神経症状によるものばかりではなく、高血圧はじめ循環障害、腎障害、肝障害、さらに糖尿病、頸椎変形、リューマチ性疾患などさまざまな疾患の合併もみられる。水俣病はその発見以来、神経症状のみが注目され、その神経症状のかげにかくされて他の臓器への影響は無視されがちであった。」(原告ら第三準備書面、第三章、一、(三))として、これら内臓疾患もまた、メチル水銀による健康障害だと主張するのである。

しかしながら、「水俣地区住民に頻度の低いものは、脳動脈硬化による神経精神障害、脊椎変形症、アルコール中毒などである。」というのは、ほかならぬ第二次研究班立津教室の調査結果である。(甲第二五号証、第一年度46頁)。頻度に有意差があるとか、多いとかいうのではなく、逆に水俣地区に少いとする脊椎変形症を捉えて、メチル水銀により発症するということ自体、原告らの理論の矛盾である。そして、右の疫学調査報告によれば、リューマチ性関節炎について水俣地区は有明地区よりも低く(甲第二五号証、第一年度47頁)、これまた、原告らの理論と矛盾する。(もっとも、原告らの右主張が水俣病患者に合併症としてみられた症状はすべてメチル水銀によるものであるというのであれば、もはや独善的主張というべく、とりあげて批判する価値はない。)

(5)  しかして立津教室の報告は、高血圧、動脈硬化等、従来水俣病の症状と関係がないとされている症状に関連して、左右の半身症状を問題として提起している。すなわち、「身体の左右半側に運動麻痺のある場合が三八例…、そのうち三〇例…では著明、しかし残りの八例では軽度。知覚障害が半身に著明な場合が三九例…。運動麻痺と知覚障害の両障害が認められる場合が八例…、八例とも両者は同側である。水俣病患者でやや特異なことは、左右の半身に運動麻痺が著明でありながら、知覚障害に左右差の認められない場合が二二例あること、および半身に知覚障害は著明でありながら運動障害に左右差の認められない場合が二三例あるということである。」(甲第二五号証、第二年度、59頁、左右の半身症状)と述べ、またこれを受け、この報告の末尾の「要約」(同85・86頁)において、「高血圧、左右の半身症状、てんかんその他の意識障害発作も、有機水銀中毒の症状として起こりうる。また、肝機能障害も有機水銀中毒の症状として現われることもありうるものと考えられる。」と強調している。

しかしながら、椿教授は、「非特異的疾患として、高血圧や肝障害、膵障害が水俣病の一環としておこるという証拠は現時点では充分ではないと思う」とし、さらに、片麻痺や片側知覚障害等の半側症状が中毒で起ることは考えにくく、半身知覚麻痺があるから水俣病と診断するような飛躍がみられるが、慎重でなければならない旨を述べ、半身症状に関して否定的見解を示している。(乙第四号証の三、椿忠雄「水俣病の診断」72頁)。同教授の右論文は第二次研究班報告の出た約一年後のものであり、単に疫学的調査の数値によって結論を導くことの誤りを明確に示しているものといえる。

それのみでなく、第二次研究班の班長であった武内教授もまた、「(メチル水銀を摂取した場合に、左か右かの半身症状だけが出るかどうかは)常識的には中毒性の作用というものは半身だけに影響するということはありません。全体に作用するわけですから左右に現われるわけです。だから片一方だけということはありませんけれども、左右の強弱があることはあると思」う旨を、「病理の立場」から述べて(武内証言、51・6・2、No.70)、半身症状の水俣病を明確に否定している。(同旨、永松啓爾証言、52・2・24、No.5・6)。

(6)  なお、立津教室の疫学調査では有意差ありとしていないが、本件の審理において、メチル水銀と動脈硬化症との関係がとり上げられている。すなわち、この点については、白木博次教授の研究があり、同教授はエチル水銀、メチル水銀等が残留することにより、脳や心臓等の動脈の硬化病変を生じさせるとの見解を述べている。そして、同教授は自説について、多くの水俣病研究者のうち、専門的立場で武内忠男教授のほか、白川(健一)、原田(正純)各氏が賛成しているが、他の研究者の賛否の意見は不明である、と述べている。(白木証言、50・8・27、No.168~174)。しかし、右の証言に反し、武内教授の見解は、白木説と異っており、水俣病患者にみられる脳動脈硬化症はメチル水銀の作用ではなく、脳が萎縮するまでに至った結果、血管内腔が狭小化して、これに伴う血圧の上昇によるもの、また、他の臓器を養う動脈の硬化症は、強制的な栄養補給によるものとの見解を述べている。(武内証言 50・3・19No.35~42、50・6・4No.217~221)。

そして、これに関連するものとして、「水俣市に近い鹿児島県側の不知火海沿岸住民約八万名を対象とした一斉健康調査」を行ない、その調査結果を統計的に分析した鹿児島県の審査会会長、鹿児島大学井形昭弘教授の研究報告がある。(乙第四号証の四、井形昭弘他「多変量解析による水俣病の診断」)。これによると、「眼底動脈硬化度(被告註、脳動脈硬化の状況を端的に示すことはいうまでもない。)が直接有機水銀に影響をうけ水俣病症状と並行関係にあるという事実はみられなかった。…先に報告した方法で脳卒中発作と水俣病との間には関連がないことを確かめており、少なくともメチル水銀が動脈硬化を促進するという積極的な根拠は得られなかった。」(同号証、83頁、86頁)とされている。

以上のように、メチル水銀が動脈硬化病変を起こすか否かについては、研究者の間において何ら決着がついていないのであって、前述の白木証言にもあるとおり、白木説は学界でも僅かの支持しか得られていないのである。(武内証言、51・6・2No.71・72。永松証言52・2・24No.1)。

さらに重要なことは、右がいずれとしても、「メチル水銀と関係して動脈硬化症がでるかどうかということは、動脈硬化以外の所見を十分見ないと決定できないわけで…、有機水銀中毒症であれば、その人に動脈硬化症があっても、必ずほかの症状も共にあるということ」であり(武内証言、51・6・2No.74)、したがって、仮りに動脈硬化症がメチル水銀によって生ずるとしても、動脈硬化の症状によって水俣病と判定しうるのではなく、まず、通常みられる水俣病の諸症状の存否を総合的に判断することが必要であることはいうまでもない。この点は、白木教授自身も全く同意見であって、「(動脈硬化であれば水俣病と認定せよという趣旨のことは)私は一つもいうておりません。…脳動脈硬化症がありますと水俣病ではないと…いう百パーセントの否定は、…関係あるかも知れないし、ないかも知れない(から)、科学的じゃない」ということを述べているのだ(白木証言、50・8・27No.153)とし、一方、また、脳動脈硬化の症状は、大脳や小脳の症状よりおくれて出る筈でおるとも述べている。(白木証言、50・8・27No.148~151)。すなわち、メチル水銀により動脈硬化病変が生ずるか否かについては、何ら学問的に決着はついていない今後の検討問題であるし、さらに、いずれにしても動脈硬化症があるから水俣病である、ということはおよそ間違いであり、これ以外の症状から水俣病と認められるか否かを考えねばならないのである。もとより合併症の可能性は常に考慮されるべきであるが、白木教授の心配するように、動脈硬化だから水俣病ではない、という判断を通常の医師が行う筈もないのである。

(7)  なお、立津教室では、第二次研究班報告において、脳出血後遺症、てんかんもメチル水銀の影響のあるものとしてとり上げている。すなわち、脳出血後遺症については、水俣地区は、御所浦、有明地区に比べて高率であり、有意差があるとしているし、てんかんについては、水俣、有明地区は平安座島に比べて有意差をもって多いとするのである。(甲第二五号証、第一年度46頁、第二年度71頁。立津証言、50・10・8No.67)。一方、同教室は、水俣地区と京都府下のA町(伊根町)とを対比した報告において、卒中後遺症、てんかんは、ともに、両地区に差はないとしている。(甲第四二号証69頁。立津証言、51・3・19No.44)。

水俣地区と、対照地区として御所浦、有明両地区、あるいは平安座島を対比させた場合も、水俣地区と、対照地区としてA町を対比させた場合も、疫学的にはメチル水銀による汚染以外に条件の差異はない筈であった。したがって、一方のケースで脳出血後遺症、てんかんに有意差があり、それはメチル水銀によるものだと結論づけるなら、他方のケースで、卒中後遺症、てんかんに差がないというのは理解し難い結果といわねばならない。

右について、立津教授は、A町に関する甲第四二号証の調査の場合、例えば動脈硬化症の数は、その症状だけのものをまとめたのであって、水俣病の症状を含むものはこれに含まれておらず、水俣病の症状を含むものは「水俣病、その類似症状」の項に分類されているから、両地区に差がないといっても動脈硬化と有機水銀との関係を否定するデータにはならないと弁解している。(立津証言、51・4・23No.7・8)。しかし、動脈硬化にせよ、てんかん、卒中後遺症にせよ、水俣、A町両地区で差のない症状がどの位水俣病の項目に分類された人の内に合併して存在したかのデータも分析されていないから、この弁明は極めて消極的な慎重さを示すに過ぎない。そして立津証人も認めざるをえないように、メチル水銀のみが条件として異るという、慎重さを欠いた前提を置くと、水俣地区に比しA町の方が逆に有意の差をもって多いという聴力障害、両上肢、両下肢の知覚障害の原因は解釈しえないことになるのである(立津証言、51・4・23No.204~206)。

いずれにしても、疫学的手法で症状調査を行う場合は、得られた数値から直ちに結論を導くことは危険であり、慎重な分析と、そして何よりも実証が大切であることを、右の事実は裏付けている。

(8)  因みに、原告らは、「近時、ハンター・ラッセル症候群をそなえた患者の症状さえも、水俣病以外の原因で説明がつくとして、さらに大きく水俣病を切り棄てようとする動きがある。」、「疫学的条件をそなえた患者の個々の症状について他の原因、他の病名でも説明がつくということは、決して水俣病を否定する根拠たりえない。」(原告ら第二準備書面、第三、三)とか、「有機水銀中毒例でも循環障害、糖尿、心障害などの報告はみられており、全身症状のどれ一つをとってみても『有機水銀中毒に特異的でない』というより『有機水銀中毒でも説明がつく』ものである。」(原告ら第三準備書面、第三章、一、(三))とか主張している。右引用における審査会に対する非難自体は、何ら根拠のないことであるが、これらの主張は、医学的に「説明できる」という用語を誤解することから成り立っている。すなわち、医学的にいえば、ある疾患で「説明できる」ということは、決して、ある疾患でも説明できる、他の疾患でも説明できる、ということをいっているのではなく、正に当該のある疾患である、という診断を示しているのである。(武内証言、50・6・4No.81~83。永松証言、52・2・24No.10・11)。この医学上の用語の誤解ないし曲解による原告らの主張は根本的に誤っている。そして、原告らは有機水銀中毒例でも循環障害、心障害、などの報告があることから、「全身症状のどれ一つをとっても」「有機水銀中毒でも説明がつく」と主張しているが何らの根拠もない。ある全身症状が水俣病の合併症として存在したことがあるというだけではその全身症状が有機水銀によるということはもとよりいえないし、また仮りにある全身症状が疫学調査の結果有意差のある症状であるとしても、医学的な実証を経ることなく、右の調査結果から直ちにこれらがメチル水銀によって生ずると結論しえないのは、既に述べたところから明らかであろう。

そして、前記の「二、水俣病診断の条件について」において詳論したように、水俣病の判断にあたっては、個々の症状を、単にばらばらにして判断するのではなく、水俣病にみられる諸症状の存否と程度、さらにその組合せの意味を、合併症の存否との関連をも含めて総合的に判断することが必要であり、この結果、水俣病ではないと判断された場合には、メチル水銀中毒でも生じうる個々の症状が、この場合メチル水銀による症状でなく、他の疾患ないし原因によるものであると診断され、「説明される」こととなるのである。これに反して、個々の症状の一つ一つを捉え、この症状はメチル水銀中毒でもありうる、この症状は合併症と考えれば矛盾しない、という羅列を行い、これと疫学条件によって水俣病であるとの結論を導こうとするのは、水俣病診断では不可欠な総合判断、すなわち各症状相互の関連性を無視するものであって、医学的にみて明らかな誤りである。

五  まとめ

以上を要するに、水俣病か否かの判断は、原告らも主張するように、可能性の判断であるが、これは、患者の各症状を高度の知識と経験に基づき総合的に判断することによってはじめてなしうる。そして熊本県および鹿児島県の審査会は、水俣病に関して学識も深く、経験も豊かな委員によって構成されており、しかも棄却の答申は常に全員一致でこれを行っており、一人でも異論があれば保留となるのである。(武内証言、50・6・4No.62~64、73~78。原田証言53・3・3No.108~110)。

特に熊本県審査会の場合、昭和四五年一月以降四九年四月までは、第二次研究班の立津教室の責任者である立津政順教授が委員であり、また、それ以降は同教室の有力メンバーであった原田正純助教授が、あるいは専門委員として、あるいは委員として審査に加わっており(原田証言、53・3・3No.111・112)、この立津、原田両氏の意見に反して棄却されたことはないのである。そして、水俣病について師弟関係にある立津教授と原田助教授は、考え方や学問的立場が同じである(原田証言、53・3・3No.103~106)というのであるが、研究者として、将来解決すべき課題に関し、他と異なる意見を有していたか否かは別として、少くも現在行うべき具体的な医学的判断としては、本件における原告患者の棄却処分については、立津委員と他の委員との間に意見の不一致はなかった、といわねばならない。

もとより、医学の上でも、学問的に他と異る見解を抱懐することは自由であり、それに沿った研究を行うことも学問の進歩の上で必要なことである。しかし、具体的な診断は普遍性のある医学的知識と経験に基づいて行われるのが当然である。(原田正純証人もこれを肯定する。原田証言、53・3・3No.115~116)。

以上の意味において、各審査会によって棄却された原告患者は水俣病である可能性はないか、または少くも水俣病であることは肯定しえないものといわねばならない。

第五被告の反論(その二、各論)

一  序説

1  メチル水銀によって神経が器質的な障害を受けている場合、検査によってその障害に応じた臨床症状が出てきたり、出なかったりすることは考え難い。逆にいうと、このように検査によってある症状が所見として得られたり、得られなかったりするときは、この症状は器質的なものであるとの判断はなし難いのである。(武内証言、51・2・13No.64~77。永松証言、52・3・18No.521~526)。

もとより、時の経過により症状が悪化したり、あるいは、代償機能が働いて、一見症状が軽快したようにみえることもありうるが、短期間にこのような変動が生ずることはおよそありえない。

したがって、期間的に余り差がない場合、別な機会における検査によって、把握されたり、されなかったりする症状、または変動が激しい症状は、症状として存在するとの評価はなしえないのである。

2  眼科的検査については、審査会資料のほか、渥美健三証人作成名義の眼科用特診カルテ(甲第九四号証ないし第一〇七号証の一ないし五)が証拠として提出されているが、その内容、特に視野狭窄の検査結果はことごとく審査会資料と異り、一様に著しい狭窄を示している。審会査の検診と渥美証人による検査とは、期間的に数年へだっているが、それにしてもこの違いは異常である。

元来、視野の測定は、被験者の反応の再現性をチェックするためにも、眼科医自らがするのが正確を期する所以であるが、同証人作成名義の視野測定図は、実際には、医師でもなく、眼科専門の検査技士でもない水俣診療所所属の者にさせたということであって(渥美証言、52・8・18No.26~33)、その結果の正確さ自体保証されていない。

そして、同証人作成名義の視野図の多くは、中等度以上の狭窄を示しており、特に最高度の狭窄の場合、もしこれがメチル水銀による後頭葉の障害によるものであるとすれば、甚しく重篤な水俣病と考えられ、したがって、当然、他の神経症状も重篤なものとして発現していて然るべきものである。これらの視野測定の結果をどう評価すべきかは、他の神経症状との相互の関連を十分に検討する必要があるのは、いうまでもないところである。

右に関して、椿鑑定人は、鑑定の対象となった原告患者のすべてに共通するものとして、過去の記録を閲覧した新潟大学医学部眼科学の岩田和雄教授の意見を引用しているが、右にいう過去の記録には渥美健三医師の検診カルテも含まれている。

しかして、同鑑定書によると、岩田教授は、「新潟水俣病の経験が深いが、記録については、新潟と熊本との検査項目、検査方法の相違のために完全な結論を下さなかったが、記載された所見は特にメチル水銀中毒症を積極的に支持するものであるとの意見ではなかった。症候の変動が強かったり、症候間の不均衡のため有意の結論を引き出し難かった如くである。」と記述されている。(椿鑑定書、主文の四)。

水俣病か否かの判断にあたっては、各症状について総合的に判断すべきであり、これを個々に切りはなして論ずることは誤りであることは、繰り返して述べたが、岩田教授の判断の仕方は被告の右主張と一致するものであり、また同教授が記録を閲覧して表明した右の意見は、本件原告らが水俣病か否かの判断において、重要な一資料といわねばならない。

二  原告ら主張の損害について

1  原告らは、水俣病に罹患したことによって患者本人、その配偶者、子または親が、それぞれ一律に二、八〇〇万円、六〇〇万円、四五〇万円の損害をこうむった旨主張している。被告は原告各患者が水俣病であることを否定するものであるが、原告らの損害額の主張自体にも首肯しかねる点が多々あるので、以下、この点について述べる。

2  原告らは、損害の内容として、原告らのこうむった社会的、経済的、精神的損害のすべてを包括する総体であるとし、原告らの請求は、右の総体としての損害を受けなかった状態に完全に回復することであるという。

しかし、原告らが本訴において民法第七〇九条等に基づき水俣病に罹患したことによる損害の賠償を求めていることは明らかであるが、そうである以上、原告らが賠償を求めうるのは現実に発生した損害についてであり、また、その損害は「金銭ヲ以テ其額ヲ定」めるべきものであることもいうまでもない。すなわち、現実に発生した財産的損害および精神的損害を金額をもって算定したものが原告らの損害であるといわねばならない。「単なる逸失利益を中心に置く従来の損害論と異なり、またいわゆる慰藉料に矮小化されるものでもない」という原告らの前述のごとき損害論は、法律上、到底是認しうるものではない。

3  しかして、精神的損害すなわち慰藉料は、個々の患者の病状の程度、発病の時期、病状の推移、合併症の有無、発病時の年齢、性別、健康状態、職業、収入、生活状態など具体的事情を斟酌して個別的に算定すべきものであることはいうまでもないが、殊に逸失利益などの財産的損害は、個個の患者ごとに発病時の職業、収入額、労働能力喪失の有無とその程度、稼働可能年数、病状の推移、治療状況、就労の可否、就労不能日数などを基に具体的に計算すべきであり、仮りに右のごとき財産的損害を慰藉料に含ませて請求することが許されるとしても、その場合には、右の諸事情を基準とし、実態に相応する金額を個別的に算定すべきである。

4  原告らの中には、老齢で稼働可能年数が殆ど残存していない者、労働能力障害をきたす現症状が脳血管障害その他水俣病以外の病気がその原因をなしている者などが多く含まれ、また、就業可能の者、主婦で家事労働に従事している者などがある。これらの者につき逸失利益を計算しても幾ばくの金額にもならないことは明らかである。これらの者について、人身傷害事件につき一般に認められている基準に従い慰藉料額を算定し、逸失利益など財産的損害を加算しても、原告らの請求額に達するとは到底考えられず、却ってこれを大幅に下回る者のあることを否定できない。原告らが、患者本人につき二、八〇〇万円という高額な損害賠償の請求をなすからには、その算定根拠を明らかにすべきであり、その主張立証のない以上、かかる請求額は認めるに由ないものといわざるをえない。

5  また、原告各患者とも、性別、年齢、発病時期、病状の推移、症状の程度、発病時の健康状態、他の疾患の有無・程度、職業、収入、生活状態など、そのいずれをとり上げても、患者ごとにそれぞれ異り、同一というものはない。すなわち、慰藉料についてもそうであるが、逸失利益などの財産的損害については特に、それぞれ患者ごとに損害額に相違を生ずることは歴然としている。原告らの請求のごとく、これら各患者の個別事情を一切無視して一律に損害額を算定することは公平の原則に反し、到底容認しうるものではない。

6  熊本地方裁判所の水俣病に関するいわゆる一次訴訟判決(熊本地裁・昭和四八年三月二〇日判決)においても「逸失利益などの財産上の損害を慰藉料に含ませる以上、裁判所は慰藉料を算定するにあたって、各患者の生死の別、各患者の症状とその経過、闘病期間の長短、境遇などのほかに、これら患者の年令、職業、稼働可能年数、収入、生活状況などの諸般の事情をあわせて斟酌しなければならない。なお、このように被害者側の個別事情を考慮することなく、全部の被害者について一律に損害額を算定請求することは、公平、妥当かつ合理的な損害の賠償という不法行為法の理念に反すると解せられるから、相当でないものといわなければならない。この点に関連して、原告らは、水俣病患者家族が受けた被害には差がつけられないとか、各患者の症状などに差はないというが、現に患者家族がそれぞれ異なった個別事情を有し、患者の症状もそれぞれ異なり、どれひとつとして全く同じもののないことは、つぎに原告患者らの事情を個別に認定したところをみれば明らかであろう。」と述べ、損害額は一律に算定すべきではなく、各患者ごとに諸事情を考慮し個別的に算定すべきことを明らかにしている。また、いわゆる新潟水俣病判決(新潟地裁・昭和四六年九月二九日判決)においても各患者の個別的事情を検討し、脳軟化症、脳栓塞、脳血栓、脳血管障害、脳性麻痺、アルコール中毒症、肺結核症などの合併症あるいは高齢などを考慮して損害額を算定している。

本件は、原告患者一四名(死亡者二名を含む。)のそれぞれについて、現症状がメチル水銀の影響によるものであるか否かを争点として、医学的な諸証拠により審査が行われてきた事件である。したがって、これまでの審理により原告各患者の現症状、生活状態、水俣病以外の疾患の有無・程度、その現症状に対する影響、年齢と現症状との関連などが一切明らかにされている。

以上の本件の審理結果からみると、仮りに原告各患者の中で水俣病と認められる者があったとしても、これにつき、前記熊本地裁判決で認められた損害額はもちろん、その他のいわゆる公害事件諸判決で認められた一律の損害額をそのままあてはめることは、前記の各患者の諸事情からみて、これに合致せず適切ではない。本件においては、原告各患者につき明らかとなっている右述の諸事情と、これに加え、当該患者の水俣病の可能性の程度、その現症状に対する影響の度合などを考慮し、実態に即した損害額を個別的に算定すべきものである。

7  生存患者の近親者に固有の慰藉料が認められるのは、同患者が水俣病に罹患し、これにより同患者が死亡した場合にも比肩すべき、または、右の場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたと認められる場合に限られることは、改めていうまでもない。原告生存各患者の中には、病状の重い者もみられるが、少くもその症状の原因は、主として脳血管障害など他疾患によるものである。原告らは配偶者につき一律に六〇〇万円、子または親につき一律四五〇万円を請求しているが、金額が通常の基準に比し高額であるのに、その算定の根拠の説明がないこと、個別的事情を無視して一律に金額を定めることが失当であることを別としても、原告生存患者それぞれについて近親者固有の慰藉料を請求しうる場合にあたるとの点の主張立証はなされていない。したがって、原告らの右のごとき請求は認めることができない。

8  因みに原告らは、被告と水俣病被害者の会との間の協定書(甲第三五〇号証の一ないし九)を引用し、死亡者およびAランク一、八〇〇万円、Bランク一、七〇〇万円、Cランク一、六〇〇万円という補償額は、審査会の認定がある場合、当然に被告として支払うことを承認している数額であるから、判決において水俣病と判断する場合においても、これを下回る額を認容額とすることのないよう要望する旨を述べている。しかしながら、右の協定に定める数額の支払いは審査会による水俣病であるないし有機水銀の影響を否定できない、との医学的判断に基づいて水俣病と認定された患者に関するものであって、医学的に右のような判断がなされないものについてまで、これを支払う趣旨ではない。したがって、右のような審査会による医学的判断に基づかない認定については、協定自体適用の余地はないし、また裁判所が、審査会の医学的判断と異る医学的根拠ないし法律的判断に基づいて本件原告患者を水俣病であると判断する以上、もとより全証拠に基づき、前記の種々の項目を斟酌して具体的な被害額を認定すべきが当然であり、右協定に定める額を最低額として前提する必要は全くない。

三  各患者について

(森枝鎮松 関係)

1  本原告は、昭和四七年一月五日、熊本県知事に対して水俣病の認定申請を行い、これに関して同県の審査会は、神経内科、精神科、眼科、耳鼻科による検診と検査を行った上で二度に亘って審査の上、昭和四八年一月三〇日、同県知事に対して、「医学的判定」は「水俣病ではない。又は有機水銀の影響は認められない。」の項に該当する、「考えられる疾患名および合併症」としては「右側脳血管障害、背椎症」との答申を行い、これを受けて同県知事は、同年二月三日、認定の申請を棄却する処分を行った(乙第一号証の一ないし八)。

2  本原告の申請が棄却された理由、特に臨床症状の概要は次のとおりである。

(一) 聞きとりにより、疫学的条件としては、米の津で出生、昭和三年から一九年の間、水俣、同年から二〇年の間天草、同年以降水俣に居住して古物商を営んでいること、食生活としては魚貝類を好み、昭和二三年頃から投網で魚類をとって好物なので多食したこと等がとり上げられており(乙第一号証の三、四)、また病歴としては、昭和三九年一一月、気分が悪く立てなくなり、舌が廻らない、両足殊に左足のしびれ、両肩から先、殊に左手のしびれがそれぞれひどく、眼も見えにくく、耳鳴りがあったが、その後改善し、一人で歩けるようにもなった等の記述がある(乙第一号証の四)。これらの点から、「漁業に携わっている人よりも疫学的には関係が薄いということにな」るが、水俣の周辺の人であり、魚をたくさん食べていて水俣病の症状があればもとより、そういう認定をする(武内証言51・2・13No.100~102)という立場で審査が行われている。

(二) 臨床所見のうち、知覚障害については、第一回目の検診においても認められたが、腰から下、両膝の上までの間を除いて顔面と体躯の全部に痛覚麻痺があり、触覚は両手、両足に麻痺があった(乙第一号証の六)。この分布は、水俣病における知覚障害の出方とも異り、また、そのほかの神経障害における出方とも異った、アンユージャルな分布を示しているので、果して本当に知覚障害があるのかどうかが判断できないとされた。

審査会では他の症状も後述のように水俣病としてとり上げられるものはなかったが、この知覚障害の点をもう一度確かめるため決定を留保し、二ヶ月後に再度検診を行った。ところが、二度目の検診においては、やはり普通の出方と異る分布の知覚障害であり、しかも、メチル水銀による障害であるならば、僅か二ヶ月後のことであるので、前回と殆ど同じような障害の分布を示すべきであるのに、前回と著しく異って変化していた。この変動からしても、水俣病による知覚障害、器質的な知覚障害としては把握できない、と判断された。(乙第一号証の六、五。武内証言、50・6・4、No.42~49、51・2・13No.12~17・24~39・59~77)。

(三) 病的反射、脱力は、左側半側だけに認められる。また運動失調は左側だけに、軽度にあるか、どうか、という状況である。これらは左側に来る錐体路障害、脳卒中後遺症にみられる症状であって、昭和三九年一一月、卒中発作と認められる病歴のあることもこれを裏付けている。(乙第一号証の四ないし六。武内証言、50・6・4No.44~47・93~100、51・2・13No.18・19)。なお、企図振戦、片足起立も左側のみにあり、ロンベルグ検査は陰性で、自然歩行は錐体路障害を示す痙性歩行であって、小脳失調性の歩行ではなかった(乙第一号証の五、六。武内証言50・6・4No.93~100)。

(四) 眼科的所見は特になく、耳鼻科的所見も年齢相応で特段のものはない。また頸部に痛みがあり、レントゲン検査の結果からも変形性脊椎症が認められる。もっとも頸部の変形性脊椎症が前記の異常な知覚障害と結びつくとはいえないが、本原告の知覚障害は、前記のとおり、水俣病の症状としてはとりえないのである。(乙第一号証の五。武内証言、50・6・4No.46・115~126)。

(五) 以上の所見のうち、知覚障害については結論を保留して前記のとおり再検診を行ったがそれらを総合して、本原告については、右側脳血管障害があり、ほかに頸部に変形性脊椎症があるが、水俣病ではないと、審査会の委員全員一致の異論のない結論が出された(乙第一号証の七。武内証言50・6・4No.36・46、73~83・132)。

3  椿忠雄鑑定人の鑑定書によると、その検診の結果および意見の概要は次のとおりである。

(一) 感覚障害は四肢に対称性に存在し、末端部の方が著しい。振動覚は外足踵で左右とも四秒でやや低下。ただし、圧覚計では正常、触毛検査では上肢に障害(+)であった。

(二) 運動失調の検査では日常の細かい動作がぎこちない。舌の運動は遅く、やや失調気味。言語は正常範囲、指鼻、指鼻指、指耳試験は両側共拙劣で振戦を伴なう。膝踵指験でも運動の解体を両側に認める。図形画き試験は振戦を伴ない遅い。叩打試験はおそいが失調性ではない。ロンベルグ(+)、マン(+)。

以上の検査により両側性に運動失調を認める。

(三) 筋力低下は軽度、深部反射は全般に亢進。

(四) 結論として「本原告は昭和二九年二月二九日に脳血管性発作様の症状があり、頸椎症の存在も指摘されているが、症候のすべてをそれで説明することは困難である。それらが何らかの影響を与えていることは否定しえないが、疫学的背景のあるメチル水銀中毒の影響が存在すると結論する」としている。

4  原田鑑定の概要は次のとおりである。

(一) 知覚障害は左側にやや強いが、四肢末端に優位に認められる。共同運動障害は両側性に軽度陽性。聴力は神経性難聴(+)。視野は対座法で軽度に見られる(⊥)。頸部に運動痛があり、脊椎の変化が見られる。

(二) 自覚症状の一定のパターンおよび日常生活の支障は、末梢神経障害、共同運動障害、聴力障害などの水俣病の臨床症状に由来するものと一致する。

(三) 急に左半身症状が出現した点や左半身の錐体路症状は、脳の循環障害を疑わしめるものである。しかし左側にも知覚障害や共同運動障害が認められ、典型的な片麻痺を示していないし、すべての症状を説明することはできない。

(四) 最低限知覚障害と共同運動障害が認められており、疫学条件を満たすので、メチル水銀による健康障害(水俣病)と判断する。

5  椿鑑定および原田鑑定ならびに審査会の所見について、それぞれ異る点を検討する。

(一) 知覚障害は、審査会の検診ではメチル水銀によるものとしては理解しえない分布、症状の発現であったものが、椿鑑定および原田鑑定の段階では、四肢末梢性に出るようになったことである。しかし、全身に分布していた(あるいは、腹部のみを残して全身に分布していた)知覚障害が、五年という時の経過によって四肢末梢性に収斂するということは考え難いところである。

椿鑑定人のような知識、経験の豊かな人が検診にあたって誤りを犯すとは思えないが、右のとおりとすると、五年前の検診では被験者に心因性の要素が強く働いていたと解するほかはない。

因みに、椿鑑定人は、通常の感覚障害の検査(痛覚のほか、触覚、圧覚の検査も含まれていると思われる。)のほかに、「英国のパリス博士の圧覚計、フライの触毛検査も併用した」(椿鑑定、前文五)というが、この圧覚計では正常、触毛検査では上肢のみ(+)という状況であるのに、四肢末梢性の知覚障害ありとしている。したがって、いずれにしてもこの感覚障害は軽微といえる。

(二) 運動失調その他についても椿鑑定および原田鑑定の所見は五年前の審査会の所見と異る。主たる差異は、左側半側に軽度にみられた各症状が両側性に認められる、ということである。このように変化した理由は明らかでなく、指鼻、指耳、指鼻指、膝踵試験等の協同運動の障害が、審査会が検診した頃には左側のみに軽度に認められたに過ぎないのが、両側とも拙劣で振戦を伴うとされているのは、納得し難いところである。このことはロンベルグ検査が、陰性から陽性に転化した点も同じである。強いて考えれば、審査会の検診以後五年も経過して七三才の高齢に達しているためと思われる。なお聴力については三者とも低下のあることは認めているが、審査会および椿鑑定は、いずれも年齢相当と判断している。

6  いずれにしても本原告は、過去の症状が示すとおり、脳血管発作による症候があり、さらに頸椎症も存在している。これに関しては、椿、原田両鑑定人とも認めるところである。仮りにメチル水銀の影響による健康障害が併存するとしても、疾病全体の原因は、脳血管障害および頸椎症のウェイトが高い筈である。すなわち椿鑑定で右二疾患の影響を否定しえないけれども、それだけでは症候のすべてを説明できないところから、「疫学的背景」を考慮するという程度の考察であるところからもメチル水銀の影響度は低いといわざるをえない。

(平竹信子 関係)

水俣病であるか否かの診断は、神経内科、眼科、耳鼻科などの諸検査をもとに医学的に高度な総合診断によって行われることはいうまでもない。平竹信子は、水俣病が発見された昭和三一年五月一日より前、昭和二九年八月一日に死亡しており、同平竹については、右のごとき諸検査は行われていない。また、昭和三一年、水俣病発見後、地元医師会、水俣保健所、水俣市立病院、国立公衆衛生院などの調査により、昭和三一年五月より遡って死者を含む発病者の認定がなされたが、同平竹は、水俣市立病院入院歴があるにもかかわらず、その際、認定されていない。

本件において、同平竹についての医学的診断に関する証拠は、原田正純医師作成の平竹信子に関する調査書(甲第七九号証の一ないし三)が提出されたのみであるが、原告医師は同平竹の生存中、同人を診察したことはなく、水俣市立病院のカルテを引用したとして意見を述べているものであるが、同カルテ自体は証拠として提出されていないので、被告としては、その当否を論ずることができない。

以上の次第であるので、本件において平竹信子が水俣病であったと認めるには、根拠が不十分であるといわざるをえない。

(竹本已義 関係)

1  本原告は、熊本市の熊本保養所平田宗男医師の診断書(乙第四八号証の三)を添付して、昭和四七年四月五日、熊本県知事に水俣病の認定申請をした。

同県知事は、これを第一六回審査会に諮問、審査会は全員出席のもとに(武内証言、53・4・13、No.26)、各科で行った検診資料(乙第四八号証の四、五)等をもとに慎重討議した結果、昭和四八年六月四日、本原告は水俣病ではない旨答申(乙第四八号証の八、九)した。県知事は、この答申に基づき、本原告は「主要症状として、Proximal Weakness(中枢性脱力)、Lasegue(座骨神経痛)等の症状が認められるが、詳細な検査結果から判断すると『変形性脊椎症(頸部、腰部)』と考えられ水俣病とは認められない」(乙第四八号証の一一、一二)との認定申請を棄却する処分を行った。

2  本原告の申請が棄却された理由、特に臨床症状の概要は次のとおりである。

(一) 疫学的には、メチル水銀汚染地区に住み、魚を摂食しているところから、疫学条件は一応あると判断したうえで、症状について検討している(武内証言、53・4・13、No.3)。

(二) 本原告には、多少左右差はあるが、両下肢に知覚障害は存在する。下肢の振動覚は「左側がちょっと正常をはずれているかもしれ」ないが、右側は正常らしい。(武内証言、53・4・13、No.3)。

(三) 下肢大腿部の筋肉(屈曲する側の筋肉)に脱力があり、ラゼーク症状がある。しかしながら神経内科的には、通常水俣病でこの二症状は現出しないとされているため、この症状は何に由来するかが検討されている。すなわち頸部の運動制限はマイナスであるが、動かす時音が出て正常でなく、また頸椎の五番目から七番目に中等度のスポンジロージス(変形症)があり、椎間板ヘルニアを生じている。このため脊椎の圧迫があって先の二症状が出現すると診断する。またその他、協同運動、両足起立、自然歩行など運動失調に関してはすべて正常と診断する(武内証言、53・4・13No.3~5・10~24)。

(四) 眼科所見は、「視野はノーマル」で眼球運動も「正常範囲内」、したがって眼科的に水俣病を疑わせる所見は全くない。さらに耳鼻科的領域でも難聴は全くなく、その他異常は認められず、知能障害が(⊥)、性格障害(+1)となっているが「この程度はもう、精神科では正常範囲」である。したがって総合的判断から、水俣病としての症状は認められないと各委員の意見一致をみ、水俣病ではないとの答申となった(武内証言、53・4・13、No.7・25)。

3  椿忠雄の鑑定は次のとおりである。

(一) 「著しい知能低下はない」。感覚障害は「四肢末端に軽度の対称性表在感覚鈍麻がある」が、振動覚は尺骨顆で右一一秒、左一〇・五秒、外足顆で右九秒、左八秒で「正常」。手指の圧覚計検査は「正常」で、触毛検査も「ほぼ正常」。「口周囲の感覚障害は(±)程度で存在するか否か不明」。

(二) 運動失調については、日常の細い動作、舌運動、アジアドコキネーゼ、指鼻、指鼻指、指耳、指眼いずれも「正常」。膝踵試験は「ごく僅かに拙劣であったが、くりかえし行わせるとよくできることもある」。図形画きは振戦があり拙劣、叩打試験は「速度はやや遅いが正常」であり、「叩打点のばらつきは殆どない」。ロンベルグ検査は(-)、マン検査は(+)と診ているが、総合的に「運動失調は軽微のため判定は困難」という程度である。

(三) 「言語障害はなく、タタタ…の連続音も正常」で、深部反射も「全般的に正常」である。

(四) 以上を踏まえて同鑑定人は、「感覚障害を除いて所見に乏しい。視野も正常であり、他覚的所見が殆どない」と診断するが、「所見が全くない訳ではない」とし、「このような所見は一回の診察で判断することは困難である」から「もう一~二回少し時期を置いて観察すべきだ」という。ただし「強いて判定をせまられればメチル水銀中毒は否定的である」と結論する。

4(一)  原田鑑定人の検診結果の大要は次のとおりである。

(1) 特に粗大な精神症状を認めない。

(2) 神経症状は左側末梢性顔面神経不全麻痺(⊥)。頸部の運動制限(+)。ラゼーク徴候(+)で左側に強い。振戦は微細な静止振戦で疲れた時増強(⊥)。下肢の粗大力(-1)程度の低下、片足立ち七~一〇秒可能。固有反射やや亢進(とくに膝蓋腱反射)。マン試験(+)。アジアドコキネーゼ緩慢(⊥)。下肢に強い四肢末端型の知覚鈍麻(+)、右下肢では外側に強い。

(二) 以上の検診結果から同鑑定人は次のとおり考察する。

(1) 水俣病にみられる一定の自覚症状がみられ、治療を受けている事実がある。

(2) 下肢に強い粗大力低下や四肢末端型の知覚障害(下肢に強い)がみられる。これは脊椎変形症で説明可能で、合併の可能性もあるが、すべてを説明することはできない。水俣病が変形症という診断で治療された例は多く、水俣病を否定することにはならない。また知覚障害も再現性があり、上肢にも軽度ながら存在するものと考えられる。

(三) 以上のもとに、最低限手袋足袋様の知覚障害があり、疫学があるので、他の脊椎変形、ヘルニアの存在があっても、メチル水銀による健康障害(水俣病)が認められるとする。

5(一)  知覚障害について審査会は上肢は正常、下肢に前記のような知覚障害を認めているが、一方下肢大腿部の筋力に脱力があり、ラゼーク症状があると認め、これは通常水俣病にみられる症状ではなく、脊椎変形症、椎間板ヘルニアによるものであり、知覚障害もこれによるものだと判断する。椿鑑定では、四肢末端に軽度の対称性表在感覚鈍麻を認めるものの、手指については圧覚計検査、触毛検査ともに正常範囲と診断し、結論としては、メチル水銀中毒を否定する。

これに対して原田鑑定は、下肢に強い粗大力低下、四肢末端に知覚障害(下肢に強い)ありと診断する。「下肢に強い粗大力低下」と考察しているが、「現在症状」すなわち同鑑定人の検診では「下肢の粗大力(-1)程度の低下」と記されている。

もともと粗大力低下の(-1)は軽度をいうのであり、これを何故「強い粗大力低下」とすりかえるのか、甚だ疑問である。例えば同鑑定人は原告緒方覚について「下肢に(-1)の粗大力低下」(同鑑定書)があると検診しながら、考察では単に「粗大力低下」として重視していない。同じ(-1)と診断しながら、その評価が異るというのは、同鑑定人の鑑定内容の信頼性にかかわることである。

しかしながら、原田鑑定人も、下肢の粗大力低下、四肢末端の知覚障害は「脊椎変形症で説明可能」といっているのである。

(二) 口周囲の感覚障害は、椿鑑定では(±)程度で存在するか否かを不明とし、審査会および原田鑑定には何ら所見がない。振動覚について、椿鑑定は正常と診断し、審査会では上肢は正常で、下肢は左側がやや正常範囲をはずれているかもしれないと診るが、右側は正常とする。したがって、振動覚に問題とすべき障害があるとはいえない。また固有反射は原田鑑定ではやや亢進とあるが、椿鑑定では深部反射は正常としている。

(三) 原田鑑定ではアジアドコキネーゼは緩慢で(⊥)とするが、椿鑑定では正常と診る。マン検査は両鑑定人とも(+)と診るが、その他日常の細い動作、舌運動、指鼻試験等運動失調に関して椿鑑定はすべて正常とし、原田鑑定でも問題はない。審査会もまた協同運動、両足起立、自然歩行いずれも正常と診ており、運動失調はないと判断されている。

(四) 審査会は視野、眼球運動ともに正常、難聴は全くないとし、椿鑑定でも視野は正常、耳鼻科的所見はなく、原田鑑定では眼科、耳鼻科ともに問題提起さえない。

(五) 精神科的には、審査会は正常範囲とし、椿鑑定では「著しい知能低下はない」とされ、原告鑑定も「特に粗大な精神症状を認めない」としている。

(六) 結局、総合的な判断から、椿鑑定では「感覚障害を除いて所見に乏しい」、その他「他覚的所見が殆んどない」ところから、水俣病は否定的としている。すなわち原田鑑定にある「水俣病にみられる一定の自覚症状がみられる」というものは、椿鑑定では、他覚的には認められないとするものである。

これは審査会の判断と一致しており、自覚症状をそのまま採用する原田鑑定は到底納得し難いところである。

(七) 椿鑑定人は本原告については、時期をおいて再検診するのがベターだとするが、すでに四七年一一月、審査会委員によって各科別に詳細な検診がなされており、その診断が椿鑑定と大差ない以上、同鑑定人が水俣病は「否定的」であるとするのはむしろ正当というべきであろう。

(尾上源蔵 関係)

1(一)  本原告は、昭和三〇年頃胃潰瘍、肝炎に罹患し、昭和四七年一〇月には、突然、嚥下障害、言語障害を伴う左半身麻痺(典型的な脳血管性障害発作)に見舞われ約一ヶ月入院し(乙第八号証の二、三、五、六。永松証言、52・1・10No.237)、昭和四八年七月頃も、左半身のしびれは続いていたものであるところ(乙第八号証の五)、昭和四八年七月七日、同日付医師石澤茂徳作成にかかる「慢性肝炎、左半身不随及ビ水俣病の疑」との診断書を添付して、鹿児島県知事に対し水俣病の認定申請をした(乙第八号証の二、三)。

(二) 同県知事の諮問を受けた同県の審査会は、疫学調査の結果および一般内科、神経内科、眼科、耳鼻科、精神神経科の各診断を総合して、昭和四九年一〇月一九・二〇日開催の第二〇回審査会において、本原告は「水俣病ではない。」との結論に達し(乙第八号証の一七)、右の答申を受けた同県知事は、前記申請につき棄却処分をなした(乙第一八号証の一八)。

2(一)  すなわち、本原告については、鹿児島県審査会において、神経内科の検診が、昭和四八年七月、翌四九年一月、同年五月の三回にわたって繰り返し行われたが、いずれの場合にも、左半身の知覚障害と左側の深部反射亢進が主要症状として認められたものの、右半身には全く症状が存在しなかった(乙第八号証の七、九、一一)。その他、やや左に偏位する舌運動(乙第八号証の七)、左のみがやや亢進している筋トーヌス、左のみが拙劣な片足起立(乙第八号証の九)、左のみが拙劣な膝踵試験、左側へ倒れ易いつぎ足歩行、左側のみの病的反射(乙第八号証の一一)といった左側にのみ限局した各症状が、三回の検診を通じてそれぞれ一回のみ認められた。

ところで、薬物中毒による症状が左右対称性に出現することは医学上の常識であり、したがって、左半身のみに限局した右記各症状がメチル水銀中毒に起因するものでないことは、疑う余地がない。

前述のとおり、本原告は典型的な脳血管性障害発作による左半身麻痺の既往歴をもつものであって、左半身にのみ限局した右記各症状は、脳血管性障害に起因するものである(乙第八号証の七、九、一一。永松証言、52・1・10、No.246~249・308・340)。

また、頸部には、著明な運動痛(乙第八号証の七)あるいはスパーリング徴候陽性所見(乙第八号証の一一)が認められるが、これが変形性頸椎症によるものであることはレントゲン撮影でも確認されたとおりである(永松証言、52・1・10、No.241・320~324)。

以上のとおり、神経内科的検診は前後三回にわたって繰り返し実施されたが、脳血管性障害あるいは変形性頸椎性に起因する症状が認められたにとどまり、メチル水銀中毒による症状は全く存在しなかったものである。

(二) 眼科の検診は、昭和四八年七月と翌四九年九月の二回にわたって行われ、視野の狭窄が一応認められた(乙第八号証の一二ないし一五)。

しかしながら、メチル水銀に起因する神経内科的症状が全く存在しない本原告に、メチル水銀中毒症状としての視野狭窄のみが存在すると考えることは全く不合理であるから(永松証言、52・1・10 No.316・317・343)、本原告に認められるとされた視野狭窄は、メチル水銀に起因するものではない。本原告の視野狭窄は、水俣病以外の疾患に基づくものである。

すなわち、本原告の場合、水晶体周辺の混濁、細動脈の口径不同・狭細・反射亢進・交叉現象として現われている眼底網膜の異常(高度の高血圧性眼底)、第三色覚異常として現われている脈絡膜・網膜の病変が原因となって、視野狭窄の発症をみたものであり(乙第八号証の一三、一五。永松証言、52・1・10No.269~274・334・335)、このことは、網膜レベルの障害を示唆する中心フリッカー値の低下現象があることからも十分に首肯できるのである。(乙第八号証の一五。永松証言、52・1・10、No.332)。

したがって、眼科的にも、メチル水銀に起因する症状は存在しないといわねばならない。

(三) 耳鼻科的には難聴が一応認められるが、これは低音部と高音部が特に低下しており、メチル水銀中毒による難聴(全音域において平均して低下)とは、その型を異にしている(乙第八号証の一六。永松証言、52・1・10No.281)。このような型の難聴は、老人性難聴の典型であり、かつ、中耳炎の後遺症である鼓膜の混濁が加わって生じた症状である(乙第八号証の一六。永松証言、52・1・10No.277・281・303)。

したがって、耳鼻科的にも、メチル水銀中毒に起因する症状は認められないのである。

(四) 要するに、本原告の場合、メチル水銀の影響と思われる症状が全く出現していないのであって(永松証言、52・1・10No.340)、その有する症状は脳血管障害、変形性頸椎症、高血圧性眼底などの眼底網膜の病変、考人性難聴に起因するものであり、したがって本原告が水俣病に罹患しているとはいえない。

3(一)  椿鑑定人は、本原告の視野狭窄を除く各症状は脳血管障害、頸椎症、老人性変化で説明できるが、視野狭窄については右疾患に起因するものと考えることは難しく、「強いてメチル水銀を原因から除外する意義があるとは思われない」とする。すなわち、椿鑑定人が、誠に消極的ではあるが、本原告の各症状とメチル水銀との因果関係を肯定するかのごとき結論に達した根拠は、視野狭窄の原因を脳血管性障害、頸椎症、老人性変化には求め難いとするところにある。しかしながら、同鑑定人は、視野狭窄の原因として、右疾患以外についての検索は行っていないのである。

つまり、椿鑑定人は、本原告の視野狭窄の原因が右疾患以外に見当らないならば、本原告の各症状について「強いてメチル水銀を原因から除外する意義があるとは思われない」が、視野狭窄の原因たる疾患が他にあるのならば、本原告は水俣病ではないと考えているのである。

(二) ところで、椿鑑定人自身は眼科医ではなく、また、鑑定のための診察に際して眼科専門医が立ち会わず、したがって、鑑定に際して精密な眼科的検診をしなかったから(眼科的検診としては、眼球運動、滑動運動を簡便法で診ただけである。)、本原告の視野狭窄の原因となっている疾患を、同鑑定人が見出せなかったことは無理からぬところであり、前述のとおり、鹿児島県の審査会の眼科専門医による二回の精密検査の結果、本原告の視野狭窄が水晶体周辺の混濁、高度の高血圧性眼底、脈絡膜・網膜の病変に起因するものであることは明らかである。したがって、眼科専門医による精密検診を実施したうえで鑑定を行っていれば、椿鑑定人も本原告の視野狭窄とメチル水銀の因果関係は否定したであろうことは想像に難くなく、現に同鑑定人自身「新潟水俣病では、この程度の(被告註。軽い)神経症候のものが、高度の視野狭窄を示した例がない。」として、本原告の視野狭窄がメチル水銀に起因するものではないことを示唆しているのである。

4  原田鑑定人は検診の結果、次のように考察する。

(一) 臨床症状は、歩行および姿勢保持障害、粗大力低下、口周辺および四肢末端の知覚障害、聴力障害、視力低下および視野狭窄(視力低下により沈下はとれない)、言語障害などが認められる。さらに、軽度の共同運動障害、振戦があり、また左半身不全麻痺、膀胱障害、心障害がみられる。

(二) 次に「脳循環障害および軽度脊髄障害、白内障、心障害がみられ、老齢も現在の症状に加味されているものと考えられる」とするものの、「運動障害のパターンは水俣病(慢性)と一致し、さらに末梢知覚障害や聴力障害、視野狭窄などは」前記疾患では説明できないから、疫学条件からみても、メチル水銀による健康障害(水俣病)が認められるとする。

(三) 右の所見のうち、四肢末端の知覚障害は、椿鑑定では左側に著しい両側四肢の表面感覚の低下があるとされているが、審査会の検診時には上肢下肢とも右側には全く認められておらず、この変化の生じた時期および原因については椿鑑定人も疑問を投げていて、年齢による変化および頸椎症で説明できるとするのである。また、口周辺の知覚障害は、椿鑑定では(-)または(±)程度で存在するかどうか断定できないとされ、聴力障害は椿鑑定では問題とされていないし、審査会では先述のとおり典型的な老人性難聴、中耳炎の後遺症と断定しているものである。視野狭窄については既に詳述したとおり、メチル水銀によるものとは言い難く、言語障害は審査会、椿鑑定とも正常範囲と認めている。共同運動については、審査会、椿鑑定とも指鼻、膝踵試験等は正常としており、原田鑑定のみ(+)というのは措信し難い。また原田鑑定人は「振戦があり」とするが、同鑑定書の「神経症状」の項では「手指に振戦(⊥)書字においてわずかにみられる」、「企画振戦(-)」とあり、あえてとり上げるほどのものとは考えられない。

5(一)  以上を総合判断するに、椿鑑定人も、本原告の各症状すべてについて、メチル水銀以外の疾患に起因するものであることを否定するものではなく、また原田鑑定人の診断の基盤をなす聴力障害や視野狭窄は、その原因がメチル水銀によるものではないと判断される明確な疾患が存在しており、四肢の知覚障害もかつて右側には全く認められなかったものであって、その出現の時期等、疑問は多いのである。

(二) 仮りに本原告が水俣病患者であると認められるとしても、同人が有する現症状の殆どは、水俣病以外の疾患に起因するものであって、メチル水銀によって惹起された症状は僅少かつ軽微であり、その損害の程度は誠に少ない。

すなわち、左半身の知覚障害が脳血管性障害発作に起因するものであることは疑いの余地がなく、仮りに右半身にも知覚障害が認められるとしても、これは軽度のものであるうえ、最近発症したものであって(椿鑑定書)、その損害は僅少である。

左半身の運動失調もまた、脳血管性障害発作に起因するものであることは明らかであり、仮りに右半身にも運動失調が認められるとしても、本原告の運動失調は「日常の細かい動作が少し不自由であるが、年令を考慮すれば異常とは断定できない」程度の軽微なものに過ぎず(椿鑑定書)、メチル水銀による損害は無いに等しい。

また、難聴と視野狭窄も認められるが、難聴は「年令相当のもの」であって(椿鑑定書)、メチル水銀との因果関係はなく、仮りに視野狭窄にメチル水銀の影響を否定できないとしても、前述の眼科的疾患を原因とする要素が極めて強いこと、さらに、翼状片の存在が本原告の視力障害に十分影響していると考えられることもまた、否定できないのであって、メチル水銀による損害は低いものである。

すなわち、仮りに原告がメチル水銀による影響を受けているとしても、それによる症状は極く僅かでかつ軽微なものにとどまり、本原告がメチル水銀によって蒙った損害は僅少といわねばならない。

(中島親松 関係)

1(一)  本原告は昭和四九年三月一三日付の協和病院の石澤茂徳医師の診断書を追加添付して同年三月八日付で鹿児島県知事に対し認定申請したが、昭和四九年一〇月一九日、二〇日に開かれた第二〇回鹿児島県審査会において、同人には、脳血管性障害、変形性頸椎症、中耳炎後遺症、高血圧性眼底などの疾病、症状等があるが、「水俣病ではない。」との結論が出され、その旨県知事に答申された(乙第九号証の二ないし一五)。

(二) 鹿児島県知事は、右の答申に基づき、昭和四九年一〇月二八日、「あなたの臨床症状から、有機水銀の影響は認められないので、この申請は否認されました。」との申請を棄却する処分を行った(乙第九号証の一六)。

2  椿忠雄鑑定人は、昭和五三年三月一三日実施した検診の結果などに基づき、「本原告は第一〇胸椎のレベルで脊髄又は末梢神経の障害が存する。メチル水銀中毒症の症候は全く認められない。変動の強い視野狭窄の記載があるが、むしろ、この例に視野狭窄があったこと自体奇異であり、メチル水銀中毒を考える根拠にはならない。なお、脳血管障害、頸椎症の合併を否定するものではない。鑑定者の対座法検査で視野はほぼ正常であった。」と結論し、同人が、水俣病であることを明瞭に否定している。

(一) 右の結論に先立ち、椿鑑定は、本原告の現在症状につき、その診断内容を示しているが、「感覚障害は、表在感覚は第一〇胸髄レベル以下の左下半身に認められるが、遠位部と近位部の差はない」(被告註。水俣病は遠位部すなわち末端の方が障害されるといわれる。)、「口囲の感覚障害は(-)又は(±)の程度に過ぎず、その他の部位には全く認めず」とする。また、「振動覚はこれに対し著しく障害され、下肢は両側共全く感覚なく、上肢はほぼ正常、上肢の圧覚計、触毛検査で異常を認めない」と判定し、全体的に異常部位が下半身に限局していることを明らかにする。さらに、「左下肢に筋力低下が認められること及び深部反射は右より左が強く、腹壁反射は左側に消失、右側正常」である、とも診定し、左半身に異常があることを指摘している。

(二) 椿鑑定人が示した以上の諸検査および診断結果は、明らかにこれまで水俣病につきいわれてきたこととは全く違った疾病を示唆しているが、これらは本原告の左側を支配する脳血管の障害および特定部位の脊髄または末梢神経の障害を意味するものである。その結果として同鑑定人はまず脳血管障害の存在を強調しているが、さらに「第一〇胸椎のレベルで脊髄又は末梢神経の障害が認められる」との所見もつけ加えているのである。

3(一)  本原告は明治三九年一一月二〇日生れである。

(二) 小学校三年の時、右肘を脱臼、放置したためそのまま変形固定し、運動障害が残っている。

(三) 昭和三七年六月一三日、満五六歳の時、深夜便所に行こうとして立ち上ったところ、突然倒れて意識を失なった。吉井医師は脳卒中と診断し、約二年してつかまり立ちが可能となったが、左半身に後遺症が残った。

(四) 昭和四四年(満六三歳)頃、再び前同様意識喪失を伴う、しかし軽い発作がある。

(五) 昭和四七年(満六六歳)頃、三度目の意識喪失を伴う、しかし軽い発作がある。

(六) 昭和四九年三月一三日、石澤医師の診断書によれば、「左半身不随不全麻痺、後頭痛、高血圧症」と記載。血圧は200/120。

(七) 昭和四九年一〇月頃より水俣診療所に定期的に(最近では二週間に一回)通院、治療を受けているが、藤野証人によれば、薬剤として脳代謝促進剤、鎮静剤、降圧剤などを投与する他、理学療法を実施している、とのことである(藤野証言、53・5・25、No.42)。

4  右の経過から明らかなように、本原告は、昭和三七年を初回として、大・小三、四回の卒中様発作を繰り返している。

(一) 永松証人はこの点につき「……昭和三六年六月一三日、脳卒中で左半身麻痺、それから四年前、これは診たのが四八年ですから四四年ですね、四年前と、それから去年(註、四七年)同様の再発作があったと」(永松証言、52・1・10No.363)、「……病歴のところにグラフ(註乙第九号証の六、11)が書いてありますけれどもそういうふうに急激に悪くなって、少しずつよくなると、そしてまたある時期にぽんとまた悪くなって少しずつよくなる。またぽんと出て少しよくなると、典型的な脳卒中の経過だと思います」(同永松証言、No.364)と述べるとともに、これが脳血管障害に基づくものであると診断している(同永松証言、No.367~375)。

(二) このことは、藤野証人も、原田鑑定人も認めている。のみならず、原田鑑定人によれば、本原告には「心(精神の意か?)障害、高血圧などが存在し、脳循環障害の存在も否定できない」とされているのである。

いずれにせよ、本原告は、少くとも一回、かなり重症の脳卒中を経験しているのであり、その結果として情意障害が生じ、かつ運動機能障害が遺されてもなんら不思議はないし、現在の症状は、合併している第一二脊髄付近ないしは末梢神経障害に起因するものを除けば繰り返された脳血管障害に実質的に起因するものである。

5(一)  また、本原告は全身あるいは四肢のしびれを訴えているけれども、水俣病特有の知覚障害の存在は、審査会でも、また原田鑑定でも確認されていない。原田鑑定はいう。「知覚障害は変動しやすく、応答が当意即答であまり真剣でない。例えばまだ触らないうちから「同じ」「わかる」「わからん」とか早口で答えてしまう…触覚では左上肢、下肢に広く、右足首で鈍麻。痛みはすべて同じ。冷覚では両下肢。…振動覚は左にやや低下。運動覚障害はないが、足指の位置覚は障害されている。すなわち、知覚検査において、手袋足袋様の知覚障害を証明することはできなかった。」

(二) また、小脳性の失調の存否については、審査会は否定している。乙第九号証の七(昭和四八年一〇月六日検診結果表)、乙第九号証の九(昭和四九年六月二九日検診結果表)などの説明の際に、永松証人は次のように述べている。「今のところでもう少し追加しておきたいんですけれども、そういうふうに足の先だけを診た限りにおいては、変形性脊椎症で起こる可能性のある病変がありますし、水俣病であってもかまわないわけです。じゃ、ほかの所見を全体的にみてどうかというと神経内科的には小脳失調はありません。これは、左側にあるということは、左は血管障害があるから、障害されているのであって、もし小脳障害がある人だったら左だけじゃなくて、右にもないといけないわけですね。右にないわけです。協同運動障害というところですね。ないわけです。小脳症状がないわけです。そういうことから考えていくと、この足の、右足の感覚障害は、いわゆる水俣病変によって起ったものじゃなくて、これはやはり腰の骨に原因を求めるのがいちばん妥当であるということです。」(永松証言、52・1・10No.414)。この点について、椿鑑定は「運動失調の検査では、日常の細かい動作の一部がやや拙劣、マン検査(+)のほか、検査したすべてのもので、異常を認めなかった」と診定し、審査会と同一の判断をしている。

(三) その他、求心性視野狭窄、中枢神経性難聴との点についても審査会の専門医達は否定的見解を示しているが、椿鑑定も、この点を支持している。

6  以上のとおり本原告は、明らかに水俣病ではないのであり、そのことを前提とする本原告らの本訴請求は理由がない。

(山内了 関係)

1  本原告は、昭和四八年七月一八日、鹿児島県知事に対し認定申請を行い、これに関し同県の審査会では疫学調査と一般内科、神経内科、精神科、眼科、耳鼻科の諸検査の結果、同県知事に対して、「医学的判定」は「水俣病ではない」、「考えられる疾患名および合併症」としては「脳血管性障害、仮性球マヒ」との答申を行い、これを受けて同県知事は、昭和四九年一〇月二八日、認定の申請を棄却する処分を行った(乙第一〇号証の一ないし一五)。

2(一)  審査会の検診における昭和四八年七月二二日の一般内科、神経内科学的所見によると、血圧一八二~一〇六、言語インシェーションが悪い筋萎縮マイナス、筋トーヌス右下肢のみ軽度亢進、振戦なし、協同運動全部正常、自然歩行やや痙性、左上肢に感覚障害、反射は手足両側とも亢進、下顎反射ワンプラス、病的反射ロッソリモ、メンデル・ベヒテレフ右プラス、などの所見であった(乙第一〇号証の七)。

(二) 同じく審査会の検診における昭和四九年五月一九日の一般内科、神経内科学的所見によると、血圧一九六~一二〇、言語障害ワンプラス、舌運動緩徐、筋萎縮マイナス、脱力下肢マイナス一の筋力低下、筋トーヌスツープラス、中等度に亢進左右差なし、振戦なし、協同運動ジアドコキネージス右のみ拙、その他の協同運動正常、自然歩行痙性、左上下肢に感覚障害、反射は下顎反射、両側手足の反射高度に亢進、病的反射はロッソリモ右プラス、などの所見であった(乙第一〇号証の九)。

(三) また、審査資料によると、本原告には、一四、五年前、めまい発作(回転性)一度、昭和三七年から左上肢にジンジン感、昭和四一年めまい発作(二度目)、昭和四〇年軽度の構音障害などの病歴が認められる(乙第一〇号証の六)。

(四) 以上の所見ないし病歴は、本原告の病変が仮性球麻痺を呈する部分の脳血管障害であることを示している。すなわち、言語障害、舌運動緩徐、手足両側反射亢進、下顎反射亢進、痙性歩行、左手足の感覚障害など、神経内科学的所見として、症状としてあるのは、仮性球麻痺の症状であり、これと矛盾する所見はない。まためまい発作二回、回転性めまい、構音障害などの病歴からみても脳幹部の血管障害による仮性球麻痺が考えられるのである(永松証言、52・1・10、No.513~560、52・1・11、No.2~57。乙第二〇号証の一〇)。

(五) 審査会の検診における眼科、耳鼻科の所見も仮性球麻痺で説明するのが一層妥当である。すなわち、眼科所見(乙第一〇号証の一〇、一一)では、軽症ないし中等度の視野狭窄があるが、左右非対称であり、また眼底異常が認められる。これは、脳幹部あるいは大脳の根元などで血管障害が多発していることによる影響と考えられる。また耳鼻科の所見(乙第一〇号証の一二、一三)で聴力低下がみられるが、これは仮性球麻痺による聴覚伝導路障害のパターンとして理解できるのである。(永松証言、52・1・11、No.39・42)。

(六) 以上のとおり、審査会の検診により、本原告の病症状は、水俣病ではなく、脳血管障害による仮性球麻痺との確定診断に近い結果が得られたのである(永松証言、52・1・11、No.57。乙第一〇号証の一四)。

3  本原告については、椿鑑定書も審査会の所見と実質的に同一内容である。すなわち、審査会の検診時以後、同原告の病状が全体的に悪化したことが窺えるが、椿鑑定においても、深部反射亢進、下顎反射亢進、言語障害、感覚障害の限局を認め、また、運動失調が殆どないなど所見自体は審査会のそれと殆ど同一であって、一般の水俣病の症候とは大きく離れており、仮性球麻痺の症状がみられ、脳血管障害または脳変性疾患の診断が妥当であるとしている。

4  原田鑑定書においても、本原告に仮性球麻痺症状のあることを認めている。ただし、原田鑑定人は「脳循環障害としては卒中発作がなく、片麻痺がなく、発病年令が若い」と述べている。しかし、この点については藤野糺の診断書(甲第六九号証)においても脳循環障害発作を認め、知覚障害の左あるいは右優位に関しては変動を認めていること、また前述の審査会の所見、診断ならびに椿鑑定人の所見、診断において、いずれも脳循環障害による仮性球麻痺を肯認していることなどからみて、原田鑑定人の右の意見は甚だ疑問である。原田鑑定書では、結論として「原因不明の広汎性脳器質性疾患の病像を示すが、疫学条件や末梢性知覚障害、求心性視野狭窄などからメチル水銀による健康障害(水俣病)を認める」と述べている。しかし、本原告の視野狭窄が左右非対称で脳幹部などの血管障害による仮性球麻痺と考えられることは前述のとおりであり、椿鑑定書においても、視野狭窄については問題にならないとされている。また右の末梢性知覚障害の所見についても前述の審査会所見、椿鑑定書の所見からみて、所見としてとることに疑問があるが、仮りにこれがあったとしても、脳血管障害による仮性球麻痺と何ら矛盾する症状ではない。これらの点からみて、原田鑑定人の右の結論は論拠不十分といわざるをえない。

(坂本武喜 関係)

1(一)  本原告は、昭和四七年九月二一日、同年九月二〇日付市川秀夫医師の診断を添えて、熊本県知事に対して認定申請をしたが、第一九回熊本県審査会において、同人には、脳動脈硬化症、変形性脊椎症は存在するが、「水俣病ではない。又は有機水銀の影響は認められない」との結論が出され、その旨知事あてに答申された(乙第六号証の一ないし六)。

(二) 熊本県知事は、右の答申に基づき、「主要症状として、高血圧、知覚障害(軽度)、知能障害等が認められるが、詳細な検査結果から判断すると脳動脈硬化症および変形性脊椎症によるものと考えられ、水俣病とは認められない。」との申請を棄却する処分を行った(乙第六号証の七)。

2  本原告の申請が棄却された理由、特に臨床症状の概要は次のとおりである。

(一) 聞きとりにより、疫学的には、水俣市袋に居住しており、職業は農業、魚介類は買ったり貰ったりして二日ごとに摂食したとされている。なお、アルコールを好み、一日に五、六合飲むということ、昭和三八年正月(ただし、この時期が明確でないことは(四)において述べる。)に一回自宅で血管障害と思われる意識障害を、昭和四五年に、舌がもつれて足をちょっと引きずるようになったということなどが記載されている。(乙第六号証の四。武内証言、51・6・2、No.4)。

(二) 知覚障害については、知覚分布図上、両手先のみに痛覚障害が何かあったのではないかというように記入されているが、神経内科学的所見の要約には記載がなく、所見としてはとられていない。一方、振動覚は、上肢は右七秒、七・二秒、左一〇・二秒、九・八秒と正常に近く、下肢は右三・二秒、三・四秒、左四・二秒、四・四秒と低下している。しかし、この振動覚の短縮も、昭和三八年の血管障害による意識障害を起した発作があるが、そのためと判断されるのであって、水俣病のためであれば、表在知覚障害とか、他の症状がもっと出るべきであると判断された。(乙第六号証の五。武内証言、51・6・2、No.5・6・13、51・9・24No.388~390)。

右のほかには、高血圧であることを除き、特段の所見はみられず、僅かに所見としてとられている継足歩行障害、舌運動ややスロー、右側のみの静止振戦も、血管障害による発作のためと判断されている。(乙第六号証の五。武内証言、51・6・2、No.5・8・11)。

(三) 眼科的には、視野沈下があり、眼球運動は正常、眼底所見として動脈硬化症が軽度に、小出血を伴ってみられる。このうち、視野沈下が検討されたが、正常範囲の最低の程度であり、水晶体の混濁もあること、またこの位の沈下が水俣病できたのであれば、どうしても知覚障害が出てくる筈だということから、眼科としての結論は陽性所見はないと判断された。(乙第六号証の五。武内証言、51・6・2、No.5、51・9・24、No.391~394・400)。

また、耳鼻科的には、難聴が軽度にあるが、年齢相当であり、またこれが水俣病によるのであれば、もっと他の症状が出てよいと考えられ、水俣病の症状としては捉えられないと判断された(乙第六号証の五。武内証言、51・6・2、No.5・31・32)。

(四) 以上を総合して、審査会は、本原告は水俣病の疑いはなく、考えられる疾患としては、脳動脈硬化症が主体であり、他に、頸部の運動制限、痛みのあることと、レントゲン写真によって、変形性脊椎症があるとの判断を行った。(乙第六号証の五。武内証言、51・6・2、No.5~7)。

3(一)  椿忠雄鑑定人は、昭和五三年三月一三日に実施した診察の結果などに基づき、「本原告の現病歴はメチル水銀中毒症のそれとかなり異ったものであるが、現状の症候もそれを支持するものが殆どない。

水俣病でけいれん発作が来たという報告はある(註1)が、本原告では水俣病の症候が本質的に欠けているのであるから、このけいれん発作を水俣病の症候と考えることは全く常識を外れている。」、「アーガイル・ロバートソン徴候(註2)は一般に神経梅毒のある種のものに見られるものであるが、原告は梅毒罹患を否定している。糖尿病その他の病気でみられることはあるが、水俣病で見られる症状ではなく、この症候があることは、むしろ、水俣病以外の疾患を考えなければならない。」、「原告はメチル水銀中毒症を疑う症候は欠くが、原告の疾患が何であるかは、別の見地から詳細な検査が必要である。」と結論する。

(註1) 本原告につき、どのような態様のけいれん発作があったか、また本当にけいれん発作があったのかまたなかったのかは、必ずしも審らかでない。水俣病の場合、そのような症状があったものとして、報告されているのは、初期の急性激症型の患者についてであり、それ以外には、このような症状は確認されていない。この種のけいれん発作が発現するのは、重金属の濃厚汚染によって脳が急激かつ広範に障害された場合であり、水俣病についていえば昭和三〇年代前半の数年間の患者の一部(すなわち、急性激症型)にみられるに過ぎないのであり、濃厚汚染の時代と比較して十分の一ないし数十分の一以下に汚染が減少した時期に、メチル水銀による脳障害が原因となって、けいれん発作が起ることは、通常、考えられないところである。したがって、仮りに本原告にけいれん発作があったとすれば、その原因は、全く別のところに求めるのが筋である。

(註2) アーガイル・ロバートソン現象。―対光反射のみ欠如し輻輳反射の健存する瞳孔をいい、進行麻痺、脊髄癆、脳梅毒など中枢神経系の梅毒疾患に特有な徴候とされているが、流行性脳炎、脳腫瘍などによって起ることもある、といわれている。

4(一)  本原告は明治四三年一一月一〇日生れである。

(二) 昭和三一年(満四五歳)頃、頭重めまいがあり、高血圧を指摘された(審査会資料乙第六号証の四)。

(三) 昭和四〇年正月(満五四、五歳)頃、起床時に急激に脳卒中の発作が起きて意識喪失し、数日たってはじめて意識が戻ったが、以後二ヶ月位病臥した。当時、市川秀夫医師が診察し、高血圧と診断した。

なお、第一回の発作の時期に関しては、資料によって昭和三八年とするもの――市川医師の診断書(乙第六号証の三)、審査会資料(乙第六号証の四)――と、昭和四〇年とするもの――樺島啓吉医師の診断書(甲第六五号証)、原田鑑定書――とがあり、いずれを是とすべきかは必ずしも審らかではない。本原告の妻である原告坂本フジエの昭和五三年五月二四日における供述の第四〇問答および第一〇一問答ないし第一〇六問答(以下、坂本フジエ供述、53・5・24、No.40・101~106のごとく引用する。)などによると、後者のごとくでもあるので、ここでは一応四〇年説をとった。

(四) 昭和四〇年八月、再び起床時に急激に脳卒中の発作が起きて意識喪失を来たしたので、水俣市立病院に救急入院した。どの位で意識が戻ったか明らかでないが、約二ヶ月間入院した。この二回の発作以後、歩行困難、動作の不自由、言語障害などが続いている。妻フジエは、この時の診断名も高血圧であったと述べている(坂本フジエ供述、53・5・24、No.106~108)。

(五) その後、さらに一回倒れているらしいが、時期、状況等不明である(三回倒れたということは、市川診断書、原田鑑定書に記載されている)。

なお、本原告は戦後森林の伐採に従事しており、肩で重量のある伐採木をかついだりしていたためか、変形性頸椎症があり、陽性の神経所見が認められている(樺島啓吉証言、53・5・24、No.18・28)。

5(一)  ところで、二回であるにせよあるいは三回であるにせよ、本原告を襲った卒中様の発作は何だったのであろうか。この点につき、樺島啓吉医師の診断書(甲第六五号証)、原田鑑定書は他では饒舌であるのに何故か該当個所で言及を避けたり、かえりみて他を述べたりしている。しかし、証言の際、樺島医師も結局認めたように、脳血管障害に起因する発作が起きたのであり、その結果として、多くの重篤な後遺症状を残したのである。

(二) しかるに、原田鑑定によると、本原告には、現在症状として「瞳孔障害、聴力障害、視野狭窄、言語障害、振戦、筋力低下、運動の緩慢と拙劣、四肢末端の知覚障害が陽性所見である。自覚症状は水俣病の一定のパターンを示し、それを裏付ける日常生活の支障が認められる」と述べている。

(三) しかし、これは誤りである。

(1) 同鑑定人のあげている大部分の症状は、まさに脳血管障害および高度の高血圧に由来するものであり、個別の症状もまた、その特徴を具えているからである。武内忠男証人が述べたごとく、継足歩行障害、振動覚の短縮、軽度の知能障害の出現、眼底小出血の存在などなど、全部右の疾病に起因する症状であり、これらは決してメチル水銀によるものではない。(武内証言、51・6・2、No.5~33)。

(2) のみならず、原田鑑定人は四肢末端に知覚障害があると診断されるが、審査会は上肢に痛覚障害を、何かあるという程度にしか認めていないし、椿鑑定人は表在知覚障害を上肢尺骨側に著明に、他は不明瞭にしかその存在を認めていない。上肢のそれがもしあるとしても、頸椎症に基づくものであることは、その部位などからして明らかである。(武内証言、51・6・2、No.6参照)。

(3) また原田鑑定人らがいう水俣病型の聴力障害があるとの主張、視野狭窄があるとの主張に対しては、椿鑑定は、否定的な診断を下している。

すなわち、聴力障害は「年令相当程度のものと認める」とし、「視野狭窄に関しては検者が対座法で検査した場合ほぼ正常であったが、以前の記録で動揺性が強く、測定方法に問題があるのではないかと思う。若し強度の視野狭窄があるとしたならば、他の症候とのバランスからみて、水俣病としては、かえって合致しない」と述べている。

因みに審査会の耳鼻科医、眼科医の所見も、前記のように否定的である。

6  以上のとおり本原告は、明らかに水俣病ではないのであり、そのことを前提とする本原告らの本訴請求は理由がない。

(吉田健蔵 関係)

1(一)  原告吉田健蔵は昭和四九年一月二五日、同月二六日付の協和病院の石澤茂徳医師の診断書を追加添付して鹿児島県知事に対し認定申請をしたが、昭和五〇年二月八日に開かれた第二一回鹿児島県の審査会において、同人には「アルコール中毒の疑い、変形性脊椎症、網膜症」はあるが、水俣病ではない、との結論が出され、その旨県知事に答申された(乙第一二号証の一ないし二一)。

(二) 同県知事は、右の答申に基づき、昭和五〇年二月二一日、「あなたの臨床症状からは水俣病と認められないので、この申請は否認されました。」との棄却処分をなした(乙第一二号証の二二)。

2(一)  椿忠雄鑑定人は、昭和五三年三月一三日に同鑑定人が実施した診察の結果に基づき、「本原告は感覚障害と軽度の運動失調を認めている。」とし、「原告の所見はアルコール神経炎のそれと矛盾しないし、若し疫学的背景が欠けていればアルコール神経炎の診断が妥当かもしれない。しかし、それ程大量の飲酒家でもなかったし、メチル水銀汚染の背景を考えれば、メチル水銀中毒症を否定し去ることは困難ではないかと思われる」と診定した。

(二)(1) しかし、「視野狭窄検査では、短期間の間に大きい変動があり、評価できないし、また鑑定者の対座法で正常であった。対座法では詳細な所見は得られないが著明な視野狭窄があるのに正常ということは考えられない。」と述べ、その存在の主張を明瞭に否定している。

(2) 他方、感覚障害については、四肢末端部にある種の障害は自覚的検査結果として認めるとしているが、同時に、新潟では水俣病診定の重要な所見の一つとされている「口囲の感覚鈍麻は認めない」としており、さらに運動失調については、一方において所見の存在を認めつつも、「この点では奇異であった」、「各検査の間の所見が不均衡であり、通常陽性である検査成績が陰性である点に疑問があった」など、重要な疑問符と留保を付している。

3(一)  ところで本原告の症状は、鹿児島県の審査会による検診の過程でも、その都度大きく変動している。すなわち、神経内科の検診だけでも前後四回(昭和四九年一月二〇日、同五月一九日、同九月一四日、昭和五〇年一月一一日)、眼科が三回(昭和四九年二月一九日、同五月一三日、同五月一四日)と、他の申請者に比して、実に頻回の検査が繰り返されているが、この過程で特徴的なことは、症状の推移、就中出たり引っ込んだりが甚しいことである。左に知覚を除く神経内科的所見の四回分を一表にまとめてみる。

昭49.1.20

昭49.5.19

昭49.9.14

昭50.1.11

血圧

150/100

150/100

160/80

160/80

1脳神経

嗅覚  正

言語

(+) 小脳性?

正常

舌運動

緩徐

2頸部

運動制限

(-) Spurling(-)

(-)

なし Spurling(-)

なし

3運動系

筋萎縮

(-)

(-)

なし

なし

脱力上肢

拇指小指対立不能

なし

下肢

-1  -1

なし

筋トーヌス

4振戦

静止

(±)  (±)

(±)  (±)

なし

なし

企図

(-)  (-)

(-)  (-)

Fineな

terminal

tremor

微細振戦あり

5協同運動

ジアドコキネージス

緩徐

slow

なし

指鼻試験

拙劣  r=l

正  右=左

Fineな

terminal

tremor

膝踵試験

拙劣  r=l

7両足起立

片足起立

右正  左拙

左  やや不安定

不能

ロンベルグ

(-)

(-)

(-)

(-)

8自然歩行

つぎ足歩行

不安定

二、三歩のみ可

11病的反射

(-)

なし

なし

12その他

知能  正

知能  正

知能  正

知能  正

情動  正

情動

イライラし易い

物忘れ

情動  イライラ

情動  正

頚椎X-P

Spondylosis

高度

水平眼振  一過性

頚椎  変形

腰椎  ほぼ正常

神経内科学的

失調

構音障害

指鼻試験

失調症は再検で認めら

れない

末梢型知覚低下

知覚

多発神経炎

型だが一定

していない

所見の要約

四肢知覚障害

四肢知覚障害

深部反射の左右差

変形性頚椎症

筋力低下

深部反射亢進

=(PSR)

四肢で協調運動障害

あるも,筋力低下ある

ため判定しにくい

振戦

運動時

微細振戦

(二) 右表から明らかなとおり、第一回検診では、舌運動、指鼻試験、膝踵試験などについては、「拙劣」と評価されたが、第二回、第三回ではむしろ全体的には「正」との所見が得られ、最終的には正常と判定されている。

椿鑑定は、僅か一回の検診により、前述したごとく、相互に矛盾する不思議な症状に遭遇したため、一方において「以上の所見より運動失調の評価をすると、原告は運動失調が全くないと判定することは困難である。ある種の運動が障害されていることは確実であり、軽い運動失調があると判定した方がよいと思われる」としつつも、同時に「しかし、各検査間の所見が不均衡であり、通常陽性である検査成績が陰性である点に疑問があった。」と述べているのである。

(三) 前記審査会の検診経過は、まさに椿鑑定の投げかけた疑問に答えるものであり、本原告は、検査時に一見失調のごとき行動を示すこともあるが、時間をかけて検査を繰り返すときは、そのような現象が消退することを明らかにしている。したがって、原告には、水俣病に典型的な運動失調の存在は、検査時にさえ欠けているのであり、僅か一回の検査で、その存在が否定できなかったからといって、卒然メチル水銀中毒症が併存すると判定することは、行き過ぎである。もし、審査会の検診の全経過を鑑定人が承知していたとすれば、その結論は、明らかに審査会の結論と一致したと思われる。

4  原田鑑定は、本原告については、水俣病型の知覚障害が認められることと、疫学的条件を主たる理由として、メチル水銀による健康障害である、と結論している。しかし、そのような知覚障害の存在に疑問があることは、前記審査会の所見の変遷を見れば明らかである。のみならず、参考資料の項で、「耳鼻科検査で軽度聴力低下、C5ディップ型」と記載しながら、考察の項では、留保なしに水俣病様の聴力障害であるかのように記載しているが、前者の医学的意味は騒音性難聴であり、この間に明白な事実のすりかえが行われている。

ところで、本原告は昭和四年生れであり、まだ五〇歳にも達していない(原田鑑定は、何故か同人を大正四年生れとし、すべての年齢を一四歳ずつ加齢している。)。それにもかかわらず、同人の血圧は、常時極めて高い。審査会の検診時には150/100(昭和49・1・20)、150/100(同5・19)、160/80(同9・14)、160/80(昭和50・1・11)、140/90(原田鑑定)、170/110(本人尋問)であり、頭重、めまいなどの症状が出てもおかしくない程度である。(宮本利雄証言、53・6・3No.32~37)。

また同人の身体的特徴は、上半身が筋骨隆々としているのに比して下半身が弱いことは、本人尋問の際、多くの人が現認したとおりである。下半身については、本人尋問の結果明らかになったところによれば、腰から下、特に右足側の痛みを主訴として、鍼灸、井上医院(昭和三六、七年頃から)などに、その治療のために通院していたのであり、その直接の原因は、仕事のはずみで、ぎっくり腰になったためであり、井上医師は、これを坐骨神経痛と診断していたという(吉田健蔵供述、53・6・3、No.207~230・240~242)。同人は、それが治癒したかのごとくいうが、今日まで残っていても不思議ではない。しかるに、宮本利雄医師の診断書(甲第六八号証)も原田鑑定も、詳細に事実を調査したという体裁をとりながら、何故かこのように重要な既応歴を見落しているばかりか、これらの症状の発現をもって、水俣病症状の発現であるかのように述べている。しかし、これが誤りであることは、本人尋問の結果から明らかである。これに対して、上半身は明らかに壮者の肉体であり、現在も、実際には船に乗り漁撈に従っていることを裏付けている(原告は、肉体労働ができないので、電波探知機の操作をしている、と弁解しているが、上半身の状況それ自体が、そうでないことを物語っている。のみならず、眼が見えないと言いながら、いりことそれ以外の魚を、あの小さな探知機に映る魚影で見わけられるだけの眼をもっていることをも自白している。―吉田健蔵供述、53・6・3No.263)。

さらに、椿鑑定では、アルコール神経炎の症状があることを一方において肯定しながら、多分本人の陳述に基づいてか、「それ程大量の飲酒家でもなかったし」と記載しているが、その根拠は明白ではない。原田鑑定もこの点につき「アルコール中毒の症状はみられない」と一行で言いきっているが、同鑑定人のあげている諸症状を、後述(原告岩崎岩雄の項)の慢性アルコール中毒症の症状と比較検討するならば、そのように簡単に片付けられないことは明らかである。

5  以上述べたとおり、本原告は水俣病ではないのであり、それを前提とする本訴請求は棄却さるべきである。

仮りに本原告につき、メチル水銀の影響による症状の存在があるとしても、下半身部分に存する障害は、水俣病とは無関係であるし、大部分の異常症状と称されるものは、高血圧症、慢性アルコール中毒症と合併して現われているものである。しかも、原告につき、いわゆる水俣病様症状が現われたとされる時期は、実際には比較的最近のことであること(いくつかの資料は昭和三二、三年頃といっており、すべて本人の言い出したことに基づくが、それがぎっくり腰など腰椎の物理的症状であることは前述したとおりである。)、および、今日現在、魚撈に従事し、一人前の漁師として活躍していることなどは、損害額の算定にあたって十分考慮さるべきである。

(島崎成信 関係)

1  本原告は、昭和四九年一〇月三〇日、鹿児島県知事に対して認定申請を行い、これに関して同県の審査会は、各科による検診、検査を行った上で審査し、昭和五〇年二月一五日、同県知事に対し、「医学的判定」は「水俣病ではない。」、「考えられる疾患名および合併症」としては「レクリングハウゼン病」との答申を行い、これを受けて同県知事は、同月二一日、認定の申請を棄却する処分を行った(乙第一三号証の一ないし一三)。これに対して本原告は、公害健康被害補償不服審査会(以下、不服審査会という。)に対して右処分を取り消す裁決を求めたところ、同不服審査会は、昭和五三年五月二二日、後述の理由によって前記の鹿児島県知事の処分を取り消し、その後、同年六月一七日、鹿児島県知事は本原告を水俣病と認定した由である(乙第五五号証の一、二)。

2  本原告が、昭和五〇年二月二一日付で認定申請を棄却された理由、特に臨床症状の概要は次のとおりである。

(一) ケースワーカーの聞きとりでは、出水市桂島、米の津に居住し、漁業、鮮魚商に従事し、魚介類は多く食べたということ、居住したところに認定患者が多いということから、疫学上の可能性はあるとして審査が行われている(乙第一三号証の四。永松証言、52・1・11No.76~78)。

(二) 病歴としては、昭和三五年頃から身体がだるく、歩行がおかしくなり、昭和三七年に鹿児島大学の整形外科で腰椎の手術を受け、脊髄の靱帯肥厚、腰椎変形があった。昭和四七年に症状が悪化して、三月に千葉労災病院で手術し、長さ四センチの神経線維腫を摘出したが、症状はよくならず、脊髄症状である膀胱、直腸障害も出て悪化する一方であった。それで同年一一月、水俣市立病院で腫瘍の遺残を疑って手術したが、腫瘍はなく、脊髄の髄膜の癒着が高度で変化しているという変性と馬尾神経の萎縮があった。昭和四九年に鹿児島大学三内科に入院、ミエログラフィによるとT12(胸椎の一二番)からL4(腰椎の四番)の間で脊髄が圧排され、またブロック(脊髄の管の途中の遮断)がみられ、さらに、左頸部、左腋窩、膝窩部にも神経鞘腫を疑わせる腫瘍があった。そこで、フォン・レックリングハウゼン病と診断され、整形外科でT12とL4の間の手術をしたところ、腫瘍自体はなかったが、脊髄の変性と嚢腫、そして脊髄と脊髄膜、脊髄神経とが癒着しているという高度の病変があった。なお、鹿児島大学を退院後、湯ノ元病院で左膝の裏側に触れた腫瘍を摘出している。(乙第一三号証の四。永松証言、52・1・11No.79~111・118~135。これに加えて、左膝窩部の腫瘍を摘出した事実については、原田鑑定書55頁、土屋恒篤証言、52・7・14、No.217~220)。

(三) 病歴において述べられているように、既に昭和四九年に鹿児島大学に入院した当時において判明していることであるが、審査会においても皮下に、左側頸部、右上腕、左膝窩部を含めて、数個の腫瘍が触診されている。そして、千葉労災病院で手術したのがノイリフィブローマという腫瘍であることは組織学的にも確認されているし、脊椎の骨の変形、脊髄の変性、馬尾神経の変性があることから、レクリングハウゼン病と診断された。(乙第一三号証の五。永松証言、52・1・11No.106・116・117・137・138・178、52・3・18No.186~193)。

(四) 知覚障害は、下肢の付け根より以下に障害があるが、左右差がみられる。上肢は両手の先に知覚障害がある。一方、反射は、上肢は正常、下肢では消失しており、病的反射はない。下肢の知覚障害の状況と反射の消失からすると腰髄の下部から馬尾神経の全般に障害があると考えられる。手の末梢の知覚障害もレクリングハウゼンによるものと解される。(乙第一三号証の四。永松証言、52・1・11No.112~117・177)。

(五) 言語は正常、舌運動はややおそい。振戦は、静止振戦も企図振戦もマイナスで、協同運動は上肢のジアドコキネージスややスロー、指鼻試験は正常ということからすれば、この限りでは、失調があるとはとれない。そして、協同運動のうち下肢の膝踵試験の拙劣、両足起立の困難、片足起立不能、ロンベルグ検査不能、自然歩行が杖歩行で、つぎ足歩行不能、下肢の脱力(上肢は正常)、足部下腿の筋萎縮という諸所見は、下肢の付け根以下の知覚障害とともに、本原告患者の手術歴と手術時の所見およびレクリングハウゼン氏病であることからすれば、当然出て然るべき症状である。(乙第一三号証の四。永松証言、52・1・11No.112)。

(六) 眼科的には、視野狭窄、沈下があるが、左右非対称であり、しかも不調和であって、後頭葉性のものとしては考えにくく、視神経レベルの炎症の後遺症、またはレクリングハウゼンの腫瘍が推測される。また眼球運動の異常が少しみられるが、視力については矯正不能の弱視があり、第三色覚異常があって、後頭葉性でなく、網膜、視神経レベルの障害を示唆する所見である。(乙第一三号証の六、七。永松証言、52・1・11、No.139~153・163~174、52・3・18No.210~269)。

(七) 耳鼻科的には、気導の聴力が左右とも対称性に低下しているが、レクリングハウゼン氏病のような神経線維腫は聴神経が好発部位でもあり、この結果だけからは何も判定できないという耳鼻科の意見であった。(乙第一三号証の八。永松証言、52・1・11No.158~161・175・176)。

(八) 以上の各科の所見を総合して、本原告は水俣病でないと判断され、考えられる疾患名としてはレクリングハウゼン氏病があげられている。

3(一)  椿鑑定人の鑑定時の所見および意見の概要は次のとおりである。

(1) 感覚障害は、表在知覚鈍麻が腰髄第三節以下仙髄支配領域に認められる。上肢の表在感覚鈍麻には疑義があるし、遠位部優位でもない。なお、下肢の振動覚はやや低下している。結論としては、水俣病的ではない。

(2) 運動失調は全く正常。

(3) 構音障害はない。

(4) 筋力は上肢正常、下肢は稍低下。

(5) 眼球運動の異常はない。

(6) 聴力障害は年齢相当。

(7) 深部反射は正常乃至減弱、アキレス反射のみ消失。

(8) 結論として、下肢の症候は、過去の手術によることは確かである。レクリングハウゼン氏病は全身の神経線維腫症を来すので、その他の部位にも神経症候をおこしても、不思議はないし、その可能性も否定はできない。しかし、前記の症候以外に他覚的神経症候は殆どない。視野は変動が大きく、対座法では正常、著しい狭窄があるとは考えられない。

結論的には、水俣病を疑う程の症候はない。

(二) 右の鑑定の内容は、個々の臨床所見に一部異るところはあるが、結論としては審査会の判断と一致している。水俣病か否かは、患者について得られた各臨床所見を相互の関連を考え、全体的に解釈して判断すべきであるから、両者は同一の結論に達しているといえる。以下、念のために、個々の臨床所見について述べる。

(1) 審査会の検診においては下肢だけでなく、上肢の末端にも感覚障害(ただし、上肢末梢シビレとのみ表現する。)がある、としていたが、椿鑑定においては、上肢の感覚障害は疑義があるとし、結論として「水俣病的ではない」としている。審査会においても、上肢の知覚障害は重視せず、水俣病による知覚障害であることを否定しているのであり、判断としては同一といえる。

(2) 運動失調は全く正常であると椿鑑定人は断言している。審査会においても上肢の運動失調があるとはしていないし、下肢は脊髄性の諸症状と判断しているから、この点も判断は同一である。

(3) 視野狭窄の有無については、椿鑑定人は対座法によって検査し、正常であるとしている。審査会では視野計を用いて狭窄、沈下あり、としているからこの点、所見が一致していない。しかし、審査会の場合、この狭窄、沈下は不調和、非対称であって、後頭葉性のものではないと判断しているから、全体像としては同一である。なお、椿鑑定書の前文によると、前述のように鑑定にあたり過去の記録(渥美医師作成名義の眼科特診カルテも含まれている。)を眼科岩田教授、耳鼻科猪教授に供覧して、その意見を参考にした、とあり、その結果、「記載された所見は、特にメチル水銀中毒症を積極的に支持するものであるとの意見ではなかった。症候の変動が強かったり、症候間の不均衡のため有意の結論を引出し難かった如くである。」と記述している。この点からしても、視野狭窄に関する審査会と椿鑑定人との所見の違いは問題にならない。

4  原田鑑定人の鑑定時の所見および意見は以上の審査会および椿鑑定人のそれと異っている。

(一) 脊髄障害による下肢の粗大力低下や麻痺および膀胱障害があること、またレクリングハウゼン氏病が存在していることは原田鑑定人も認め、この点は意見が一致する。その結果、原田鑑定人も、本原告にみられる軽度の聴力障害が、レクリングハウゼン氏病の障害が聴神経に多発することから、その可能性を否定できないとしている(同鑑定書中(6)考察の2)。

因みに、レクリングハウゼン氏病は教科書的には皮膚症状を伴うことが多いとされているが、この症状が必発するとはされておらず(乙第二九号証の三)、現に永松証人も皮膚症状のないレクリングハウゼン氏病の半分程度経験している(永松証言、52・3・18、No.174~177)、また、本症は先天性の疾患で、家族性にみられることが多いが、全家族の中でたった一人発症する例もかなりあり(永松証言、52・1・11、No.68)、遺伝性といわれてはいるものの、突然変異も多い(乙第二九号証の三、130頁)のである。したがって、皮膚症状がないとか遺伝性、家族性の調査をしていないことからレクリングハウゼン氏病を否定することは間違いである。そして本原告の腫瘍は千葉労災病院における手術で摘出され、かつ、組織学的にもノイリフィブローマ(神経線維腫)と確認されたものを除いては組織学的に確認されたものはない、とされている。しかし、鹿大第三内科においても審査会においても数個の腫瘍が触診されている(永松証言、52・1・11、No.108・116・117・137・138)し、この点がいずれとしても湯之元病院においても左膝窩部裏側から腫瘍が摘出されている。甲第六一号証の一の藤野診断書では千葉労災病院で手術されたことは述べているが、それが神経線維腫と確認されたことも、また湯之元病院で左膝窩部から腫瘍が摘出されたことも記載しておらず、正しい診断書といえない。原田鑑定書は、間接的に右の手術歴を認め(同鑑定書55頁)、したがってまた、前記のように、レクリングハウゼン氏病の存在することも認めている。蛇足ながらレクリングハウゼン氏病の場合、聴神経が両側性におかされ易いということは定説である(乙第二九号証の三、129頁)。

(二) しかし同鑑定人は、右に引き続き、「それにしても、手袋足袋様の知覚障害や視野狭窄を神経線維腫によって説明することは全くできない」と述べている。

右のうち、主として上肢の知覚障害の存否、それとメチル水銀中毒との関係についての原田鑑定人の所見および意見は、前記のとおり椿鑑定人と相違する。因みに、原田鑑定人は、口周辺の知覚は(⊥)としているが、同鑑定書54頁の知覚図によると「一回め(+)、二回め(-)」とあって、いずれも(⊥)とはしていない。神経学的所見は数字ではない筈で、(⊥)とは僅かにあるという意味であり、一回め(+)と二回め(-)の平均として(⊥)としたとすればそういう判断自体が間違いである。かかる場合は、口周辺の知覚障害は「不定」とすべき筈だからである。また、視野狭窄については、原田鑑定人は、自ら行った「対面法」においては、「視野狭窄軽度(+)」としている程度であるから、むしろ、同鑑定書の「(4)参考資料」中に記載のある「4、ゴールドマン視野計で求心性視野狭窄がみられる。(乙第一二号証、甲第九四号証)」とのデータによって論じていると思われる。しかし、乙第一三号証の六、七においては、視野狭窄は後頭葉性と解しえないと記録上も明記されているし、甲第九四号証についても、眼科岩田教授の意見で水俣病を積極的に支持するものではないとされているのである。視野狭窄についての同鑑定人の理解は、審査会、椿鑑定人と全く異っている。

(三) 右のほか、原田鑑定人は、上肢の共同運動障害や構音障害を所見としてとっている。

右のうち、構音障害については、原田鑑定人も「強い構音障害ではない(⊥)」としているが、一方椿鑑定人も、審査会も、構音障害ありとの所見はとっていないのであり、積極的に構音障害ありと判断することには疑義があるといわねばならない。

また、運動失調はすべて正常であったと椿鑑定人はいい、これは審査会とも一致するから、原田鑑定人の、上肢に共同運動障害があるとする所見にも疑義がある。

そして、原告本人が自転車に乗れるということは、同人自ら認めるところである。脊髄障害による深部知覚麻痺があっても、自転車に乗れることは考えられるが、小脳性の運動失調があれば、自転車に乗れることは考えられない。この点からしても、同原告に小脳性の障害があるとはいえない。

(四) なお、審査会では、脊髄、馬尾神経障害のため、ロンベルグ検査は不能として所見をとっていないが、原田鑑定人は、「マン試験およびロンベルグ現象()」としている。しかし、この点について椿鑑定人は、「このような下肢不全麻痺の場合、ロンベルグ検査、マン検査は評価できない筈であるが、熟練者はこれを考慮して判定できる場合がある」とし、「その結果、ロンベルグ検査で運動失調はないと判定した。この所見で運動失調ありと判断する医師があるとすれば、その医師の神経学的所見は信頼に価しないものである」と述べている。

(五) また、原田鑑定人は、他の所見として手指振戦(+)、ごく軽度の企図振戦(⊥)もあげている。しかし、審査会の検診においては、静止振戦、企図振戦ともにマイナスであり、椿鑑定人も、他には、「他覚的神経症候はほとんどない」として、これには触れていない。現に昭和五三年六月一〇日の現地における本人尋問の際も、静止振戦、企図振戦ともにみられていない。

これについて、原告患者本人はものを取るとき力を入れるといくらかふるえる旨述べているが、力を入れてふるえるのは、神経障害による静止振戦でも企図振戦でもない。少くとも原田鑑定人の振戦についての所見には、疑義があるといわねばならない。

5(一)  本原告については、1において述べたように、不服審査会は、認定申請を棄却した鹿児島県知事の処分を、昭和五三年五月二二日付をもって取り消し(甲第二〇一号証)、これを受けて、鹿児島県知事は、同年六月一七日、本原告を水俣病と認定した由である。(乙第五五号証の一、二)。

右の認定の理由および根拠は、これに関する資料についての鹿児島県への送付嘱託が採用されていないため、明確でなく、専ら新聞報道(乙第五五号証の一、二)によって判断せざるをえないが、これによれば、鹿児島県審査会の答申は、通常と異る極めて異例のものであり、その内容は「水俣病である」ないしは「水俣病の可能性は否定できない」と結論しているものではない。

(二) すなわち、不服審査会は、その裁決書(甲第二〇一号証)からも明らかなように、具体的に検診を行った上で右の判断をしているのではなく、専ら、認定を棄却したときの審査会の審査資料について、その答申の当否を判断しているのであり、その判断内容は、要約すると、「臨床症状として、知覚障害、両側対称性の求心性視野狭窄、聴力障害が認められるが、(具体的な障害の原因となる腫瘍の存在を示す所見がないので)これらの症状の原因がレクリングハウゼン氏病であるとはいい難く、したがって、処分庁が、請求人の症状はレ氏病によるとして、同人が水俣病にかかっていると認められないとしたのは妥当でない。なお、請求人の症状は、生活史等を考慮して総合的に判断すれば、有機水銀の影響をうけている可能性があると思われる」とし、したがって、「処分庁において、…あらためて検討すべきもの」としているのである。

しかし、既に述べたように、鹿児島県の審査会は、本原告の視野狭窄は非対称性であり、また不調和であって後頭葉性のものとは考え難いとしているのであり、この点、全く不服審査会の理解は違っているし、知覚障害、聴力障害についての判断も両者で異っている。なお、蛇足ながら、椿鑑定人の検診結果および鑑定意見は、鹿児島県の審査会とほぼ一致することは、前述したとおりである。これを要するに、不服審査会は棄却処分の取消しはしているが、その審査にあたっては、特に検診も行わず、審査会の検診内容について検討しているのに過ぎないのであり、またその理由づけからしても、本原告が同不服審査会によって水俣病であると判断されたということは何らいえない。

(三) 右の不服審査会の取消し処分後、鹿児島県は、審査をやりなおすこととして県の審査会に諮問したところ、同審査会は、「前回の判断は正しかった」として同一の資料による不服審査の判断とは異ることを再度述べているが(乙第五五号証の一、二)、右に引き続いて、「その後の得られた知見をもとに判断した結果、一部の委員から有機水銀の影響を否定しえない部分もあるとの意見が出て、水俣病でないと判定する結論がえられなかった」との答申を行っている由である。右の答申内容は本件審理を通じて知りえた通常の答申と全く異る表現であり、これでは、審査会としてどう判断したのかは、極めて曖昧である。「有機水銀の影響を否定しえない」という審査会としての答申であれば、通常、県知事がそのまま水俣病と認定する根拠を提供するものと思われ、本原告に関する右の答申は、一部の委員の意見を述べるのみで、審査会としての判断は明確に表明していない。その意味で、審査会の医学的判断は、水俣病であるとか有機水銀の影響を否定しえないと結論づけたものではないといわねばならず、新聞報道も、「判断は知事にあずけた形の答申である」としている(乙第五五号証の一)。

(四) 以上によれば、データは極めて明確を欠くが、今回の認定は、医学的にみて、「水俣病の可能性がある」との判断に立脚したものともいえないし、いわんやこれをもって、本訴において、本原告患者が被告に対して、水俣病に罹患しているとの立証をなしえたものと主張することはできない。

6  なお、仮りに、以上の程度の立証によって本原告が水俣病であると認められるとしても、同原告にレクリングハウゼン氏病があることは、審査会、椿鑑定人および原田鑑定が一致して認めるところであり、また歩行障害等の下肢の症状や膀胱障害が主として腫瘍ないし四回に亘る手術と二次的変性による脊髄、馬尾神経障害によることは、病歴からみても明白であり、これらの症状がメチル水銀によるものとは到底いえない。そして既に述べたように、その余の症状については、医学的にみてメチル水銀によるものであるか否か自体判断が一致しないのである。

したがって、仮りに本原告が水俣病であるとしても、これに罹患したことによる損害は軽微というべく、同人主張の損害額は失当である。

右に関連して、原田鑑定人は、「主な症状はメチル水銀によるものと考えられる。脊髄症状は一応メチル水銀の影響から除外して考えているが、…脊髄症状を前景にする例が水俣病でも経験されている。」としているが、論旨は不明確である。脊髄症状がメチル水銀の影響によるものとはされていないのは、同鑑定人のいうとおりであり、それは、仮りに脊髄症状が前景にでていた水俣病患者の例があったとしても同様である。本原告は、早期から頻尿、残尿感などの膀胱症状(原田鑑定書51頁1・2行目)を示しており、また手術経緯からも脊髄障害が主であり、したがって、主な症状はレクリングハウゼン氏病であって、その他に水俣病が合併してあるかどうかが問題となるケースなのである。

(岩崎岩雄 関係)

1(一)  本原告は、昭和四九年四月三〇日、同月二四日付の藤野糺医師の診断書を添付して、鹿児島県知事に対して認定申請をしたが、昭和四九年八月一〇日、一一日に開かれた第一九回鹿児島県の審査会において、「水俣病ではない。又は有機水銀の影響は認められない。」との結論が出され、その旨県知事に答申された(乙第一四号証の一ないし一二)。

(二) 同県知事は、右の答申に基づき、昭和四九年八月一六日「あなたの臨床症状等から、有機水銀の影響が認められないので、この申請は否認されました。」との棄却処分をなした(乙第一四号証の一三)。

(三) したがって、本原告は、水俣病診定に関する専門医の集団である鹿児島県の審査会において、水俣病の診断基準としては最も緩いとされる、「有機水銀の影響の可能性を否定できない。」という基準に従ってすら、水俣病とは認定できないと診定されたのである。

2  椿鑑定人は、昭和五三年三月一四日に同鑑定人が実施した診察の結果に基づき、「本原告の症候は、運動失調は存在するが、感覚障害が極めて軽い。水俣病の場合、最も頻度が高く、多くは初発症候である感覚障害が軽いことは水俣病の診断に慎重でなければならない。」ことをまず指摘する。

(一)(1) 椿鑑定人が「極めて軽い」との留保はつけながらも、一応その存在を認めた感覚障害の具体的内容は、同鑑定人の鑑定書によると、「感覚障害は一般の表在検査では、上肢には異常なく、下肢でも触覚は正常、痛覚は足関節以下に軽く障害されている程度である。口囲の感覚鈍麻も認めない。振動覚も上下肢とも正常である。圧覚計で検査すると両手指に明かな鈍麻があるが、他の所見と比較すると解離が甚だしいし、触毛検査でばらつきが大きく判定できない」というようなものである。

(2) 換言すれば、本原告の感覚障害として、椿鑑定人が現認したのは、下肢の足関節以下の軽い痛覚障害と圧覚計検査によって見出された両手指の鈍麻の存在だけである。

(3) これに対して、審査会の神経内科医の昭和四九年六月三〇日付の診断結果によれば、知覚障害は全く認められなかったとされており(乙第一四号証の五、右欄9、永松証言、51・1・10、No.157)、椿鑑定とは、重要な点でくい違っている。

(二)(1) また、これに対して運動失調については、椿鑑定も、大部分の検査項目につき否定的所見を得ている。

すなわち、「舌の運動は緩徐であるが、水俣病の定型例でみられるものと異なり、力強く行う」、「アジアドコキネーゼは遅いが規則的に行う。」、「指鼻、指耳、指眼試験はほぼ正確で振戦を伴わない。」「膝踵試験の判定は微妙である。」「運動の解体はなく、測定過大の有無は疑問である。」、「叩打試験は速度は速いが(この点はアジアドコキネーゼが遅いことと離反する。)、不規則であり、又叩打点にばらつきがみられる。」、「ロンベルグ検査、マン検査いずれも陰性である。」などである。

(2) これに対し、失調に関し、椿鑑定が陽性所見として捉えたのは、「日常の細かい動作はぎこちない。」「指鼻指試験は両側ともやや拙劣である。」「図形画き試験は振戦を伴い拙劣である。」の三つだけであり、これらから椿鑑定は「以上の検査は検査の間で一致しない点もあるが、運動失調は存在が認められた。」とするのである。

(3) 他方原田鑑定は、「失調は、検査によって動揺」するとしながらも、「アジアドコキネーゼ、早いがやや不規則(⊥)」、「つぎ足歩行動揺(+)」、「マン試験時下肢にリズミカルなガタガタする振動がきて動揺(+)」、「膝踵試験脛叩き試験粗雑で(⊥)」、「動作全体が緩慢であるが共同運動障害は(⊥)」と診定し、軽微ではあるが失調様症状の存在を肯定している。しかし、アジアドコキネーゼその他など椿鑑定と全く正反対の見解もある。

(4) これらに対して、審査会の所見はどうであろうか。乙第一四号証の五によれば、「ジアドコキネージス緩慢」、「指鼻試験ミスダイレクションあり」、「膝踵試験正」、「片足起立不安定」、「ロンベルグ(一)」などとされ、一見すると椿鑑定の意見に極めて近い。

しかし、問題は、要約の項に「協調運動障害、片足立ち不安定」の語に続いて「注目している時と、人のみていない時でかなり症状に差があり、心因性のニュアンス」(傍点被告)と記載されていることあるいは3の検査項目脱力の項末尾に「自分で力を入れない」(同前)というような記載があることである。この点、特に前者に関して、永松証人は次のように証言している。

「これは片足立ちというのは我々患者さんを見てる時に片足で立ってもらうわけです。『立ってご覧なさい』と、その時非常に動揺するわけですね。その時は片足立ち不安定と書きます。だけど我々診察する時は、その時だけを見てるんじゃなくて、その患者さんが我々のところに、診察室にはいってこられる時からすでに観察してるわけです。歩き方はどうかとか、それからもちろんずぼんぬいだり、服をぬいだりされている時も観察してるわけです。で、こういうふうに書いてるのは、注目してる時というのは、要するに検査してる時ですね。それと人が見てない時ではかなり症状に差があるわけです。この方の場合の記載見ますと、片足立ちは非常に不安定なんです。ところが診察が終って『すみました』と言った場合、あるいは『ずぼんをぬいで、そこに、ベッドにやすみなさい』と言った場合には、ずぼんぬぐ時は多くの人片足あげてずぼんぬぎますね。そういうのは正確に片足あげてぬいで行くわけです。本当に小脳症状があって、本当にバランスがとれないならそんなことできないはずですね。……そういう意味のことがこれに書いてあるんです。」(永松証言、52・1・10、No.166、同趣旨No.167。なおNo.167は、指鼻試験と服をぬぐ際のボタンはずしの行動とのくい違いを説く。)。

(5) 椿鑑定人は、時間的制約もあってか、原告岩崎の挙止動作について、審査会のようなところまでは、検査の眼が及んでいない。したがって、これらの点では、明確に審査会の検討の方が、一歩進んでいる。

もしそうだとすれば、椿鑑定人が失調の検査に際して、随所で投げかけた疑問は理由があったわけである。

(6) 本原告には、元来、失調はなく、一見失調かとみえた動作も、実は心因性のものとして、出たり引っ込んだりしたに過ぎなかったのである。

してみると、運動失調の存在にも、また感覚障害の存在にも、明確な疑問があるのであり、そうである以上、本原告の現在症状に対し、メチル水銀の影響が否定できない、との椿鑑定の判断は成り立たないことになる。

(三)(1) 本原告に運動失調などが、本当に存在するかについては、前記のように、大いに疑問があるが、椿鑑定は、これが軽度ではあるが存在するものとして、それが、いかなる原因疾患に基づき発生したかについて考察を進めている。

(2) すなわち、同鑑定によれば、「小脳変性症、小脳出血、硬塞、又は腫瘍その他小脳の障害される疾患、脊髄又は末梢神経障害による運動失調(例えばビタミン欠乏症、スモン、背髄癆、頸椎症など)が考慮される。」とし、これらのうち、頸椎症は、頸椎レベルより上位のすなわち脳神経障害によってはじめて出現する下顎反射の存在から否定的に解しうるとし、また小脳変性症は、下肢よりも上肢の方に運動失調が著しいし、その失調の態様も非典型的であるからとして、そのような疾患であることを否定的に解釈している。

(3) その他の疾患については、特に触れるところはないが、多分、否定的であると思われる。

しかし、失調の存否、あるいは、程度については、審査会のような見方もあるし、原田医師あるいは藤野医師のような見方もあって、上肢の方が下肢より重いといえるかどうかは疑問であり、頸椎症は別としても、他の疾患は、一応成り立つ可能性がある。この点について、椿鑑定は言及していないが、二つの指摘がある。

(4) その一つは、永松証人の述べている右中枢神経障害を原因とする顔面神経麻痺である。同証人は顔面神経麻痺が右に偏って存在していることなどから、左大脳半球の血管障害によるものと判断している。(永松証言、52・1・10、No.145~147・160・169~181)。

(5) これに対して、他の一つは、原田鑑定、樺島医師の意見書(甲第六六号証)で明らかにされた病的酩酊で入院加療を受けていたという事実および本原告の生活歴などから帰納される慢性アルコール中毒症の存在である。

(6) のみならず、昭和四九年四月以降水俣診療所に通院加療(降圧剤も投与)中であるにもかかわらず、常時、かなり高度の高血圧を示しており、それ自体の症状が出たとしても何ら異としない。因みに、昭和四九年六月三〇日(審査会)138/70、昭和五一年八月一五日(樺島医師)156/80、昭和五三年四月一一日(原田医師)170/100、そして昭和五三年六月四日(本人尋問)170/92である。

(7) 本原告が長年にわたるアルコール多飲者であり病的酩酊で入院治療を受けていたことは、前述のとおりであるが、これらの事実は同人が慢性アルコール中毒患者であることを示唆している。ところで、南山堂の医学大辞典によると、慢性アルコール中毒とは、次のごときものと説明されている。

「習慣的飲酒のために、常に身体的および精神的障害があるような状態になったものをいう。……症状としては、精神的には抑制がなくなることが主で、根気、意志が減退し、次第に高等感情は低下……なお、常に精神的視界の狭窄が認められ、知能や記憶も減弱し、遅鈍となり活動性の喪失が見られる。…身体的には心臓肥大拡張、肝臓、腎血管の障害胃カタル、多発性神経炎、振顫、平衡障害などあるが、実際には身体症状の甚しく僅微な酒客も甚だ多い。

かかる慢性中毒の基礎の上に起こる急性の精神病として、強い飲酒の後に主として夜間、突如特有の幻覚…が現われ、3~5日後に回復する振顫詭妄や幻覚妄想症状…も示す急性アルコール幻覚症、…また長年飲酒した初老人に起こりやすいコルサコフ症候群と、自発性欠如、鈍感、多幸、空虚、不機嫌などの人格変化を示すコルサコフ精神病があり、またてんかん様失神発作を起こすアルコールてんかんというものがある。…また周期的暴飲といって周期的に酒に対する欲望が激しくなり一旦飲みはじめると止めどなく飲み、この病的酩酊を繰り返すものがある…」(同書一四八六頁)。いずれにせよ長年にわたり多量の焼酎を飲み続けてきた本原告の生活歴を考えるならば、本原告に右のような症状が、次第に現われても不思議ではない。

この点につき、原田鑑定は、結論部分では、「振戦せん妄など慢性アルコール中毒症状が認められない」と述べて一見慢性アルコール中毒症を否定しているごとくであるが、同鑑定人が、慢性アルコール中毒を最も有力な原因と考えていることは、それまでの記述の実質をみれば、明らかである。

(四) 結局、本原告は、その基底に慢性アルコール中毒症あるいは高血圧症などがあり、左大脳部の血管障害が付加されたために、ある種の神経症状が無いではないが、審査会が注意深く観察した結果、明らかになったごとく、小脳性の失調は、存在していなかったのである。

したがって、審査会が結論したごとく、本原告は、水俣病ではないのである。

3  本原告の生活歴

(一) 本原告は大正一一年一二月一〇日生れである。

(二) 昭和一二年から昭和二二年までの間、沖仲仕、漁師、炭鉱夫、兵役などの肉体労働に従事している。

(三) 昭和二二年から、最近(本人等のいうところによると昭和四八、九年頃)まで、船持ちの漁師として、第一線にたって、肉体労働に従事してきた。

(四) この間、昭和四五年一〇月一四日から四六年三月末までの約半年間、冬場ということもあって、チッソ水俣工場製造第二課に臨時工として勤務しているが、同人の作業内容は高熱の電気炉から熔融カーバイドを取り出すため長い鉄棒によって取出口をタッピングするのが主たる作業であった。この現場は、水俣工場でも、最も重労働を要するところ、といわれ、本原告は、全期間を無欠勤で通した(岩崎岩雄供述、53・6・4、No.229~235)。本原告は当時体が弱っていたため、十分に仕事ができなかった、と供述したが、事実に反する。もし同人の言うとおりとすれば、当然軽作業の現場に回された筈であるが、そのようなことはない。このことは、本原告が当時、極めて頑強な肉体であったことを示している。

(五) 本原告は、この裁判を起してから以後は、何故か余り熱心に働かなくなったようである。しかし、五七歳になった今日でも、全く漁業を廃したわけではなく、かなりの期間漁業に従事しているようである。のみならず、漁閑期には、依然として土木工事あるいはカツオの餌であるイワシの受渡しなど、いわゆる重労働の部類に属する仕事にたずさわっている。

因みにイワシの受渡しは一六立方米という大きな竹篭を操作するのであり、握力、筋力などはもちろん全体としてかなりの体力がないとできないものといわれている。

4(一)  2(四)で述べたとおり本原告は水俣病ではないのであり、そのことを前提とする本原告らの本訴請求は理由がない。

(二) 仮りに右主張が容れられないときは、その損害算定にあたっては次のことを考慮するべきである。

本原告の生活歴は、右に述べたとおり、現在も、五七歳という年齢相応の働きをしているのである。

百歩譲っても、本原告の身体に不調が出現したのは、原告らの主張によっても、昭和四七年以降である。換言すれば、それまでは正常な健康人以上の健康状態で働いていたのである。したがって、仮りに本原告がメチル水銀によって汚染されたとしても、具体的な損害は発生しておらず、したがって、これを請求しうる権利なるものも生じていないのである。

(岡野貴代子 関係)

1(一)  本原告は、医師佐藤千里作成にかかる「血管性頭痛の疑」との昭和四七年五月三一日付診断書を添付して、昭和四七年六月一日熊本県知事に対し、水俣病の認定申請をした(乙第一五号証の二、三)。

(二) 同県知事の諮問を受けた熊本県審査会は、疫学調査の結果および一般内科、神経内科、眼科、耳鼻科、精神神経科の各検診による結果を総合して、第一七回審査会において、本原告の場合、「メチル水銀の汚染は受けているが、それによる症状が出現していない。」「水俣病としての特別な所見がない。」との結論に達し、右原告は「水俣病ではない。又は有機水銀の影響は認められない。」との答申を行い(乙第一五号証の六)、これを受けて同県知事は申請を棄却する処分を行ったものである(乙第一五号証の四ないし七。武内証言、51・6・2、No.35~37)。

2(一)  すなわち本原告の場合、神経内科学的には、軽度の知能障害と右側下肢の深部知覚障害(位置覚障害)のみが、一応は症状として認められるものの(乙第一五号証の五)、この軽度知能障害については、メチル水銀との関連性は問題にならないものであり(武内証言、51・6・2、No.41)、右側下肢の深部知覚障害については、表在性の知覚障害が全く証明できないから、これはメチル水銀によって惹起されたものと考えることはできない(同証言 No.36)。

つまり、たまたま存在する右二つの症状は、メチル水銀に汚染された結果発現したものではなく、他には、メチル水銀中毒の場合に証明される各種症状を含めて、神経内科学的症状は全く認められないのである。

(二) 眼科学的には、異常所見が全く認められない。前述第一七回審査会に提出された眼科学の診断書には、「視野、ボーダーライン」との記載があるが、(乙第一五号証の五)、これは視野計による測定結果が正常範囲の下限である径一二〇度であること、すなわち、視野は正常であることを示すものであって(武内証言、51・6・2、No.36)、他の点においても、全く正常である。

(三) 耳鼻科学的には、軽度の難聴が認められる(乙第一五号証の五)。この主因は疲労であり、加えて他の原因の存在も考えられないではないが、メチル水銀を原因とする神経内科学的症状が全く認められないことから、右軽度難聴をメチル水銀の影響と考えることはできず、したがって、耳鼻科学的にも、水俣病の症状は認められない(武内証言、51・6・2、No.36)。

(四) 要するに本原告の場合、メチル水銀の影響と思われる症状が全く出現していないのであって(乙第一五号証の六、武内証言、51・6・2、No.38)、水俣病患者でないことは明白である(乙第一五号証の七)。

3(一)  これに対し椿鑑定人は、本原告には、感覚障害(四肢遠位部に左右対称性の表面感覚鈍麻、両側外側顆の振動覚低下)、軽い運動失調(指鼻試験などで終止時に振戦、膝踵試験やや拙劣、叩打試験遅く不規則)、やや遅い言語、軽度の筋力低下、聴力障害が認められ、「年令が若いのでこのような症状を示す他の疾患の入りこむ余地が殆んどない」から、「メチル水銀中毒症に罹患しているものと判定する」という。つまり、椿鑑定人の結論が前記審査会の結論と正反対である所以は、審査会の専門医師による検診時には存在しなかった症状が、五年後には存在するかにみえた点にある。

(二) しかしながら椿鑑定の際に、一応は存在するといわれる症状の多くは、審査会では認められていないだけに心因性も考察されて然るべく、これを一概にメチル水銀中毒に起因するものと断定することは疑問である。

すなわち、椿鑑定人が本原告に認められるとする運動失調は、日常動作においては全く異常はなく(椿鑑定書)、舌運動はやや遅いものの運動そのものは力強く、またロンベルグ、マン検査ともに(±)程度であり、言語についても、通常会話では異常とはいえないとされ、指鼻、指鼻指、指耳、指眼試験は両側とも終止時振戦があり、目的がやや狂うというものの、アジアドコキネーゼは(一)であり、膝踵試験もやや拙劣という程度であって、心因性を疑う余地は多分にある(椿鑑定人も、本原告に心因性の疾患が併存しているかも知れないことは認める)。

(三) 右のように椿鑑定人が指摘する症状のいくつかは心因性の疑いが強く、かつ、同鑑定人自身が、本原告の「発病の様態はメチル水銀中毒の場合と異なる」(椿鑑定書)と明言していることを考え併せると、「本原告はメチル水銀中毒症に罹患している」との椿鑑定をもって、複数の専門医師が討議検討した末全員一致で「水俣病ではない。又は有機水銀の影響は認められない。」とした前記審査会の結論を無視、否定することはできない。

4(一)  原田鑑定人も「四肢末端の知覚障害、粗大力低下がみられ、軽度あるいは境界限度の構音障害、共同運動障害、視野狭窄、聴力障害がみられる」とするが、いずれも軽度だという。ただし「軽いが、これらをすべてとればハンターラッセル症候群となる」と考察する。しかし審査会は右側下肢の深部知覚障害のみ認め、その他神経内科的にも眼科的にも症状を把握しておらず、難聴もまた主因は疲労だと断定しているのであって、原田鑑定にいう「これらをすべてとれば」という前提の「これら」が必ずしも「すべてとれ」るものではないであろう。

(二) また同鑑定では「共同運動障害は通常の基準ではとれないのかもしれない」としながら、これは「日常生活の支障、動作の緩慢さ、不器用さとしてとらえるべきであろう。」とする。しかし椿鑑定では「日常動作は異常ない」とされており、かようなものを所見としてとるのは甚だ疑問である。

(三) 原田鑑定は疫学条件を前提として「小児水俣病の特徴をもつ。仮りに知覚障害だけであったとしても、他に原因となる疾患が見当らない」として「メチル水銀汚染による小児期の健康障害(水俣病)と考える。」、という。しかし同鑑定書の現病歴の記載によれば、しびれ感とかふるえなどを訴えるようになったのは昭和四六年頃からとあり、すでに二六歳に達しているのであって、小児期水俣病というのは納得し難い。したがって小児水俣病の特異性を挙げて、これに本原告をあてはめることは医学的に正当とは認め難い。

5  以上のとおり本原告が水俣病であると認めることはできないが、仮りに本原告にメチル水銀の影響を否定できないとしても、症状のすべてがメチル水銀に起因するとは言いきれず、かつ、症状の程度は極く軽いものであるから、メチル水銀摂取による損害は僅少というべきである。

すなわち、本原告には心因性の疾患による症状が認められることは前述のとおりであるうえ、仮りに運動失調、言語障害があるとしても、「日常動作は異常なく」、「通常会話で異常とはいえない」のであるから、これらの症状に関しては、日常生活に支障がなく、現に家庭の主婦として稼働しており、メチル水銀摂取による損害は発生していないし、他の症状も日常生活には殆んど支障を来さない程度の軽いものに過ぎないのである。

(森本與四郎 関係)

1  亡森本與四郎は、昭和四九年二月二三日、鹿児島県知事に対して水俣病の認定申請を行い、これに関して同県の審査会は、各科による検診、検査を行ったうえで審査し、昭和五〇年九月一二日、同県知事に対して、「医学的判定」は「水俣病ではない」、「考えられる疾患名および合併症」としては、「脳動脈硬化症、右慢性中耳炎、変形性脊椎症、白内障」との答申を行い、これを受けて同県知事は、同月一八日、認定の申請を棄却する処分を行った(乙第一八号証の一ないし一三)。同人は、その後、再度認定申請を行っていたが、胃癌のため死亡し、遺言による解剖の結果、病理所見により、鹿児島県知事は昭和五二年九月同人を水俣病と認定した由である。

2  右森本の申請が、昭和五〇年九月一八日棄却された理由、特に臨床症状の概要は次のとおりである。

(一) ケースワーカーの聞きとりにより、疫学的条件としては、出水市から桂島、茂道等不知火海沿岸に居住し、大正六年以降漁業に従事しており、魚介類は好んで多食したとあり(乙第一八号証の五、六。永松証言、51・12・23、No.62)、疫学的には可能性がありうるものとして審査が行われている。

また、審査会の検診医の聞きとりでは、病歴として、昭和四五年頃より、下肢がだるく、上下肢が思うように動かせない、右聴力低下、網の手入れがうまくできない、昭和四七年頃より上下肢のしびれ、左聴力低下と時々しゃべりにくいことがあり、またその頃から時々下唇がしびれるという訴がされている(乙第一八号証の六。永松証言、51・12・23、No.75~79)。

(二) 神経内科的相査によると、言語、舌運動はいずれも正常、ジアドコキネージス、指鼻試験、膝踵試験等の協同運動はいずれも正常であり、パーキンソン氏病様の静止振戦はあるが、企図振戦はマイナス、ロンベルグもマイナスであり、片足起立は左のみ不可、つぎ足歩行はプア(まずい)、筋トーヌスは上肢に軽度の硬直がみられるが下肢は正常、という状況で、これらを総合して、小脳失調はないと判断された(乙第一八号証の七。永松証言、51・12・23、No.88~92、52・3・17、No.7~22)。

(三) 知覚障害は、触覚、痛覚、温度覚の表在知覚が左手、両下肢、両下腿で低下しているが、右手には異常がない。振動覚は、両足先で測って七~八秒で、若干低下している。したがって、この知覚障害の分布は水俣病にみられるような多発性神経炎型ではない。また、反射については、上肢は正常だが、下肢は充進しており、少くも末梢神経が障害される多発性神経炎型ではない(乙第一八号証の七。永松証言、51・12・23、No.97~106・110・120~122・125)。

(四) 他方、パーキンソニズムに特徴的な微妙な振動に似た静止振戦、同じくパーキンソニズムに特徴的なオイリーフェイス(油ぎった顔)と筋の硬直が軽度に上肢にみられ、また、上・下肢に軽度の脱力がある。頸部の運動制限はないが、全方向に運動痛があり、レントゲン写真でも頸椎、腰椎に変形性脊椎症がみられ、これは(三)に述べた知覚障害をきたす程度のものであった(乙第一八号証の七。永松証言、51・12・23、No.127~139・161~163)。

(五) 眼科的には、視野狭窄はない。沈下はみられるが、眼球運動の異常はないし、水晶体に中等度の混濁があり、また第三色覚異常があって、網膜、視神経レベルの障害があるので、そのためと認められる。

視力も矯正視力が右〇・六、左〇・八と減弱している(乙第一八号証の八。永松証言、51・12・23、No.173~176、52・3・17、No.162・163・172~186)。因みに、乙第一八号証の八の視野図についてみれば、視野狭窄はなく、沈下も水晶体の混濁によると判断されるということは、渥美健三医師もこれを承認する(渥美証言、52・8・18、No.349~351)。

(六) 耳鼻科的には、気導性の聴力低下はあるが、左右差が大きく、右が著しく低下している。しかし、骨導性の聴力低下はない。このことと、右の鼓膜には穴が、左の鼓膜にも溷濁があって、中耳炎後遣症がみられ、聴力低下はこのためであって、中枢性のものではない。(乙第一八号証の九。永松証言、51・12・23、No.178~183・191)。

(七) 以上を総合すると、感覚障害が左右非対称であり、下肢に反射亢進がみられ、失調症状もないなどの全体像からは多発性神経炎型でなく、眼科、耳鼻科の所見も合わせて、水俣病ではないと判断される。そして軽度の脱力、上肢の軽度硬直、特徴のある静止振戦、オイリーフェイスがみられることから、脳動脈硬化症によるパーキンソン氏病のあることが考えられる。また、左右非対称の知覚障害は、頸部の運動痛、変形性脊椎症のあることから、これによるものと考えられる。(乙第一八号証の七。永松証言、51・12・13、No.139~163・198~207、53・3・17、No.129~139・160~163)。

3  同人に関しては、他に佐野恒雄医師作成の診断書(甲第七七号証)がある。結論としては、水俣病である、とするのであるが、その臨床所見は措信し難い。

(一) まず同医師は、水俣病に特有な四肢末梢性の知覚障害が認められる、としている。しかし、同医師の臨床所見は昭和五〇年四月四日現在ということであり、審査会の検診日である同年八月三日と僅かの期間しかへだたっていない。そして、本当に右手にも知覚障害があったとすれば、僅か四ヶ月でこれが消失するのは理解し難いといわねばならない。この点は、ロンベルグテスト陽性とする同医師の所見についても全く同様である。このテストは極めて簡単なテストであり、よろめいたり、倒れたりするかどうかをみるだけであって、所見のとり方ないし解釈などの違いの生ずる余地もないのである。(永松証言、52・3・17、No.222~232)もとより、各医師が検診をしたときは、ロンベルグは陽性であり、知覚障害は右手にも認められたと思われる。

しかし神経障害がある場合は、症状が出たり、出なかったりすることはあり得ないのであるから、僅か四ヶ月後にロンベルグテストは何も症状がなく、右手にも、触覚、痛覚、温覚のいずれも正常であったということに、実際には、症状はないということ、すなわち正常であるということが真実であることを意味している。(永松証言、52・3・17、No.222~225)。

(二) 聴力障害が両耳にみられるという佐野医師の所見は、専門医による審査会の検診記録(乙第一八号証の九)と全く異っている。佐野医師によれば右耳は混合性難聴だから中耳炎後遺症等の他疾患の合併は否定しえないが、同時に水俣病による聴力障害も否定できない、としているから、逆に左耳は混合性難聴という留保もなく、中枢性の難聴という所見と思われる。

しかし、審査会の検診記録中のオージオグラム(乙第一八号証の九)によれば、骨導の異常は、左右とも認めることはできず、中枢性の障害をうかがわせるものはない。そして気導は右耳のみでなく左耳も少し低下しているとみることはできるが、左右差は甚しい。いずれの点からみても、この聴力障害をもって水俣病の一症候と判断することは誤りである。そして佐野医師の診断書には、オージオグラムの添付もないので、具体的にどういう検診結果に基づいて前記の診断を行ったのかは判らないが、同じ時期であるのに審査会の専門医の検診と異る結果が得られたとは思えないし、また仮りに中枢性の聴力障害を示す結果が得られたとするなら、ロンベルグテストと同様に、症状の少い審査会の結果の方が正しい筈である。

(三) その他、佐野医師は、視野狭窄(対座法によると思われる。)のほか、軽度の運動失調、構音障害もあるとしているが、これらも審査会の検診結果と異っていて措信し難い。

念のため付言するに、渥美健三証人も、審査会の検診記録中の視野表(乙第一八号証の八)について、視野狭窄はないと判定し、また視野沈下の原因が水晶体の混濁によるとの判断に異議はないとして、いずれも、審査会の判断と一致している(渥美証言、52・8・18、No.349~351)。

4  しかして、前記のとおり、右森本は胃癌のため死亡し、鹿児島県の審査会は、病理解剖の結果、「病理所見を中心に、生活歴等の疫学条件までを含めた諸情報を総合して、有機水銀の影響がないとはいい得ない、と判断した」由である(乙第五六号証、記の2)。

しかし、病理所見上病変があるということは、必ずしも臨床上の症状があるということを意味するものではなく、また、「症状のない水俣病はない」(武内証言、51・6・2、No.50)のである。換言すれば、病気であるというためには、臨床所見によってそれがいえなければならないのであって、臨床所見上水俣病といえない場合は、水俣病による日常生活上の支障、すなわち被害はないのである。

今回の認定は、審査会の答申に基づき、昭和四六年八月七日付環境事務次官通知の趣旨を尊重してなされた(乙第五六号証、記の4)ということであるが、右の答申に際しては、新たな検診を実施しているわけではないし、一方、前回の申請棄却の際の臨床諸検査では、水俣病ではない、とするのである。そして今回の答申は、「主として病理所見を中心とした判断である」とされており、臨床所見に基づいて有機水銀の影響を認め、ないしは影響を否定しえないとするものではない(乙第五六号証、記の2および3)。行政上の処分として右の認定がされたことについては、被告は論評する立場にないが、水俣病としての臨床所見がない以上、水俣病による損害はないのであり、右の認定を理由として損害を請求することは許されない。また百歩譲るとしても、今回の認定は病理所見のみにより、しかも、「有機水銀の影響がないとはいえない」という程度の判断に基づいてなされているに過ぎない。したがって、仮りに同人に有機水銀の影響が認められるとしても、それはないとはいえないという程度の極めて軽微なものであり、本件における請求額は失当といわねばならない。

(蒔平時太郎 関係)

1  本原告は、昭和四九年一一月七日、鹿児島県知事に対して水俣病の認定申請を行い、これに関して同県の審査会は、各科による検査、検診を行ったうえで審査し、昭和五〇年二月一五日、同県知事に対し、「医学的判定は」「水俣病ではない。」、「考えられる疾患名および合併症」としては、「変形性脊椎症、パーキンソニズム、視神経萎縮」との答申を行い、これを受けて同県知事は、同月二一日、認定の申請を棄却する処分を行った。(乙第一九号証の一ないし一四)。

2  本原告の申請が棄却された理由、特に臨床症状の概要は次のとおりである。

(一) 聞きとりにより、疫学条件は桂島で出生し、昭和四九年まで居住し、同年以降出水市荘三六三八番地の現住所に移ったが、職業は漁業で、毎日魚を多食したとされる(乙第一九号証の六)。その意味で、「住所および職業歴からみれば、疫学的には汚染されている可能性がある」(永松証言、51・12・23、No.219)という前提で審査がされている。

(二) 神経内科の検診では、知覚障害に関し、下肢は足先に温、痛、触の各表在知覚の低下がみられたが、上肢は正常であった。また、深部知覚である振動覚は上肢三秒、下肢二秒とかなり低下している状況を示したが、振動覚がこのように低下している場合は、通常は深部知覚の異常を示すロンベルグテストが陽性であるのが普通であるのに、不思議なことに陰性であった。(乙第一七号証の七。永松証言、51・12・23、No.226~229、52・3・17、No.315~317)。

(三) 言語、舌運動、企図振戦、協同運動(ジアドコキネージス、指鼻試験、膝踵試験)等はいずれも正常で、小脳性の運動失調はない。(乙第一九号証の七。永松証言、51・12・23、No.222~225)。

(四) 上、下肢の筋力低下、筋硬直、静止振戦、マイヤーソン徴候、ジアドコキネージスの緩徐などパーキンソニズムに特徴的な症状がはっきり出ている。(乙第一九号証の七。永松証言、51・12・23、No.222~224・235~237・240・289~292)。

(五) 頸部に運動制限があり、またスパーリングテスト陽性で、レントゲン線写真は、足先の知覚麻痺が出てよいだけの変形性脊椎症を示している。

(六) 眼科的には、視野狭窄、沈下が対称性に認められるが、一方視力、フリッカー値ともに低下しており、また視神経乳頭の耳側蒼白があって、視神経萎縮が認められるから、視野狭窄はこのためであって、後頭葉性のものではないと認められる。さらに、後天性の第三色覚異常もあるので、視神経、網膜レベルの障害があると判断される。(乙第一九号証の八、九。永松証言、51・12・23、No.254~267・294、52・2・24、No.361~364、52・3・18、No.514~520)。

(七) 耳鼻科的には、鼓膜は綺麗であり、オージオグラムは気導、骨導ともに低下している。しかし、特に高音域の低下が著しく、これは職業性、騒音性の難聴に多いパターンであり、老人性難聴も考えられ、このことからは(すなわち、耳鼻科的には)、何ともいえない。(乙第一九号証の一〇。永松証言、51・12・23、No.268~274)。

(八) なお、耳鼻科の検診ではロンベルグ検査は陽性であり、開眼片足直立は不能で、特に右足動揺著明という所見であったが、それより僅か一ヶ月後神経内科の検診ではロンベルグテスト陰性であり、開眼片足直立は左右とも可能で、左の方は不安定である、との所見が得られている。したがって、耳鼻科のときの所見を器質的な障害によるものと認めることは困難である。(乙第一九号証の七、一〇。永松証言、52・3・18、No.521~526)。

(九) 結局、以上の各所見を総合して、本原告は水俣病ではないと判断され、考えられて病名としてはパーキンソニズム、変形性脊椎症および視神経萎縮と診断された。(乙第一九号証の一三。永松証言、51・1・23、No.282~295)。

3(一)  椿忠雄鑑定人の鑑定書によると、その検診の結果および意見の概要は次のとおりである。

(1) まず知覚障害のうち表在知覚については、上肢は前腕中程より先に、下肢は第一腰髄レベル以下の両側性鈍麻があるが、通常の水俣病にみられる遠位部優位ではなく、上肢、下肢、また左右で鈍麻の優位部の状況が異る。振動覚は上肢八秒、下肢五~六秒で、ほぼ年齢相当である。

(2) 運動失調はない。静止時振戦があるが運動失調とは思われない。また、鋭敏なテストであるマン検査も陰性である。

(3) なお、視野狭窄に関する岩田教授の意見では、最高度の狭窄があるとの記載だが、そうとすると、視力、フリッカー値が良すぎて矛盾するとのことであり、特にメチル水銀中毒症を積極的に支持するものであるとの意見ではなかった。鑑定人の対座法のテストでは、ほぼ正常であった。

(4) 以上を総合して、神経症候は、メチル水銀中毒とは考えにくく、レクリングハウゼン氏病を考えるべきである。静止時振戦は、老人性かパーキンソニズムの一部分症か、レクリングハウゼンに関連するかの判定は保留する。

(二) 右の鑑定意見は、運動失調のないこと、知覚障害が水俣病にみられる通常の現われ方でないことおよび眼科的判断その他を総合して、神経症候はメチル水銀中毒症としては考え難いとしている点で、審査会の判断と一致している。

もっとも、表在知覚の障害が、下肢のみでなく、上肢にもみられるということ、振動覚の低下は、逆に年齢相応に回復していることが審査会の検討時と異る。

この点は三年という時の経過にもよるとの解釈もありうるであろうが、いずれにしても、単に検診時に上、下肢に知覚障害があったかどうかということから結論を出すのではなく、その知覚障害の現われ方と他の所見とを総合的にみて同原告の症状はメチル水銀中毒によるものとは認められない、という点では両者の判断は異ならない。

また視野狭窄について、「最高度の狭窄の記載があるが」とした岩田教授の判定材料は、最高度の狭窄という表現からしても、審査会資料(乙第一九号証の八、九)ではなく、渥美健三証人作成名儀の甲第一〇〇号証の四、五と思われる。しかし、現実にメチル水銀によってこのように視野狭窄が最高度に出る以上、神経内科的な症状がさらに出現しているべきであるから、このような視野図の得られたこと自体が納得しえない。岩田教授が、眼科的にみても視力、フリッカー値と視野との関係がアンバランスであるとしてメチル水銀中毒を支持しなかったのも、このことを裏付けている。

4  原田鑑定人の鑑定書によれば、各検査項目についての所見が、椿鑑定および審査会の検診結果と異っている。すなわち四肢末端の知覚障害、運動失調、構音障害、聴力障害、視野狭窄等、いずれもその症状の有無、メチル水銀によるものであるか否かの理解において、審査会、椿鑑定と異っている。特に顕著なのは、マンのテスト結果であり、正常な人でも動揺転倒する位鋭敏な検査なのに、本原告は椿鑑定人のテストでは三〇秒間動揺さえしなかった(椿鑑定、十、蒔平時太郎(二)、二)と特記されているのに、原田鑑定人のテストでは、簡単に、(+)すなわち陽性と記載されている。

右の差異は、単に、一つの微妙な検査結果を(+)とするか(⊥)とするか、または(-)とみるかという、見方の差異ではなく、テストが陽性か否かの明白な差異を示すものと思われる。しかも、全く同一時期のテストであるから、時の経過による治癒ないし悪化を考える必要もない。そして本当にマンのテストが陽性に出るような障害があるのであれば、常に陽性に出る筈であって、これが陰性であったり、陽性であったりすることは考え難いところである。

この点に関する原田鑑定人の所見およびそのとり方には措信できないものがある。

5  なお、本原告について、審査会は、考えられる病名としてパーキンソニズム、変形性脊椎症、視神経萎縮とし、椿鑑定書ではパーキンソニズムにも触れるが、むしろレクリングハウゼンを考慮すべきであると述べている。

しかし、審査会の行う審査も、椿鑑定もその目的は各原告が水俣病か否かを判断することであって、具体的な症状について、その病名の診断を行うことではない。心因性の症状や、理解しえない症状についてはなおさらであろう。したがって、本原告についても、水俣病であるか否かについての審査会の見解と椿鑑定のそれとが一致している以上、症状を説明する診断名に一致しない点があるとしても、その不一致を強調する必要は認められない。因みに原田鑑定書も本原告について「レクリングハウゼン病に似る皮膚症状」を記載しているので、水俣病と認められない本原告の症状については、この点も考える必要があると思われる。

(緒方覚 関係)

1  本原告は宮本利雄医師の診断書(乙第一六号証の三)を添付の上、昭和四七年五月二五日、熊本県知事に水俣病の認定申請をした(乙第一六号証の二)。同県知事はこれを第一七回審査会に諮問、同審査会は各科で行った検診資料(乙第一六号証の四、五)等によって慎重検討し、水俣病と判断するに足る諸症状が他覚的に認められないとしながらも、昭和三五年一月に熊本県衛生試験所が行った頭髪水銀分析で、同原告が七六PPmであった点と、同居家族に水俣病と認定された者があるところから、なお厳密に検診し判断すべきだとして答申を保留、神経内科学的検診を再度行い、その結果(乙第一六号証の九)および前回資料を踏まえて、第一八回審査会において検討した結果、水俣病ではないとの結論に達し、その旨県知事に答申した。この答申に基づいて県知事は昭和四八年一〇月一五日、「知覚障害、聴覚障害、共同運動障害その他自律神経症状について十分に検査したが、他覚的に異常と認めず、また、眼科的、耳鼻科学的、精神科学的にも、水俣病症状はみられない。したがって、水俣病とは認められない」(乙第一六号証の一一)との認定申請を棄却する処分を行った。

2(一)  本原告に対する審査会の審査内容は、同審査会会長であった武内忠男証人の審査会検診資料(乙第一六号証の四ないし一〇)に基づく証言によれば、神経内科的所見は「アキレス腱反射が多少低下しているという所見だけで」そのほか「全然神経内科的所見の把握ができなかった」、「症状何もない」という診断であり、精神科的所見は「正常範囲」、眼科的所見は、視野において「軽度の沈下」が認められるも「正常範囲」である。ただし眼球運動に「軽い運動障害が出ている」が、この軽度の障害は「神経内科的に所見があれば、このような軽いものも、あるいは」有機水銀によるもの「かもしれない」けれども「神経内科的に所見がなければこれは水俣病としての所見としては意味がない」というものであり、耳鼻科においては「軽い難聴」があるが「軽い疲労があるようだ」から、これも先の眼球運動の軽度障害と同様、神経内科的所見がなければ「とらなくてよい」と判断された。しかして、神経内科的に症状が何もないところから、水俣病と診断はできなかったが、昭和三五年一月の時点で、頭髪水銀値が七六PPmであった点を考慮し、「症状があれば、それは有機水銀の影響」を考慮せねばならないとの観点から、なお神経内科的に再度詳しく検診すべきだとして答申を保留した。(武内証言、51・6・2、No.47~50)。

(二) しかして、神経内科において再検診が行われ、それに基づく検討が第一八回審査会で行われた。すなわち「振動覚低下が多少あるけれども、それは水俣病の際に見るような知覚障害を伴うものではなく」、その他神経内科的所見は、前回同様「何も把握できないという判断がなされ」結局「症状のない水俣病はない」との医学的判断から水俣病は否定された。(武内証言、51・6・2、No.50)。

(三) なお、振動覚低下については、水俣病における振動覚障害は、痛覚、触覚等表在知覚の障害を伴うにもかかわらず、本原告には表在知覚障害が認められないため、有機水銀による振動覚低下ではないとされたものである。(武内証言、51・6・2、No.51~58)。

(四) その他原告の主訴に関しては、すべて他覚的に捉えられないことから、本原告は水俣病ではないとの「委員全員一致の結論」となった(武内証言、51・6・2、No.59~66)。

3  鑑定人椿忠雄は、本原告について次のとおり診断鑑定しているが、その内容は前述の審査会の診断と殆ど同一である。

(一) 感覚障害については「触覚は全く正常、痛覚は手足のみに限局して鈍麻がある」。振動覚は「全く正常」。「口周には痛覚のみに鈍麻がある」が、「手指の圧覚計検査正常、触毛検査で全く統一なく信頼性がない」。

(二) 運動失調に関しては「詳細な検査を行ったが、全く正常」であるため、記述を「省略する」と問題にすらしない。特に「図形画きは速く上手であり、マン検査では三十秒間全く動揺せず、極めて健常」と記載している。

(三) 「著しい知能低下はな」く、眼球運動は「滑動運動がやや不良」とし、審査会の診断と同一である。深部反射は「全般に正常」であるが「アキレス反射やや低下」との診断も審査会と等しい。また聴力はやや低下しているものの年齢相当と診断する。

(四) しかして「本原告は、水俣病の他覚的症候はおろか、その他神経疾患の他覚的神経症候も問題になるものが全くない」と強調し、「感覚障害も自覚的のものを別にすれば問題にならないし、視野も正常である」と診断して、積極的に水俣病を否定している。

4  原田鑑定人は次のとおり考察し結論する。

(一) 「神経症状で確認できたものは、四肢末端の知覚障害と粗大力低下であった。軽度なものに視野狭窄、眼球運動障害がある」との診断は、おおむね審査会および椿鑑定と等しく、四肢末端の知覚障害および粗大力低下も「軽症である」としている。

(二) しかし、他覚的に認められる症候が「仮りに知覚障害だけとしても、手袋足袋様の知覚障害で多発神経炎の型を示す」から「他に原因となる疾患を認めなければ疫学を考慮する以外にない」という。

(三) 疫学条件としては、頭髪水銀値がかつて七六PPmあったことと、同居家族に認定患者があることから「濃厚家系で、本人が水銀に汚染されていたことは明白」だとする。

(四) しかして「神経学的には軽症であるが、メチル水銀の影響か否かの判断に軽症か重症かは全く関係な」く、「軽症といっても自覚症状などのために日常生活の支障は客観的に認められる」として「メチル水銀による健康障害(水俣病)と考えられる」と結論づける。

5(一)  以上のごとく、原田鑑定においては、軽度ながら認められるとする四肢末端の手袋足袋様知覚障害を問題としているのであるが、この点に関しては、椿鑑定では、手足に限局的に痛覚鈍麻があるとしながらも、手指の圧覚計検査は正常で、触毛検査による触覚は全く不統一で信頼性がないとされ、また、審査会では四肢および口周囲も含めて神経内科的症候は皆無と診断されている。すなわち、原田鑑定人が軽度としながらも、所見として採った前記知覚障害は、仮りに存在するとしても、他覚的神経症候としては「問題になるものが全くない」と椿鑑定にある程度の、極く微細なものと判断せざるをえず、原田正純証人の言う「教科書的でない」所見のとり方であって、「教科書的所見」すなわち医学的に一般に承認しうる障害として捉えうるものではない。

(二) また原田鑑定人は「メチル水銀の影響か否かの判断に軽症か重症かは全く関係」なく、疫学条件および「自覚症状などのために日常生活の支障は客観的に認められる」から、水俣病と「考えられる」というが、たとえ過去において頭髪水銀値が七六PPmあり、同居家族に認定患者がいても、原告本人に問題となるべき症候が認められないのであるから「症状のない水俣病はない」(武内証言、51・6・2、No.50)のであって、これを水俣病と「考えられる」とするのは、医学的に不当というべきである。

第六証拠関係《省略》

理由

(書証の成立とその引用について)

当事者双方から提出された書証、その成立の認否、および成立に争いのあるものについて成立を認めた証拠は別紙(四)書証目録記載のとおりであるが、以下各書証を引用するときは書証番号のみを掲記することとする。

第一当事者

一  被告は肩書地に本店を置く総合化学工業会社であって、水俣市野口町にある被告会社水俣工場(以下被告工場という)において、アセチレンから水銀触媒を用いてアセトアルデヒドを合成するなど、有機合成化学製品を製造していたものであることは当事者間に争いがない。

二  そして、甲第三七六号証、同三七七号証の一ないし四、同第三七八号証、同第三七九号証の一、二、同第三八〇号証の一、二、同第三八一、第三八二号証、同第三八三号証の一、二、同第三八四号証の一、二、同第三八五ないし第三八七号証、同三八八号証の一、二、同第三八九号証によれば、原告らは別紙(三)患者一覧表記載の本人、またはその親族であり、その親族関係は以下のとおりであることが認められる。

1 原告(1)森枝鎮松、同(2)森枝シカは夫婦であり、同(3)森枝孝美は右両名間の長女、同(4)森枝司は次男である。

2 原告(5)吉留ミチ子、同(6)鷹ヨシ子、同(7)田畑タエ子、同(9)上原陽子は別紙(三)患者一覧表記載の平竹信子の姉であり、原告(8)平竹孝は右信子の兄、同(10)平竹俊行は右信子の弟である。

3 原告(11)竹本已義、同(12)竹本厚子は夫婦であり、同(13)南側和子は右両名間の長女、同(14)竹本順子は次女、同(15)太田美代子は三女である。

4 原告(16)尾上源蔵、同(17)尾上ツキは夫婦であり、同(18)東キミヱは右両名間の長女、同(19)尾上利幸は長男、同(20)尾上ハル子は次女、同(21)山之内節子は三女、同(22)尾上幸弘は三男、同(23)尾上慎一は四男、同(24)東山瑞枝は四女、同(25)中村留里子は五女、同(26)林洋子は六女、同(27)尾上政夫は五男である。

5 原告(28)中島親松、同(29)中島ツヤは夫婦であり、同(30)松下チヨミは右両名間の長女、同(31)中島光雄は長男、同(32)中島孝治は次男、同(33)阪口スミ子は次女、同(34)灘岡とも子は三女である。

6 原告(35)山内了、同(36)山内サエは夫婦であり、同(37)山内一男は長男、同(38)梶原和代は長女、同(39)山内一則は次男、同(40)山内和博は三男、同(41)山内志郎は四男である。

7 原告(42)坂本武喜、同(43)坂本フジエは夫婦であり、同(44)坂本達美は右両名間の長男、同(45)坂本幸子は次女、同(46)坂本安夫は次男、同(47)坂本きよ子は三女、同(48)坂本利定は三男である。

8 原告(49)吉田健蔵、同(50)吉田ヒデ子は夫婦であり、同(51)吉田浅次郎は右健蔵の父、同(52)吉田ツルは母、同(53)吉田健司は右健蔵、ヒデ子両名間の長男、同(54)吉田清人は次男、同(55)吉田浪子は長女、同(56)吉田秀寿は三男である。

9 原告(57)島崎成信、同(58)島崎佐代子は夫婦であり、同(59)島崎フクは右成信の母、同(60)島崎和敏は右成信、佐代子間の長男、(61)同島崎成美は長女、同(62)島崎浩は次男である。

10 原告(63)岩崎岩雄、同(64)岩崎カヲリは夫婦であり、同(65)竹本廣子は右両名間の長女、同(66)岩崎義久は長男、同(67)岩崎政信は次男、同(68)岩崎うみこは次女、同(69)岩崎政久は三男、同(70)岩崎喜佐良は四男、同(71)岩崎めいこは三女、同(72)岩崎つむ子は四女である。

11 原告(73)岡野貴代子、同(74)岡野正弘は夫婦であり、同(75)岡野昌子は右両名間の長女、同(76)岡野隆司は長男、同(77)岡野隆弘は次男である。

12 原告(78)森本正宏は別紙(三)患者目録一覧表記載の森本與四郎の長男である。

13 原告(79)蒔平時太郎、同(80)蒔平ミカノは夫婦であり、同(81)山平ワカノは右両名の長女、同(82)蒔平恒雄は長男、同(83)蒔平力雄は次男、同(84)元浦カヅ子は次女、同(85)大久保タツヨは三女である。

14 原告(86)緒方覚、同(87)緒方サチ子は夫婦であり、同(88)緒方光廣は右両名の長男、同(89)緒方初代は長女である。

第二水俣病の発生とその症状

一  水俣病の発見

甲第一三号証、同第三七五号証の二、証人武内忠男(第一回)の証言によれば、以下1、2項記載の事実を認めることができる。

1 水俣病発見まで

(一) 水俣市郊外の一定地区に、昭和二八年末頃から原因不明の中枢神経系疾患の発生があり、昭和二九年度には約八名、昭和三〇年度には約五名の患者が観察されていたが、不明のまま経過していた。ところが、たまたま昭和三一年四月二一日脳症状を主訴とする六才の女児が被告工場付属病院小児科に来院して診察を受けたことから、同病院の医師細川一らが右患者の家庭環境等を調査した結果、患者の妹である三才の女児も右と全く同様の症状を呈していること、隣家にも同様症状を呈する患者がいることが判明した。

同病院は同年五月一日水俣市保健所に対し、原因不明の神経症状を呈する患者がいることを報告し、付近の調査を続けたところ、月の浦、湯堂、出月部落付近にもかなり多数の類似症状者がいることが判明したが、その疾患の本態は判明しなかった。

そこで、同年五月二八日同病院のほか水俣市、同市医師会、市民病院、保健所の五者をもって「水俣奇病対策委員会」が結成され、患者の措置やその原因探究がなされることになり、一方熊本県は熊本大学医学部(以下「熊大」という)に対し、右疾患の原因究明についての研究を依頼した。

(二) 熊大では同年八月「水俣病医学研究班」(以下「熊大研究班」という)を組織し、患者の臨床的観察、死亡者の病理解剖、現地で採取された海水、泥土、魚介類等の分析検討、猫、マウス等を使っての動物実験などを行い、同年一一月四日右奇病(水俣病)はある種の重金属による中毒であること、人体への侵入は主として水俣湾産魚介類によるものであろうとの中間発表をなした。

熊大研究班はその後も研究を続け、昭和三四年七月二二日「水俣病は現地水俣湾産の魚介類を摂取することによって惹起された神経系疾患で、魚介類を汚染している毒物としては水銀が極めて注目される」旨の報告をなした。また、厚生省食品衛生調査会のもとに、同年一月頃熊大学長を代表者とする「水俣食中毒特別部会」が結成されていたが、右特別部会の中間報告をもとに、右調査会は同年一一月一二日「水俣病は水俣湾およびその周辺に生息する魚介類を大量に摂取することによっておこる、主として中枢神経系統の障害される中毒性疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である。」旨の結論を出し、厚生大臣に答申した。

2 水俣病の発生原因

(一) 昭和三五年二月頃熊大内田らは、水俣湾産ヒバリガイモドキから含硫有機水銀結晶の分離に成功し、後日これがメチル水銀(硫黄)化合物であることをつきとめ、猫等に経口投与して水俣病を発症せしむることを確認し、また熊大入鹿山且郎らは昭和三五年ないし昭和三六年頃水俣湾から採取したヒバリガイモドキおよび昭和三七年同湾から採取したアサリから同じメチル水銀化合物を取り出すことに成功した。

そして、熊大研究班の調査により、水俣湾ならびに不知火海の魚介類から多量の水銀が検出され、また水俣湾の海泥中にも著しく多量の水銀が含有されており、その分布は百間の排水口付近から湾外へ向うにつれ急速に減少することからみて、以上の水銀は被告工場の排水口より排出されるものであることが明らかになった。

昭和三六年頃、入鹿山らは百間港水門内側の泥土中から有機水銀を検出し、この性状は水俣湾産の魚介類から抽出された水銀化合物と一致することをつきとめた。

(二) 入鹿山らは被告工場におけるアセトアルデヒド製造工程、すなわち水銀を触媒とするアセチレン加水反応の工程において、無機水銀特に酸化第二水銀とアセトアルデヒドが反応し、酢酸第二水銀を経てメチル水銀化合物が副生され、これが塩素イオンの存在により塩化メチル水銀となり、系外に排水される旨の学説を発表し、実際にも昭和三六年被告工場のアセチレン加水反応装置から採取したスラッジから塩化メチル水銀を結晶として分離することに成功した。

ところで、被告工場の工場排水には、アセトアルデヒド酢酸設備排水のほか、主なものとして、塩化ビニール排水およびカーバイド、アセチレン残渣排水があるが、カーバイド、アセチレン排水には水銀が含まれていないから問題なく、前二者の生産にはいずれも水銀が使用されていた。

塩化ビニール生産については、塩化ビニールは活性炭に塩化第二水銀を吸着させ、これを触媒としてアセチレンと塩化水素より気相反応によって造られるのであるが、入鹿山は「右の過程でメチル水銀が副生され排水中に含まれる可能性はあるが、その量は〇・三PPmと微量であり、アセトアルデヒド排液中のそれと比較し、一万分の一以下である」との見解を発表している。

(三) 前記被告工場付属病院細川一医師は、水俣病患者発生後いちはやく水俣病と工場排水との関係に疑惑を抱き、昭和三二年中旬から猫の餌に同工場の廃水をかけて与える実験を繰り返し、昭和三四年七月二一日から実験を開始した猫四〇〇号を同年一〇月六日頃発症せしめ、右猫は痙攣、よだれを流す、とびはねて壁にぶつかるなどの回走運動をおこし、同月二四日衰弱したので屠殺し、これを九州大学医学部に送って病理解剖に付したところ、その所見は小脳顆粒細胞脱落消失著明、プルキニエ細胞にも変性脱落、大脳各部に神経細胞萎縮変性ありとされ、右症状および病理所見は熊大における動物実験による猫の水俣病のそれとほぼ一致するところであったが、細川医師の右実験結果は公表されなかった。

また、被告工場技術部員石原俊一は昭和三六年四月以降ペーパークロマトグラフィー分析法に工夫を加えてアセトアルデヒド廃水(精ドレン)の分析実験を行ない、昭和三七年三月頃にはメチル水銀化合物らしいものを検出確認し、また右実験と平行して水銀化合物の抽出実験を行った結果、昭和三六年末頃から昭和三七年三月にかけて塩化メチル水銀・沃化メチル水銀・メチル水銀の硫黄化合物を結晶としてとり出しているが、これらのことも公表されるに至らなかった。

(四) 政府(厚生省)は昭和四三年九月二六日に、「水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによって起った中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質はメチル水銀化合物であり、被告工場のアセトアルデヒド製造設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食したことによって生じたものと認められる」との公式見解を発表した。

3 結論

以上を綜合すると、水俣病とは、被告工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物が工場排水によって水俣湾およびその周辺の海域に流入し、これが魚介類の体内に蓄積され、その魚介類を多量に摂食することにより、メチル水銀化合物が人体内に移行蓄積し発症するものであるということができ、したがって、被告工場のアセトアルデヒド廃水の流出行為と水俣病発症との間に因果関係の存することを認めることができる。

二  水俣病の症状

甲第一三号証、同第二六号証の一、二、同第一六九号証の一、二、同第三七五号証の二、証人武内忠男(第一回)の証言によれば、以下1、2項記載の事実を認めることができる。

1 水俣病の臨床症状

前記熊大医学部内の熊大研究班は、昭和四一年三月それまでの同班員および班員所属の教室の研究の内容を一括し「水俣病―有機水銀中毒に関する研究―」として発表したが、右研究内容からすると、水俣病の臨床症状は以下のようなものである。

(一) 主要症状およびその出現頻度

(1) 水俣病の始まりは大部分は緩慢であるが、飲酒後突然発病したのも二、三例ある。患者はまず四肢末端、口周囲のしびれ感を訴え、その後およそ一ないし三週間の間に以下のような主要症状が出現する。

イ 眼症状としては、求心性視野狭窄が特有であり、昭和四〇年一二月現在まで検査可能であった患者の全症例に認められた。その他の眼症状、すなわち眼底、視力、眼球運動、対光反射などは正常であり、瞳孔の変形が二例に認められたが、左右不同、眼振などは認められなかった。

ロ 難聴も大部分の患者に認められ、オーディオグラムで低音部より高音部に亘って低下が認められ、殊に高音部に著しく神経性起因が考えられた。

ハ 運動失調は水俣病の最も顕著な症状である。言語は緩徐な、長く引張った、しかも不明瞭な言葉づかいで、あたかも甘えたような極めて特異な調子である。ある者は声は出ても言葉にならず、もっぱら筆談によらねばならず、症状恢復と共に軽快している。このような言語障害は構音障害によるものであることがうかがい得る。

歩行は動揺性であり、あたかも酒に酔ったようであり、急激な方向転換、停止などはできない。甚しい場合には起立も困難であり、坐位をとっても上体を辛うじて支えうる程である。その他水呑み、煙草吸い、マッチつけ、ボタンかけ、書字などは極めて拙劣であり、多くは粗大な振戦を伴っている。したがって、指々試験、指鼻試験、膝踵試験、アジアドコキネージス、ロンベルグ現象、ジスメトリーなどの諸検査は、程度の差はあれ陽性に出現した。

ニ しびれ感等の異常感覚を含めて末梢知覚障害も必発の症状であり、触覚、温度覚、痛覚等は四肢末端で鈍麻が認められた。また、圧覚、位置覚、振動覚、識別覚等の障害も顕著に認められた。このうち、表在知覚は治療により比較的速やかに好転したが、振動覚、識別覚たとえば銅貨の識別、紙と布、物の形などの識別は、長く障害が残存した。

ホ そのほか、精神興奮、抑うつ、不眠、嫉妬など軽度の精神障害が認められたが、応答の内容は正確であった。知能も一部には低下したものがあったが、一般によく保たれ、小児は学校に通い中以上の成績を収め、大部分は囲碁、将棋を楽しんでいる程である。

(2) 熊大徳臣晴比古らが水俣病患者のうち成人三四例について詳細に症状を分析し、その出現頻度をみた結果は、後記一表のように、(イ)視野狭窄、(ロ)知覚障害(表在、深部とも)は一〇〇パーセント、(ハ)運動失調のうちアジアドコキネージス、書字障害、ボタンどめ障害は九三・五パーセント、指々試験、指鼻試験拙劣八〇・六パーセント、ロンベルグ現象陽性四二・九パーセント、(ホ)言語障害八八・二パーセント、(ホ)聴力障害八五・三パーセント、(ヘ)歩行障害八二・四パーセント、(ト)振戦七五・八パーセント、(チ)軽度精神障害七〇・六パーセントに出現し、(リ)筋強直、強剛、不随意運動などは八から二〇パーセントに、(ヌ)発汗、流涎などの自律神経症状は二三パーセントに認められ、(ル)腱反射は三八パーセントが亢進、八・八パーセントが減弱を示し、その他は正常であった。

このように、水俣病の症状は小脳症状を中心とし、一部錐体路、錐体外路症状、大脳皮質症状、末梢神経症状など多彩な症状を示すものである。

(二) 病型について

前示の如き主要症状につき、その経過、予後、転帰などを観察すると、次の四つの病型に分類することができる。

(1) 普通型=四肢末端、口周囲のしびれ感、難聴、視野狭窄、振戦、運動失調、知覚障害、軽度の精神症状を主要症状とし、大多数は症状好転するが、なお上記症状は軽度ながら残存する。一部は他の病型に移行する。

(2) 急性劇症型=当初より症状は激烈であり、程なく意識消失し、昼夜の別なく叫声を発し、四肢はバリスムス様に絶えず激しく動かし、狂躁状態を呈しながら、多くの場合末期に高熱を発し、肺炎を合併して短期間に死亡する。

(3) 慢性刺激型=最初は普通型の症状を具備しているが、そのうち、あるものは精神興奮甚だしくなり、あるものは痙性歩行、腱反射亢進、病的反射出現などの錐体路症状が著明であり、またあるものは錐体路症状と頻発する痙攣発作などの刺激症状を主症状とし、その症状は起伏を伴いながら漸次悪化する。

(4) 慢性強直型=当初は普通型であるが、漸次四肢は伸展または屈曲位に固定し、自動、他動運動は全く不可能で、一部四肢に浮腫を伴い、あたかも生ける人形の如き状態におちいる。

(三) 小児水俣病について

小児水俣病の主要臨床症状は成人水俣病のそれとほとんど共通し、視野狭窄、失調、言語障害などが多い。重症例は後天性脳性小児麻痺の病像とほとんど同様の症状を示している。生存者のなかにはその後普通学級や特殊学級に通学している者もあり、成人して仕事についている者もあるが、それらの者でも視野狭窄は高度に残存し、また共同運動の拙劣さが残存している。また、小児水俣病は先天性も含めて慢性強直型の病型を示す者が多い。

(四) 胎児性水俣病について

胎児性(先天性)水俣病の臨床症状は誠に多彩であるが、その特徴は、全例とも、症状は乳児期ことに乳児の早期から現われていること、症状は一過性のものではなく、また非進行性であること、身体発育の遅延があること、高度の精神障害がみられること、運動機能の発育遅延ならびに筋緊張の異常と運動失調によると思われる自発的運動能力の不全および運動の円滑さの欠如がみられ、これらはすべて両側性であることなどである。すなわち、これらは在胎期または出生前後におこった脳の広汎な障害を思わせるものである。

2 水俣病の病理的所見

前記熊大研究班が昭和四一年三月発表した研究成果によれば、それまでに熊大医学部病理学教室において剖検した水俣病患者二三例(うち成人一七例)の主要病変は以下のとおりであった。

(一) 水俣病の本態は中毒性神経疾患で、主として中毒性脳症である。

(二) その原因物質は、主として大脳皮質および小脳皮質を障害する。

(三)(1) 大脳皮質では、両側性に大脳半球の広範囲の領域にある神経細胞が障害され、一般に選択的好発局在が認められる。最も障害の強いのは後頭葉で、しかも鳥巨野領域、中心前回、横側頭回などである。脳構築からみると、第Ⅱ層から第Ⅳ層にかけての神経細胞障害が最も強いが、その他の神経細胞もおかされうる。脳回表層部よりも脳溝深部谷部に病変が強い。鳥巨野では深部前方程病変が比較的強く、後頭極に近づくにつれて比較的軽い。

神経細胞の障害としては、急性期には急性腫張、クロマトリーゼ、重篤変化、融解、崩壊、ノイロノファギーをみ、後に重症なものは消失して脱落する。その脱落が強いものは海綿状態を作る。慢性に経過すると、残存神経細胞は変性萎縮、硬化する。障害部にグリア増殖を招来する。

(2) 小脳では、両側性に新旧小脳の別なく皮質の顆粒細胞層が障害され、顆粒細胞の融解、崩壊を招来してその脱落をきたす。プルキニエ細胞は保存され易いが、後にはその脱落を招来し、ベルグマン・グリア細胞の増殖を伴う。このような神経障害は小葉中心性に現われ易く、後にはいわゆる中心性顆粒型小脳萎縮の像を招来する。

(3) 大脳核、脳幹および脊髄の病変は、脳皮質病変に比して著しく軽い。

(4) 末梢神経の病変があるが、脳神経にしても脊髄神経にしても一般に脳中枢における変化に比べればその病変ははるかに軽度である。

(5) 神経系統における病変は広範囲に亘り、障害は中枢全般にはもちろん、末梢にも出現しうる性質を示す。

(6) 一般臓器の病変は軽く、急性期に消化管の靡爛を呈するものがあり、肝、腎の脂肪変性がみられるほか、骨髄低形成がみられる程度であり、慢性に経過すると全身の栄養障害と諸臓器の萎縮がみられる。

(四) 以上が成人水俣病の所見であり、小児水俣病は以上述べたところと本質的病変の差はないが、一般に成人水俣病では大脳皮質における神経障害に選択的な好発局在的傾向がみられるのに対し、小児水俣病においてはむしろ大脳半球皮質の全般をおかし易い傾向がみられ、さらに全身の著明な発育不全があり、これは躯幹、四肢のみでなく、諸臓器にもおよんでいる。そして、脳髄には強い萎縮が加わっている。

(五) 胎児性水俣病は通常の水俣病病変に胎児性発育不全と生後の発育不全が加わり、神経系統、特に脳の発育不全があり、脳の層構築の低形成、脳梁低形成、Matrix遺残、神経細胞低形成とその形態異常、特異の小脳顆粒細胞層低形成などがみうけられる。

(六) 水俣病剖検例の病変は、アルキル水銀中毒症の剖検例のそれに一致する。

第三被告の責任

一  被告は、本訴における主たる争点は、原告ら主張にかかる者が水俣病患者であるか否か、またその損害の程度は如何といった点であること等に鑑み、被告が工場廃水を流出し、これにより水俣病の原因を生ぜしめたことについての過失責任の有無については、これをあえて争わない旨自認するが、以下被告の過失責任の具体的内容について検討する。

二  そこで、化学工場の特性を考えると、化学工場とは化学反応の過程を利用して各種の化学製品の生産を行うものであり、その過程で多種多量の危険物を原料や触媒として使用するから、製品生産のかたわらいかなる物質が副生されるかもわからず、右副生物のなかにはそのまま企業外に排出されると動植物や人体に重大な危害を与えるおそれのある物質が含まれる可能性が大きいものであるということができる。

したがって、化学工場が廃水を工場外に放流するにあたっては、常に最高の知識と技術を用いて廃水中の危険物の混入の有無、その性質、程度等を調査し、いやしくもこれがため人の生命、身体に危害を加えることのないよう万全の措置をとるべきであり、万一有害であることが判明し、あるいはその安全性に疑念が生じた場合には直ちに操業を中止するなど必要最大限の措置を講じ、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するといわなければならない。

三  これを本件についてみると、被告は合成化学工場であって、戦後逸早くアセトアルデヒドの生産を再開し、年々製造設備も改善増強されてその生産量が増大し、ことに昭和二七年九月アセトアルデヒドからオクタノール(塩化ビニール用可塑剤としてのDOP・DOAの主要原料である)を生産する技術およびその工業化が開発されて以来、その需要の激増に伴ってアセトアルデヒドの生産量も著しく増大するに至り、生産再開の当初約二、〇〇〇トンであった年生産量は、昭和三〇年一〇、六三三トン、昭和三三年一九、四三六トン、昭和三四年約三〇、〇〇〇トンと累増していったこと、一方同工場において昭和三四年に生産が開始された塩化ビニールも、当初は年産わずか五トンであったが、昭和二八年一、七六九トン、昭和三〇年四、二〇〇トンと逐年生産量が増大していったことは当事者間に争いがなく、右事実からすると、被告工場においてその生産工程から生ずる廃棄物、廃水も漸次増加し、生産工程で生成される危険物が廃水に混入する可能性も増大していったというべきである。

四  ところで、アセトアルデヒド合成工程から生ずる廃水中に有機水銀化合物が存在する可能性については、甲第二二八号証によれば、既に昭和一三年に角谷清明が一トンのアセトアルデヒド製造に対し四キログラムの水銀が消費されると述べており、昭和二五年には日比勝治がアセトアルデヒド一トン当りの水銀消費量を一~二キログラムとし、昭和二九年の国近三吾の著書では一トン当り一キログラム、そして昭和三一年に被告の技術者が公開したチッソ法の実績では〇・六~一キログラムとされていることが認められ、被告においてこのような文献を調査検討し、右損失水銀の行方を追求していれば工場廃水中に混入して流出するものがあると判断することは十分に可能であったというべく、さらに、既に一九二一年米国のボーグトおよびニューランドが水銀触媒によるアセトアルデヒド合成工程においてアセチレンを吹込んだ後の反応液中には水銀の無機イオンは存在しないことを指摘していることは当事者間に争いがなく、前記甲第二二八号証によれば昭和一三年に角谷清明が右反応液中に生成する不活性沈澱につき有機水銀塩が存在する可能性を指摘していることが認められ、以上のことからすれば、被告において従来からの文献の調査、アセチレン加水反応機構の解明、損失水銀の追跡調査等をなし、被告工場の廃水の危険性を認識して意識的にこれが分析検討をしていれば、右廃水中に人体にとって極めて危険度が高い有機水銀化合物が存在することを察知することが可能であったといわねばならない。

五  しかるに、被告工場が多量のアセトアルデヒド廃水を工場外に放流するにあたり、廃水中への危険物混入の有無の検討、右危険物の調査解明等をなしたことを認めさせる証拠はなく、さらに、前記の如く水俣病の発生が社会的に問題化された後においても、すすんでその原因を探究し、あるいは原因究明にあたっている機関に協力をなし、または直ちに被告工場の操業を中止して被害の拡大を未然に防ぐ等の措置をとったことを認めさせる証拠はない。

六  そうすると、被告工場がアセトアルデヒド合成工程から生ずる廃水を工場外に排出した行為については終始過失があったものというべく、右工場廃水中に含まれた有機水銀化合物により汚染された魚介類を摂食したことにより水俣病に罹患した者に対し、民法第七〇九条により、不法行為による損害を賠償する義務があるというべきである。

七  なお、被告の右行為は、組織体としての被告の企業活動の一環としてなされたものであるから、このような場合には個々の被用者の具体的行為を問題とすることなく、使用者たる企業自身に過失があるとして直接民法第七〇九条により被告に責任があると解するのを相当とする。

第四水俣病の病像について

一  症状出現の多様性

甲第一三号証、同第一九号証の一、二、同第二五号証、同第二八号証の一、二、同第四二号証、同第一四四号証、同第一四七、一四八号証、同第一五六号証、乙第四号証の三、同第五一号証の一、二、証人武内忠男(第一回)、同立津政順、同原田正純(第二回)の証言によれば、以下1、2項および4項の事実を認めることができ、甲第二六号証の一、二、第二七号証の一、二、証人武内忠男(第一回)の証言によれば3項の事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

1 症状の変化および症状出現の多様性

(一) 前記のとおり、熊大研究班の発表した水俣病の症状の出現頻度は、成人三四例につき、(1)視野狭窄一〇〇パーセント、(2)知覚障害(表在、深部とも)一〇〇パーセント、(3)運動失調のうち、アジアドコキネーゼ九三・五パーセント、書字障害九三・五パーセント、ボタン止め障害九三・五パーセント、ジスメトリー八〇・六パーセント、ロンベルグ現象陽性四二・九パーセント、(4)言語障害八八・二パーセント、(5)聴力障害八五・三パーセントであって、いわゆるハンター・ラッセル症候群の症状が高率に認められた。

(ハンター・ラッセル症候群とは、一九三七年(昭和一二年)英国の種子殺菌剤としてヨウ化メチル水銀、硝酸メチル水銀、リン酸メチル水銀などを製造する工場に働く労働者とその付属研究室の実験助手の四名が重篤な神経疾患に罹患したが、その臨床症状がきわめて特徴的で、四肢のしびれと痛み、言語障害、運動失調、難聴、求心性視野狭窄などが共通に認められたもので、これらがハンター・ラッセル症候群として有機水銀中毒の診断基準とされてきたものである。)

(二) しかしながら、右水俣病患者の臨床症状も常に固定しているものではなく、症状をさらに細かく観察していくと、時の経過と共に変化していくことが認められた。

(1) 熊大原田正純の研究によれば、右水俣病と認定された者のうち、なかには、昭和四五年現在視野狭窄だけのもの一例、共同運動障害が目立たず、構音障害がわずかに認められ知能障害が前景にたつもの八例、あるいは知覚障害が証明できないもの五例など非典型的症状を示すに至ったものがあり、逆に、昭和四五年の調査で認定された患者のうち生存者(成人三三例)中七例に症状の悪化が認められたとしている。

症状別にみるならば、共同運動障害、自律神経症状等は比較的改善され易く、知能障害、性格障害、錐体外路症状などは改善されにくい(後記二表)。

(2) 熊大立津政順の研究によっても、昭和三六年までに認定された患者をその後約七・七年にわたって追跡調査した結果、症状改善されたもの三三例、不変のもの二例、進行したもの二例が認められており、進行例のなかにも徐々に進行したもの、あるいは急にけいれん発作をおこして悪化したもの等があり、また症状が短くて数時間長くて二〇日位悪化するのが周期的に認められるいわゆる波動状の経過例もあった。

全体としてみて、比較的改善され易かった症状は聴力障害、視野狭窄、共同運動障害、筋緊張亢進等であり、増悪した症状は知覚障害、知的機能障害、血圧の上昇等とされている。

(三) また、ハンター・ラッセルの研究による症例において、視野狭窄について後記三表のとおり変化が認められており、昭和四七年イラクで起きた有機水銀で汚染された種麦から作られたパンによる中毒事件においてバクダッド大学医学部ラスタム教授の調査によれば、後記四ないし五表のとおり小脳症状、視覚障害、知覚症状の出現頻度に個人差があることが認められている。

2 遅発性水俣病

(一) 昭和四〇年新潟県阿賀野川流域に発生したいわゆる新潟水俣病において、阿賀野川の川魚が中毒症の原因であると判明した際直ちに同川下流水域の川魚の捕獲を禁止しており、その後の水銀摂取は無いか極めて少量と考えられるのに、新潟大学医学部椿忠雄ほかの研究によれば魚介類摂取後一ないし四年後に次第に症状がそろった例も確認されており、遅発生水俣病の存在が示唆されている。

同大白川健一の研究によれば、毛髪水銀値の高い者を追跡調査した結果、後記七、八表のとおり、初診時には典型的症状を示さず、症状が遅発してくる例があったが、症状間における発現時期にも差があり、ごく一般的にいって四肢遠位部の知覚障害が比較的早期に発見され、視野狭窄は遅れる傾向にあるとの報告がなされている。

(二) 熊本における水俣病においても、熊大武内忠男の研究によれば、初期に軽症あるいは症状がなくても、数年(多くは昭和三五年頃から昭和四〇年頃にかけて)経た後、症状が増悪ないし発症したとみられる例として、脳の病理所見から、昭和三九年に発症した五七才の男子と、昭和四四年に症状悪化した六八才の女子(いずれも生前水俣病と認定されなかった)の例があげられている。

熊大立津政順の調査によっても熊本県外へ就職後すなわち有機水銀による曝露中止後に水俣病もしくは水俣病の疑いのある症状を示した例六例があり、水俣地区を離れて一年から一一年の後に発症したと考えられると報告されている。

3 慢性水俣病

(一) 水俣病の発症には、メチル水銀の摂取とその吸収および蓄積の過程があり、一定量以上の蓄積により発症するに至るが、一般的には摂取量が増えれば早期に発症し、その量が少ければ潜伏期(蓄積期間)が長くなる。前記武内忠男らは右発症をもたらすに至る水銀量、蓄積期間について次の如き研究をなした。

(1) 従来水俣病の発症には人間個体(五〇キログラム)がメチル水銀一〇〇ミリグラムを摂取すると危険とみられており、蓄積が一〇〇ミリグラムに達すれば発症し、一〇〇〇ミリグラムで死亡すると計算されていた。そして、メチル水銀の蓄積には生物学的半減期があり、スエーデンのAberg & Ekmanの出した約七〇日半減期説が採用されていた。

右発症に至る蓄積量については、その後イラクの前記農薬処理種麦による中毒事件の研究において、Bakir, Claksonらがメチル水銀中毒症はイラクで個人(平均五一キログラム)が二五ミリグラム摂取することによって発症する事実を毒パンのメチル水銀含有量とその摂取量から計算した。そして、その摂取量が二五ミリグラムで発症して知覚障害、五五ミリグラムで失調、九〇ミリグラムで構音障害、一七〇ミリグラムで難聴、二〇〇ミリグラムで死亡者が増加し、視野狭窄は失調とほぼ同時期から増えていることが検討された。

さらに右生物学的半減期については、スエーデンの他の学者からもっと長いのではないかとみる実測値が出されており、また血液、血球、毛髪でかなり異なった半減期が報告されてきた。また、右半減期を二〇〇日と計算する学者もいた。

(2) 武内忠男らは、水俣病の病変は主として神経系であり、脳が重要であること、したがって、脳における水銀の生物学的半減期が最も重要であることを考慮し、剖検例三七例を検討した結果次のように結論した。すなわち、人体剖検例の脳における水銀の生物学的半減期を算出すると、基点のとり方により多少の差を生ずるが、平均値の総水銀値から六基点をとって計算すると一八四日(発症日より二三〇日)、一六基点をとって算出すると二四二日(発症日より二八八日)、またメチル水銀値から算出すると二四五日(発症日から二七一日)となった。

(二) このように、従来の研究より発症量も少量で、半減期も二〇〇日以上という長期であることになれば、これまでの水俣病の発症概念が当然変わることになり、長期にわたる微量の水銀摂取による発症型態の存在が考えられる。武内らは剖検例および水俣病認定患者の臨床経過等を検討し、慢性水俣病を次のように類型化している。

(1) 急性および亜急性発症の水俣病が後遺症を残して、長期にわたり経過したもの、しかもメチル水銀汚染地区に居住しているために、その影響が加重したもの。

(2) 遅発性水俣病、新潟で証明されているものと同じ発症を示すもの。(発症時期と死亡時の脳水銀値から推定できるものがある。)

(3) 加令性遅発性水俣病、年令を加えることにより、老化現象の一つとしての脳神経細胞の消粍にメチル水銀中毒によるその間引脱落が加重して発症したもの。

(4) 狭義の慢性水俣病で、摂取水銀量が急性の場合より少ないために、一定以上の摂取量と半減期のかね合いから、脳に発症値以上の水銀を蓄積して、潜伏期が長びき、慢性発症したもの。

(三) 武内らの研究によれば、病理学的にみても、慢性水俣病の場合は、末梢神経の障害が非常に強い(瘢痕が形成されたり再生線維の増加がみられる)、脊髄神経節にも細胞の脱落がある、特にゴル索の障害が強い傾向がある、脳の病変は小脳において比較的軽く、大脳においても鳥巨野領域に軽い脱落しかないなど、急性、亜急性の経過例とは病変上明らかに差があるとされている。

4 合併症状と水俣病

(一) 水俣病が他の合併症と結びついていると、その診断は困難になることが多く、熊大原田正純は次のことを指摘している。

(1) 脳循環障害との関係については、脳出血ないし脳軟化と考えられる症状、とくに痴呆や運動障害が強いと典型的水俣病の症状が証明されにくい。しかも、高血圧や眼底の動脈硬化像が証明されたりすると、それらにかくれて診断が困難となる。

(2) 精神症状との関係については、典型的水俣病においても慢性期に知能・性格変化など精神症状が著明になる。進行麻痺、脳梅毒、アルコール中毒、一次性脳萎縮などの疾患があると、水俣病の症状が証明されにくい。

(3) その他の変性疾患との関係については、錐体路症状や筋萎縮など他の変性疾患に特異と考えられる症状も認定された水俣病のなかにみられたことがある。

(4) ヒステリーとの関係については、ハンター・ラッセルの研究例のなかにも水銀中毒症と確認されるまでヒステリーと考えられていたものがあり、症状の変動や神経学的に説明できない症状をヒステリーと診断することは慎重でなければならない。

(5) 以上のことを考えると、合併症がある場合にも、メチル水銀との関係において充分な考察が必要である。

(二) また新潟大学椿忠雄は合併症がある場合の水俣病診断の考え方について以下のことを指摘している。

(1) 軽症水俣病の症候をみると、末梢性知覚障害と運動失調の組合せが最も多く、このような場合は類似の症状を呈する頸椎症(腰椎症と合併したものも含む)との鑑別が難しい。

昭和四〇年から昭和四八年の間に新潟大学神経内科へ入院し、頸椎症と診断された患者三六名を調査したところ、その主訴と症状は、上肢の知覚障害、下肢の知覚障害、下肢の脱力または歩行障害が多く、メチル水銀中毒のそれに類似している。

知覚障害部位について頸椎症の際の上肢の知覚障害は尺骨側優位になりやすいと考えられているが実際にはメチル水銀中毒症に多い遠位部優位型をとるものが多い。下肢の知覚障害は横断性を呈するものが多いが遠位部優位の知覚障害も少なくない。頸椎症の症候は左右不対象のものが多いと考えられているが、実際は対象性のものが多い。上下肢とも遠位部優位の知覚障害がでる頸椎症が調査対象三六例中六例もあり、知覚障害の部位から水俣病と頸椎症を区別することは容易ではない。

筋力は、右三六例中、上肢で低下二二例、正常一四例、下肢で低下一五例、正常二一例であり、メチル水銀中毒症のそれと著明な相異はない。

運動失調は陽性一〇例、疑陽性一二例、陰性一四例で、これの存在が少なくないことは注目される。しばしば、メチル水銀中毒症の組合せとして、末梢性知覚障害+運動失調があげられるが、頸椎症でもこれがみられることは無視できない。

筋萎縮は陽性一二例、陰性二四例で、比較的多く、メチル水銀中毒症ではこれは少ないので、一応注目される。

反射異常についてみると、深部反射亢進、上肢反射間の解離、ホフマン反射、バビンスキー反射出現は頸椎症に比較的多く、メチル水銀中毒症との差があるが、メチル水銀中毒症によくみられる正常ないし減弱のものもある。

また、膀胱直腸障害、髄液蛋白量の増加は比較的頸椎症に多く、索引が有効だったもの一二例があった。

以上によると、頸椎症患者の症状は水俣病患者のそれとかなり近似しており、ことに末梢性知覚障害、運動失調の合併する場合は両者に共通しており、両者の相違は筋萎縮、反射異常、髄液蛋白量増加、膀胱直腸障害、索引の効果においてみられるごとくであるが、調査対象が入院患者であり、もともと筋萎縮、反射異常、髄液蛋白量、膀胱直腸障害などの症状があったから入院したとも考えられるので、頸椎症と水俣病の識別はますます困難であるということができる。

(2) 糖尿病患者と水俣病患者との知覚障害の頻度、自発痛とパレステジーの部位別頻度をみても両者の類似性は強く、ただ糖尿病においては、運動障害はあるが運動失調が少ないことは注目される。

(3) 一般老年者の知覚障害との比較をみるに、養老院(社会福祉法人浴風園)に入園し、後死亡した老年者二一七例について、入園時および死亡者の生前知覚障害の種類および頻度を検討したところ、入園時八%、死亡者の生前一二%に両側性しびれ感または知覚鈍麻が認められ、この原因は中枢性、末梢性いずれにも求め得るが、老年者のかなりの率でかかる知覚障害があることは、水俣病認定申請患者が高令化している現在充分考慮しなければならない。

二  有機水銀汚染の広がり

1 被告水俣工場の発展

甲第三七五号証の二によれば次の事実を認めることができる。

(一) 明治四〇年株式会社日本カーバイド商会が設立され、水俣にカーバイド製造工場が建設された。明治四一年曽木電気株式会社と右日本カーバイド商会が合併され被告の前身たる日本窒素肥料株式会社が設立された。右日本窒素肥料株式会社は化学工業の発展に伴い規模増大し、昭和一六年に朝鮮窒素肥料株式会社を吸収合併、昭和二五年には右日本窒素肥料株式会社の所有する工場、発電所等のすべてを承継する第二会社として新日本窒素肥料株式会社が設立され、その後も資本金増化がなされ、昭和四〇年一月一日商号がチッソ株式会社と改称された。

被告水俣工場は、当初石灰窒素製造、合成アンモニア・硫安製造をなし、その後アセチレン系有機合成化学工業をなすものとして、昭和七年には合成酢酸の製造(カーバイド→アセチレン→アセトアルデヒド→酢酸)に成功してその工業化をすすめ、昭和一四年には全国需要量の約半数を占めるに至り、さらに無水酢酸アセトン、酢酸エチル、酢酸ビニール、酢酸繊維素、酢酸人絹、塩化ビニールなどのアセチレン誘導品を次々に開発し、工業化した。

(二) 第二次大戦後は戦前にひきつづいてアセトアルデヒドの生産を行ない、昭和二四年には塩化ビニールの生産を再開し、昭和二七年一〇月には我国ではじめてオクタノール(塩化ビニールの可塑剤であるDOP・DOAなどの原料)をアセトアルデヒドから誘導合成することに成功してその製造設備を完成し、さらに昭和二八年三月にDOPの製造設備を完成し、その後昭和三四年にかけて年々塩化ビニール、オクタノール、DOPなどの各製造設備を増強するとともに、その生産量は累増し(例えば、塩化ビニールの年生産量は、昭和二四年五トン、昭和二七年一、〇〇〇トン、昭和二九年三、五〇〇トン、昭和三一年六、五〇〇トン、昭和三三年九、〇〇〇トンとなっている)、これらの誘導品の多様化に伴い、必然的にその原料であるアセトアルデヒドの需要の増加に応じてその製造設備を増強することになり、アセトアルデヒドの年生産量も、昭和二一年二、二〇〇トン、昭和二九年九、〇〇〇トン、昭和三一年一五、〇〇〇トン、昭和三三年一九、〇〇〇トンと増加し、被告水俣工場は日本で有数のアセチレン有機合成化学工場となった。

(三) しかし、昭和三九年七月チッソ石油化学株式会社(千葉県五井)において石油化学法によるアセトアルデヒド製造装置が完成したので、被告工場では昭和四〇年より酢酸エチルおよび酢酸の製造を停止し、アセトアルデヒドの年産量は年々減少し、昭和四三年五月右製造が全面的に中止された。

2 廃水の処理方法

次の事実は被告において明らかに争わないので、これを自白したものとみなす。

(一) アセトアルデヒド廃水の処理系統の変遷

昭和二一年二月から昭和三三年八月まで

ピットを経て百間放水溝へ

昭和三三年九月から昭和三四年九月まで

八幡プールを経て水俣川河口へ

昭和三四年一〇月から同年一二月まで

醋酸プール→ピットを経て八幡プールへ

一一月より八幡プール上澄液をアセチレン発生残渣ピットに逆送

昭和三五年一月から同年三月まで

醋酸プール→八幡プール→カーバイドアセチレン発生残渣→八幡プール

昭和三五年三月から同年五月まで

醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→カーバイドアセチレン発生残渣→八幡プール

昭和三五年六月から昭和四一年五月まで

醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→原水槽→サイクレーター→百間放水溝

昭和四一年六月から昭和四三年五月まで

地下タンク→アルデヒド生成器(循環式)

昭和四三年五月一八日以降

アルデヒド製造停止

(二) 塩化ビニール廃水の処理系統の変遷

昭和二四年一〇月から昭和三三年八月まで

鉄屑槽を経て百間放水溝へ

昭和三三年九月から昭和三四年九月まで

百間放水溝へ

昭和三四年一〇月から同年一二月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ

昭和三五年一月から同年三月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ

昭和三五年三月から同年五月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ

昭和三五年六月から昭和四一年五月まで

アセトアルデヒド廃水と同じ

昭和四一年六月から昭和四三年五月まで

醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→原水槽→サイクレーター→百間放水溝へ

昭和四三年五月から

泥水ピット→八幡プール

3 流出水銀量

甲第三七五号証の二によれば次の事実を認めることができる。

被告は昭和三四年七月頃の調査に基づくものとして、昭和七年以降昭和三四年までの被告工場からの流出水銀量はおよそ合計六〇トンであると発表した。右数字は、同年一〇月二四日付同工場の県議会水俣病対策特別委員会に対するアセトアルデヒド製造用水銀使用状況報告書および同月七日付塩化ビニール樹脂製造用水銀使用状況報告書とも概ね符合する。

しかし、同工場における酢酸製造日報と右報告書の記載は合致せず、試みに昭和二九・三〇各年間のアセトアルデヒド製造用水銀使用状況をみるに、昭和二九年分については、報告書による水銀使用量は三五・九八七トン、同回収量は三〇・五五六トン、同損失量は五・四三一トン(うち廃水中に流出した量は二・八五一トン)であるのに対し、製造日報による水銀使用量は三八・〇五八トン、同回収量は二八・〇六九トン、損失量は九・九八九トンであって、前者の損失量は後者のそれの約五四パーセントであり、また昭和三〇年分については、報告書による水銀使用量は四四・四五七トン、同回収量は三六・八五九トン、同損失量は七・五九八トン(うち廃水中に流出した量は三・九八九トン)であるのに対し、製造日報による水銀使用量は五一・七一六トン、同回収量は三九・七〇一トン、同損失量は一二・〇一五トンであって、前者の損失量は後者のそれの約六〇パーセントであって、被告工場としては水銀使用量、同損失量ともに真実よりも過少に報告している事実があり、さらに被告工場では昭和一〇年より昭和二五年までの間、無水酢酸の製造工程で常時触媒として酸化水銀を使用し、その量はアセトアルデヒド製造工程における水銀使用量には遠く及ばないが、塩化ビニール製造工程におけるそれよりも上廻るものであったが昭和三四年七月頃被告工場がなしたという調査および前記報告書にはその水銀使用量、同損失量については一切これに触れていないし、他に塩化ビニール製造工程における水銀損失量も存することを考えると、被告工場が廃水中に流出した総水銀量は、被告工場が公表した六〇トンを遙かに上廻るものであったことは明らかである。

4 海底土に対する影響

次の事実は被告において明らかに争わないので、これを自白したものとみなす。

(一) 昭和三四年当時、水俣湾内外は原告の主張四項添付六図のとおり、工場排水口付近の二、〇一〇PPmを最高に汚染を示していた。

(二) 昭和三八年一〇月、熊大医学部衛生学教室の調査によれば、水俣湾内の一六ヶ所の地点における泥土の水銀濃度は前同七ないし九図のとおりであり、St四の五P1(二・四〇メートルの深さ)において七一六PPmを最高とし、汚染土の深さはSt九の八P1(三・六八メートル)まで達していた。

(三) 昭和四八年に環境庁および熊本県が行った調査によれば、水俣湾内の底質にはなお一〇〇ないし四〇〇PPmの汚染がみられ、水俣湾外にも一〇PPmを越える汚染があり、底質の水銀量が〇・一PPmの範囲は、南は不知火海の南口の黒の瀬戸、北は三角半島、西は御所の浦、獅子島、長島付近まで、不知火海全域に汚染が広がっている。

5 魚介類に対する影響

甲第二四六号証、同第二四七号証の一、二、同第二〇五号証、同第二五九号証によれば(一)項の事実を認めることができ、(二)項の事実は被告において明らかに争わないので、これを自白したものとみなす。

(一) 魚介類に対する影響は古くは大正一五年に漁民と被告工場との間に漁業補償契約が結ばれ、昭和一八年に至って再び右契約が結ばれたことをみても工場廃水が漁獲上何らかの影響を及ぼしていたことを認めることができる。

昭和二八、九年頃から水俣湾およびその周辺で魚類の収獲量が著しく減少し、湾内に鯛、ボラ、タチウオなどが死んで浮上する現象が目立ち、昭和三〇、三一年頃には右現象が顕著になった。

昭和三二年七、八月に熊本県水産試験場が行った調査によれば、アサリ貝については、丸島港外の北側の地点で、殻長二・〇ないし三・八センチメートルのものが一平方メートル内に五五個生息しているのみであり、袋湾奥および明神崎では一平方メートル内に四五〇個の死貝が存し、イ貝(ヒバリガイモドキ)については、梅戸、丸島、水俣川河口付近にはほとんどみられず、水俣湾周辺には一部で稚貝が六〇〇個ほど発見されたが成貝はほとんどみられず、茂道から袋湾口、月の浦付近には多いが袋湾内は比較的少ない状態であり、フジツボについては、水俣湾内では二〇ないし一〇〇パーセントの斃死がみられ、丸島港付近でも多数斃死していた。

(二) 昭和三四年熊大研究班喜多村正次の調査によれば、原告の主張四項添付一二表のとおり、水俣湾あるいは水俣川河口で二〇PPmを超える魚介類が存在し、また、入鹿山且郎ほかの調査によれば、同添付一三表のとおり、昭和三五年に月の浦のイ貝(ヒバリガイモドキ)に最高八五PPm、昭和四一年同所のアサリ貝に最高八四PPmの水銀の含有がみられた。

昭和四四年熊本県企画部公害課発表の調査によれば、同添付一五表のとおり、昭和三六年水俣湾のカマスに五八PPmの水銀が検出され、昭和四〇年水俣湾外八幡沖でチヌに一一七PPmの水銀が検出され、昭和四三年にも水俣湾内では二〇PPmをこえる魚がみつかった。

昭和四六年に熊本県衛生部公害課が採取した水俣湾内の魚類には同添付一六、一七表のとおり、水俣湾内のフグ、タコ、キス、ガラカブ、ベラ等に一PPmを越す水銀量をもつ魚がみられた。

昭和四八年環境庁の調査によれば、同添付一七図のとおり、水俣湾内のイシモチ、クロダイ、カサゴに一PPmを越える水銀蓄積がみられた。

6 動物への影響

甲第二六号証の一、二同第一五五号証、同第二三四号証、同第二四〇号証によれば次の事実を認めることができる。

(一) 水俣湾に面する月の浦、出月、湯堂、馬刀潟、百間などの地区では昭和二九年から昭和三一年にかけて猫が神経症状を呈して斃死する例が多く、原告の主張四項添付一八表のように、右三年間に斃死した猫数は五〇を越え、その他豚、犬なども同一症状を示して死んでいったほか、湯堂地区などで鳥類の斃死および飛翔、歩行困難の例がみられた。

猫の自然発症は水俣湾周辺を中心に南は出水まで及び、また不知火海の対岸たる竜ヶ岳、御所浦、獅子島、東町、長島までみられた。

前記喜多村正次の研究によれば、同添付一九表のように、自然発症の猫の特に肝、毛に数十PPm、実験発症例にも肝、毛に数十PPmから一〇〇PPmの水銀の蓄積があり、不知火海沿岸の健康猫においても殆んどの猫の肝、毛に数十PPmから数百PPmの水銀の蓄積がみられた。

昭和三五年熊大小島照和の実験によれば、同添付二〇図、二一表のように水俣湾内およびその周辺に棲息するイ貝(ヒバリガイモドキ)を猫に与えたところ、はやいものは一三日後に、遅くとも八五日後に水俣病が発症した。

7 人体に対する影響

甲第二三五号証、同第三七一、三七二号証によれば、(一)項の事実を、甲第一三号証、同第二五号証、同第一五五号証、同第一九四号証によれば(二)項の事実を、甲第二八号証、同第一四〇号証、証人原田正純(第二回)、同藤野糺(第一回)の各証言によれば(三)項の事実を、甲第二五号証、同第一六二号証、証人立津政順、同原田正純(第二回)、同藤野糺(第一回)の各証言によれば(四)項の事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 以上のような汚染は当然人体にも影響を及ぼし、昭和三六年に熊本県衛生研究所が行った不知火海沿岸住民の毛髪水銀量の調査によると、原告の主張四項添付第二二表のとおり、各調査地区の最高値は御所浦地区の九二〇PPm(六二才の女性)を最高に、いずれも一〇〇PPmを越え、各地区とも一〇ないし五〇PPmの毛髪水銀値が最も多くなっている。

昭和三七年の同研究所の調査によれば、原告の主張四項添付二三表のとおり、前調査に比較するとかなり毛髪水銀量は減少しているものの、御所浦地区の六〇〇PPmを最高として、各地区とも一〇ないし五〇PPmの最高値を示すものが多い。

昭和三八年の同研究所の調査によれば、同添付二四表のとおり、御所浦、津奈木地区で最高一〇〇PPmを越えるほか、水俣市、津奈木、御所浦では一〇ないし五〇PPmの水銀値を示すものが六〇パーセント内外を示した。

(二) 公式に水俣病第一号とされた患者は、昭和二八年一二月一五日発病の五才の女児であり、同女の死亡は昭和三一年三月一五日であるが、後記熊大第二次研究班の研究によれば、既に昭和一七年ころから水俣病またはその疑いのある患者の存在がみられ、原告の主張四項添付二五表のとおり、水俣病と診断された患者は昭和三一年、昭和三五年をピークにその後も発症しており、その発生地域は同添付二六図のとおり、北は田浦、芦北から、南は米ノ津まで及び、昭和四九年一二月までに認定された水俣病患者総数は七八四名(熊本県関係六九九名)、昭和五三年四月四日までに認定された水俣病患者総数は熊本県関係一、一六六名(うち死亡二二三名)、鹿児島県関係二〇七名(うち死亡二二名)にのぼっている。

(三) また、熊大原田正純の研究によれば、昭和四六年四月までに水俣病に認定された患者の家族五八世帯(認定患者七九名うち一九名死亡)の水俣病と認定されていない患者家族一四五人を調査したところ、その精神神経症状の出現率は後記九表のとおりであり、知覚障害(七九~一〇〇%)、共同運動障害(六五~七六%)、構音障害(四三~四五%)、求心性視野狭窄(三七~四八%)、聴力障害(五五~七六%)、振戦(二九~三五%)、粗大力低下(二六~三三%)等、症状の出現が高率にみられたとしている。

医師藤野糺は昭和五〇年七月鹿児島県出水市荘桂島(被告工場の南西約一二キロに存在する周囲約一・二キロの小島、過去に猫が狂死し、居住者の毛髪水銀値も高かった)の住民二六世帯一〇〇名のうち五七名の検診をしたところ、その症状出現頻度は後記一〇表のとおりであって、知覚障害、視野狭窄、眼球運動異常等が極めて高率に認められたとしている。

(四) 昭和四六年六月熊大医学部内に発生後一〇数年を経過した水俣病の実態を調査研究することを目的とし、三年計画のもとに共同研究班が作られた(いわゆる熊大の第二次研究班)。その研究の一環として、神経精神医学教室立津政順らは次の如き調査をなしている。

(1) 昭和四六年八、九月に、(イ)水俣病が最も多発した月の浦、出月、湯堂の水俣地区と、(ロ)有機水銀汚染の影響が疑われている御所浦地区の嵐口、越地、外平、(ハ)さらに汚染の可能性が小さく対照と考えられた有明地区、の三地区住民、合計三、五五五名の一斉検診を行なった。受診率は水俣地区八二・九%、御所浦地区九三・四%、有明地区七七・六%で、受診者数、受診者年令構成は後記一一、一二表のとおりである。

この結果は後記一三表のとおりであり、(イ)水俣地区では精神症状と神経症状の両者とも認められるものが二一三名(二二・九%)、神経症状のみをもつもの二二四名(二四・一%)、精神症状のみをもつもの三四名(三・六%)であり、すなわち四七一名が何らかの神経精神症状をもち、この数は受診者の約五〇%にあたった。水俣地区におけるこれらの数値は、(ロ)御所浦地区、(ハ)有明地区に比べてはるかに大きい。一般に年令が高くなるに従って精神症状、神経症状の発現頻度は高くなるのに、水俣地区では高年令人口の占める率は他の二地区よりかえって低い。さらに、水俣地区には当時までに認定された患者三七名が居たが、これらの患者はほとんど神経症状を併せもっているので、これを加えると水俣地区と他の二地区間の差はさらに増大する。御所浦地区と有明地区の間では有意の差は認められない。また、個々の神経精神症状をみても、水俣地区の方が他の二地区より高率であり、とくに、知覚障害、運動失調、構音障害、視野狭窄、難聴、振戦、関節痛および神経痛、知能障害、性格変化、神経症的色彩などの頻度が他の地区に比べてはるかに高かったが、これらの症状はいずれもメチル水銀中毒症において重要と考えられていたものである。

さらに、右症状のうち水俣地区において極めて高率に認められる知覚障害をみてみると、その発生型態は添付一四表のとおりであり、口周囲の知覚障害と手袋状足袋状の四肢の末梢性知覚障害は水俣地区に圧倒的に多く、さらに、全身性の知覚障害、および従来メチル水銀中毒とあまり関係がないと考えられていた中枢性や脊髄型の知覚障害も水俣地区に高率にみられた。他方、神経症状としての知覚障害だけの場合や、下肢または上肢のみにみられる知覚障害には、水俣地区と他の二地区との間に有意の差はない。

(2) さらに、立津政順らは前記三地区の一斉検診の対象を広げ、かつ、水俣病あるいは水俣病の疑いのある者に対しより精密な検診をなすなどの調査を昭和四八年三月まで続け、その結果を次のようにまとめた。

右三地区の有病率は後記一五表のとおりであって、受診者中何らかの神経症状、精神症状をもっていたものは水俣地区で五九・四%あり、明らかに他の二地区より高率である。

そして、右第二次研究班が水俣病と認めたものは同地区で二八・五%、水俣病の疑いと認めたもの同地区で三・九%であって、これも明らかに高率である。

この際水俣病と診断された患者にみられた主な症状は後記一六表のとおりであり、その知覚障害の型は後記一七表、運動失調の型は後記一八表のとおりである。

右調査結果は、診断の方法、症状のとりあげ方、水俣病の判定基準は何であったか、あるいは対照地区間において有機水銀による汚染以前にも有意差はなかったのか、また同じ水俣地区内でも汚染以前と以後とで量と効果の関連が見出されるか等種種の検討を要する問題を含んでいるけれども、一般的にいって、水俣地区の住民が他の二地区に比してより高度に有機水銀に汚染されているということは可能であると考えられる。

三  水俣病の病像

以上認定した事実によれば、水俣病とは、被告工場におけるアセトアルデヒド製造工程内で生成された有機水銀が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾の魚介類を汚染し、右汚染された有機水銀を保有する魚介類を摂取したことにより惹起された中毒性の中枢神経系疾患であるが、右疾患のどの範囲までを水俣病として捉えるかについて検討するに、前判示の如く、有機水銀による魚介類等の汚染が広範囲かつ長年月にわたっており、これらの摂取の量、時期等も各個人によって当然相異すること、有機水銀中毒の症状の出現にも多様性があることを考慮すると、水俣病を単にハンター・ラッセルの主症状を具備したもの、もしくはこれに準ずるものといった狭い範囲に限ることは相当といえず、原告らあるいは患者らがどの程度有機水銀に曝露されてきたのかを出生地、生育歴、食生活の内容等により考察し、さらに各人に有機水銀中毒にみられる症状がどのような組合せで、如何なる程度ででているかを検討し、その結果各人の症状につき有機水銀摂取の影響によるものであることが否定できない場合には、これを本訴において水俣病として捉え、損害賠償の対象となすを相当とするというべきである。

さらに、原告らあるいは患者らが他の病気に罹患しており合併症が存する場合にも、当該症状のすべてが明らかに他の疾患を原因とするものであることが認められる場合を除き、当該症状について前記同様に有機水銀摂取の影響の有無を判断していくものとする。

第五損害総論

以上述べたところに従って、原告らの各各の損害を判断するが、その際次のような諸点を考慮する。

一  損害の考え方について

1 原告らは本訴において、損害を、「被告の犯罪行為によって引きおこされた環境ぐるみの人間破壊にもとずいて、原告らがうけた、社会的、経済的、精神的損害の総体としての被害そのもの」であるとし、従来の損害賠償理論における被害を個別的に計算する方法は真実を捉えるものでなく、また原告らあるいは患者らが受けた被害は質的に差がないものであるから、いわゆる被害のランクづけは誤りであり、結局、包括的かつ一律に損害額を算定すべきであると主張する。

しかしながら、不法行為を原因とする損害賠償においては、不法行為により生じた損害を可能な限り具体的に算出し、これを不法行為者に負担させることにより、公平妥当な解決を図ることが目的とされているというべきであり、原告ら主張の如く原告あるいは患者の個別の事情を全く考慮することなく、すべて損害は一律であるとする主張は採用することができない。

そして、原告らは各原告あるいは患者が蒙った財産的損害について何ら主張立証をしないので、原告らが本訴において請求しているのは、原告あるいは患者が水俣病に罹患したことにより直接的に受けた精神的、肉体的苦痛と、間接的には逸失利益、治療関係費用等の財産上の損害を、そのような損失を余儀なくされた苦痛として捉え、これらを総合したものを慰謝料として請求していると解するものとする。

2 生存患者の近親者の固有の慰謝料については、患者が水俣病に罹患したため、その近親者において、同人が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたと認められる場合に限り、その近親者は民法第七〇九条、第七一〇条にもとずき、自己の権利として慰謝料を請求できるものとする。

二  水俣病の重症度について

1 水俣病には、同病が発見された初期にみられたような急性劇症型、あるいは四肢末端、口周囲のしびれ、知覚障害、求心性視野狭窄、運動失調、難聴、振戦、軽度精神症状等主要症状をすべてあるいはほぼ具えた普通型といったかなり症状の重いものから、右症状の一個ないし数個を具え不快感あるいは不便さはあるものの通常の日常生活を送ることが可能であるといった比較的軽症のものまで、症状の発現に連続的な変異がみられる。

そこで、本訴において慰謝料額を決定するにあたっては、水俣病の症状を、重度、中等度、軽度の三段階に区別し、(1)重度の水俣病とは水俣病により死亡するに至ったもの、もしくは日常生活の機能を失い死にも比肩すべき精神的苦痛を受けているもの、(2)中等度の水俣病とは水俣病により日常生活の機能に著しい障害のあるもの、(3)軽度の水俣病とは(a)水俣病により右中等度までに至らないが日常生活の機能に何らかの障害があるもの、(b)日常生活の機能に格別の障害はないが水俣病により継続した不快感等を有するもの、とし、右各段階に応じそれぞれ慰謝料額を算定するものとする。

2 さらに、他疾患との合併症状があるものについては、全体の症状のうちから水俣病を原因とするものを抽出し、この症状について、前記(1)重度の水俣病、(2)中等度の水俣病、(3)軽度の水俣病(a)、(b)のいずれに該当するかを考察していくものとする。

第六損害各論

以下に各原告あるいは各患者につき、個別にその症状、慰謝料額の算定をなすこととするが、そのまえに、乙第一号証の八、同第六号証の七、同第八号証の一八、同第九号証の一六、同第一〇号証の一五、同第一二号証の二二、同第一三号証の一三、同第一四号証の一三、同第一五号証の七、同第一六号証の一一、同第一八号証の一三、同第一九号証の一四、同第四八号証の一〇によれば、原告らあるいは患者ら(患者平竹信子を除く)は、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法第三条第一項あるいは公害健康被害補償法第四条第二項の規定により水俣病認定申請をなしたが、いずれも熊本県知事あるいは鹿児島県知事により申請棄却処分を受けたものであり(但し、原告島崎成信および患者森本與四郎については後記の如き経緯でその後水俣病患者と認定されている)、右棄却処分の年月日は後記のとおりであることが認められ、なお、乙第五五号証の一、二によれば原告島崎成信は右棄却処分後、これを不服として公害被害補償不服審査会に対し右処分取消の裁決を求めたところ、同不服審査会は昭和五三年五月二二日前記鹿児島県知事の処分を取消し、同年六月一七日鹿児島県知事は同原告を水俣病患者と認定したことが認められ、乙第五三号証の一ないし一〇、同第五六号証によれば患者森本與四郎は右棄却処分後、昭和五〇年一二月二六日再度の認定申請をなしたが昭和五一年七月一八日死亡し、解剖の結果、病理所見を中心とした総合的判断により昭和五二年九月鹿児島県知事より水俣病患者と認定されたことが認められる。

原告・患者

氏名

棄却処分

年月日

処分をなした者

森枝鎮松

48・2・3

熊本県知事

竹本已義

48・6・6

同右

尾上源蔵

49・10・28

鹿児島県知事

中島親松

同右

同右

山内了

同右

同右

坂本武喜

50・10・11

熊本県知事

吉田健蔵

50・2・21

鹿児島県知事

島崎成信

同右

同右

岩崎岩雄

49・8・16

同右

岡野貴代子

51・3・6

熊本県知事

森本與四郎

50・9・18

鹿児島県知事

蒔平時太郎

50・2・21

同右

緒方覚

51・5・8

熊本県知事

一  森枝鎮松 関係

甲第七一号証、同第一七一号証の一ないし四、同第三七六号証、証人上妻四郎の証言、原告森枝鎮松、同森枝シカ、同森枝孝美各本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。(なお、鑑定人椿忠雄の鑑定の結果は「椿鑑定」と、鑑定人原田正純の鑑定の結果は「原田鑑定」と略称し、公害被害者認定審査会、公害健康被害認定審査会は「審査会」と略称する。以下の原告、患者についても同じ)

1 疫学的考察

(一) 生活歴

森枝鎮松は明治三七年六月五日鹿児島県出水市米ノ津中塩屋で出生し、同胞は姉キノ(現在福岡県在住、七五才)、家業は半農半漁であったが、七才時に父が事故死し、貧困のため就学せず、近隣の子守、手伝い等をしていた。

一六才時から二年余、出水市築港で床屋見習として奉公、一時米ノ津駅前に床屋を開業したがやがて廃業し、以後四年余大阪において理髪業の修業をなし(この間昭和二年に結婚)、昭和三年一一月水俣市浜町に床屋を開業し、弟子を一人、二人おいて仕事をしていた。

昭和一九年から昭和二一年まで軍に徴用され、人吉、鹿児島等で働き、昭和二一年から古物商に転業し、妻は姉の八百屋の手伝をし、水俣市栄町に住んでいたが、昭和二六年頃水俣市平町に移転した。

(二) 食生活

森枝鎮松は幼少時から漁が好きで、父の一本釣などに幼い頃から同行、昭和三年水俣市で床屋を開業してからは暇をみて漁をして、一時は自己の船を所有し、投げ網も一二張余持っていた。その頃は水俣川尻、明神、マテガタ、袋などで主にチヌ、エノケ、エビナ、ハゼ等をとっていた。

昭和二一年古物商に転業してからは、経済的にも困り、食糧難でもあったので、ますます漁業に精を出し、水俣川尻、丸島湾内外、袋湾内、恋路島周辺などで、チヌ、ハゼ、ガラガブ、クサビ、キス等をとっていたが、舟は手漕のため海辺の魚が中心であった。舟は他人から借りていたが、貸主の一人に認定患者松田マセがいる。

漁に出る時は味噌を持参してとれた魚につけて生のまま食べたりし、その日のうちに食べきれなかった魚は、翌日食べたり、塩づけにして保存して食べたりし、おおよそ三度三度中皿山盛り一杯程度食べていた。

なお、茂道の親戚の漁師で認定患者の田上フジ子から、ボラ、シロコ、ナマコなどを度々もらって帰り家族で食べたこともある。

(三) 環境の変化

同家で飼育していた猫のうち、一匹が、妙なうなり声をあげ天井に向けて飛び上るなどして狂い死にした。

(四) 家族の状況

森枝鎮松の父森枝与三郎は明治四三年九月二一日五五才で自宅納屋より転落して死亡、母森枝キヨは昭和一二年一月二七日七〇才で老衰死した。森枝鎮松の姉キノは七五才で福岡県に在住している。妻シカとは昭和二年に結婚、三子をもうけたが、長男は戦時中五才で疫痢で死亡、長女孝美三四才と次男司三一才が現存している。

妻シカは現在七一才であるが、六〇才頃から両足のしびれ感、からす曲り、脱力、スリッパが脱げてもわからない等の自覚症状がみられるようになり、水俣病の認定申請中である。

長女孝美は両親と同居し未婚、母親と共に八百屋をやっているが幼少時から多少虚弱で、現在でも肩こり、腰痛、疲れ易く、感冒に罹患し易い。

次男司は結婚して水俣市内に別居し三才の女子をもうけているが、余り頑健な方ではなく、現在も肩こり、疲れ易い、感冒に罹り易い状況である。

2 森枝鎮松の症状について

(一) 既応症

二〇才時  淋病(売薬治療)

二二才時  脚気

二五才時  胃腸病

五〇才時 じん麻疹

以上いずれも入院治療はしていない。

(二) 症状出現とその経過

昭和三七年(五八才)頃から身体の調子が悪くなり、疲れ易く仕事の能率が低下した。

昭和三九年(六〇才)三月頃からめまい感あり、同年一一月両手があがらなくなり、一一月二九日しびれて身体が立てなくなり、約三ヶ月余自宅で寝たきりであったが、言葉がはっきり言えず、腰から下、両下肢、殊に左下肢にしびれが強く、両肩から両手先がしびれ、殊に左手がひどく、目がみえにくく、耳鳴りがひどく、難聴があった。

昭和四〇年五月頃から水俣市立病院、湯の児病院へ五年余り通院した。「脳軟化症、高血圧症、心筋障害」と言われた。

昭和四五年頃からは、病状が改善されないのと、経済的理由から治療をしていない。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、四肢末端のしびれ、じんじんする、肩の痛み、転び易い、ボタンかけが難しい等があり、聞かれて肯定したものに、全身のだるさ、物がはっきり見えない、耳が遠い、耳鳴り、匂いがわからない、スリッパや草履がはきにくい、脱げ易い、言葉がはっきりしない、言葉が出にくい、力がなくなった、ふるえ、不眠、疲れ易い、体がきつい、何もしたくない、物忘れする、めまい等があり、からす曲りは以前はあったが今はない。

(2) 所見

イ 知覚障害

知覚障害は左側にやや強いが、左右の四肢末端に対象的な知覚障害が認められる。(椿鑑定、原田鑑定)

口周囲の知覚障害はプラスマイナス程度で、存在するか否か断定できない。(椿鑑定)

ロ 運動失調

日常の細かい動作はぎこちない。(椿鑑定)粗大力低下の存在を考慮に入れても、緩慢、ぎこちなく、運動発動が遅滞している。(原田鑑定)

舌運動は遅く、やや失調様である。(椿鑑定、原田鑑定)

指鼻、指鼻指、指耳試験は両側とも拙劣で振戦を伴う。膝腫試験でも運動の解体を両側に認める。(椿鑑定、原田鑑定)

図形画き試験は振戦を伴い遅い。(椿鑑定、原田鑑定)

ロンベルグ検査、マン検査は陽性である。(椿鑑定、原田鑑定)

片足起立は動揺のため三秒しか立てない。歩行は緩慢で床上から足の挙上不充分である。(原田鑑定)

ハ 構言障害

言語は粘っこく、歯切れが悪くやや不明瞭である。(原田鑑定)年令相当のものと認められる。(椿鑑定)

ニ 筋力低下

左側にやや強いが、右側にも認められる。(原田鑑定)軽度である。(椿鑑定)

ホ 視野、眼球運動

正常範囲である。(乙第一号証の六)

ヘ 聴力障害

原田鑑定によれば神経性難聴プラスとあるが、椿鑑定によれば年令相当であるということで、特に障害とされているものか否か判然としない。

ト 深部反射

全体に亢進している。(椿鑑定)

チ 精神症状

軽度の抑うつ気分と感情鈍麻、中等度の意欲減退がみられる。興味、関心が狭く、一般的知識に欠け、思考は遅い。記銘力、記憶力は比較的良く保たれているが、記憶の再生に時間がかかる。

計算力は低下している。判断力、理解力はほぼ保たれている。すなわち、軽度の知的機能障害がみられる。(原田鑑定、乙第一号証の五)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、森枝鎮松には四肢末端の知覚障害、運動失調、軽度の筋力低下がみられ、職業は床屋あるいは古物商であったものの、暇をみては漁をし、あるいは他人からわけてもらうなどして、有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食していたこと、自宅の飼猫が狂死していることなど前示認定の疫学的条件を考慮し、同人は水俣病に罹患していると認めるのを相当とする。

なお、乙第一号証の七、八および証人武内忠男(第一回)の証言によれば、森枝鎮松は、審査会において、右側脳血管障害、脊椎症(頸)によりその症状が説明されるものとされたことが認められ、前示認定のとおり、同人には、昭和三九年一一月二九日に脳血管性発作様の症状があったし、また乙第一号証の六、甲第一一四号証によればレントゲン撮影では頸椎四、五、六に過骨性変化、椎間鉤突起形成がみられることが認められるものの、知覚障害、運動失調は少くとも両側性に認められ、脳血管障害と頸椎症で症状のすべてを説明できないので、同人が水俣病であることを否定し得ないというべきである。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告森枝鎮松の症状は軽度の水俣病に属するので、原告森枝シカ、同森枝孝美、同森枝司は、原告森枝鎮松の水俣病罹患によって、右原告らが森枝鎮松の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

二  平竹信子 関係

甲第七九号証の一、同第一九五号証、同第三七七号証の一ないし四、証人富永忠幸、同進東アサミ、同島田幾乃、同原田正純(第三回)の各証言、原告平竹孝本人尋問の結果によれば、以下1項および2項の事実を認めることができ、右認定を覆すに足る証拠はない。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

平竹信子は昭和一四年一〇月一七日水俣市浦上町で、父車太郎、母ハツノの第一〇子として出生した。第一子繁は三才で死亡、第二子トシエは生後間もなく死亡、第三子サチ子は二六才で死亡、第七子拓美は三才時事故死している。

両親は、獅子島の出身で、昭和の初め頃水俣市に移住し、同市袋、出月、丸島、月の浦と転々と住居を構え、大正一四年頃から信子の出生地である浦上町に居住した。

父車太郎は、水俣に来てから、セメント会社に勤めたり、人夫仕事をして収入を得ていたが、昭和二五年頃身体を悪くし、仕事をやめて家で寝たり起きたりの生活をするようになった。それまでは車太郎の収入と母ハツノの耕作する三反あまりの畑の作物とで生活がまかなわれていたが、車太郎の収入がなくなり、さつまいもや鶏卵を売り、あるいはわらじを売るなどし、生活は貧しく、子供達もハジの実をひろって売ったり、子守をして小遣をもらったりしていた。

母ハツノは孝、陽子、信子らをつれて住居からすぐ近くの海岸(ガチガ鼻、ミドリガ鼻、明神等)にアサリ、ビナ、カキ、ナマコ等をとりにいき、これを副食とし、一部を販売した。日に一、二回とりに行き、多い時は八から一〇キロもとったことがある。信子は特によく母とカキ等をとりに行っており、中学校一年の時は二分の一ほど欠席した。

(二) 食生活

家計が苦しかったため、米を食することはまれにしかなく、畑でとれるさつまいもが主食で、副食として海岸でとった魚介類を多食した。

(三) 環境の変化

昭和二八年頃から海辺にカキや貝が死んでいるのが多くなった。また、カキは普通は黒色であるべき部分が緑色を呈するものがあった。自宅の飼猫が涎を流し二匹程狂い死にした。

(四) 家族の状況

父車太郎(明治二二年六月二三日生)は五〇才の頃から手足のしびれ、頭痛、ふらふらするなどと訴えていたが、昭和三〇年六月一一日腹膜炎で死亡した。

母ハツノ(明治三三年七月三〇日生)は身体のしびれ、からす曲りなどを訴えていたが、昭和四七年一〇月水俣病と認定され、昭和五三年七月一六日死亡した。

兄孝(昭和一〇年五月一〇日生)も昭和三七、八年頃から身体の疲れ、からす曲り、頭痛、痙攣等の症状を訴え、昭和四七年一〇月水俣病と認定された。

2 平竹信子の症状について

(一) 既応症

出産時正常で発育も正常、特記すべき疾病の存在は窺われない。

(二) 症状出現とその経過

昭和二九年三月頃父車太郎が病床にあり、信子は看病の手伝いをしてお茶を持っていきながら、一寸したものにつまづいてお茶をこぼしたり、茶碗を落としたりするようになった。また、母について海岸へ行くとき、「手がしびれる」「腰が痛い」と言い、歩くのが遅く、奇妙な恰好にみえた。

約二週間位たった昭和二九年四月頃、食事をこぼすのがひどくなり、言葉がはっきりしなくなり、歩くのがふらついて困難になり、箸が使えず、流涎がみられ、茶碗も持てなくなり、終日茫乎としてただ泣くだけになった。水俣市内の医師の診察を受けたが脚気ではないかといわれた。その翌日には全く立てなくなり、手足を強直する痙攣発作がみられ、言語不明瞭となり、「あー」「あー」と声を立てるようになった。

四月二六日、水俣市立病院内科を受診し、医療扶助の手続きを終え、五月一三日に入院した。入院してからは全く寝たきりで、「あー」「あー」と言うだけになり、流涎がひどく、手足を絶えずまさぐるような運動がみられ、足をばたばた蹴るような多動状態を示した。手は屈曲し、拇指を中に入れて鳥の手みたいにやせて変形し、首は後方に屈曲し、足は伸展変形した。食物や飲物がむせて嚥下障害があり、日に日にやせて行った。次第に目をあけたまま反応がなく、失明に近い状態になり、耳は人の声で耳を澄ますような動作がみられ聞こえているようであった。時に全身性強直性痙攣がきた。夜も昼も声をあげて泣き周囲に迷惑がかかるので、二一日間入院した後退院した。

退院後も夜昼泣き続け、痙攣がおこり、食事も水で口をしめらせるだけであり、次第に衰弱し、やせ細って、昭和二九年八月一日に死亡した。

経過中発熱はなかった。

(三) 死亡診断書、入院時のカルテ、臍帯のメチル水銀分析値

(1) 死亡診断書

直接死因、全身衰弱、その原因、意識混濁、その原因は脳膿瘍、脳裏腫、脳内寄生虫、脳炎などの疑い。

(2) 水俣市立病院のカルテの記載(主治医松本善信医師)

診断名、意識混濁症(脳炎、脳膿瘍、脳内寄生虫、脳裏腫等の疑いをもつも診断困難)

小児期間疑いなし、既応疾患麻疹。

現病歴(原文の訳)

「昨年の夏、全身倦怠ありて、松本医院にて駆虫(一二指腸虫)した。その後、体がだるいといっていた。それで学校でも体操などはやめていた。お茶を持って来らしたところ手がかなわないように感じた。それで二三日に松本医院を訪れた(行くときは歩いた)。脚気だろうといわれ、注射、薬をもらった。その夜再び「きついきつい」と口で叫んだ。それで薬をやめた。その後、すこし元気がでて遊びに出たいといい出したが、出さなかった。

そして、本院に四月二六日訪れた。外来通院が出来ないので深水医院(水俣市八の窪)を訪れ、脚気だと考えられ注射を受けたが五月初めより全身倦怠プラス、計温せず、身体がだるいといっていたが、一週間ほどたってから、手足を動かして体がだるいといっていた。

そんなに気にもとめないでほうっていた。腰がいたいといっていたことあり(一二月初め頃)。一般状態、半ば嗜眠状なるも時々泣いて身を動かし意識不清明、体温三六度八分、リンパ線腫脹や浮腫、出血斑、発疹などはみられていない。血圧一一〇~七〇ミリ水銀柱、心肺に異常を認めていない。顔面は無欲状で蒼白ではない。やや眼球突出の感じがする。瞳孔に正円、対光反射遅延。眼球運動、眼球振盪、視力などは不明。舌には白色舌苔、胸部腹部に異常を認めない。ハビンスキー反射、メンデル・ベヒテリウ徴候、時々陽性、固有反射は膝蓋腱反射およびアキレス反射は亢進し、仮性足間代がみられる。上肢の固有反射はほぼ正常、麻痺については意識障害のため判然としない、手足は動かすが細部にわたっては不明。時々泣いて身体を動かす。知覚障害は不明。(歩行は外来時麻痺状、運動失調も外来時麻痺状と記載されている)言語は外来時正常、尿失禁、栄養及血管、運動神経障害ははっきりしない。四肢の筋萎縮は全身がやせてくるとはっきりしない。情動状態は不明。

五月一四。夜なきさけぶため当直医により脳脊髄液検査、圧は一五〇~八〇水柱、水様透明、梅毒反応陰性、細胞数5/3、パンデイ氏法陽性。クエッケンステット陰性。

五月一五日、顔貌無表情、瞳孔散大、対光反射鏡にして少しある。意識はなし、時々ヒヨレア様の運動(左手、足あり)尿失禁、便秘、固有反射亢進、バビンスキー、チャドック現象陽性、ケルニッヒ現象および頂部強直はない。尿検査で蛋白マイナス、ウ・ビリノーゲン2プラス、糞便検査で回虫卵4プラス。潜血反応陰性。

白血球八六〇〇、赤血球四三〇万、血色素八三%、白血球分画は多核球七五、桿状球五、好酸球一、リンパ球一六。核球三。脳脊髄液検査、圧一二五~七〇、細胞15/3、パンデイ反応(-)、ニッスル・エスバッハ法1/2分画以下(正常)。

五月二二日、緒方眼科院長来院

うっ血乳頭のほか所見ない。

五月二六日、流涎あり、所見は不変。

五月二八日、午後八時半頃から余り大きな声は出さず、眼球はやや上向きになって余り動揺せず、口は少々動かす。両肢は常にアテトーゼ様運動をなす。

(入院中、三七度台の発熱がみられるが高熱はみられず特殊な熱型を示さない)。」

(3) 保存臍帯のメチル水銀分析値(東京都立衛生研究所、西垣進の分析による)

平竹拓美(昭和八年二月一二日生)のメチル水銀値〇・〇二PPm。平竹孝(昭和一〇年五月一〇日生)のメチル水銀値〇・一三PPm。平竹陽子(昭和一二年九月九日生)のメチル水銀値二・一五PPm。平竹信子(昭和一四年一〇月一七日生)のメチル水銀値五・二八PPm。

3 結論

(一) 以上認定の事実によると、平竹信子は腰痛、しびれ感、全身倦怠、手の運動障害、言語不明瞭、歩行困難(失調)、流涎、精神症状ついには意識混濁、発語不能、歩行不能、失明、全身痙攣、失外套症状群(植物的状態)を示し死亡したものであって、甲第七九号証の一、証人原田正純(第三回)の証言によれば、(1)右は進行性の脳の器質的疾患であり、この原因として脳炎、脳出血、脳腫瘍等が考えられるが、脳炎であれば脳脊髄液の変化があり、脳圧亢進や頭部強直が著明であり頭痛が頑固で嘔吐、発熱がみられるのが通常であり、脳腫瘍の場合は頭痛、嘔吐にはじまって、脳脊髄圧の上昇や眼底にうっ血乳頭などの所見がみられること、脳膿瘍の場合も同様の症状に加えて全身の感染症としての白血球増加や発熱がみられることが多いし、脳出血の場合も同様の症状で脳脊髄液中に血液を混入することが多いが、本件において脳脊髄液の検査によるもこのような症状を示唆するものは認められていないこと、(2)これまでに判明している水俣病の小児の急性症状をみるに、(イ)五才一一ヶ月の小児の場合は手足の運動障害、言語障害、歩行不能、視力障害、嚥下障害、(ロ)五才一〇ヶ月の小児の場合は流涎にはじまり、手足の運動障害、手の振戦、歩行障害、言語障害、視力障害であり、また、小児の場合四肢の疼痛を訴えるものがあり、経過はほぼ共通していて、しかも経過が早く、発病以来二六日から一ヶ月、やや長いもので二年三ヶ月の経過で死亡している例が多く、また末期の合併症の時期を除いて発熱などがない特徴があるが、平竹信子の発熱経過もこれらの例に類似している点が多く、少なくとも右症例と比較して否定さるべき点もないことが認められ、これに同人の保存臍帯のメチル水銀値が五・二八PPmで高値を示していること、同人が魚介類を多食していたこと、家族内でも母ハツノ、兄孝が水俣病患者として認定されていること、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病に罹患していると認めるのを相当とする。

ただし、平竹信子については、現在治療に関与した医師のカルテが保存されていないこと、および、水俣病発見の当時結成された水俣奇病対策委員会が昭和三一年以前に死亡した患者について調査検討しているのに平竹信子は右調査の対象としてとりあげられていないことが問題となるけれども、医師のカルテについては甲第七九号証の一(原田正純作成の平竹信子に関する調査書)に水俣市立病院入院中のカルテの写し書きがあり、また水俣奇病対策委員会にとりあげられていないという点については、前記原田正純の証言によれば、右対策委員会が検査の対象としてリストアップした死亡者は主治医からの申告をもとにしていると思われるが、右主治医は開業医が主となっており、水俣市立病院で治療を受けた患者については申告もれのあった疑いがあること、および右対策委員会は漁業従事者か否かを重視したのでこの点からも平竹信子が対象からはずされた可能性がある等の事情が認められるので、前示の如き疑問点があることをもって、前示認定を覆すことはできない。

(二) そして、同人の症状はいわゆる急性劇症型で前記重度の水俣病に属するものであり、その悲惨な死の状況等諸般の事情を考慮し、慰謝料額は金二、八〇〇万円をもって相当とする。

(三) 平竹信子の父母訴外平竹車太郎、同平竹ハツノは患者平竹信子の相続人として、同女の被告に対する前記慰謝料請求権を民法所定の相続分に応じそれぞれ二分の一ずつ相続により承継取得した。

さらに、平竹車太郎、平竹ハツノは我が子を悲惨な死により奪われた精神的苦痛は大きく、その慰謝料額は各々金一五〇万円をもって相当とする。

(四) 前示認定のとおり、平竹車太郎は昭和三〇年六月一一日死亡し、平竹ハツノは昭和五三年七月一六日死亡したので、同人らの被告に対する前記慰謝料請求権を、原告吉留ミチ子、同鷹ヨシ子、同田畑タエ子、同平竹孝、同上原陽子、同平竹俊行が民法所定の相続分に応じそれぞれ六分の一ずつ相続により承継取得した。したがって、同原告らが被告に対し請求できる慰謝料総額はそれぞれ金五一六万六、六六六円(円未満切下げ)である。

三  竹本已義 関係

甲第七三号証、同第三七八号証、証人竹本秋義、同平田宗男の各証言、原告竹本已義、同竹本厚子各本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

竹本已義は大正一三年五月一日水俣市江添侍において、父惣市、母サトの三男として出生し、同胞は七名で、兄実は戦死、弟国義は昭和四六年二九才時船のマストが折れ事故死した。

父は当初は人夫であり、家計が苦しいので、已義は高等科は一年で退学し、昭和一二年製びん工場へ就職、昭和一四年チッソ株式会社に勤務、昭和一九年三月応召満州へ行き、終戦後シベリアに抑留され、昭和二四年一〇月帰国した。昭和二五年百間港で人夫をして身体をこわし、三ヶ月間休養し、その後失業対策事業の人夫を六ヶ月、農村での行商を六ヶ月、昭和二六年に一年間団体役員、昭和二七年阿蘇白川の岸壁工事人夫、昭和二八年山師、昭和三一年職業安定所の日雇人夫、昭和三三年から再び失業対策事業の人夫をした。

結局、昭和一九年から昭和二四年まで兵役等で現在地を離れたのと、昭和二七年に数ヶ月間出稼のため現在地を離れた以外は、父母、兄弟と江添侍に生活してきた。

昭和二五年一一月妻厚子と結婚し、昭和二六年、昭和二八年、昭和三一年と三女をもうけた。

住所地から月の浦まで歩いて二〇分、茂道まで歩いて四〇分の距離で、子供の頃から海に泳ぎに行ったり、魚介類をとりにいっていた。母サトは長島出身で海辺で育ったためと、家計維持の必要から月浦、茂道等でアサリ、ビナ等をとり、同居していた弟秋義、国義は「もぐり」を得意として、タチウオ、タコ、クロウオ、ガラカブ、メバル等をとり、家族そろって魚介類を多食し、たくさん獲れたときは部落内に売って歩いた。

已義は失業対策の人夫に前記のとおり昭和三三年からでたが、湯の児の海岸道路工事をした四、五年の間、よくうさぎが鼻、かつ崎が鼻などの海辺でアサリをとり、家族で食べていた。

(二) 食生活

兵役と出稼の期間約六年間を除き、百間、月の浦、湯堂でとれた魚介類を多食した。生活が貧しかったため、両親、兄弟とも魚をとりにいき、とれた魚介類を五升炊き鍋等で煮て全員で食べた。タコなどは一度に一キロ位食したことがある。

焼酎は昭和三五年頃から二合晩酌し、この数年は一合位飲んでいる。

(三) 環境の変化

昭和三三年前後頃、畑のすみに捨てた魚貝類の頭や骨等を近所の猫がやってきて食べてふらふらしていた。カラスも落ちて死んだり、よぼよぼしていた。

自宅から歩いて三分程のところに居住し、同じく失業対策事業の人夫として働いていた前島武義は昭和三一年急性激症型の水俣病患者となった。

(四) 家族の状況

父惣市は昭和四四年死亡、母サトは昭和五一年死亡した。

昭和四四、五年頃まで一緒に生活してきた弟秋義は昭和四九年四月水俣病に認定され、秋義の妻も同年二月認定された。他に生活をともにした弟敏男は頭痛、短気、怒りっぽさがみられ、弟光男は肝臓、胃腸が悪い。

妻厚子(昭和五年七月九日生)は昭和三二年、昭和三三年と二度流産し、現在頭痛を訴え、水俣病認定申請中である。

長女和子(昭和二六年九月二一日生)は手のしびれ、耳のわるさを訴え、三女美代子(昭和三一年一二月二日生)は病弱で中学生の頃より腰痛を訴えていた。

2 竹本已義の症状について

(一) 既応症

若い頃は運動が得意で、徒競争、水泳、相撲、鉄棒、野球などが上手だった。

昭和四一年、仕事中にぎっくり腰となり、水俣市立病院に四〇日入院、水俣保養院に三ヶ月通院、その後水俣市立病院に再入院した。

昭和四六年右耳の中耳炎で水俣市立病院に一週間入院した。

(二) 症状出現とその経緯

昭和二八年(二九才)頃から、身体の調子の悪さを意識するようになった。頭がカーッとなったり、怒りっぽくなったり、ふらふらしたりした。

昭和三五年頃から物忘れがひどくなった。

昭和三八年頃から、自転車に乗っていて倒れたり、排水溝に落ちたり、旅館のガラスに突き当ったりした。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、頭、腰の痛み、匂いがわからない、眼の痙攣、手が不自由、指先がきかない。ボタンかけが難しい、身体の動きが不自由、めまい、立暗み、物忘れする等があり、聞かれて肯定したものに、手、足、口のまわりのしびれ感、上下肢の力がなくなった等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

下肢に強い、四肢末端型の表在知覚鈍麻が存する。(椿鑑定、原田鑑定)

口周囲の感覚障害はプラスマイナス程度で存在するか否か不明である。(椿鑑定)

ロ 運動失調

日常生活上の動作は正常。(椿鑑定)長く坐っていたり、重い物を持ち上げるなどの労働ができず、立ちしゃがみが困難、着衣動作やボタンかけ動作は緩慢で遅い。

(原田鑑定)

舌運動は正常である。(椿鑑定)

アジアドコキネーゼは椿鑑定では正常、原田鑑定ではプラスマイナス程度である。

指鼻、指鼻指、指耳、指眼試験はいずれも正常である。(椿鑑定)

膝腫試験はごく僅かに拙劣であったが、繰り返していると、よくできるようになる。(椿鑑定)

図形画き試験は振戦を伴い拙劣である。(椿鑑定)

叩打試験は速度はやや遅い(椿鑑定、原田鑑定)が、正常範囲で、叩打点のばらつきはほとんどない。(椿鑑定)

マン検査は陽性である。(椿鑑定、原田鑑定)

ロンベルグ検査は陰性である。(椿鑑定)

結局、運動失調は軽微のため判定が困難である。(椿鑑定)

ハ 構音障害

認められない。(椿鑑定、乙第四八号証の五)

ニ 筋力低下

下肢に軽度の低下がみられる。(原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

視野はほぼ正常、眼球運動も正常範囲である。(椿鑑定、乙第四八号証の五)

ヘ 聴力障害

認められない。(椿鑑定)

ト 深部反射

全般に正常である。(椿鑑定)

チ 精神症状

気分が周期的に変わり抑うつ状態になることがあると訴えるが、とくに粗大な精神症状を認めない。(原田鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、竹本已義には四肢末端型の知覚障害が存し、運動失調については判然としないものの所見がないと否定はし得ない。また、下肢の筋力低下が存する。

乙第四八号証の五および証人武内忠男(第三回)の証言によれば、竹本已義は、審査会において、下肢の筋力低下は大腿部の屈曲する側の筋力の低下であること、ラセーグ徴候があることから、水俣病でみられる症状とは異なっており、頸部および腰部の変形性脊椎症(椎間板ヘルニアが存する)と判定されたことが認められる。

同人につき変形性脊椎症が存することは否定できず(証人平田宗男の証言中にはこれを否定するかの如き供述が存するが、具体的な証拠を欠き、右認定を覆し得ない)、変形性脊椎症により下肢の筋力低下、一部の知覚障害は説明可能であるものの、四肢末端の知覚障害が認められること、運動失調を全く否定することができないこと、本人の自覚症状に手足のしびれ、いらいら感、頭痛、記憶力の低下といった水俣病にみられる症状が多いこと、および、同人は有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食したこと、昭和四四、五年頃までほとんど同じような生活をしてきた弟秋義夫婦が水俣病と認定されたことなど前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病に罹患していると認めるのを相当とする。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告竹本已義の症状は軽度の水俣病に属するので、原告竹本厚子、同南側和子、同竹本順子、同太田美代子は、原告竹本已義の水俣病罹患によって、右原告らが竹本已義の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

四 尾上源蔵 関係

甲第七〇号証、同第一八三ないし一八七号証、同第三七九号証の一、二、証人尾上清子、同藤野糺(第二回)の各証言、原告尾上源蔵、同尾上慎一各本人尋問の結果、鹿児島県公害衛生研究所に対する調査嘱託の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

尾上源蔵は明治三二年三月三日鹿児島県出水市名護部落で、父利右衛門、母スミの第三子(長男)として出生した。家業は漁業で、源蔵も小学校卒業と同時に父と共に漁業に従事した。

大正一一年妻ツキと結婚し、男五名、女六名の子をもうけた。結婚後も漁業をしており、今日まで名護部落を離れたことはない。

漁法は、昭和二八年までは“うたせ”であったが、その後はエビかし、たたき網などをした。エビかしではクルマエビを、たたき網ではコノシロ、ボラ、エビナ、ススキ、チヌなどを獲った。

漁場は水俣沖から名護沖を中心として桂島まで、また水俣湾内外へも出漁した。

昭和三八年から昭和四七年まで部落総代をつとめた。

昭和四一年頃には身体の具合が思わしくなく、東京へ行っていた四男慎一を呼びよせ後を継がせたが、源蔵も海が穏かな時などは一緒に漁に出かけていた。

(二) 食生活

漁業で生計をたてていたので、小さい頃から魚が主食のようなもので、とりわけ家族の中でもよく食べた。晩酌のときは、コノシロやボラの背切を一回に大皿一杯も食べた。

部落の仕事をしていたため飲酒の機会は多かったし、晩酌で一日に一合位飲んでいたが、現在は飲んでいない。

(三) 環境の変化

昭和三四年から昭和三五年にかけて、自宅で飼っていた猫が二匹狂死した。部落の他の猫があちこち突き当ったり、海の中に飛びこんだりするのをみかけた。

同じ頃、漁に出たとき、不知火海で、タチ、グチ、チヌ、ボラなどが腹をみせて浮いていたり、あるいは半端生きしてきりきり回っているのを見た。

名護部落には昭和五三年六月三日現在認定患者五一名がいる。

(四) 家族の状況

父利右衛門は大正一五年五八才で、母スミは昭和三一年八八才で死亡した。病名は判然としない。

妻ツキ(明治三三年七月一八日生)は知覚障害等を訴え水俣病認定申請中である。

源蔵の長姉オエマツも現在寝たきりで認定申請中であり、オエマツの娘むこ長船国広は網元で水俣病認定患者である。

次姉キミノの夫尾上仙之助は源蔵と一緒に漁をしていたが水俣病認定患者である。

子供は、次男が一〇年程前に心臓マヒで死亡した。四女瑞枝が頭痛、肩こり、物忘れなどの症状があり、同人は昭和三二年同じ部落の漁家に嫁したが、その子三人(昭和三三年生、昭和三五年生、昭和三八年生)の臍帯中のメチル水銀値は各一・〇七PPm、二・四〇PPm、〇・四〇PPmであった。

2 尾上源蔵の症状について

(一) 既応症

昭和三〇年頃胃潰瘍、肝臓疾患で通院。

昭和四六年白内障。

昭和四八年一二月虫垂炎。

昭和四九年七月腸の手術。

(二) 症状出現とその経過

昭和三四、五年(六〇、六一才)頃から手足のしびれを覚えた。沖へ出た時、かし網の浮きが容易に見あたらなかったり、遠くの風景がかすんでみえたりした。また、網をくるにも足がよろよろしたり、魚を網からはずすのがうまくいかなくなった。

昭和四〇年頃視力が著しく衰え、眼球が白くにごってきた。

昭和四六年頃眼の手術をする予定であったが実現しなかった。

昭和四七年一二月、朝、食膳に向かったところ、左手の力がぬけて茶碗を落とした。中風ということで一ヶ月入院。このときは血圧一八〇ミリメートル水銀柱であった。

昭和四九年五月頃、頭が割れるように痛み、体がずきずきしたため市立病院に約二五日入院した。

現在は二週間に一回水俣診療所にタクシーで通っている。

昭和三五年から鹿児島県衛生研究所が行った毛髪水銀値の調査では、同人の毛髪水銀値は、昭和三五年一〇月二一日八三・六PPm、昭和三六年三月三日五七・七PPm、昭和三七年五月一七日二〇・九PPm、昭和三九年五月三日一五・五PPmである。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、手足、口の周りのしびれ感、じんじんする、頭、首すじ、腰の痛み、眼がかすむ、耳が遠い、耳鳴り、胃がやけて重い、指先がきかない等があり、聞かれて肯定したものに、だるい、回りがみえない、匂いがわからない、味がわからない、転び易い、草履など脱げたのがわからない、手が不自由、物をとり落す、ボタンかけが難しい、言葉がはっきりしない、言葉がでにくい、上下肢の力がなくなった。下肢のからす曲り、ふるえる、眠りが浅い、疲れ易い、体がきつい、何もしたくない、気の遠くなる発作がある、めまい、立暗み等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

四肢末端に痛、触、冷の知覚障害が存し、左側に著しい。特に末端部の障害が強い。(椿鑑定、原田鑑定)

口周囲の知覚障害については、原田鑑定は認めているが、椿鑑定はマイナスまたはプラスマイナス程度で存在するか否か断定できないとされている。

ロ 運動失調

日常の細かい動作が少し不自由である。(椿鑑定)寝たり起きたり、立ったり坐ったりなどの運動の転換が困難である。(原田鑑定)

舌の運動はやや遅い。(椿鑑定、原田鑑定、ただし椿鑑定は力強さの点から正常範囲としている)

指鼻、指鼻指試験はわずかに拙劣であり、終止時に軽い振戦を認める。(椿鑑定)

膝踵試験は原田鑑定によれば遅くて不規則、椿鑑定によれば正常ということで、判然としない。

アジアドコキネーゼはやや遅い。(椿鑑定、原田鑑定)

図形画き試験は遅く振戦を伴う。(椿鑑定)

叩打試験は、右は規則的、左は少し不規則である。(椿鑑定、原田鑑定)

マン検査陽性(椿鑑定、原田鑑定)、ロンベルグ検査プラスマイナス程度である。(椿鑑定)

片足起立は左足拙劣、つぎ足歩行は動揺がみられる。(原田鑑定、乙第八号証の七、九)

以上、運動失調は軽度であるが、両側に認められ、左側にやや著明である。(椿鑑定、原田鑑定)

ハ 構音障害

言語はやや遅い。(椿鑑定)構音障害はプラスである。(原田鑑定)

ニ 筋力低下

左に強く、右側にも存在する。(椿鑑定、原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、眼球運動異常が認められる。(乙第八号証の一二ないし一五、椿鑑定、原田鑑定)

ヘ 聴力障害

軽度聴力低下がある(乙第八号証の一六)が、年令相当である。(椿鑑定)

ト 深部反射

左側で充進している。(椿鑑定)

チ 精神症状

心気的、いらいら感、暗く不気嫌な点がみられるが、とくに目立つ情意面の障害はない。興味や関心が乏しく狭いため日常常識的問題に欠け、記銘力障害がみられるが、知的機能に大きな障害はない。(原田鑑定)

計算能力はやや低下している。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によると、尾上源蔵には四肢末端の知覚障害、軽度であるが運動失調、軽度の構音障害、筋力低下、求心性視野狭窄、眼球運動の異常が認められるが、同人には昭和四七年一二月に脳血管障害の発作があって左半身麻痺をきたしており、さらに乙第八号証の一七、証人永松啓爾の証言、鑑定人原田正純の鑑定の結果によれば同人には変形性頸椎症、白内障、心障害があり、かつ年令からくる変化も加味されていることが認められ、前示症状もこれらの疾患により説明可能なものが含まれていることが認められる。

しかしながら、同人の症状のうち、四肢末端の知覚障害、求心性視野狭窄は右疾患からのみ説明することができず、同人の家業が漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食していたこと、同人の毛髪水銀値が最高八三・六PPmあったこと、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病に罹患していると認めるのを相当とする。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告尾上源蔵の症状は軽度の水俣病に属するので、原告尾上ツキ、同東キミヱ、同尾上利幸、同尾上ハル子、同山之内節子、同尾上幸弘、同尾上慎一、同東山瑞枝、同中村留里子、同林洋子、同尾上政夫は、原告尾上源蔵の水俣病罹患によって、右原告らが尾上源蔵の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないので、同原告らの請求は失当である。

五 中島親松 関係

甲第七八号証、同第一八一号証、同第三八〇号証の一、二、証人藤野糺(第二回)の証言、原告中島親松、同中島ツヤ、同中島孝治各本人尋問の結果、鹿児島公害衛生研究所に対する調査嘱託の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

中島親松は明治三九年一一月二〇日鹿児島県出水市の名護部落で、父浅太郎、母チヨミツの次男として出生した。父は漁師で、親松は小学校六年生の夏休み頃から近所の漁師の親方のところへ通い、小学校を卒業してからは住込んで漁業に従事した。

大正一五年(二〇才)に手こぎ舟を購入して独立し、弟松義と共に漁業を営んだ。

昭和五年妻クワと結婚し、昭和六年魚価が暴落して漁業不振となったので名古屋に出稼ぎに出て工員等をしていた。昭和一一年妻クワが死亡したので、昭和一六年現在の妻ツヤと結婚し、先妻との間に二子、後妻との間に三子をもうけた。

昭和二〇年出水に帰って現住所に居住し、再び漁業に従事した。まず手こぎ船で、次に動力船でかし網を行い、ヒラメ、カレイ、ボラ、エビ、カニ、タコ、イカなどを獲っていた。

漁場は主として水俣湾、米ノ津、茂道、切通、名護、桂島の周辺で、遠くは日奈久、田の浦の沖合まで出漁した。

昭和三七年発病に至るまで約一七年間漁業に従事した。

妻ツヤは小さな食料品店をやり、野菜等を売っていた。

(二) 食生活歴

魚介類が大好きで、名古屋へ出稼ぎの期間を除き、不知火海で獲れた魚を多食した。毎日大皿一杯位を食べ、時には買って食べた。刺身にしたり背ごしにしたりして、魚が主食といえる程であった。

(三) 環境の変化

昭和三五、六年頃、茂道や名護の沖合で多数の魚が海上に浮き上り、名護の海岸で貝が口をあけて死んでいるのもみた。同じ頃親松宅に出入りしていた猫が戸壁にバタッとあたったり下がったりして死ぬのを目撃した。同時期野菜の売れ残りや魚の骨を食べさせていた豚が急死した。

名護部落は昭和三四年頃死亡した柴田広志をはじめ現在まで五一名の水俣病認定患者がでている。

(四) 家族の状況

父浅太郎は明治四四年海で遭難し死亡した。

母チヨミツは昭和三年心臓麻痺で急死した。

兄は生後間もなく死亡、五才年下の妹ナミは三才で死亡、最初の妻クワは昭和一二年感冒がもとで死亡した。

妻ツヤ(明治四三年一二月一八日生)は手足のしびれ、眼のかすみ、難聴等を訴え、現在水俣病認定申請中である。

2 中島親松の症状について

(一) 既応症

小学校三年生時、右肘を脱臼、このため右肘の変形、運動障害が残り、これにより兵役を免除された。これを除けば生来頑健であった。

(二) 症状出現とその経過

昭和三五年頃からときどきずんずんするような頭痛があった。

昭和三七年六月一三日(五五才)深夜、便所にいこうとして立ち上ろうとしたとき、急に四肢のしびれ、左片麻痺をみて立ち上れなくなった。以後ほとんど寝たきりで、視力障害、全身の電撃感、口角下垂、流涎、起立障害、歩行障害を覚えるようになった。この間近所の医師に治療を受け、「脳卒中」と診断された。

約二年後に物につかまってやっと立ち上れるようになり、少しづつ歩けるようになったが、再び船に乗って出漁することはできなくなった。

その後二回発作で倒れたが、時期は判然としない。

毛髪水銀値は、鹿児島県公害衛生研究所の調査によれば、昭和三五年四月二五日一二三PPm、同年一〇月一八日一四四PPm、昭和三六年三月九日七八・六PPm、昭和三七年五月七日一四・〇PPm、昭和三八年九月一六日五・五PPmであった。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、頭、下肢の痛み、全身のだるさ、耳が遠い、匂いがわからない、転び易い、手が不自由、指先がきかない、言葉がはっきりしない、言葉がでにくい、不眠、疲れ易い、身体がきつい等があり、聞かれて肯定したものに、手足のしびれ感、物がはっきり見えない、耳鳴り、味がわからない、スリッパや草履がはきにくい、手から物をとり落す、ボタンかけが難しい、力がなくなった、筋肉がぴくぴくする、ふるえる、物忘れする、何もしたくない、気の遠くなる発作がある(昭和三七年以後二回意識喪失発作があった)等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

椿鑑定によれば、表在感覚障害は左下半身(第一〇胸髄レベル以下)には認めるが、遠位部と近位部の差はなく、口周囲の感覚障害はマイナスまたはプラスマイナスの程度にすぎず、その他の部位には全く認めない。振動覚はこれに対し著しく障害され、下肢は両側とも全く感覚はなく、上肢はほぼ正常、かつ上肢は圧覚計、触毛検査で異常を認めないということである。

原田鑑定によれば、触覚では左上肢、下肢に広く、右足首で鈍麻、痛覚ではすべて同じ、冷覚では両下肢に障害があるということである。

以上の所見を広くとっても、左半身の知覚障害、右下肢で触覚、冷覚に障害があることは認められるが、水俣病によくみられる如き手袋足袋様の知覚障害の存在を認めるに至らない。

右認定に反する甲第一一七号証の記載および証人土屋恒篤、同藤野糺(第二回)の各証言は前掲各証拠に照らしにわかに採用できない。

ロ 運動失調

日常の細かい動作が一部拙劣である。(椿鑑定、原田鑑定)

その他、原田鑑定中には、アジアドコキネーゼはプラスただし緩慢さが目立つ、指鼻試験はプラス、膝踵試験、叩打試験は不規則で緩慢、つぎ足歩行拙劣、直立時動揺があり、片足立ちは両側不能、全体的にみて軽度の運動失調が存するとの記載があるが、椿鑑定によれば、マン検査プラスのほか検査したすべてのもので異常を認めないということであって、前記の日常の細かい動作一部拙劣、マン検査陽性のほか判然とした運動失調を認めることができない。

ハ 構音障害

原田鑑定によれば言語は緩慢、不明瞭で軽い蹉跌がみられるとの記載があるが、椿鑑定によれば構音障害は認められないとのことで、判然としない。

ニ 筋力低下

左上下肢に認める。(椿鑑定、乙第九号証の七、九)

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、眼球運動異常が認められるが、昭和四八年九月二五日と昭和四九年五月一〇日の二回の検査において視野の変動が著しい。(乙第九号証の一〇ないし一三)

ヘ 聴力障害

軽度聴力低下はある(乙第九号証の一四)が、年令相当のものである。(椿鑑定)

ト 深部反射

右側より左側が強く、腹壁反射は右側正常、左側に消失している。(椿鑑定)

チ 精神症状

多幸的、弛緩状で、性格面で幼稚化が著明。中等度の健忘症状群があり、計算力に欠け、一般常識はきわめて貧困である。(原田鑑定)著るしい知能低下はない。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、中島親松には左半身に知覚障害、右下肢に軽度知覚障害、そして左上下肢の筋力低下、求心性視野狭窄、眼球運動異常が認められるが、水俣病によくみられる四肢末端の知覚障害を認めることができず、運動失調も境界領域であり、構音障害、聴力障害も特に所見としてとり上げるべきものはない。そして、同人には昭和三七年六月を初めとして、その後二回(乙第九号証の六によれば昭和四四年と昭和四七年)にわたる脳血管障害の発作があり、さらに、乙第九号証の七、九、同号証の一一および一三、同号証の一五、証人永松啓爾の証言によれば、同人には変形性頸椎症(頸部、腰部)があることが認められ、同人の左半身知覚障害、右下肢軽度知覚障害、筋力低下、運動失調等は右脳血管性障害および変形性頸椎症を原因とするものであること、同人の求心性視野狭窄、眼球運動異常は同人の脳血管性障害、高血圧性眼底(点状線状の網膜出血が数個みられる)を原因とするものであることが認められる。

鑑定人椿忠雄の鑑定の結果によっても、中島親松は第一〇胸椎のレベルで脊髄または末梢神経の障害が存在し、同人の症状は脳血管障害、頸椎症により説明されるもので、同人につきメチル水銀中毒症の症候は全く認められないとされている。

同人の視野狭窄については前記のとおり八ヶ月間で変動が著しいが、その理由は判然とせず、椿鑑定によればむしろ同人に視野狭窄があったこと自体奇異であるとの意見も出されている。

以上によれば、中島親松は昭和二〇年から昭和三七年まで漁業に従事し、その間およびその後現在まで名護部落に居住し、魚介類を多食したこと、同人の毛髪水銀値は昭和三五年四月一二三PPm、同年一〇月一四四PPmという高値を示している等の疫学的条件は存するものの、同人に認められる所見をもって、これを水俣病による症状であると認めるに至らず、結局同人が水俣病に罹患していると認めることはできない。

証人渥美健三、同土屋恒篤の各証言は前掲各証拠に照らすと、未だ右認定を覆すに至らない。

(二) したがって、原告中島親松が水俣病に罹患していることを理由とする同原告の請求は認めることができず、原告中島ツヤ、同松下チヨミ、同中島光雄、同中島孝治、同阪口スミ子、同灘岡とも子の請求もまた失当である。

六 山内了 関係

甲第六九号証、同第一二六号証の一ないし三、同第一九四号証、同第三八一号証、証人山内和博、同藤野糺(第二回)の各証言、原告山内了、同山内サエ各本人尋問の結果、検証(第三回)の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

山内了は大正九年三月二四日鹿児島県出水市下知識の福ノ江部落で、父助次郎、母フイの長男として出生した。両親は地曳き網漁を営み、網元として網子は二〇名程いた。一五才の頃から本格的に漁業に従事した。

昭和一七年妻サエと結婚し、その年から昭和二一年まで兵役で現在地を離れたほかは、現在地で漁業に従事した。昭和二三年、昭和二四年、昭和二七年、昭和三二年、昭和三四年、昭和三六年と四男二女をもうけた。

漁法は昭和三五年頃までは地曳網(船上で曳く)が主で、コノシロ、タチウオ、ススキ、タイ、エビ、ハモ、タコ、ボラなどを獲った。その他にはボラ網、カニ網、コノシロをとるカシ網、ベイ貝とり、エビ網等をしていた。漁場は蕨島から茂道沖にかけてであり、冬期には海苔作りをしていた。

昭和三一年、三二年、三三年と三年間連続して地曳網漁で出水市第一位の賞状を受けた。

昭和三五年頃から地曳網をやめて、かし網をするようになった。

昭和四五年頃から足がかなわなくなって、船に乗っても船尾にすわっているだけとなり、昭和四七年頃漁に出るのをやめた。その後は妻と三男和博が出漁している。昭和五二年一時大阪に行っていた和博が帰ってくるまで生活保護を受けていた。

現在は寝たきりである。

(二) 食生活

漁業で生計をたてていたため、魚介類の摂取を絶やさず、主食のようにして毎食たべていた。市場に出す前にとれた魚を一貫目程残し、これを一家で食べた。コノシロ、ボラ、エビ、カレイ、タチなどである。漁に出ない冬期には人からもらったり、市場から買ったりした。

(三) 環境の変化

昭和三一年頃から福ノ江沖で、スズキ、グチ、タチ、コノシロなどの魚が、潮の目にそって沢山浮いていた。

昭和三三、四年頃福ノ江沖から福ノ江海水浴場にスズキ、ボラなど大きな魚が沢山浮き、半分生きていたので、皆が出て拾った。エビが沢山流れていたこともあった。ハマグリがよだれをたらしたようになり砂にもぐることができないようになった。

同じ頃、隣家の福留武雄が飼っていた猫がくるっと回ったり、痙攣を起こしたり、ピクピクしたりして死んだ。

福ノ江部落からは松田庄松、大久保ヨシノ、渡辺喜久男、瀬崎敬吉、村上繁らが水俣病患者と認定され、近くの西新田の鳥羽瀬秋造も認定されている。

(四) 家族の状況

父助次郎は昭和三四年九月死亡したが、その二年程前から足がよろめき、よだれをたらし、物が言えないような状態であった。

母フイは昭和三〇年頃から病気で寝こみ、昭和三七年に死亡した。

妻サエ(大正一二年七月一〇日生)は昭和三五年から昭和三六年頃にかけて、流産を三回繰り返し、現在手足のしびれ感、疲れ易い、頭痛、手がだらっとして孫をうまく抱けない、めまい等の症状を訴え、水俣病認定申請中である。

昭和二三年に生れた長男一男は小児麻痺の既応症がある。

昭和三四年に生れた次女恵は二才時熱性疾患に罹患し、脳性小児麻痺と診断されたが、五才時痙攣発作を起こして死亡した。

昭和三六年に生れた四男志郎は未熟児として生れたが、知能障害があり、小学校、中学校は特殊学級であった。

2 山内了の症状について

(一) 既応症

小学校三年時に左上肢を骨折した。

昭和一八年マラリヤで六ヶ月入院した。

(二) 症状出現とその経過

昭和三四年(三九才)頃左上肢のしびれを覚えた。

昭和四二年頃歩行障害があらわれ、姉の孫の節句に行って歩けないようになり、リヤカーに乗せてもらって帰って来たことがある。また、よろよろして生垣にあたったり、倒れたりするようになった。

昭和四四年頃から船に乗っても後方に坐りっぱなしというような状態であった。

昭和四八年六月出水市立病院に入院したが、症状は改善せず、約一ヶ月で退院した。

昭和四九年四月頃から症状は急に悪化し、寝たきりで、日常生活の全てにわたり、妻の介護が必要な状況である。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

手足口のしびれ、頭痛、物がはっきり見えない、回りがみえない、言葉がでにくい、言葉がはっきりしない、耳がとおい、頭ははがまをかぶったような状態、箸や茶碗を握れない、ものを飲みこめない、よだれが絶えず出る、煙草をおとす、煙草の火でやけどする、夜二回位全身の痙攣がくる、耳鳴り、身体のふるえ等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

四肢末端に知覚障害が存する。(椿鑑定、原田鑑定)

口周囲にも知覚障害が存する。(椿鑑定、原田鑑定)

ロ 運動失調

振戦が全身にみられる。(椿鑑定、原田鑑定)

指鼻試験プラス、アジアドコキネーゼ2プラスである。膝踵試験は粗大力低下、振戦のため不能だが、一〇から一五センチはずれたところに踵がくるプラス。(原田鑑定)

歩行は両足を引きずり、ゆっくり歩くことは可能だが、動揺があって介助が必要である。(原田鑑定)痙性歩行である。(乙第一〇号証の七、九)

マン検査や片足立ちは不能である。(原田鑑定)

ハ 構音障害

全音不明瞭で発語の発動が著しく遅延し、大きく口をあけゆっくり発音する。一つ一つ区切るように手で指折り数えてメ・ガ・ネと発語する2プラス。(原田鑑定)

しかし、言語は球麻痺または仮性球麻痺のそれであり、失調性のものではない。嚥下障害のある点、下顎反射亢進、舌萎縮マイナスの点もこれを裏づける。(椿鑑定)

ニ 筋力低下

上肢は比較的保たれているが、下肢はマイナス3程度に障害されている。(原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、眼球運動異常が認められる。(乙第一〇号証の一〇、一一)

ヘ 聴力障害

左側に強い聴力障害が存する。(原田鑑定)

ト 深部反射

全体に亢進している。(椿鑑定)

チ 流涎

著しく、一日二〇枚程度のタオルを使用する。(原田鑑定)

リ 精神症状

今日の月日は不明、自分の年令は答えることができる。眼鏡、時計、ネクタイなど物品呼称できる。言語に対する応答はきわめて貧困であるが、「立ちなさい」「目を閉じよ」「手を叩いて」「指を三つ出せ」などの指示にはよく応じる。しかし、放置すると無言、無動作状態に似た状態を呈し、欲動、意思、感情の高度な障害を認める。感情失禁と中等度の知的機能障害がみられ、部分抵抗症、手の把握反射、開口反射の傾向など、原始反射が認められる。(原田鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実および椿鑑定、原田鑑定を綜合して考えると、山内了には脳血管性障害、仮性球麻痺が存し、失調、構音障害、嚥下障害、知的機能障害等は右疾患によるものであることが認められる。

しかしながら、同人には四肢末端、口周囲の知覚障害、および求心性視野狭窄がみられ、これらの症状を右疾患からのみ説明することができず、家業が漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食したこと、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病に罹患していると認めるのを相当とする。

(二) そして、同人の症状は一見重篤にみえるけれども、これは脳血管性障害、仮性球麻痺による症状が重いためであり、水俣病の症状としてはなお前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告山内了の症状は軽度の水俣病に属するので、原告山内サエ、同山内一男、同梶原和代、同山内一則、同山内和博、同山内志郎は原告山内了の水俣病罹患によって、右原告らが山内了の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

七 坂本武喜 関係

甲第六五号証、同第三八二号証、証人樺島啓吉の証言、原告坂本武喜、同坂本フジエ各本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

坂本武喜は明治四三年一一月一〇日水俣市袋で、父辰次、母セヨの長男として出生した。父はチッソ株式会社の工員、母は農業をしていた。生家は袋湾から二~三〇〇メートルの海辺で、昭和四六年頃埋立が行われ現在は海からやゝ遠くなっているが、現在もその出生地に居住している。

小学校卒業後は家業である農業の手伝いをしながら、袋湾で魚を取って食べた。昭和一二年から一年半、昭和一六年から二年、昭和二〇年に二ヶ月間右土地を離れ兵役についた。

昭和一五年妻フジエと結婚し、子供は六人もうけたが、第三子ゆみ子は四才の時肺炎で死亡している。

昭和二五年頃からは森林の伐採に日稼で行っていたが、昭和四〇年頃身体が具合わるくなり、働くことができなくなった。

その後妻フジエにおいて田畑の耕作、営林署の作業等をしていたが、生活費にあてるため田畑を売却したことや、母セヨが昭和四八年頃から寝込みその看病のため手をとられ思うように働けないことから、昭和四九年頃生活保護を受けるようになった。

昭和五三年第六子利定が同居してチッソ株式会社の下請の仕事をするようになり、生活保護は打切りとなった。

(二) 食生活

坂本武喜は子供のときから海に貝をとりに行き、大人になってからは夜ぶり(夜魚をとりにゆくこと)に行き、主にタコをとっていた。母セヨ、妻フジエはかき打ちに行くことが多く、特にセヨはよく行っており、とってきたカキを武喜に食べさせていた。山の伐採に行っていた際、金子茂、森伊三郎からよく魚をもらって食べたが、この二人は水俣病患者に認定されている。したがって、家業は漁業ではないが、魚介類はよく食べた。

酒は一日二合位飲んでいた。

(三) 環境の変化

昭和三三年飼犬が足を曲げたようにしてよろよろ歩いて死亡し、昭和三一年に生れた猫が昭和三四、五年頃死亡した。

現在隣家に居住している山内甚蔵は以前は道路を隔ててすぐ近隣に住んでいた者であるが、水俣病患者に認定されている。

袋地区には認定患者が数一〇名存する。

(四) 家族の状況

父辰次(明治一六年一月三日生)は昭和三三年原因不明の病気で死亡した。

母セヨ(明治二四年五月一日生)は昭和三六、七年頃から頭痛、目がみえない、足がひきつるなどの症状を訴え、昭和四八年より寝込んだ。水俣病の認定申請をして、二次検診まで受けたが、三次検診のとき寝こんで出られず、昭和五〇年一月五日死亡した。

妻フジエは昭和二七年頃から頭痛、昭和四一、二年頃耳鳴り、昭和四五、六年頃からカゴを肩にかついでいる時よく取落すようになり、茶碗も取落してよく割った。現在もカラス曲り、目まい、匂いがわからないなどの自覚症状を訴え、認定申請中である。

長女は小さい時から眼が悪い。

2 坂本武喜の症状について

(一) 既応症

子供のときから成績もよく、健康で、剣道、踊り等をし、大人になってから、農協の部落組合長、農協共済の被害調査員、PTA地区役員等をしており、山仕事でも力があり、特に病気というものはしなかった。

(二) 症状出現とその経過

昭和三〇年頃から自転車に乗っていると両手がしびれて感覚が鈍くなることがあった。

昭和三四年頃から頭痛、頭重感、めまい、手に力が入らないなどの症状が悪化し、時に寝込むことがあった。

昭和四〇年一月二日うなり声が部屋から聞えるので妻子が行ってみると、坂本武喜が痙攣をおこし、歯を食いしばるようにしていたので、市川医師に診察してもらったが、「高血圧症」の診断であった。約二ヶ月位じっとしてその後仕事に出ていたが、同年八月気分が悪くなり、そのまま寝込むようになった。市川医院に通院した後、水俣市立病院に二ヶ月位入院したが、入院中は口がきけず、歩行困難、手のふるえ、目がかすみみえにくい、人の話が聞きにくいなどの症状がみられた。この時の診断名も「高血圧症」であった。

退院してからは、市川医院、次いで水俣診療所に通院し、寝たり起きたりの生活をしており、仕事は全くしていない。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、足のしびれ感、頭、肩、背中、腰の痛みがあり、聞かれて肯定したものとして、手足がじんじんする、全身がだるい、物がはっきりみえない、回りがみえない、耳が遠い、耳鳴り、匂いがわからない、転び易い、スリッパや草履がはきにくい、草履などが脱げる、指先がきかない、手から物をとり落す、ボタンかけが難しい、言葉がはっきりしない、言葉が出にくい、力がなくなった、上肢の筋肉がぴくぴくする、上肢のふるえ、疲れ易い、身体がきつい、何もしたくない、物忘れする、めまい、立暗み等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

椿鑑定によれば、四肢に表在感覚鈍麻があるようであるが、詳細な検査を反復したところでは、不確実な点もある、上肢では両側とも尺骨側にやや著明であるということであり、原田鑑定によれば一部不自然なところがあるが、手袋足袋様の知覚障害が認められるということであって、四肢に何らかの知覚障害が存在するとは認められるものの、水俣病の知覚障害としては、不確実、不自然さがあると判断される。

ロ 運動失調

椿鑑定によれば、日常の細かい動作はかなりよく行う、舌の運動正常、アディアドコキネーゼやや遅いが規則的、指鼻指、指耳試験、膝踵試験いずれも正常、図形画き試験はやや動揺性であるが年令を考慮すれば異常とはいえない、叩打試験はわずかに遅いが規則的であり正常と判断される、ロンベルグ検査は陰性、マン検査の動揺度は年令相当を越えるものではないとされ、結局運動失調はないとされている。

他方原田鑑定によれば、指鼻試験は拙劣ではずれてプラス、膝踵、叩打試験は緩徐でプラスマイナス、歩行は両足を開いて不安定、つぎ足歩行、直立時動揺プラス、片足立ちは三ないし一〇秒で倒れてしまいプラスマイナス、全身の動作の不適格さ、緩慢さ、拙劣さプラスということで、これらの所見については粗大力低下や痛みが関与しているので共同運動障害としてはプラスマイナス程度の軽いものとしている。

以上によれば、運動失調は存在するとしても、境界領域のごく軽度のものと判断される。

ハ 構音障害

原田鑑定によれば、言語は遅く、すべての音が不明瞭で、長く話するほど不明瞭となるとされ、椿鑑定では判定困難(長い連続音の発語中時に遅くなるが緊張のためかとも思われる)とされ、構音障害は認めるとしてもごく軽度のものと判断される。

ニ 筋力低下

原田鑑定によれば上下肢に存するとのことであるが、椿鑑定および乙第六号証の五に照らすと判然としない。

ホ 視野、眼球運動

視野の沈下が認められる(乙第六号証の五)が、これも正常範囲との境界領域である。(証人武内忠男(第二回)の証言)眼球運動は正常範囲である。(乙第六号証の五)

甲第一〇四号証の記載、証人渥美健三の証言中には昭和五二年五月一四日に視野検査をなしたところ、求心性視野狭窄が存したとの記載ないし供述が存するが、同証人の証言によれば右視野表は医師たる同証人が直接測定作成したものでなく、水俣診療所の職員にまかせた(眼科専門の検査技師ではない)ということであって、その結果が正確なものであるか疑問が存するうえ、乙第六号証の五により認められる審査会の医師の検査(昭和四八年八月一四日実施)の結果に比して視野の変動が著しいことをも考慮すると、右記載ならびに供述はにわかに採用することができない。

ヘ 聴力障害

軽度聴力低下はある(乙第六号証の五)が、年令相当のものと認められる。(椿鑑定)

ト 深部反射

正常ないしやや低下である。(椿鑑定)

チ 精神症状

古い記憶はほぼ保たれているが記銘力に軽度障害があり、一般的知識は乏しく、計算障害は中等度である。しかし、理解力、判断力には粗大な障害はみられない。多幸的である反面涙もろく、抑制欠如などの性格障害が認められる。(原田鑑定)年令を考慮し著しい知能低下はない。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、坂本武喜には四肢の知覚障害(但し水俣病の知覚障害としては不自然、不確実)、軽度運動失調、構音障害、視野の沈下の所見がみられるが、乙第六号証の五、証人武内忠男(第二回)の証言によれば、同人には脳血管障害(前示認定の如く二度の発作が認められる)があり、他に同人の頸椎五、六番目に骨棘形成があって変形性頸椎症があり、眼底は、高血圧性眼底でキース・ワグナーⅡ度程度(小出血を伴う)が認められ、同人の前記症状はこれらの疾患を原因とするものであること、審査会で認めた同人のつぎ足歩行障害、手足の振動覚の短縮、視野沈下等がもし水俣病を原因とするものであるなら当然知覚障害その他水俣病に典型的にみられる症状がより明らかに出現するはずであるがこれがないことが認められる。

また、鑑定人椿忠雄の鑑定の結果によれば、坂本武喜の症状には水俣病を疑わせるものはなく、同人には瞳孔不同症があり、左瞳孔が明らかに小さく、対光反射マイナスで(対光反射ありとする証人樺島啓吉の証言は右鑑定結果および鑑定人原田正純の鑑定結果に照らして採用できない)、輻輳反応は保有されていて、アーガイル・ロバートソン徴候があり、むしろ水俣病以外の疾患の存在を疑わせるとの結論がだされている。

そうすると、坂本武喜は袋湾の近くに居住し、家族が捕獲したり、あるいは他人から譲り受けたりした魚介類を多食した等の疫学的条件は認められるけれども、同人に認められる所見をもって、これを水俣病による症状であると認めるに至らず、結局同人が水俣病に罹患していると認めることはできない。

また、証人白木博次の証言中には脳血管障害自体有機水銀の影響によるものであるとの供述が存するけれども、乙第四号証の四、証人武内忠男(第一回)、同永松啓爾の各証言からすると、未だ水俣病研究者の間でも右結論につき賛成が得られているわけではないことが認められ、右脳血管障害を直ちに水俣病の症状と認めることはできない。

(二) したがって、原告坂本武喜が水俣病に罹患していることを理由とする同原告の請求は認めることができず、原告坂本フジエ、同坂本達美、同坂本幸子、同坂本安夫、同坂本きよ子、同坂本利定の請求もまた失当である。

八 吉田健蔵 関係

甲第六八号証、同第一九六、一九七号証、同第一九八号証の一ないし三、証人吉田ヒデ子、同宮本利雄の各証言、原告吉田健蔵本人尋問の結果、鹿児島県公害衛生研究所に対する調査嘱託の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

吉田健蔵は昭和四年五月一八日鹿児島県出水市の名護部落で、父浅次郎、母ツルの次男として出生した。同胞は八名、長兄は事故死している。家は祖父の代から網元であり、健蔵も小学校四年生の頃から漁に出かけていた。

漁業の内容は夏の間はイリコ漁で茂道から蕨島まで回り、冬、春は延縄、三重がしで、タイ、ハモ、チヌ、ボラ、スズキ、アジ等をとった。特に恋路島では魚が多く、よく漁に出た。

家は海のすぐ際で、昭和二〇年二月から九月まで海軍に入隊したほかは、同じ場所で暮してきた。

昭和二七年二月妻ヒデ子と結婚し、四人の子をもうけた。

昭和三二年には吉田家は出水市の延縄漁業の水揚げで第二位になった。

(二) 食生活

漁業で生計をたてていたため、魚介類を多食し、刺身、煮つけ、味噌汁等にして、一日約二キロほど摂取していた。

(三) 環境の変化

昭和三三年の夏頃、切通から茂道に行く途中の海上で、魚が潮目に沿って帯のように無数に浮いていたことがあった。

猫が走り込んできて壁にぶつかり、その後はひょろひょろしたり、あるものはくるくるまわったりするなど狂ったのを何匹かみた。自分の家に居ついていた猫はいつのまにかいなくなった。

昭和三三年八月隣家の柴田広志が水俣病に罹患し、物が言えず、歩けず、よだれを垂らすようになった。同人は健蔵が漁でとってきた魚を買上げ、売りさばく仲買商であった。

昭和三七年頃豚が二頭変死した。

名護部落は昭和五三年六月三日現在認定患者五一名がいる。

(四) 家族の状況

父浅次郎(明治三〇年六月二七日生)は昭和三八年頃より腰痛で、現在針灸院に通っており、母ツル(明治三八年三月二五日生)は難聴で身体障害者手帳四級をもらっている。

妻ヒデ子(昭和四年九月四日生)は昭和三五年一月三男秀寿を生んで四ヶ月後に倒れ、入院したが、その時は貧血ということだった。退院後も頭痛、吐気、めまいが続き、立仕事をするときつくてすぐ横になる状態で、通院、針灸に通っていた。昭和三五年七月出水保健所の毛髪水銀量の検査結果は七六・三PPmであった。昭和三六年妊娠したが、後記の如く三男秀寿の生育が遅れているので、同様なことが起るのを恐れて中絶した。昭和五二年一一月水俣病と認定された。

三男秀寿(昭和三五年一月一一日生)は、生れた時から元気がなく、二才でようやく歩きはじめ、小学校では特殊学級、中学校からは普通の学級であるが成績は極めて悪かった。臍帯中のメチル水銀値は二・〇六PPmで、昭和五三年水俣病に認定された。

2 吉田健蔵の症状について

(一) 既応症

従来はスポーツが万能であり、特に病気をしたことはなかった。

(二) 症状出現とその経過

昭和三三年九月(二九才)頃、手の先がじんじんして冷たい感じ、そしてしびれがきた。同年一〇月頃、朝目がさめたら肩から下、口の周りや舌がしびれ起きるに起きられなかった。

昭和三七年頃より耳鳴があり、耳が遠いことが判明、昭和三八年首が硬直し、身体が不自由で人並みに働けないようになり、昭和四〇年眼が悪くなった。

健蔵の毛髪水銀値は、鹿児島県公害衛生研究所の調査によれば、昭和三六年二月二八日一〇五PPm、昭和三七年五月二四日三九・六PPm、昭和三九年五月一四日四一・一PPmであった。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、手、口の周りのしびれ感、じんじんする、頭、上肢、腰の痛み、指先がきかない、手が不自由、脱力感、上下肢のふるえ等があり、聞かれて肯定したものに、全身のだるさ、物がはっきりみえない、耳が遠い、耳鳴り、匂いがわからない、味がわからない、転び易い、草履などが脱げる、言葉がでにくい、ボタンかけが難しい、上下肢のからす曲り、筋肉がぴくぴくする、不眠、疲れ易い、根気がない、いらいらする、物忘れする等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

四肢遠位部に著しい対象性表在知覚障害(鈍麻)がある。(椿鑑定、原田鑑定)上腕では両側とも尺骨側でやや著しい。(椿鑑定)

口周囲の知覚障害については原田鑑定は認めるが、椿鑑定は認めないということであって、判然としない。

ロ 運動失調

日常の動作はぎこちなく、拙劣、ズボンの着脱は立ったままでできない。(椿鑑定、原田鑑定)

指鼻、指眼、指耳試験で、ごく軽い終止時振戦があり、運動の終止時に短時間停止するようにみえる。(椿鑑定)

膝踵試験はやや拙劣である。(原田鑑定、乙第一二号証の七、八)

舌の動きはやや緩慢である。(原田鑑定、乙第一二号証の七、八)

マン検査陽性である。(椿鑑定、原田鑑定)

片足起立障害、つぎ足歩行拙劣がみられる。(原田鑑定、乙第一二号証の六、七、八)

全般的にいって、運動失調は障害されているといえるが、軽度もしくは境界程度である。(椿鑑定、原田鑑定)

ハ 構音障害

原田鑑定によれば、言語はたどたどしく、不明瞭、蹉跌あり、構音障害プラスとされているが、椿鑑定によれば、ぼくとつではあるが構音障害ではないということであって、判然とし難い。

ニ 筋力低下

認められないか、認められるとしてもごく軽度である。(椿鑑定、原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、眼球運動異常はない。(椿鑑定、乙第一二号証の一三ないし一六)視野沈下は認められる。(乙第一二号証の一一)

甲第一〇一号証、証人渥美健三の証言中には同人には中等度の求心性視野狭窄が存するとの記載ないし供述が存するが、右は前掲証拠に照らし、にわかに採用できない。

ヘ 聴力障害

軽度聴力低下はある(乙第一二号証の一七)が、年令相当で正常範囲である。(椿鑑定)

ト 深部反射

正常である。(椿鑑定)

チ 味覚障害

認められる。(原田鑑定)

リ 嗅覚障害

認められる。(原田鑑定)

ヌ 精神症状

多訴、心気的、かつ無気力、易疲労で、神経衰弱様状態が軽くみられる。一般常識にやや乏しく、軽度の記銘力障害が存する。(原田鑑定)著しい知能低下はない。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、吉田健蔵には四肢末端の知覚障害、軽度の運動失調、視野沈下がみられ、家業は漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食していたこと、家族内でも妻ヒデ子、三男秀寿が水俣病患者として認定されていること、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病であると認めるのを相当とする。

なお、乙第一二号証の二一および証人永松啓爾の証言によれば、吉田健蔵は審査会において、アルコール中毒の疑いがあるとされたことおよびアルコール中毒の症状には種々の態様があり、同人の症状もこれと矛盾しないことが認められるが、原告吉田健蔵本人尋問の結果によれば同人は飲酒はしていたが普通程度の飲酒量であったことが認められ、前記のとおり疫学的条件を考慮すれば、水俣病に罹患していることを否定し得ないというべきである。

また、右乙第一二号証の二一および証人永松啓爾の証言によれば、審査会では吉田健蔵に変形性脊椎症および網膜症の疾患があることをも指摘していることが認められるけれども、証人土屋恒篤、同渥美健三の各証言によればいずれもさしたる病変ではなく、これにより同原告の症状がすべて説明されるものではないことが認められるので、前示認定を覆し得ない。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告吉田健蔵の症状は軽度の水俣病に属するので、原告吉田ヒデ子、同吉田浅次郎、同吉田ツル、同吉田健司、同吉田清人、同吉田浪子、同吉田秀寿は、原告吉田健蔵の水俣病罹患によって、右原告らが吉田健蔵の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

九 島崎成信 関係

甲第六一号証の一、同第三八四号証の一、二、証人島崎実雄、同吉海美秋、同藤野糺(第二回)の各証言、原告島崎成信、同島崎佐代子各本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

島崎成信は昭和九年六月二二日鹿児島県出水市桂島で、父岩男、母フクの長男として出生し、同胞は四名であった。家業は漁業であったが、両親は船を所有せず、当時桂島には鯛網の網元として川元政太郎、島崎栄、佐々木末義、山本義男らがおり、両親は主に川元政太郎の網子として同人の船に乗り組み操業していた。

父岩男は昭和一九年成信が一〇才の時戦死し、この頃から成信は父に代わり、父のいとこにあたる島崎栄の網子として出漁するようになった。

約一、二年して、成信はまだ年は若かったが、佐々木末義、島崎栄から借入れた金員で約二トンの帆船を購入して、母フク、姉美代子、母の姉蒔平トヨ、その養子蒔平守らと船に乗り組んで一本釣や、はえなわ漁に出るようになった。漁は恋路島周辺であった。

そして、自分の船による漁の他に、はえなわ漁の餌にするイワシを入手するため、茂道のイワシ網の網元であった杉本長義の網子として同人のもとで働いていたこともあり、また茂道へ寄港した際、母の妹宮内ナシの家へ立寄り、同人の夫宮内辰造のぼら網の網子として働いたこともあった。

昭和三一年から、桂島の人々の要望もあり、自分自身も漁業一本の生活から脱する好機と考えて、桂島の代表として出水市の漁業協同組合に勤務をはじめた。仕事は、魚市場のチキリトリで、漁師が持ちよってくる魚を、計量し、種別等級を選別し、せりを主催するというもので、体力と熟練とを要した。

魚市場に勤務するようになってから持船を売却し、昭和三三年母を出水市米の津に呼びよせ、同所で母は魚の行商をするようになった。

昭和三四年妻佐代子と結婚し、二男一女をもうけた。妻は魚屋を経営し、成信は副業として、床屋の経営、うなぎの養殖などを手がけてきた。

昭和三六年頃から後記のとおり身体の具合がおかしくなり、病院へ入通院を繰り返したが、昭和四八年頃まで魚市場に在籍し、その間市場の現場主任、漁協労組委員長、出水地区労代表幹事などをした。

(二) 食生活

成信は肉を好物としていたが、父が死亡し、生活保護を受けていた生活で月に一度位しか摂取する機会がなく、もっぱら魚介類を多食した。三食いずれも魚を食べ、通常人よりもかなり多い摂取量であった。

魚種は、タチウオ、コノシロ、タコ、イカ、アワビ、クロダイ、ガラガブなどである。

(三) 環境の変化

成信は昭和三一年頃まで桂島に居たが、同島にいた多数の猫が狂死してほとんど姿が見えなくなり、自宅で飼育していた豚二頭も狂死した。

(四) 家族の状況

母フク(大正二年五月二日生)は、手足のしびれ感、頭痛、身体のだるさ等を訴え、現在水俣病認定申請中である。

姉川元美代子(結婚後も昭和三三年二月まで母と同居し、現在も桂島に居住)は昭和五一年水俣病に認定された。

その他、親族のうち、同じ船に乗って出漁していた母の姉蒔平トヨとその子蒔平守、母の妹宮内ナシとその夫宮内辰造、その子宮内辰夫は水俣病認定患者である。

なお、親族ではないが、網元の島崎栄、杉本長義も水俣病に認定されている。

2 島崎成信の症状について

(一) 既応症

魚市場に勤務しはじめた昭和三一年頃までは、極めて壮健で、体力、気力があり、腕相撲、相撲などは他人にひけをとらなかったような状態で特記すべき既応歴はない。

(二) 症状出現とその経過

昭和三六年(二六才)頃から、他人に歩き方がおかしいと指摘されるようになり、疲れ易くなった。手足の感覚が鈍くなり、ソロバン入れとか記帳が下手になり、せりに於ける発声がはっきりしないということで苦情が出たりした。

昭和三六年から昭和三七年八代労災病院、出水市立病院に通院し、神経痛ということであった。

昭和三八年鹿児島大学医学部整形外科で受診し、黄靱帯肥厚と診断され、椎弓切除術(T12~L4)を受けた結果、腰の痛みは軽減したが、他の症状はあまり変わらなかった。

昭和四七年三月千葉労災病院を受診し、脊髄腫瘍の診断を受け、椎弓切除術(T12~L4)を受けて神経線維腫を摘出したが、歩行障害が悪化し、尿閉となった。

昭和四七年八月から水俣市湯の児リハビリテーションセンターに通院し、索引治療を受けた。

同年一二月同リハビリテーションセンターに入院し、腫瘍の残存の疑いにより再度椎弓切除術(L4~S1)を受けたが、腫瘍はなく、硬膜の変色、癒着が高度、馬尾神経萎縮が確認された。

昭和四九年一月鹿児島大学整形外科に転科し、同年二月椎弓除術(Th9~L4)を受けた。その際、左頸部左腋窩、膝窩内に神経線維腫を疑わせる腫瘍があり、レックリングハウゼン氏病と診断されたが、手術の結果腫瘍はなく、脊椎の変色、癒着などの変性が著明で、脊髄変性と診断された。

その後、湯の元温泉病院、水俣市立病院、田上泌尿器科に通院中である。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、頭、腰の痛み、全身のだるさ、下肢の重さ、物がはっきり見えない、耳が遠い、転び易い、手が不自由、指先がきかない、手から物をとり落す、下肢の力がなくなった、筋肉がぴくぴくする、ふるえる、疲れ易い、身体がきつい、排尿障害等があり、聞かれて肯定したものに、手足のしびれ感、時々じんじんする、回りがみえない、耳鳴り、スリッパや草履がはけない、ボタンかけが難しい、言葉がはっきりしない、言葉がでにくい、左右上下肢のからす曲り、不眠、物忘れする、気の遠くなる発作がある、頭がふるうような感じ等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

四肢末端に知覚障害が存する。(椿鑑定および原田鑑定、但し椿鑑定によれば水俣病に多い知覚障害とやや異なる旨の記載がある)

口周囲の知覚障害はマイナスまたはプラスマイナス程度である。(椿鑑定、原田鑑定)

ロ 運動失調

歩行は両足挙上不十分で歩巾が広く、叩きつけるように動揺して歩く。失調性麻痺性歩行である。(原田鑑定)

つぎ足歩行障害、直立時動揺が存する。(原田鑑定)

マン検査、ロンベルグ検査陽性である。(原田鑑定)

指鼻試験はわずかにはずれ、ごく軽度の企図振戦。アジアドコキネーゼも比較的早いがやや不規則。膝踵試験は粗大力低下を考慮に入れてもかなりはっきりしたプラスである。(原田鑑定)

手指のタッピング、手指の微細運動障害が存する。(原田鑑定)

ハ 構音障害

原田鑑定によれば言語はやや不明瞭で重たく、粘っこいが強い構音障害ではないとされ、椿鑑定によれば構音障害はないということであって、判然としない。

ニ 筋力低下

下肢に低下がある。(椿鑑定、原田鑑定)

上肢については椿鑑定は正常としているが、原田鑑定によればマイナス2程度の低下である。

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、眼球運動異常(垂直軸)が認められる。(乙第一三号証の六、七)

ヘ 聴力障害

軽度の難聴がみられる(乙第一三号証の八)が、年令相当である。(椿鑑定)

ト 深部反射

正常ないし減弱、アキレス反射のみ消失。(椿鑑定)

チ 膀胱、直腸障害

一日三、四回カテーテル導尿、便秘胃腸障害がある。(椿鑑定、原田鑑定)

リ 精神症状

過敏、神経質、心気的、思考など精神作業能力の低下がみられるが、特記すべき精神症状はない。(原田鑑定)著しい知能低下はない。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によると、島崎成信にはレックリングハウゼン氏病の疑いが存し、既に胸髄から腰髄にかけて神経線維腫摘出の手術をしたことがあり、その後の手術により癒着も確認されており、下肢の失調、粗大力低下、膀胱障害等はこれによるものと認められる。しかしながら、同人には四肢末端に手袋足袋様の知覚障害および求心性視野狭窄が存し、これらの症状を神経線維腫によって説明することができず(そのような場所に症状をきたす神経部位に腫瘍があるとの証明はない)、さらに家業はかつて漁業、その後魚協勤務、妻は鮮魚商をしていたもので、有機水銀により汚染された可能性のある魚介類を多食していたこと、家族内でも姉川元美代子が水俣病患者として認定されていること、同じ船で出漁していた母の姉蒔平トヨとその子蒔平守、母の妹宮内ナシとその夫宮内辰造、その子宮内辰夫、網元の島崎栄、杉本長義が水俣病患者として認定されていること、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病であると認めるのを相当とする。

なお、証人永松啓爾の証言中には、島崎成信の視野の狭窄は左右で非対象で不調和であるので、視神経レベルの障害ではないか、また、幾度かの手術による侵襲、脊椎造影等が視神経の障害をきたすことも考えられるとの供述が存するが、証人渥美健三の証言に照らすと、直ちに右供述を採用することができず、前示認定を覆し得ない。

(二) そして、同人の症状は一見かなり重いけれども、これはレックリングハウゼン氏病、神経線維腫、脊髄変性等による症状が重いためであり、水俣病の症状としては知覚障害、視野狭窄、眼球運動異常等にとどまり、なお前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のように、原告島崎成信の症状は軽度の水俣病に属するので、原告島崎佐代子、同島崎フク、同島崎和敏、同島崎成美、同島崎治は原告島崎成信の水俣病罹患によって、右原告らが島崎成信の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

一〇 岩崎岩雄 関係

甲第六六号証、同第一三二号証、同第一八三号証、同第三八五号証、証人岩崎カヲリ、同樺島啓吉の各証言、原告岩崎岩雄本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

岩崎岩雄は大正一一年一一月一〇日鹿児島県出水郡獅子島幣串で、父金七、母ヲトマの第二子として出生した。同胞は一二名、家は漁業をしていた。岩雄も小学校五年生位から父と共に漁に出かけていた。

昭和一二年頃に約半年間、水俣市梅戸で沖仲仕として働き、その後再び漁業に従事した。

昭和一五年には、兄弟が多く家計が苦しいので福岡県の炭鉱に出稼ぎに行き、昭和一九年兵隊に入隊、満州で終戦を迎え、ソ連に抑留され、昭和二二年復員し、獅子島に帰り父親と漁業に従事した。

漁業の内容はゴチ網漁で、漁場は水俣湾から出水沖、獅子島周辺であり、ハモ、グチ、エソ、エビ、クツゾコなどがとれていた。また、毎年五月から七月にかけては、ミズイカをとるイカ網漁もしていた。

昭和二五年八月妻カヲリと結婚し、一〇人の子をもうけたが、一人は死産、一人は生後一週間位で死亡した。

昭和四五年一〇月から半年間チッソ株式会社のカーバイト工場で臨時工員として働いた。

昭和四七年頃から身体がきつく、出漁の回数が減り、現在では妻子らと共に出漁しても網を入れたり引きあげたりなどの重労働はできず、もっぱら妻子らに魚のいるところ等漁場の指示をしている。

(二) 食生活

兄弟が多く生活が苦しかったこともあり、主食はイモと魚で、一日三食魚を食べていた。特にハモが好きであったが、ミズイカ、サバ、ツバメ魚、グチ、イカ、タコ、エビ、チヌ等の刺身、煮付けを大皿に盛って食べていた。

(三) 環境の変化

昭和二九年頃、不知火海にグチ、タチウオ、チヌなど海面にプカプカ浮いているのをみかけた。自宅で飼っていた猫がきりきり舞をし、あちこち突きあたり、泡をふいて狂死した。飼っていた豚もきりきり舞をし吐くなどして死んだ。カラスもよく死んでいるのを見かけた。

昭和三四年八月一九日付毎日新聞によれば、同年五月から八月までの間獅子島幣串において、いずれも八代湾でとれた魚を食べた飼猫一八匹が全部死亡したと報道されている。

獅子島では隣家の中元ヨシノ他約一二名が現在水俣病と認定されている。

(四) 家族の状況

父金七(明治三三年六月一〇日生)は従来から血圧が高かったが昭和四三年妻の入院先の病院で倒れて死亡し、母ヲトマ(明治三五年五月八日生)は昭和三七年頃手足のしびれ等を訴え水俣市内の尾田病院で一時入院加療をしたこともあったが昭和四六年死亡した。

妻カヲリ(昭和四年三月一一日生)は、昭和二五年結婚後、昭和二七年六月に死産、昭和二八年に妊娠四ヶ月で流産した。昭和五〇年頃から手足のしびれ、身体のだるさなどを訴え、現在水俣病認定申請中である。

現在生存している子八名も腰痛、頭痛、吐き気などを訴えるものが多く、長男義久(昭和二九年五月二五日生)は他の同年令の男子と比べ力が非常に弱い。

2 岩崎岩雄の症状について

(一) 既応症

青年時代は健康で力も強く、出水郡内の運動会で懸垂を五九回して優勝したことがあり、入隊時も甲種合格であった。

昭和一九年軍隊時代マラリヤに罹患、半年程入院した。

昭和五〇年二月から約二ヶ月間病的酩酊で入院した。

(二) 症状出現とその経過

約二〇年位前から身体の変調を感ずるようになった。

昭和四三年父が死亡する前後頃から、四肢の脱力感、手足のしびれ感、首から肩にかけての凝りと痛み、手から物を取り落す、手に力が入らないなどの症状がでてきた。漁に出ても網を引く力が弱くなり、妻に文句を言われたりした。

昭和四五年チッソ株式会社に臨時工員として働いたときも、力が入らず、あまり良く仕事ができなかった。

昭和四七年頃から、手足のしびれ感が強くなり、夜もよく眠れず、頭重感、難聴、耳鳴り、目がかすむなどの症状が加わった。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、手、腰から下のしびれ感、頭痛、物がはっきり見えない、耳が遠い、耳鳴り、転び易い、めまい等があり、聞かれて肯定したものに、全身のだるさ、匂いがわからない、味がわからない、指先がきかない、手から物をとり落す、ボタンかけが難しい、言葉がはっきりしない、手の力がなくなった、上下肢のからす曲り、筋肉がぴくぴくする、ふるえる、不眠、疲れ易い、身体がきつい、物忘れする、気の遠くなる発作がある、物忘れする等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

原田鑑定によれば四肢末梢の知覚障害はやや動揺がみられるが存在すると思われるとあり、椿鑑定によれば表在知覚は上肢では異常なく、下肢は触覚は正常で、痛覚が足関節以下に軽く障害されている程度であるとあり、障害の程度は軽度であるが、四肢末端に知覚障害が存することを認めることができる。

ロ 運動失調

日常の動作が緩慢でぎこちない。(椿鑑定、原田鑑定)

舌運動は緩徐であるが、力強い。(椿鑑定)

アジアドコキネーゼについては、椿鑑定によれば遅いが規則的、原田鑑定によれば早いがやや不規則ということであり、どちらともにわかに判定することができない。(なお、乙第一四号証の五によれば審査会検診医の検査においては緩慢とされている。)

指鼻、指耳、指眼試験は正確で振戦を伴わないが、指鼻指試験は両側ともやや拙劣である。(椿鑑定)

膝踵試験は、椿鑑定、原田鑑定によっても判定が微妙であり、拙劣であるかどうか判然としない。

図形画き試験は振戦を伴い拙劣であり、叩打試験は速度は速いが(この点はアジアドコキネーゼが遅いことと離反する)、不規則であり、また叩打点にばらつきがみられる。(椿鑑定)

マン試験時、下肢にリズミカルな(ガタガタする)振動がきて動揺する。(原田鑑定)

歩行は緩慢だがほぼ正常で、つぎ足歩行は動揺がみられる。(原田鑑定)

結論として、運動失調の検査相互間で一致しない点、あるいは日常生活の動作と検査結果との矛盾等は存するけれども、運動失調の存在が認められる。(椿鑑定、原田鑑定)

ハ 構音障害

言語はやや遅い。(椿鑑定)

話し方は重く、遅く、不明瞭であるが、構音障害の判定は微妙である。(原田鑑定)

ニ 筋力低下

上肢、下肢ともにやや低下がみられる。(椿鑑定、原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、視野沈下が存する。(原田鑑定、乙第一四号証の六、七)

眼球運動は追従視しないので検査不能である。(椿鑑定、原田鑑定)

ヘ 聴力障害

聴力の低下は存する(原田鑑定、乙第一四号証の八)が、年令相当で正常範囲である。(椿鑑定)

ト 深部反射

全体にやや亢進しているが、アキレス反射は右正常左減弱である。(椿鑑定)

チ 精神症状

感情的には暗く、鈍く、抑うつ的で、意欲減少、言語緩慢、粘着、気分易変など性格面に障害がみられる。記憶力、計算力が低下している。(原田鑑定)  ただし、計算はあまりやる気がなく、これは通常計算する必要、機会がないからとも考えられる。(乙第一四号証の五、椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、岩崎岩雄には極めて軽度であるが知覚障害が認められ、運動失調も各検査間に一致しない点もあるが存するものと認められ、家業は漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚を多食していたこと、飼猫が狂死したり、飼っていた豚が変死したことがあるなど、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病であると認められるのを相当とする。

なお、岩崎岩雄には視野狭窄があることが認められるけれども、甲第九五号証、証人渥美健三の証言によれば同人には視神経乳頭蒼白、視神経萎縮がみられ、これを原因とする視野狭窄であることも考えられる(もっとも、同人の証言によれば視野狭窄の程度が強すぎるので、有機水銀の影響も付加されているのではないかとのことであるが)、ので、これをもって水俣病の症状と直ちに考えることはできない。

乙第一四号証の一二、証人永松啓爾の証言中には、同人に変形性頸椎症、中枢性顔面神経麻痺があるとの記載ないし供述が存し、変形性頸椎症については甲第一二〇号証、証人土屋恒篤の証言によれば頸椎四の後方すべり、頸椎六、七の椎間板狭少化がみられ、軽度頸椎症の存在が認められるが、これらの病変により前記岩崎岩雄の症状のすべてを説明できないので、同人が水俣病であることを否定し得ないというべきである。

また、岩崎岩雄には既応症として病的酩酊が存するけれども、これにより何らかの神経症状の出現をきたしたと認めさせる証拠はない。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告岩崎岩雄の症状は軽度の水俣病に属するので、原告岩崎カヲリ、同竹本廣子、同岩崎義久、同岩崎政信、同岩崎うみこ、同岩崎政久、同岩崎喜佐良、同岩崎めいこ、同岩崎つむ子は、原告岩崎岩雄の水俣病罹患によって、右原告らが岩崎岩雄の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

一一 岡野貴代子 関係

甲第七二号証、同第三八六号証、証人上妻四郎の証言、原告岡野貴代子本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

岡野貴代子は昭和二〇年三月二三日水俣市湯堂で、父崎田末彦、母モモエの次女として出生した。両親は漁業をしており、姉と弟が一人づついる。父はかし網、一本釣、ボラ釣、タコつぼなどで、水俣湾一帯の魚介類をとり、母がこれらを行商していた。

貴代子は幼少時から貝とりなどを手伝っていたが、小学校三、四年頃から船に乗って父の漁の手伝をしていた。母が眼が悪く船に乗れないので、昭和二九年姉孝子が水俣病に罹患してからは、貴代子のみが父の手伝をすることが多かった。

昭和三五年に中学校卒業後名古屋に働きに行ったが一週間程度で水俣に帰った。

昭和四〇年四月岡野正弘と結婚し、そのときから水俣市丸島町に居住し、昭和四一年、四三年、四六年に各出産し、三人の子をもうけた。夫は外国航路の船員である。

(二) 食生活

両親が漁業を営んでいたし、家計が貧しかったこともあり、魚介類を良く食べた。大きな魚を売りに出し、小さい魚とか弱った魚を自家用にまわした。煮て食べるのはボラやタコで、ほとんど生で食べていた。大皿に盛った魚を家族五人が各自好きなように取って食べるという形式であったが、結局毎食魚介類を摂取した。

(三) 環境の変化

昭和三〇年頃水俣湾一帯に弱った魚が沢山浮くのがみられ、時には海辺に打上げられた。主にカワハギ、黒ダイ、コノシロなどで、うろこがはげたような魚もあった。

タチウオ釣りに使った餌(多くは自分の家で獲ったキビナゴ等の小さな魚)を猫に与えると、三日位で狂い出し、発作の時は目がみえないような感じで壁などに突き当ったり、いろりの火に飛び込んだりし、これがおさまると倒れて泡を吹き、最終的には死んでいった。沢山死んだが何匹かはわからない。

(四) 家族の状況

姉タカ子(昭和一六年七月九日生)は昭和二九年八月に発病し、昭和三一年一二月に水俣病に認定された。湯堂における最初の認定患者であった。

母モゝエ(大正二年四月三〇日生)は昭和四六年一二月に認定された。

父末彦(明治三〇年八月二六日生)は昭和三七、八年頃から全く働けなくなり、入院を繰り返した後昭和四〇年一一月死亡した。流涎があり歩行困難で、歩くと倒れることが多かった。

弟秀太郎(昭和二三年二月二七日生)は現在水俣病認定申請中である。

夫正弘は健康である。

子供三人はあまり丈夫な方ではない。

2 岡野貴代子の症状について

(一) 既応症

昭和三五年頃虫垂炎に罹患した。

(二) 症状出現とその経過

小学校入学頃(昭和二八、九年頃)から時々頭痛があり、小学校三、四年頃から一時的に意識がなくなることがあり、体育などは見学することが多かった。

結婚後も頭痛がひどく、また買物に出たりした時急に倒れて周囲の人に病院につれて行ったりされたことがあった。

昭和四六年頃から頭痛がとくにひどくなった。

昭和三五年当時の熊本県衛生試験所の分析結果による毛髪水銀量は三九・二五PPmであった。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、頭痛、特に左半分の頭痛、眼痛、嘔気発作、四肢のしびれ感、手指がじんじんする等がある。聞かれて肯定したものに、疲れ易い、転び易い、味がわからない、言葉がはっきりしない、手指のからす曲り、指先がきかない、筋肉がぴくぴくする、不眠等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

表面感覚鈍麻が四肢遠位部に左右対象性に存在する。(椿鑑定、原田鑑定)

口周囲の知覚障害はプラスマイナス程度である。(椿鑑定)

ロ 運動失調

日常動作は一応可能であるが、動作全体が不器用で遅い。(椿鑑定、原田鑑定)

舌運動はやや遅いが力強い。(椿鑑定)

指鼻、指鼻指、指耳、指眼試験は両側とも終止時振戦があり、目的をやや狂う。(椿鑑定、原田鑑定)

膝踵試験はやや拙劣である。(椿鑑定)叩打試験は遅く、不規則で、叩打点はかなりばらつき、一点を叩くことができない。(椿鑑定、原田鑑定)

マン検査障害がある。(椿鑑定、原田鑑定)ロンベルグ検査プラスマイナスである。(椿鑑定)

歩行は小巾、緩慢で、すばしっこさがなく拙劣である。(原田鑑定)

アジアドコキネーゼは判然としない。(椿鑑定ではマイナス、原田鑑定ではプラスマイナス程度である)

ハ 構音障害

言語は全体に遅く、「タタタ……」といった連続音発語も遅く不規則である。(椿鑑定)  甘えたような、一部幼児語に似る、長く引っぱる、不明瞭な話し方である。(原田鑑定)

ニ 筋力低下

上下肢とも軽度低下がある。(椿鑑定、原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

視野狭窄は審査会資料によればボーダーラインである。(乙第一五号証の五、証人武内忠男の証言)

眼球運動は審査会資料によれば正常であり(乙第一五号証の五)、椿鑑定では追従が不良で判定できない。

ヘ 聴力障害

軽度ながら存在する。(椿鑑定、乙第一五号証の五)

ト 深部反射

全般に正常である。(椿鑑定)

チ 味覚障害

存在する。(原田鑑定)

リ 精神症状

感情的には抑うつ、心気的傾向がみられる。性格面はやや子供っぽい。興味や関心の対象が狭い。一般常識やや貧困、軽い記憶力低下、計算障害がみられる。(原田鑑定、乙第一五号証の五)著しい知能低下はない。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、岡野貴代子には四肢末端の知覚障害、運動失調が存し、軽度あるいは境界程度であるが、構音障害、筋力低下、視野狭窄、聴力障害がみられ、結婚までは家業の漁業を手伝い魚介類を多食していたこと、家族内でも姉タカ子、母モゝエが水俣病認定患者であり、飼猫が何匹も狂死したことがあるなど前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病であると認めるのを相当とする。

発病の態様はやや通常の有機水銀中毒とは異なり、失神発作あるいは三叉神経痛様症状がみられるが、椿鑑定によれば心因性の疾患等が併存した可能性もあり、あるいは原田鑑定によれば小児期の発症は成人のそれと異なり、成人より脳皮質において広汎性に障害され微細脳傷害症状群がみられる場合があるということであって、いずれにせよ、前示水俣病を否定するものではない。

そして、年令が比較的若いのに、前示認定の如き症状を示す原因を他に見出すことができない。もっとも、乙第一五号証の五によれば頸椎に骨棘の形成はみられるが、これをもって前示症状の出現を説明することはできない。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告岡野貴代子の症状は軽度の水俣病に属するので、原告岡野弘正、同岡野昌子、同岡野隆司、同岡野隆弘は、原告岡野貴代子の水俣病罹患によって、右原告らが岡野貴代子の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

一二 森本與四郎 関係

甲第七七号証、同第二〇〇号証、同第二〇三号証の一、二、同第三八七号証、証人森本津留子、同佐野恒雄の各証言、原告森本正宏本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)、(二)の事実を認めることができ、2項(三)の事実は同項掲記の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

森本與四郎は明治四四年八月二〇日鹿児島県出水郡中出水村下鯖渕で父池田熊五郎、母池田ワサの三男として出生し、両親は不知火海の海産物の乾物の商売をしていたが、與四郎が五才の頃までに両親とも死亡した。

そこで、與四郎は川元関太郎にもらわれて育てられることになり、五才から七才頃まで水俣市袋、茂道で暮し、七才の時桂島へ転居し、一〇才の頃から養父川元関太郎と船に乗って出漁した。

大正一四年與四郎は家を出て、一年程朝鮮にわたり、帰国後桂島の森本ハツギクの長女サカと結婚し、森本家の養子となった。

昭和一六年から昭和二〇年まで兵役についたが、その後は桂島で漁業を営んでいた。

昭和二三年長男正宏が生れ、正宏が中学校卒業後は正宏と共に出漁した。

昭和四六年九月出稼ぎに出て大阪府八尾市のハンドバッグを作る工場に勤めたが、永続きせず、昭和四七年四月にここをやめて帰郷し、身体の具合がよくなく、妻サカも病弱だったので、一人で一本釣などをしていた。

昭和四八年長男正宏が帰郷し、二人で出漁するために同年一一月新しい船を作ったが、健康がすぐれなくなり、この船で出漁したのは数回であった。

與四郎が出漁していた漁場は桂島周辺、水俣、湯の児、茂道、出水、米の津沖、長島付近であり、獲れた魚類はタイ、チヌ、タチウオ、グチ、キス、ボラ、ハモ、カレイ、カニ、エビ、タコ、イカ等であり、漁法は一本釣、のべ縄、さし網であった。昭和三三年には出水市の延縄漁業の水揚げで第二位となっている。

(二) 食生活

主食同様に魚介類を摂取した。食べた魚介類は、タイ、チヌ、タチウオ、グチ、キス、ボラ、ハモ、カレイ、カニ、エビ、タコ、イカ、カキ、トリガイ、アサリ等である。

(三) 環境の変化

與四郎が居住していた桂島では、昭和三〇年頃から島の猫、豚等が狂死した。また、島の波打際や近海で大量に死んだり弱ったりした魚が打ち上げられるのがみられた。

桂島では現在までに水俣病認定患者が四一名出ている。

(四) 家族の状況

妻サカ(明治四三年四月一日生)は昭和四八年頃から手足のしびれ、肩こり等を訴え、水俣病の申請を行ったが、その後膀胱癌にかかり、水俣市立病院へ入院、手術を受けたが、昭和五〇年一月二五日死亡した。

右サカの妹倉井シゲノは水俣市茂道に居住しているが水俣病認定患者である。

2 森本與四郎の症状について

(一) 既応症

昭和四〇年七月より約六ヶ月間湿性肋膜炎で通院治療を行った。

(二) 症状出現とその経過

昭和四〇年(五四才)頃から「身体がだるい」という訴えをはじめた。昭和四七年頃より両下肢のしびれ、だるさ、肩こり、腰痛を覚えはじめ、時々下肢のからす曲りを覚えた。操業中船べりを歩けなくなり、網の修理がうまくできず、これまで見えていたハエナワの浮標がみえなくなった。時に、物に頭をぶつけたり、手にとった茶わんを取り落すようなことがあり、物忘れ、右耳の難聴を覚えた。

昭和五〇年胃癌にかかり、同年一二月一九日出水市立病院へ入院し、二回手術を受けたが、病状が改善せず、昭和五一年七月一八日死亡した。

(三) 所見

イ 知覚障害

乙第一八号証の七(審査会資料)には左手、両下肢に痛覚、触覚、温度覚の鈍麻がある旨の記載があり、甲第七七号証(医師佐野恒雄作成の診断書)には右手、左前腕部、両足に手袋足袋状の触覚の鈍麻、両手両足に手袋足袋状の痛覚の鈍麻がある旨の記載があり、左手および両下肢に知覚障害が存在することは認められるものの、右手の知覚障害については判然としない。

ロ 運動失調

甲第七七号証には一直線に足を並べて直立時の動揺あり、ロンベルグ検査陽性、開眼片足立ち不安定、指鼻試験拙劣、アディアドコキネーゼ両側にありとの記載があるが、乙第一八号証の七にはつぎ足歩行拙劣、片足立ちは正、左は不可のほか、ロンベルグ検査陰性、指鼻試験正常、膝踵試験正常、アディアドコキネーゼ正常といった全く異なる所見の記載もあり、片足立ち不安定、つぎ足歩行拙劣、一直線に足を並べて直立時動揺ありといった運動失調の存在が認められるほかは判然としない。

ハ 構音障害

甲第七七号証には構音障害ありとのみ記載あるが、その態様、程度等は明らかでなく、乙第一八号証の七の言語障害はない、舌運動正常とある記載からして、右証拠をにわかに採用できない。

ニ 筋力低下

上下肢に認められる。(乙第一八号証の七、甲第七七号証)

ホ 視野、眼球運動

視野狭窄は認められないが、視野沈下があり、左側により大である。眼球運動は正常である。(乙第一八号証の八)

ヘ 聴力障害

聴力障害は認められるが、神経性のものとは認められない。(乙第一八号証の九)

ト 精神症状

感情が刺激性であり、いらいらして怒り易く、軽い疲労感がある。記銘障害があり、物忘れがひどくつい最近のこともよく忘れる。記憶障害があり、終戦の年月日が解らない。計算力が低下しており、二桁の足し算、引き算がよくできない。(甲第七七号証)

(四) 解剖所見

乙第五三号証の五により、鹿児島大学医学部における病理解剖の結果は次のとおりであることが認められる。

Ⅰ 主要剖検診断

イ 胃癌術後(管状腺癌)

a著明な癌性腹膜炎

b腹腔内臓器の線維性癒着

c腸管の浮腫および拡張

d腹水四〇〇ml

e総胆管狭窄による急性胆嚢炎

f胆管周囲線維化および胆汁嚢胞形成を伴う胆汁うっ滞

g尿管周囲線維化による左腎の水腎症および急性腎孟腎炎

ロ 著明な急性気管支肺炎、両側性

a左胸水、五〇〇ml

ハ 中等度大動脈硬化症

ニ 軽度の大脳前頭葉萎縮

ホ 臓器萎縮(甲状腺、肝、副腎)

ヘ 膵の血管周囲性出血

ト 前立線肥大、小

Ⅱ 中枢神経系の病理学的所見

イ 肉眼的所見

脳重量は一三〇〇グラムで肉眼的に著明な変化を認めない。

大脳の連続割面でも著明な変化を認めない。

脳動脈硬化はほとんど認めない。

小脳、脳幹ならびに脊髄に著変を認めない。

ロ 病理組織学的所見

a後頭葉 グレンナーバンドの染色性低下が認められ、神経細胞層の層構造が乱れている。

神経細胞は各層で軽度の脱落があり、グリア細胞の反応を認める。

また、神経細胞の萎縮傾向が認められる。

b頭頂葉 前中心回においては、各層における神経細胞の萎縮、脱落がみられ、グリア細胞の反応が認められる。また、ベッツ細胞にも同様の変化がみられる。後中心回での同様病変は前中心回より多少強くみられる。

c側頭葉 同様の神経細胞病変は上側頭回にて比較的強く認められる。

d前頭葉 軽度ながら同様の病変を認める。

e脳幹 大脳基底核や脳橋、延髄には著明な病変を認めない。

f脊髄 後索ことにゴル索の髄鞘染色での淡明化が認められる。

g末梢神経 前根に比べ後根の脱髄、小線維増加、膠原線維の増加等の所見を認める。

腓腹神経でも軽度の同様所見を認める。

h小脳 顆粒細胞の脱落が部分的にみられ、プルキニエ細胞も滅少している。

グリア細胞の浸潤を認める。

これらの病変は小脳虫部に比較的強い。

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、森本與四郎にははっきりと存在する所見として、左手および両下肢の知覚障害、軽度運動失調、筋力低下、視野沈下等があり、なお、その解剖所見によれば、直接の死因は胃癌およびその合併症であるものの、大脳後頭葉、頭頂葉、側頭葉、前頭葉、脊髄、末梢神経および小脳に水俣病においてみられる病変が認められており、同人の家業が漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食していたことほか前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は生前有機水銀中毒に罹患していたものであり、すなわち水俣病であったと認められる。

ただ、同人の右手に知覚障害が存したかという点について、前掲乙第一八号証の七では判然としないが、前示認定の本人の自覚症状すなわち網の修理ができにくい、手から茶わんを取り落すといった症状からして、軽度ながら存在したものと認められる。

乙第一八号証の一三、証人永松啓爾の証言によれば、審査会は、同人の症状を脳動脈硬化症、右慢性中耳炎、変形性脊椎症、白内障で説明され得るとしたことが認められるけれども、同人にこのような疾病が存したとしても、前記解剖所見からして同人が水俣病に罹患していたことは否定し得ない。

(二) そして、同人の直接の死因は胃癌であり、水俣病の症状としてはなお前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 原告森本正宏は患者森本與四郎の唯一の相続人として、同人の有する前記慰謝料請求権を相続により承継取得した。

同原告はさらに、患者森本與四郎の水俣病罹患を理由とする自己固有の慰謝料請求をなしているが、以上のとおり森本與四郎の症状は軽度の水俣病に属するので、同原告が森本與四郎の水俣病罹患により、同人の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告の右請求部分は失当である。

一三 蒔平時太郎 関係

甲第六四号証、同第三八八号証の一、二、証人蒔平勝子、同藤野糺(第二回)の各証言、原告蒔平時太郎、同蒔平恒夫各本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

蒔平時太郎は明治三五年二月七日鹿児島県出水市の桂島で、父小四郎、母ワカの第五子(四男)として出生した。家業は漁業で、時太郎も小学校卒業の時から漁業に従事した。

昭和七年現在の妻ミカノと結婚し、先妻ヌイとの間に一女、後妻ミカノとの間に三男四女をもうけたが、一人は生後数ヶ月で死亡した。

漁場は桂島から水俣付近で、主として延縄で、底魚を獲っていた。長男恒夫、次男力雄が大きくなってからは三人で一緒に船に乗って漁をしていた。

昭和四九年六月、同居していた次男力雄一家と共に桂島より対岸の蕨島に移住した。

(二) 食生活

漁業で生計をたてていたことおよび畑地もほとんどない桂島に居住していたこと等から魚をほぼ主食として毎日食した。

(三) 環境の変化

昭和三五、六年頃飼猫が狂死するのをみたし、時太郎の家で三、四匹の猫がいたがすべて死亡した。その頃飼豚も変死した。桂島付近で魚が浮き上っているのを何度かみた。

桂島は周囲約一・五キロの小島で昭和五〇年七月現在で二六世帯一〇〇名が居住し、うち二四世帯が漁業に従事しているが、右居住者一〇〇名(成人六二名)中二〇名が水俣病認定患者であり、過去桂島に居住し現在は対岸等に移住しているもの一〇名が水俣病認定患者である。

(四) 家族の状況

妻ミカノ(大正二年一月一日生)は知覚障害、運動失調、視野狭窄等の症状があり、昭和五二年水俣病と認定された。

次男力雄(昭和一三年三月一日生)も昭和五一年に水俣病と認定された。

長男恒夫、その妻ツルエ、長女カズ子も知覚障害、運動失調、視野狭窄等を訴え、現在水俣病認定申請中である。

2 蒔平時太郎の症状について

(一) 既応症

三才時に鼠径ヘルニア。

六二才頃より睾丸腫脹。

(二) 症状出現とその経過

昭和三〇年(五三才)頃腰痛、足のふらつきを覚えた。

昭和三五年頃より、足のしびれ、身体のだるさ、疲れ易さ、不眠などがでるようになる。

昭和四〇年頃から目が疲れ易く、二重にみえたり、遠くがよくみえなくなり、また、手足の痙攣がみられるようになった。

昭和四五年頃から耳が遠くなり、鼻もきかなくなった。

また、何時頃からかはっきりしないが、ふるえ、頭痛、頭重、耳鳴り、目まい、根気のなさ、イライラ感などが起こるようになり、現在も持続する。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、腰の痛み、上下肢のだるさ、物がはっきり見えない、耳が遠い、耳鳴り、転び易い、草履がはきにくい、草履などが脱げる、手が不自由、指先がきかない、上下肢がふるえる、疲れ易い、身体がきつい、物忘れする等があり、聞かれて肯定したものに、手、腰から下のしびれ感、回りがみえない、匂いがわからない、味がわからない、手から物をとり落す、ボタンかけが難しい、言葉がはっきりしない、言葉が出にくい、力がなくなった、上下肢のからす曲り、筋肉がぴくぴくする、不眠、気の遠くなる発作がある、めまい、立暗み等がある。

(2) 所見

イ 知覚障害

四肢末端の知覚障害が認められる。(原田鑑定、椿鑑定。ただし椿鑑定によれば、通常の水俣病にみられるような遠位部優位ではない。)

ロ 運動失調

舌の運動緩慢プラスマイナス、指鼻試験は終末で遅くなりわずかにはずれるプラスマイナス、アジアドコキネーゼはやや不規則プラスマイナス、膝踵試験は一〇センチ位はずれ、叩きつけるようにする、脛叩きも不規則、ただし粗大力低下もあるのでプラスマイナス程度。(原田鑑定)

歩行は前屈姿勢で臀部を突き出し、歩巾を広げ、緩慢で不安定、片足立ち左が不安定プラス、右はプラスマイナスである。(原田鑑定)

マン検査は陽性である。(原田鑑定、証人藤野糺(第二回)の証言)

結局、極く軽度に運動失調を認めることができる。(原田鑑定)

ハ 構音障害

原田鑑定によれば言葉は不明瞭、緩慢で、構音障害プラスとされているが、椿鑑定では構音障害はないということであって、判然としない。

ニ 筋力低下

上下肢とも軽度に存する。(原田鑑定、椿鑑定、乙第一九号証の七)

ホ 視野、眼球運動

求心性視野狭窄、視野の沈下がみられる。(原田鑑定、乙第一九号証の八、九)

眼球運動異常が存する。(乙第一九号証の九)

ヘ 聴力障害

存する(原田鑑定、乙第一九号証の一〇)が年令相当範囲と認められる。(椿鑑定)

ト 深部反射

正常ないしやや低下している。(椿鑑定)

チ 精神症状

軽い情意減弱がみられる。興味や関心が狭く、一般的知識も貧困である。記憶力が低下しており、また計算ができない。(原田鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、蒔平時太郎には四肢末端の知覚障害、軽度であるが運動失調、筋力低下、視野狭窄、眼球運動異常がみられ、家業は漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食していたこと、家族内でも妻ミカノ、次男力雄が水俣病患者として認定されていること、その他前示認定の疫学的条件を考慮すると、同人は水俣病であると認めるのを相当とする。

なお、椿鑑定、原田鑑定を綜合すれば、蒔平時太郎には、高血圧、白内障、脊椎変形症、心障害が存し、さらに、レックリングハウゼン氏病に似る皮膚症状、パーキンソン氏病に似る徴候等がみられることが認められ、同人の症状は水俣病とこれら疾患との合併症と認めるのを相当とする。

乙第一九号証の一四、証人永松啓爾の証言によれば、審査会では蒔平時太郎に変形性脊椎症、パーキンソニズム、視神経萎縮があるとし、同人の知覚障害、振戦、筋力低下、視野狭窄、視野沈下等はこれにより説明可能であるとされたことが認められるが、前示認定のとおり、同人に脊椎変形症、あるいはパーキンソン氏病の徴候があることは認められるが、四肢末端の知覚障害、運動失調が認められることと、証人渥美健三の証言中には同人に視野狭窄をきたすほどの視神経萎縮が存することは疑問である旨の供述もあって、結局前示認定を覆し得ない。

(二) そして、同人の症状は前記軽度の水俣病(a)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金一、〇〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告蒔平時太郎の症状は軽度の水俣病に属するので、原告蒔平ミカノ、同山平ワカノ、同蒔平恒夫、同蒔平力雄、同元浦カヅ子、同大久保タツヨは原告蒔平時太郎の水俣病罹患によって、右原告らが蒔平時太郎の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったと認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

一四 緒方覚 関係

甲第六三号証の一、二、同第三八九号証、証人原田三郎の証言、原告緒方覚、同緒方サチ子各本人尋問の結果によれば、以下1項および2項(一)ないし(三)の(1)の事実を認めることができ、2項(三)の(2)の事実は括弧内記載の各証拠によりこれを認める。

1 疫学的考察

(一) 生活歴

緒方覚は大正一四年一二月二九日芦北郡女島で、父安太、母マサの長男として出生した。両親は漁業で、女島地区の網元の一人であった安太の兄緒方福松の網子の一人として同人の船に乗組み操業していた。

覚が小学校四年生(一二歳)のころ、母は死亡し、父は身体が弱くて出漁できず、覚は一家の支柱となり、小学校四年で中退し、緒方福松宅へ住込み、昭和二〇年七月戦争へ行くまで漁業に従事した。

兵役に服して四〇日位で終戦となり、帰郷して間もなく二トン位の和船を購入してかし網漁などを行い、弟等、妹ヒサ子、そして父安太と後妻静江との間に出生した義弟明志らと乗組んだ。

昭和二六年妻サチ子と結婚し、同人もまた覚とともに出漁していた。

その頃から昭和三三年頃まで緒方福松の船できんちゃく網漁をしていたが、不漁となり、昭和三八年頃から自己所有の三トン位の船で、妻サチ子、義弟明志らと共にごち網漁をしていた。

昭和四六、七年頃になると、覚、サチ子、明志とも身体の不調を訴えるようになり、昭和四七年サチ子が水俣病患者に認定されたので、その補償金を活用して鯛の養殖に転向した。

緒方覚が漁に出ていた頃の漁場は不知火海一帯で、きんちゃく網の頃はカタクチイワシ、ごち網の頃はアジ、タチウオ、グチ、鯛などが、主に漁の対象であった。

(二) 食生活

居住地が海辺であって道路事情が悪く、主として自家製のイモ、麦等を主食とし、魚をおかずのようにして食していた。漁へ出たときは船の中で生魚を食べていた。一食にして大皿一杯位の魚を摂取した。

(三) 環境の変化

住居の接している海辺に、魚が多数打ち上げられていた。飼猫が狂ったように走りまわり、火の燃えているかまどの中にとびこんだりして死んだことがある。

女島、沖部落の認定患者は約七〇名である。

(四) 家族の状況

妻サチ子は前記のとおり昭和四七年水俣病と認定された。

父安太は昭和三四年頃、身体がふるえ、関節が変形し、四肢の麻痺、痙攣、構音障害がみられ、次第に進行し、昭和三八年三月に死亡した。

継母静江および異母兄弟明志、安子、ミチコ(いずれも昭和四五年頃まで同居)は水俣病に認定されている。

伯父緒方福松は死後認定され、女島における認定患者第一号であり、もう一人の伯父緒方徳三郎夫婦も認定されている。

2 緒方覚の症状について

(一) 既応歴

体力は強かった方で、特記すべき既応歴はない。

(二) 症状出現とその経過

昭和四四、五年頃から身体がだるくなり、手足のしびれ感があり、手足のひきつり、筋肉の中が痛いような感じ、足の裏がやけるような感じがでてきた。

立ちくらみ、疲れ易さなどが増強し、一日働いたら一日休養をとるといった状態となった。

昭和三五年当時の熊本県衛生試験所の分析結果による毛髪水銀量は七六PPmであった。

(三) 現在の症状

(1) 自覚症状

自ら訴えたものとして、肩、上肢の痛み、不眠、疲れ易い、体がきつい、物忘れする、がある。聞かれて肯定したものに、手、足、口のまわりのしびれ感、じんじんする、上半身の鈍痛、だるさ、物がはっきりみえない、耳が遠い、耳鳴り、転び易い、指先が不自由、手の力がなくなった、からす曲りがする、めまい、などがある。

(2) 所見

イ 知覚障害

四肢末端に綿毛の軽いタッチもすべてわかるごく軽度の知覚障害が存する。(原田鑑定) 触覚は全く正常で痛覚は手足のみに限局して鈍麻があるが、振動覚は全く正常であり、口周囲には痛覚のみの鈍麻がある。手足の圧覚計検査は正常であり、触毛検査は全く統一がなく信頼性がない。(椿鑑定)

ロ 運動失調

全く正常である。特に図形画きは速く上手であり、マン検査では三〇秒間全く動揺せず、極めて健常である。(椿鑑定)

ハ 構音障害

存在しない。(椿鑑定)

ニ 筋力低下

下肢にマイナス1程度の粗大力低下がみられる。(原田鑑定)

ホ 視野、眼球運動

ごく軽度の視野沈下、眼球運動に軽い障害がある。(乙第一六号証の五)

ヘ 聴力障害

軽い難聴が存在する(乙第一六号証の五)が、年令相当で異常はない。(椿鑑定)

ト 深部反射

全般に正常、アキレス腱反射が多少低下している。(椿鑑定)

チ 精神症状

注意集中が悪く根気なく、簡単な計算も途中で放棄してしまうなど、ごく軽い知的機能障害以外特記すべき症状はみられない。(原田鑑定)著しい知能低下はない。(椿鑑定)

3 結論

(一) 以上認定の事実によれば、緒方覚はごく軽度の四肢末端および口周囲の知覚障害とごく軽度の視野沈下、眼球運動障害、下肢に軽い粗大力低下があることになる。ただし、右症状は軽度であるうえ、運動失調は全く認められない。しかし、同人の家業は漁業であって有機水銀に汚染された可能性のある魚介類を多食していたこと、家族内でも妻サチ子および昭和四五年頃まで同居していた継母静江、異母兄弟明志、安子、ミチコが水俣病患者として認定されていること、緒方覚の昭和三五年当時の毛髪水銀量は七六PPmと高度であること、その他前示認定の疫学的条件を考慮し、さらに同人に他に前記症状の原因となる疾患が存在するとも認められないことを考え合せると、同人はごく軽度ながら水俣病に罹患していると認めるのを相当とする。

(二) そして、同人の症状は極めて軽いので、前記軽度の水俣病(b)に属するというべく、したがって、その慰謝料額は金五〇〇万円をもって相当とする。

(三) 以上のとおり、原告緒方覚の症状は軽度の水俣病に属するので、原告緒方サチ子、同緒方光廣、同緒方初代は原告緒方覚の水俣病罹患によって、右原告らが緒方覚の生命が害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙ったとは到底認めるに至らないから、同原告らの請求は失当である。

一五 弁護士費用について

甲第三三六ないし第三四九号証によれば、原告森本正宏を除く原告らは昭和五一年一二月八日、原告森本正宏は同年三月一日、弁護士東敏雄との間に、本訴追行の成功報酬として、その額は訴状請求金額の一割五分とするが、訴訟が判決によって終了した場合は判決において弁護士費用として認容された額とする、右弁済期は被告から当該金員の支払を受けた日とする等の内容を含む報酬契約を結んだことが認められ、同弁護士は他の原告ら訴訟代理人である弁護士らとともに水俣訴訟弁護団(団長束敏雄)を結成し、本件訴訟を遂行してきたことが認められる。

そして、原告らが本件訴訟を提起し、これを遂行するにあたり弁護士に依頼することは、原告らの権利擁護のため必要やむを得ない措置であったものと認められ、これらの支出のうち、本件訴訟の難易度、訴訟の経過、請求額、認容額等諸般の事情を考慮し、原告らにつきそれぞれ前判示による認容額の一割の金員につき、本件不法行為と相当因果関係にある損害として被告が賠償義務を負うものと認める。

第七結論

よって、被告は後記原告別認容額一覧表中、原告氏名欄記載の各原告らに対し、同表中認容額総額欄記載の各金員およびこれに対する同表中右内金欄記載の各内金に対する同表中起算日欄記載の各起算日からいずれも支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、同表記載の原告らの本訴請求は右限度で理由があるからこれを認容し、同原告らのその余の請求および、その余の原告ら(同表原告氏名欄に記載のない原告ら)の本訴請求はいずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条第一項を、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

1表 症状発現頻度

2表 各症状の推移

3表 ハンター・ラッセルの症例の視野

4表 小脳症状の出現頻度

5表 視覚障害の出現頻度

6表 知覚症状発現頻度

7表 主要症状の発現時期-頭髪水銀量200PPm以上の保有者について

8表 主要症状と不全片麻痺の発現時期-40歳以下の例について

9表 患者家族の神経精神症状の出現率

10表 臨床症状の出現頻度 57名、():%

11表 対象住民総数、受診者数

12表 受診者年齢構成

13表 神経精神症状の出現頻度の比較:はだかの数は実数、括弧内は百分率

14表 知覚障害の型とその出現頻度

15表 有病率

16表 症状概観 先天性(胎児性)水俣病を除く

17表 知覚障害の型、内容、障害されている知覚;先天性水俣病患者を除く

18表 各テストにおける失調症状;先天性水俣病を除く

(裁判長裁判官 松田冨士也 裁判官 関野杜滋子 裁判官 西島幸夫)

〈以下省略〉

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